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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

466 :神も仏も名無しさん:2020/04/04(土) 09:52:37.97 ID:gzggTGYe.net
>>461
大乗以前から>>460の相応部経典や同じく相応部の

「<生けるもの>はただ諸々の形成されたものの集合である。
ここに<生けるもの>は認められない。
譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という
名称が起こるように、
それと同じく、五つの構成要素(五蘊(ゴウン))が
存在するのに対して<生けるもの>という仮りの想いが起こるのである。
実に苦しみが起こり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。
苦しみのほかには、なにものも生起しない。
苦しみのほかには、なにものも滅びない。」
(『サンユッタ・ニカーヤ』第五篇第十節『ヴァジラー尼』)

また長部布咤波樓経(ポッタパーダ経)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5343&id=77431690

そして有名な「ミリンダ王の問い」の
「「大王よ、私はナーガセーナとして知られています。比丘衆は私をナーガセーナと呼んでいます。しかしながら大王よ、これは名前に過ぎず、そこに人格的主体は存在しないのです」

これらが唯名論の分かりやすい例ですかね。

但し「ミリンダ王の問い」のナーガセーナは、もし説一切有部やそれに類似した思想を持つ部派の僧侶でしたら、最後には私を構成している実有の法、そして色法を構成する極微が残るということになるかもしれません。

ヴェーダーンタの唯名論の場合はマーヤを創り出しているブラフマンが残ります。

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