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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

443 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/03(金) 03:49:27.03 ID:vpD8hrvQ.net
>>441
>法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから

これは単に、
“ブッダは真理(法)の体現者である”といっているまでのこと。

>「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る(中阿含経)」
>これらの言葉から根本の法とは演技であり仏(如来)の本性も縁起であります。

仏教でいう法とは、一切法(一切に関する法則と教え)のことであり、
当然、この現象界の性質に関するものです。だから、そこでは縁起が説かれる。
涅槃とは縁起しない領域です(『ウダーナ』参照)。その涅槃に住する如来が縁起性のものの筈がない。
涅槃を無為法というから悪い。単に「無為」という方が勘違いを起こさないでしょう。
そもそも「諸法」を、もろもろすべての法則かのように解するから、有為法+無為法なんだと勘違いして見てしまうのです。
水野氏の解説の通り、これは第四の意味合いでの「法」(もの)であって、単に「もろもろの無我性の“もの”」ということでしかない。
その「もろもろの無我性のもの」とは、つまり、現象界における一切(一切法)と同一の意味のことです。
そこには当然、無為である涅槃は含まれない。
なので当然、一切(縁起する世界)からの解脱が涅槃なのです。
つまり、縁起していないのが涅槃ということになる。

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