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【歴史】伝説の羊太夫は渡来人、キリスト教徒?…世界記憶遺産の上野三碑(山上碑、多胡碑、金井沢碑) [樽悶★]

1 :樽悶 ★:2023/04/30(日) 21:07:36.15 ID:jHbsg0Kt9.net
公開された山上碑
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230420-00050090-yom-003-9-view.jpg
多胡碑の碑文、右から2行目の一番最後に「羊」の文字がある
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230420-00050090-yom-007-9-view.jpg

 「羊太夫」という人物を知っていますか? 群馬県にユネスコの世界記憶遺産「上(こう)野(ずけ)三(さん)碑(ぴ)」があります。上野三碑は上野国(群馬県)にある飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑です。三碑のうち、多胡碑(たごひ)を造立した人の名前が「羊」ということから生まれた伝説の人物です。「羊」は渡来人の可能性を指摘されているほか、古代キリスト教徒という説もあります。今回は謎の羊太夫のお話です。

(中略)

■多胡郡の支配を任された人物の名前は「羊」

 三碑がある地域は、高崎市の南西部、利根川の上流である鏑川の流域で、低い丘陵地になっています。多胡碑は高さ約2メートルの石碑で、上野国として14番目の郡として多胡郡が設置されたことを記念して建てられたものです。日本の正史である「続日本紀(しょくにほんぎ)」に和銅4年(711)に周囲の郡から戸数を割いて多胡郡を置いたという記述があり、多胡碑の碑文と一致します。碑文では「羊に給(たま)いて多胡郡と成せ」と書かれ、支配を任された人物の名前は羊となっています。

 残る二つ、山上碑は隣接する古墳の被葬者である母親の追悼供養のために681年に建てられました。金井沢碑は726年、地元の豪族が祖先の供養、一族の繁栄などを祈念して建てたものです。

■朝鮮半島からの渡来人か、石碑は大陸の文化だった

(中略)

 石碑が建てられた背景を調べると、朝鮮半島の動乱が関係しているようです。朝鮮半島の三国時代は、唐と結んだ新羅(しらぎ)により、663年に百済(くだら)が滅亡し、高句麗(こうくり)も668年に滅ぼされました。朝鮮統一を果たした新羅でしたが、その後、唐と対立するようになります。この間、百済、高句麗、新羅から王族や貴族を含む多くの人々が日本に逃れました。実際、武蔵国(埼玉県)に高句麗系渡来人により高麗郡が716年に設置されたほか、新羅系の人々による新羅郡もありました。石碑を建てる文化は、当時の日本にはなく、中国から朝鮮半島を経由して伝わったと見られています。このため、三碑の造立には渡来人が関わった可能性が高そうです。

 もともと三碑がある地域には、ヤマト政権の直轄地、屯倉(みやけ)が置かれていました。中央と関わりが深い経済的要地であり、そこに渡来人の知識・技術を導入し、さらなる生産性向上や経済発展を狙った可能性があります。奈良・平安時代には窯業、絹や綿布の生産などで有数の手工業地帯に発展していきました。

■地元に伝わる伝説「羊太夫」、朝敵として討伐される?

 羊の文字は人名が有力ですが、方角を示すという説もあります。ちなみに、地元に伝わる伝説では、昔、羊太夫という人がいて、神通力を使う従者に名馬を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている従者の両脇を見ると羽が生えていたので抜いてしまった。このため、従者は空を飛べなくなり、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てているとみなし、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐したとされています。歴史書には討伐の記録などは見当たらないため、羊太夫が実在したのか、どういう人物だったかなど不明です。

■昔のキリスト教、景教(ネストリウス派)徒という説も

 また、古代キリスト教徒ではという説もあります。江戸時代の平戸藩主(長崎県)、松浦静山が当時の風俗、事件など様々な話をまとめた随筆「甲子夜話」では、多胡碑の近くから「JNRI」と書かれた銅板が見つかったという話が紹介されています。

 「JNRI」とは、ローマ帝国時代の言葉「ラテン語」で「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を表す頭文字です。当時の中国では431年のエフェソスの公会議において異端宣告を受けたネストリウス派の信仰が伝わり、景教として広く流布していました。景教が初めて中国へ入ったのは635年と言われ、唐の都、長安には景教寺院もありました。このため、古代キリスト教徒説もあるのですが、銅板などの実物も残っておらず、「甲子夜話」の記述のみで真偽のほどはわかりません。(以下ソース)

4/27(木) 10:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/54e31ab9cb6448f33a77f95de7043a45fbb02588

2 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:10:20.64 ID:8toP1NGg0.net
今の日本人も渡来人じゃん

