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【歴史】伝説の羊太夫は渡来人、キリスト教徒?…世界記憶遺産の上野三碑(山上碑、多胡碑、金井沢碑) [樽悶★]

93 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:23:51.03 ID:sdDEkvTT0.net
◆"秦人"の正体

さらに紀元前3世紀半ば、ギリシア人によって
アフガニスタン北部に建設されたのが「バクトリア王国」である。
後にアレクサンドロス大王によって征服され、大王の死後は
セレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けた。

バクトリアも中国では『大夏』の名前で呼ばれる一方、
仏典の『那先比丘経』では「大秦」と表記されている。
バクトリアを支配したシリアについても、中国の史書は『大秦』と表記している。
そしてこれらの国から来た人々についても、中国では『秦人』と表記している。

しかし近隣にあるその他の国については、
『大秦』とは呼ばず、固有の地名で読んでいる。

いったい何故だろうか。
何をもってこれらの位置がバラバラの国々を
同じ『大秦』という名で呼んだのか。

実はこれらの国に共通しているのは、
いずれも多数のユダヤ人が居住していたという事である。

例えばペルシアにはバビロン虜囚から解放された多数のユダヤ人が移住し、
勤勉である事から異民族でありながら重用されていた。

アケメネス朝ペルシアの大王、クセルクセス1世の時代にはユダヤ人モルデカイが宰相となり、
そのいとこであるエステルが王妃になっている。
これらの事は旧約聖書』の『エステル記』に詳しく書かれている。

クセルクセス1世は帝国内に勅命を発布してユダヤ人の自由と権利を保証し、
これを記念して「プリムの祭」が行われた。
現在でもペルシアの流れを汲むイランには数多くのユダヤ人がおり、
プリムの祭を今も続けている。

同様にシリアにもバクトリアにも、ディアスポラにより多数のユダヤ人が居住していた。
古代中国ではユダヤ人の事を「秦人」と呼んでいたのである。

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