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ガロア第一論文と乗数イデアル他関連資料スレ7

568 :132人目の素数さん:2024/05/26(日) 12:28:12.84 ID:CR0+n9/x.net
>>545
>今日はタイトル遍歴の結末

なるほど下記ね
今日の記事は、まだ読んでないが 昨日土曜日分までは読みました
依田 紀基さんね。その人柄から「最後の無頼派」「囲碁界最後の無頼派」・・(下記)
か。図書館で読んできます

(参考)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD26CXP0W4A420C2000000/
趙治勲 私の履歴書(25)タイトル記録
囲碁棋士・名誉名人
2024年5月26日 2:00 [会員限定記事]
本因坊を取られ2度目の大三冠が終わったのが1999年。翌年には棋聖、名人も失い再び無冠となった。名人を10歳下の依田紀基さんに取られるなど、相手が皆年下だったから、世代交代みたいなことも書かれたが、ボク自身はまだまだのつもりでいた。
すると今度は持ち時間の短い棋戦で結果が出る。NECカップで2000年、01年と連覇したのに続き、早碁選手権(テレビ東京主催)も01、02年と連覇。02年は全日本早碁...

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9D%E7%94%B0%E7%B4%80%E5%9F%BA
依田 紀基(よだ のりもと、1966年2月11日 - )は、日本棋院に所属する囲碁棋士。九段。北海道美唄市生まれ、岩見沢市育ち。安藤武夫七段門下。名人4期、碁聖6期、十段2期、NHK杯優勝5回、第1回三星火災杯世界オープン戦優勝など、タイトル獲得数36。捨て石の名手とされ、また、その人柄から「最後の無頼派」「囲碁界最後の無頼派」などとも呼ばれる。左利きだが、石を打つのは右手。原幸子との間に3人の子供がおり、次男の依田大空も囲碁棋士。門下に藤村洋輔四段。

小学4年生の時父親の転勤に伴い隣町の岩見沢市に引っ越し、その年の夏に父の勧誘を受けて囲碁を始めた[2][3]。9歳で囲碁を始めるのはプロになるにはかなり遅いほうであったが、その後は囲碁にのめり込んで近所の碁会所に通いつめ、囲碁を始めて半年でアマ四段ほどの棋力を持つ父と同程度の棋力にまで上達[4][5]。1年経つ頃にはアマ五・六段といった高段者とも互角に対局できるようになった[6]。

一方で学業には全く興味を示さなかった依田は、自然とプロ入りの道を意識するようになる。1976年11月、日本棋院の院生となるため、小学5年生で単身東京に渡る[7]。上京後半年ほどの間は叔父の家に住んでいたが、その後院生の世話役を務める人物の協力も得て、安藤武夫の内弟子になる[8]。依田は安藤の2人目の弟子であり、神田英が兄弟子に当たる[9]。

1979年夏、中学2年生の時に初めて入段試験を受験。ここでは外来で受験していた石倉昇に敗れるなどして、入段はならなかった(入段者は石倉と日高敏之)。後に、この石倉への敗戦が自身初の挫折だったと語っている[10]。同年冬の入段試験では入段枠が5名と例年よりも大きく増え、12勝4敗の4位で合格を果たした[11]。

1980年4月、14歳で入段。

1988年、第4回日中スーパー囲碁に先鋒で出場し6人抜き。7戦目で「鉄のゴールキーパー」と呼ばれた聶衛平に敗れたものの、日本の初勝利に大きく貢献した

つづく

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