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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

329 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/22(日) 06:34:55.14 ID:m+RCN573.net
 『---真実の自己の探求---
 ゴータマ・ブッダが、サールナートで初めて法を説かれてから、ブッダガヤーに向かって遊行する途中のことでした。ゴータマ・ブッダは道か
らそれて、ある密林の方へと深くわけ入って、とある樹木の下で坐っておられました。
 そのとき三十人ほどの青年たちが、夫人同伴でやって来て、一緒に遊び楽しんでいました。しかしその中の一人の青年には妻がなかったので、
かれはやむをえず遊女を連れて遊びに来ていました。ところがかれらが遊び楽しんでいるうちに、この遊女が持ち物を盗って逃げてしまいました。
そこでその背年は、他の青年たちと一緒に、遊女を探しながら、密林を徘徊しているうちに、ゴータマ・ブッダが、樹下に坐っておられるのを見
つけ、ゴータマ・ブッダに近づいて、女を見かけなかったかどうか、を尋ねました。かれらが事の次第を話したところ、ゴータマ・ブッダは、青
年たちに向かって、
 「青年たちよ、..…きみたちが女を探し求めるのと、あるいは自己を探し求めるのと、きみたちにとってどちらが勝れているのか」
 「自己を求めることの方が、われわれにとって勝れていると思います」
 「それでは坐りなさい。きみたちのために教えを説いてあげよう」
 「尊い方よ、かしこまりました」(「律蔵・マハーヴァッガ」一四・三)
と言って、四つの聖なる真理(四正論)などについて教えられたと伝えられています。しかしこの探し求めるべき自己は、欲望の燃えさかる我執に
満ちた自己ではない。このことは、ゴータマ・ブッダの遺言といってもよい言葉が残されています。
 「この世で自己を島とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をより
  どころとして、他のものをよりどころとしてはならない。」(二六)(『大パリニッバーナ経」
が伝えられております。これは漢訳の仏典で「自帰依、法帰依」、「自灯明、法灯明」と言われる言葉と同じで、他人を依り所とせず、自己を依り
所とすること、仏陀が説いた真理(法)を依い所とすること、を意味しています。
 その自己はあくまでもゴータマ・ブッダが生前に明らかにされた宇宙の真理、理法と合致する自己であり、我執、無明にまみれた自己ではない
ことは明らかです。これがゴータマ・ブッダの人生の最後の言葉であるだけに、ゴータマ・ブッダの真意をここに見ることが出来るのではないか
と思われます。ゴータマ・ブッダの目指したものは、真実の自己、本来の自己を実現することであったのではないでしょうか。』
(第三七回光華講座『今ならブッダは何を語られるでしょうか? 』前田 專學述)            以上.

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