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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

368 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/03/28(土) 05:11:23.91 ID:WsiFYuT+.net
>>355
 元々、アートマンは主観においてのみ知ることのできるものであって、他者に対して客観的に提示したり、他人からも客観的に確認のでき
るようなものではないです。当然、聖典にもそのように説かれてきています。ただ、すべてが梵(唯一神)でもあり、また我(アートマン)でも
あるのならば、この物質と現象界の事象すべても梵我そのものだということにもなるということ。なので、その辺に対しての形而上学的な理
解の問題ということでしょう。ただどうしても、「客観的に提示できないものは信用できない。もしも、本当に在るものならばそれを客観的
に提示せよ!」という激しい論争が起こった。そう主張したのは、中村氏によれば『説一切有部』なのでした。そして、初めて「アートマン
は存在しない」ものという意味での無我説が書かれたのがサンスクリット経典だと指摘しています。
 ということで、あくまでも確認は“自己の主観において”のみです。そのことには変わりはない。だから、それを体験してない者には説い
ても無駄であるとするのかどうか、そのアプローチの違いがあるということ。

>>358
...。

 それについては当時、永遠ではないジーヴァ(魂)存在をアートマンだと誤認している多くのバラモン行者たちがいたことが理由としては最
も大きいでしょう。また、一般人においては、膨大な繰り返し続く輪廻の流れの中でのただ一つのパーソナリティ(人格/個性)にしか過ぎない、
この今のままの人格意識がそのままで永遠に不死のものであるとする根強い迷信が浸透していて、それが殆どの主流となる人々の理解なので
すよ。そのことは、今日における世界中の人々においても皆、今だに同じです。
 なので、ブッダのいう無常/無我とは、人々が「永遠ではないものを永遠のものだと思い込んでいる迷信」を指摘したものです。

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