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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

370 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/03/28(土) 05:18:48.73 ID:WsiFYuT+.net
>『「境地」が「我」である、或いは「主体」である』
>というのは、いったいどのようなことなのだろうか?
>「境地」が「認識主体、行動主体、思考主体」であるというのは、
>まことに不可解な話と思われるが?
>>353 ---中略---
>それとも、梵我一如の如く、「涅槃我一如」とでも言うべきであろうか・・。

う〜む。
この議論も10年が掛かって、やっとここで“核心に至った”ということなのかな?
もしも、本当にそういう理解なのであれば、この私も特に何ら批判することもない...。

 この私はただ問題の複雑化を避けるべく、敢えてこれまで便宜的に“涅槃の境地=アートマン”といってきたまでのこと。煩悩に塗れた世間
的な自己では涅槃に至ることは決してできない。なので、涅槃を覚知している自己こそがアートマンそのものに他ならない。それはコレとして
提示できる客観的な存在などではなく、ただ自己の正体が元々、アートマンであったことに気付く出来事のこと---つまり、それが悟りです。
 ブッダは、涅槃に到達した者でなければ決して分からないアートマンについて語ることは、ただの弟子たちにとって無益な形而上的議論に終
始するだけのものに過ぎないとして、その手法を摂らなかっただけです。
 だから、もちろん仏弟子たるものは今日においても、アートマンが如何なるものかについてアレコレと細かく深入りする必要などはない。
ただ、“真実の自己に目覚めよう”(大乗の方がその理解がある)という目的を持ち、そして、アートマンを説くヒンドゥーには確かにその道も
あるものとして、仏教とは異なる同じ目的に向かった別の手法だとしてそれを容認することです。

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