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【歴史】「仲間がバタバタ死んでいった。そりゃあ、みじめなものでしたよ」…シベリア抑留に耐えた平野さん、「戦争は絶対にいかん」★3

2 :Hi everyone! ★@\(^o^)/:2014/07/20(日) 22:23:55.70 ID:???0.net
>>1の続き)

■凍る大地と厳しいノルマ■

 労働は過酷だった。大地は凍って、ツルハシさえはじき返す。「まるで鉄板に穴を掘るようでした」。それでもノルマは厳しく、「ブストライ
(早く)、ブストライ!」「ラボート!(働け)」と監視兵にわめき散らされる。酷寒の中とあって、何度も凍傷になりかけ、仲間と指や鼻を
マッサージしあった。

写真=収容所の内部を再現した展示。すり切れた衣服、すすけた顔の抑留者たちが黒パンを分け合う。不公平の無いよう
棒秤(ぼうばかり)を使って分けた
http://www.ryoutan.co.jp/news/2014/07/0718rageri.jpg

 水が無いので風呂に入れない。顔や歯も洗えない。シラミと南京虫ばかりわいて血を吸っていく。空腹と疲れで、倒れ込むように寝床に
ついても、かゆくてたまらず、眠りが浅くなる。みんなどんどん体が弱り、死んでいった。「年寄りやないんですで。若い、体力旺盛やった
もんが、そうやって次々死んでいくんです」

 寝ても起きても頭の中は食べ物のこと。とにかく空腹だった。半世紀以上を経た今も、当時のことは頭から離れない。「宴会やらで、
食べきれずにどうしても料理が残りますわなあ。それを見ると、あー、これがあったら、あいつは死なんですんだのに、とねえ」。自身の
苦難は気丈に語ってくれる平野さんも、仲間の死については、涙無しには語れなかった。
 
■帰りを待つ家族も必死−無数の岸壁の母たち■

 日本人が抑留されている間、帰国を待つ家族らも、じっとしていたわけではなかった。引揚船が入港するたび、舞鶴には「もしや
この船に」と岸壁の母、岸壁の妻が詰めかけた。

 平野さんの母は「わが子が寒い思いをしてるのに」と冬でも衣一枚で過ごした。父は病の体をおして、GHQや日本政府へ働きかける
全国運動に参加。こうした人びとの「肉親を返せ」との声が大きなうねりとなって、抑留者の帰国がかなう日が来た。

 収容所内で「帰国が始まるらしい」とのうわさを耳にしても、まだ信用しきれなかったが、日本人を大勢乗せた列車が東へ向かうのを
見るようになると「今度は本当だ」と希望がわき、やがて自分たちの番が来た。ウラジオストックから乗り込んだ引揚船の名は
「第一大拓丸」。いろんなことがありすぎ、最後まで安心できなかった抑留・引き揚げだったが、舞鶴が近づき、青い松が見えたとき
「ああ、やっと帰って来たと思えました」。

 夢にまで見たわが家へ帰宅。そこで母から知らされたのは、平野さんの名を呼びながら3カ月前に父が亡くなったとこと。「親父の
死に目には間に合わなんだけど、私は帰ってこられただけ幸せ。シベリアだけじゃない、同級生の多くが南方で、沖縄で、特攻や玉砕
してます。絶えてしもた家が近所にも、ようけあります。わしらのようなことは二度と若者に経験させたらいかん。戦争は絶対にいかん
のです」

(終わり)

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