3 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:11:08.86 ID:7kWM1VyN0.net
オメガ渡来人

4 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:12:48.68 ID:a8W0aCT40.net
「なのでここは韓国固有の領土ニダ」が抜けてるな。

5 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:12:55.84 ID:Rk90BI6c0.net
日本に来ることをトライしてきたんだな

6 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:13:29.78 ID:yjdfNlSR0.net
>>1
その時代には、
現代の朝鮮人はまだウイグルとかの方に居たし、
現代の中国人も万里の長城のそとがわの地域に居たんだよな

7 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:14:52.72 ID:DfBD20de0.net
群馬のことを上毛っていうけど昔は羊毛って言ってたらしいじゃん。

8 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:17:24.42 ID:tkP3X8sd0.net
>>1
ワイは多賀城民

9 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:17:26.45 ID:VExqk5pO0.net
アラブ人

10 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:18:18.58 ID:DWXgQ7rs0.net
羊だから遊牧民のモンゴル人か字が羊っぽい羌(チベット人)だろ

11 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:26:26.32 ID:8RAiehw00.net
百済高句麗にどのような人々がいたかという問題に置き換え可能だろう
モンゴル系、ツングース系、漢人はいたと思うが、西域の遊牧民までいたかどうか
いずれにせよ7世紀に西域から唐に入ったネストリウス派は
この時期の動乱の百済高句麗に伝わったと見ても不思議ではない

12 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:28:12.18 ID:tHCsY8xr0.net
誰?グンマー族の英雄?

13 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:28:45.29 ID:tMsDBqhO0.net
あれだろたけし軍団の

14 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:28:53.97 ID:wZjiD3U/0.net
韃靼人か

15 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:30:50.19 ID:eWfwTrYS0.net
チャンチャカチャンチャン チャチャンチャチャンチャン

16 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:30:50.18 ID:sH58gWm60.net
レッツ、渡来!

17 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:31:50.02 ID:avXE5Qfq0.net
ぬ、かと思ったら~、

ゐでした~。

チクショー!!

18 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:35:24.01 ID:DWXgQ7rs0.net
>>11
あとの時代に半島の方にどんどん押し出されていったけど高句麗の本来の中心地は中国の吉林省らへん
支配層の血統的にはあとの遼や清同様女真族かモンゴル系だろう
百済については伝説上は高句麗から枝分かれしたということになっている

19 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:35:34.40 ID:nm9Bo5Vr0.net
工作員です

20 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:35:57.30 ID:sIvtxCQB0.net
誇らしいニダ

21 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:36:22.72 ID:mqUT0yXz0.net
家庭教師は?

22 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:37:18.94 ID:+0lyfIN30.net
天皇は?

23 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:38:33.20 ID:y3DswH3b0.net
火の鳥太陽編の犬上宿禰みたいなもんか

24 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:38:34.54 ID:zXnSOkNR0.net
天皇家もルーツは朝鮮

25 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:42:17.35 ID:fCy6fK+V0.net
キリストの墓が青森県にあるの知らないのか?

26 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:42:21.07 ID:Xn2dk+um0.net
大昔の渡来人ってどういう扱いだったんだろう
文明の進んだ土地から来てるからリスペクトされてたのかな
日本の歴史における渡来人の役割ってデカいよね
時代を経るにつれてどんどん混ざってったけど
彼らの血筋を特別視するような空気はあったんだろうか

27 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:43:40.48 ID:yjdfNlSR0.net
>>24
天皇家派南方系だろ

28 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:44:51.35 ID:n/HKZqsx0.net
YAP遺伝子というのがあってだな

29 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:46:04.44 ID:n/HKZqsx0.net
あとはググれ

30 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:46:38.68 ID:F7Xd44Uz0.net
>>1
上野のカナが「こうずけ」表記なのは納得がいかないんだよなあ。「かみつけぬ」の転訛がなんで「ず」表記なのさ

31 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:46:41.15 ID:bMXmgLKL0.net
さぁんじゅぅさぁぁぁんwww

32 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:46:49.31 ID:SSV3usO30.net
海を渡るTRY人

33 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:47:30.63 ID:uIynzcoL0.net
羊に東アジア感無いな

34 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:49:49.05 ID:PlLNXJbE0.net
まじでか

35 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:50:45.95 ID:4DI6NHq00.net
>>33
多胡郡っていうぐらいだから胡人(ペルシャ系)がいっぱい居たのかもしれないね

36 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:52:46.85 ID:dDLuDGza0.net
>>1
モンゴルの遊牧民は羊を飼っていたんだぜ、しかもキリストが産まれる何百・何千年も前からな

37 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:53:45.91 ID:S0Gw8osd0.net
胡の字が気になるから中央アジア説を推す

38 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:54:04.57 ID:xpBJ6Ul70.net
よーぜふ?

