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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

324 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/22(日) 06:31:13 ID:m+RCN573.net
 その間違いの根本部分というのが、その“諸法には涅槃を含む”などという仏典にはない勝手な理論です。そのことを理解する当たっては、
まずは仏教の基本である「一切」の理解について話す必要がある。
 一切について、ブッダの話されたこととはこうです。

 『比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。
それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。
比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
 比丘たちよ、もし人ありて、<わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう >と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ
言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。何故であろうか。
比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである。』
(南伝『相応部経典』35-23)

 これは、「六根」と「六境」による「十二処」が、仏教の説く「一切」であるとしており、この中には「涅槃」(無為)は含まれないにも関わ
らず、部派(テーラワーダ)が勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、つまり、この戒めを破ってブッダの教説とは“異なる一切”に
してしまった部派こそが、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。
 この「六根六境/十二処」は大きく纏めると「五蘊」(眼色・耳声・鼻香・舌味・身触・→「色蘊」、法(法処)→「受蘊」「想蘊」「行蘊」、意→
「識蘊」)だということになります。

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