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【社会】捕鯨400年「くじらの町」太地町 夢求めた「移民の町」 和歌山

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/09/01(月) 15:26:42.98 ID:???
★捕鯨400年「くじらの町」太地町 夢求めた「移民の町」 和歌山
2014.9.1 02:22

江戸時代以来、400年以上の捕鯨の歴史を誇る「くじらの町」太地町。9月1日には小型クジラや
イルカの追い込み漁が解禁される。その一方、明治から昭和にかけて大勢の住民が海外を目指した
「移民の町」でもあった。来年は「在米太地人会」結成100年。町立石垣記念館にはオーストラリアで
移民たちが使った潜水服などが展示され、当時をしのばせる。紀伊半島南端から太平洋や赤道を越え、
世界を舞台にたくましく生きた歴史があった。(小泉一敏)

■缶詰に100年の歴史
「Chicken Of The Sea」(海の鶏肉)。石垣記念館の特別展「海を越える太地」で
展示されている古びた缶詰には、一風変わった文字が印刷されている。1910年代から米国で
広く食べられるようになった「ツナ缶」のことだ。

明治から昭和にかけて、太地の人々は夢を求めて海を渡った。米国では、脂分の少ないビンナガ
マグロからさらに脂を抜く技術を使って、米国人好みの淡泊な味に仕上げたという。

太地町から米カリフォルニア州に移住し、いち早く漁業に取り組んだ日本人として知られるのが、
漁野吉郎兵衛。ひ孫の清春さん(72)=埼玉県鴻巣市在住=は、親類が異国の地で暮らしていた
当時のことを鮮明に覚えていた。「子供のころ、米国から届く荷物にコーヒーやお菓子などが
入っていて、とても楽しみだった」と懐かしそうに話した。

■司馬遼太郎の小説にも
昭和初期、人口3800人に満たなかった太地町では、500人以上が移住したという。
向かった先は米国のほか、カナダのブリティッシュコロンビア州、オーストラリア・ブルームだった。
同町歴史資料室の櫻井敬人学芸員は「能力を生かして豊かさを得るチャンスをつかもうとしたのではないか」と説明する。

ブルームへ移住した太地の人たちの生活の糧は、魚ではなく貝だった。
当時、貝殻を加工した洋服のボタンは欧米で人気が高く、多くがオーストラリア産の真珠貝だったという。

太地の人たちは潜水具を身につけて貝を採り続けたが、長時間の潜水作業は危険を伴った。
潜水病のほか、ダイバーに空気がうまく送れなかったり、サメに襲われたりしたという。

櫻井さんは「優秀なダイバーは3年で太地に家を建てたが、何度も命を落としかけたそうだ」と解説する。

作家、司馬遼太郎は小説「木曜島の夜会」で、紀伊半島南部からはるばる移住し、
命がけで真珠貝を採取したダイバーの姿を描いた。

■テープに残る祖母の肉声
「移民の町」としての歴史の掘り起こしへ、研究者だけでなく地元の人たちも関心を寄せる。
同町の木花(このはな)ひろみさん(61)は、アラスカに移住した祖母のハナさんが生前に
録音したカセットテープを調べている。

昭和60年ごろに録音したとみられる60分テープが5本。長年、米国で暮らしたとあって、
英語と日本語が混ざっていた。録音当時、86歳だったハナさんは、移住後も仕事を求めて
各地を転々とした様子をせつせつと語っていた。

「ピータースバーグに着いた日はクリスマスで、夜は雪が降りとても寒かった。われわれには持ち物が何もなかった」

木花さんは「おそらくクリスマスのお祝いをしていた家の横を通ったのかもしれません。
祖母にとってつらい時期だったのでしょう」と当時の苦労に思いをはせた。ハナさんらはサケやエビの
缶詰工場で懸命に働き、後に経営を任されるまでになったという。

櫻井さんは「太地の人々の多くが外国に行っていた歴史を知ることで、
自分のルーツを考えるきっかけになれば」と話した。

http://sankei.jp.msn.com/region/news/140901/wky14090102220001-n1.htm

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