39 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:55:02.81 ID:bMXmgLKL0.net
キリスト教徒がいくら頑張ってもイエスが神だという珍説は世界に受け入れられないんだよな

40 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:55:40.75 ID:uP7AXwms0.net
羊羹マン

41 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:56:00.35 ID:bljhw8sS0.net
>>26
天智天皇=扶余勇(百済王子)って説を読んだことがある

42 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:59:00.50 ID:bMXmgLKL0.net
このスレは伸びない(断言)
どうでもいい話

43 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:59:42.19 ID:crykXmva0.net
すごい胡散臭さワロス

44 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 21:59:59.40 ID:j3QNVcBC0.net
吉田羊

45 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:00:34.97 ID:xYPtQqRd0.net
半島の史書にも治めているのは倭人の王ってあるのに
そこから来ても渡来人扱いだからワケわからなくなる

46 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:01:07.75 ID:DWXgQ7rs0.net
>>37
中央アジアなどのソグド人は西胡
遠すぎて唐くらいまで時代がくだらないとあまり史書には出てこない
それ以前は「胡」といえば東胡(モンゴル系民族や系統不明の匈奴)

47 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:01:23.30 ID:UOpFSGVd0.net
>>41
百済の王子の豊璋(ほうしょう)が中臣鎌足を名乗った説は有名。
天智もなのか?

48 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:02:48.47 ID:n/HKZqsx0.net
>>30
自分はカミが何でコウになったのか知りたい。ズはツの転訛だと思う。カミツケヌクニのどこからコウが湧いてくるんだろう。

49 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:03:51.08 ID:a2l8IS5N0.net
>>17
ゑ?

50 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:04:36.25 ID:+s4Ds0bB0.net
>>37
スサノオが、はじめこの国

51 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:04:39.29 ID:a2l8IS5N0.net
>>30
それは現代仮名遣いの問題かもぞ

52 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:06:54.91 ID:+s4Ds0bB0.net
>>37
スサノオが、はじめ胡の国にに降り立ったが、自分のいるところではないと言って、改めて出雲に降り立った
っていうときの胡の国は朝鮮半島だって、なんかの本に書いてあった

53 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:07:01.27 ID:a2l8IS5N0.net
>>48
カミがコウになるんぢゃねえの
M音が拔けて母音も訛った

54 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:10:43.04 ID:qCUX60ip0.net
>>1
『7世紀に生きた秦氏のうちの一人、羊太夫という人がいる。群馬県高崎市にその碑がある(多胡碑)。その石碑の周りから「JINRI」と書かれた古銅券が発掘されている。このようなことから秦氏の羊太夫が「JINRI」という文字を極めて大事にしていたことがわかる。では、その「JINRI」とはなんなのだろうか?これは「INRI」とも記され、ラテン語の頭文字を合わせたものである。その意味は、「ユダヤの王ナザレのイエス」というのだ』

55 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:10:52.25 ID:DWXgQ7rs0.net
まあ言語学者が推定する弥生時代の日本語なんてこんなんだしw
もはやどうしてカミがコウになるのかなんてどうでも良くなる

https://youtu.be/lrBuftKQQQY

56 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:12:01.68 ID:aed/Yssk0.net
家庭教師の渡来

57 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:14:32.87 ID:bljhw8sS0.net
>>47
国際的視点からの古代史考
扶余勇=天智天皇説
https://sites.google.com/view/jhistory/%E6%89%B6%E4%BD%99%E5%8B%87%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

天智天皇=扶余勇 part7
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1656320301/

しょせんよーわからん個人サイトの考察にすぎないが…一昔前の半島の学者にあった感情論は排されており興味深い

58 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:15:16.34 ID:/ljYTUpm0.net
今の中国の外交部長が秦さんじゃなかったか?

