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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

327 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/22(日) 06:32:50.98 ID:m+RCN573.net
 そして、三宝印(四法印)においては「諸法無我」にだけ、何故「行」ではなくて「諸法」といって「法」の文字が充てられているのか? につ
いてですが、この「諸法無我」でいう「法」というのは、“無我性の「もの」”という意味で使われており、理由としては単にそれだけのことで
しかありません。だから、経典の記述によっては「諸行無我」とも書かれています。同じ原始経典でも漢訳経典については軽視しているようで
すが、漢訳では「諸法」に限定されたものではなくて、実際に「諸行無我」としても説かれています。
そのことは漢訳経典の編纂当時の仏教徒たちには、三宝印の無我は諸法でなければならないといった理解などは無かったということです。

 『諸法の法とは、前に法の特質を掲げた中の第四の「無我性のもの」を意味する。これはたんに「もの」ともいえるが、原始仏教では
「もの」というのは「無我性のもの」に限られるから、この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。(p160)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

 『つぎに諸法無我とは、パーリ語でsabbe dhamma^ anatta^ 「一切の法は無我である」ということであって、ここの法とは「もの」のこ
とである。元来、法(パdhamma 梵dharma)にはいろいろの意味があるとされる。パーリ註釈書の説明によるれば、法には(1)pariyatti
教説、(2)hetu 因、(3)guna 徳、(4)nissatta-nijji^vata^ もの、という四つの意味があって、ここでいう法とはこの中の第四の場合である。
 それはnissatta-nijji^vata^「有情なく霊魂なきこと」であって、アートマンとか霊魂のような不生不滅の実体が含まれていないことを
意味し、実体を離れた現象としての存在を指すことになる。この意味で、諸法無我の諸法は諸行無常の諸行と同じ内容のものとなる。実体の
ない諸法が無我であるとされるのは当然である。』
(『東洋思想5/水野 弘元著「初期仏教の縁起思想」』東京大学出版会刊p134-135)

 【ただし『漢訳増一阿含』巻十八、三十六では、ともに「一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂」となっており、ここでは
「諸行」を無我と見ている。】
(『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理/無我の立場」』東京大学出版会刊p49)

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