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ガロア第一論文と乗数イデアル他関連資料スレ7

482 :132人目の素数さん:2024/05/24(金) 10:10:12.81 ID:Mu3V/P++.net
>>480
どうもです
ありがとうございます。

下記ですね
李昌鎬(イ・チャンホ)さん
”1993年東洋証券杯で趙治勲に3-0で勝利し連覇”
前年の”1992年1月27日、第3期東洋証券杯世界選手権戦で林海峰を退け、最年少世界タイトル獲得(15歳6ヵ月)の記録を打ち立てる”
で、当時の雑誌「棋道」だったか 週刊碁だったかに
林海峰さんから、治勲さんに対して(やる前は)”「碁を教えてやる」って、言ってなかった?”みたく冷やかされていた

治勲さんの半目負けがあったような
たしか、終盤まで治勲さん優勢だったのが、ヨセで抜かれて半目だったような

いま、囲碁棋譜 趙治勲 李昌鎬で検索すると 3番勝負中で2局が半目か。これは、ちょっとつらいかもね・・
https://kifudepot.net/index.php?page=1&move=&player=%E8%B6%99%E6%B2%BB%E5%8B%B2+%E6%9D%8E%E6%98%8C%E9%8E%AC&event=&sort=
KifuDepot
棋譜一覧
第4回東洋証券杯世界選手権決勝五番勝負第3局 趙治勲 李昌鎬 W+0.5 1993-06-08
第4回東洋証券杯世界選手権決勝五番勝負第2局 李昌鎬 趙治勲 B+0.5 1993-04-24
第4回東洋証券杯世界選手権決勝五番勝負第1局 趙治勲 李昌鎬 W+R 1993-04-22

(参考)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD26CW00W4A420C2000000/
趙治勲 私の履歴書(23)世界戦
囲碁棋士・名誉名人
2024年5月24日 2:00 [会員限定記事]
本因坊を10連覇していた1990年代は、世界戦が盛り上がってきた時代でもあったが、そこでボクは思うような活躍ができなかった。
世界選手権・富士通杯では、88年の第1回大会から5回連続で日本勢が優勝。ボク自身も91年の第4回大会で優勝したが、この時は中国の銭宇平(せんうへい)さんが体調不良で決勝戦を棄権しており、優勝した実感がなかった。
当初は日本が頭一つ抜けていたが、90年代前半で流れが変わり、...

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%98%8C%E9%8E%AC
李昌鎬(イ・チャンホ、1975年7月29日 - )は、韓国の囲碁棋士。全羅北道全州市出身、韓国棋院所属、゙薫鉉門下、九段。
わずか16歳で世界戦優勝。その後世界歴代1位の世界棋戦優勝21回、国内棋戦優勝140回を数え、1990年代から2000年代の世界最強棋士と称される。プロ囲碁全体の歴史でも呉清源などと共に歴代最高の棋士とよく言及される。
棋風
序盤から中盤にかけて手厚く打ち、ヨセ勝負に持ち込む堅実なスタイル。ヨセに関しては「神算」と呼ばれるほど正確無比。また、無表情かつ寡黙な性格でも知られ、「石仏」というニックネームもある[1]。
1992年1月27日、第3期東洋証券杯世界選手権戦で林海峰を退け、最年少世界タイトル獲得(15歳6ヵ月)の記録を打ち立てる。この模様は韓国放送公社(KBSテレビ)で全国放送されるほどの関心を集め、韓国にこども囲碁教室の新設ブームを起こした。[9] この年の成績は87勝25敗・勝率77.7%。
1993年東洋証券杯で趙治勲に3-0で勝利し連覇。1994年2月第2回真露杯で韓国の優勝に貢献。ここから韓国勢が世界戦を制覇していく時代の始まりとなる[10]。

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