中国では割とポピュラーな姓なのかな?
日本では渡来系で有名だけど。

59 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:18:41.12 ID:qCUX60ip0.net
>>55
万葉集がそんな変な言葉で読まれた訳ないじゃん
何でも科学と言うと信じるワクチン脳みたいなのが多いね

60 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:19:55.78 ID:/ljYTUpm0.net
>>57
ありがとう。
あとでゆっくり読むわ。
乙巳の変が百済コンビによるものだったらビックリしそう。
でも、一つの説だからね。

61 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:22:08.56 ID:DWXgQ7rs0.net
>>59
弥生時代から万葉集の時代まで最大で1700年くらいあるぞw

62 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:22:32.61 ID:P3C24xh90.net
しょうもない話題だけど上野三碑の事が話題になったのは良い
群馬の人は上野三碑の事を誇りにして良い
最古級の石碑が3つもある事を
昔からずっと古い物を大切にする土地柄だった証だ

63 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:23:06.90 ID:sdDEkvTT0.net
◆上毛は羊飼いの土地だった

古代日本には大陸から多くの羊飼いが渡来し、
主に関東地方で羊を放牧して暮らしていた。
日本の古代法典『延喜式』(967年)にも
下野国(栃木県)で作られた毛織物の記述があり、
大陸で羊毛を紡ぐのに使う『紡錘車』も遺跡から多く発見されている。

東京・上野の国立博物館にも8世紀に下野国で作られた
羊毛の氈(カーペット)がいくつか保存・展示されている。

栃木・群馬のあたりで奈良時代やその少しの後まで羊が飼われていた事は
羊の専門家の川瀬勇氏も、著書『日本民族秘史』の中で述べている。
それによるとこの羊は中国華北で飼われている「寒羊」と同種であり、
またこの羊はイスラエル原産の「アワシ」と呼ばれる種類だという。

この羊が飼われていた地域の中に含まれる
群馬県多野群吉井町の辺りは、昔 『多胡群』 という地名だった。
『多胡』とは、中国の遥か西方から来た
住民が多数住んでいた事に由来している。

この多胡郡には『多胡碑』と呼ばれる有名な古碑がある。
711年に建てられたもので、『日本三大古碑』のひとつに数えられるものだ。
そこには「和銅4年に近隣3郡から
300戸を切り取り羊なる者に与え、多胡郡とした」とある。

ここに書かれた「羊なる者」こそ、羊太夫宗勝、
または小幡羊太夫とも表記される 『羊太夫』という伝説的な人物だ。

64 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:24:14.83 ID:jYyCx3Xj0.net
埼玉の元となった高麗郡もちょうどこの頃設置された
埼玉の人々が朝鮮人の子孫なのは学会では知られているが群馬の話は知らなかったわ


716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる。
設置時の郡域は現在の日高市と飯能市のそれぞれ一部

65 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:25:07.89 ID:NM0lEzOy0.net
>>59
そもそも文字すら無い時代の口語なんて分かる訳無いし、出鱈目だよ。

66 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:25:22.95 ID:sdDEkvTT0.net
◆多胡郡と秦氏

多胡郡には海外から渡来した
『秦氏 (はたし)』と呼ばれる人々が多くが住んでいた。

たとえば奈良の正倉院の掛布屏風袋の銘紋に、
「上野国多胡郡山部郷戸主秦人」とあり、
上野国の多胡郡に住んでいた秦氏から献上された品である事が明記されている。

今でも多胡群内には「矢田」という地名が残っているが、
昔は「八田」といい、ハタと呼んでいた。
このハタは「秦」から来たもので、秦氏の居住地を示すものだ。

多胡郡統治者の羊太夫の先祖は
6世紀に多胡郡に来た渡来人だったとされるが、
彼自身も秦氏であったと見て間違いない。

中世に多胡郡を支配していた豪族は小幡(オバタ)氏だが、
彼らも「自分たちは羊太夫の子孫だ」と述べている。

彼らは秦氏の神である八幡神を信仰しており、
小幡の地にある神社は「小波多(おばた)神社」という。
ここでも「幡」「波多」とは秦氏の事だ。

67 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:25:57.80 ID:Wib7NrUg0.net
統一教会の解散命令請求は困難な情勢 文化庁事務方トップは「全く見通しが立っていない」 ★3 [ぐれ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1682830118/

【東京】旧統一教会、6300平米の土地購入…ささやかれる「本部移転説」すぐ隣には高校や国士舘大学 「それヤバくないですか」 ★2 [ぐれ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1682502164/

68 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:27:40.43 ID:/ljYTUpm0.net
秦はハタ、幡もハタ。
八幡の八は昔は多数を意味したから多くのハタを意味したとも。
八幡の神はヤハウェという説もあるね。

69 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:28:14.01 ID:P3C24xh90.net
>>39
最近メソポタミアと違って
ギリシャ以西で三位一体が主流になったのは
メソポタミアと違って欧洲では羊飼いが誘導犬を使ったから
という中川洋一郎って人の説を読んで本当にびっくりした
メソポタミアでは誘導去勢牡羊が預言者のメタファーになったというのは以前から言われていた
例えば谷秦の研究など

