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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

328 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/22(日) 06:33:11.91 ID:m+RCN573.net
 伝統仏教徒たちは如何にも簡単に、“涅槃には自己はない”などと語りますが、涅槃を覚知している自己があることについては(『ウダーナ』
8.1-8.3)にも明らかなことです。デカルトがどうしたこうしたなどというのはまったく関係がない。仏典において、ブッダが説いた言葉として
事実そうあることですから。
 そもそも単純に自己を一つのものとして理解しているから間違うのです。ブッダのいう“無くすべき自己と消滅する自我”というのは低級性
質としての自己のこと。仏教の説く煩悩(に塗れた自己意識)のことです。仏典を真面目に読むならば、ブッダの説かれた自己というものには大
きく二つがあるものとして簡単にわかる筈です。つまり、“無くすべき消滅する自己と目指すべき自己”であり、目指すべき自己とは本来の目
覚めるべき真実の自己のことです。ブッダがされたことというのは、ただ単にウパニシャッドのようなアプローチは採らずにブッダ独自の実践
的な教えにしただけのことであって、でないと、結果的にはブッダの教えが迷信含みだった当時のバラモン達と同じ扱いを受けるものとなって
しまうからです。

 『二つの自己-----最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたことがわかる。一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、
凡夫の日常生活のうちに認められる。--略--これに反して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は聖者が具現しているも
のである。簡単にいえば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。ただその両者は相即しているものなのである。
 --略--
 他方これに反して理想として実現さるべき自己は、人間が常に追求すべきものである。それは当為的模範的性格を有する。『自己は自己の主
である。』(Dhp.160) したがって自己にたよらなければならぬし、このような理想的自己は大海の中の島のようなものである。『汝は自己の良
き島を作れ。けだし汝には他のよりどころが無いからである。』(Therag.412)
よりどころとしての島を漢訳仏典では「燈明」の意に解しているが、いずれにしても、その趣意に相違はない。釈尊も『われは自己に帰依をな
した。』(DN.U,p.120)と説いたと伝えられている。しかるに愚者はこの道理を理解していない。愚者にとっては自己が失われている。』
(中村 元著『原始仏教-その思想と生活』p88-89/NHKブックス刊)

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