70 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:35:27.14 ID:bdJ6GGq90.net
羊太夫「実は宇宙から渡来しました。」

71 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:38:14.55 ID:IO8NpV0p0.net
羊なら渡来人だな
7世紀に羊いないし

72 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:39:10.19 ID:qKoTbfmT0.net
きな臭くなってきたな~あ、北関㌧?(笑)

てめえ等のルーツも知らずに晒す池沼白痴害児の群れwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

北関㌧が一疋~、北関㌧が二疋~wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

73 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:39:33.05 ID:B7+kQNe20.net
>>39
イエスは預言者で神はヤハウェだ

74 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:40:14.30 ID:qCUX60ip0.net
>>61
それ現代語まで全部出てるんだけど(笑)

75 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:40:55.64 ID:bMXmgLKL0.net
羊をキリスト教徒結びつけるのも近代の観念だろ
トンデモ記事だなこりゃ
布教に熱心なキリスト教徒が書いたのか?

76 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:42:16.78 ID:P3C24xh90.net
>>63
下野といえば結城紬の地で
機織形埴輪というのも出土してる
6世紀後半

これは埼玉だか群馬だかの機織の研究者が
結城に古い機織り機を見に来たついでに
知人のいるしもつけ風土記の丘資料館に寄って
完成形不明の埴輪破片を見て気付いたらしい
他の土地にもあるのではないか?

77 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:45:41.64 ID:qCUX60ip0.net
>>75
だからINRIと書かれた銅版が見つかってるんだよ
意味はユダヤの王 ナザレのイエス

どちらにせよ渡来人は結構来てて秦氏はユダヤと言われている

78 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:47:44.40 ID:P3C24xh90.net
>>75
それは違う
ミトラ教のように生贄が宗教の主要観念になってるケースが中近東には多く
キリスト教のイエスの死の扱い方は旧約にもある羊の生贄そのもの
旧役でも新約でも繰り返し民は羊に例えられてる

79 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:49:20.81 ID:Dh9UUGbh0.net
羊を百済人が献上品として持ってきた記録が日本書紀にある。
推古七年(西暦599年)百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉を献上したらしい。
羊は山羊かもしれないが。

それが関係したりして。

80 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:50:38.63 ID:g0SSxLAH0.net
>>77
秦氏は文字通り秦の出身でしょう普通に考えれば

渡来系の古代氏族はたくさんいるから
中にはユダヤ系もいたのかもしれんけど
秦氏はないと思う

81 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:55:18.34 ID:sdDEkvTT0.net
◆原始キリスト教徒・秦氏

秦氏は古代日本において活躍していた渡来系の殖産豪族だ。
平安時代初期の815年に編纂された「新撰姓氏録」によると、
「秦の始皇帝の末裔」を自称しているという。
この書物には秦ではなく「波多(ハダ)」という名で書かれている。

なお波多の中国発音は「パトゥー」。
三位一体の定義を定めたニケーア公会議の決議を認めず、東方に伝道し、
唐代に中国に伝来した景教(キリスト教ネストリウス派)の教典では
アブラハムやイサクら、ユダヤ人の偉大な祖先らを
「波多力(パトゥリー)」と表記している。

波多力とはヘブル語における族長(パトリアーク)をさし、
またキリスト教においては司教の事である。

明治時代の景教学者の佐伯好氏は
秦氏の「秦」とはここから来た名前ではないかと推測していた。

だが秦氏の渡来は中国にキリスト教が渡来するより更に早く
応神天皇の時代に渡来し、雄略天皇の時代に活躍していた記録がある。

82 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:57:49.49 ID:sdDEkvTT0.net
◆八幡神の正体

秦氏が景教徒であるとする佐伯氏の仮説は時代が合わない。
しかし秦氏の文化や信仰には明らかにキリスト教の影響が見て取れる。
ではいったいどういう事なのか。

簡単に言えば日本には弥生時代に
既に徐福とともにユダヤ人らが渡来していた。
彼らは物部氏の祖先となった。

そして時代が下り、ネストリウス派が東方に布教するより先に
神託に導かれ、シルクロードの彼方から、
何代もかけて日本に原始キリスト教徒が渡来していた。
彼らが秦氏の正体なのだ。

日本に渡来した秦氏は八幡神(やはたのかみ)を崇め、
日本各地に膨大な神社を作った。

八幡という名はイェフダ(Yehudah)に由来している。
イェフダとはユダヤをさすヘブル語だ。
つまり八幡神とはユダヤの絶対神にして託宣神であるヤハウェをさしているのだ。
八幡神という漢字が転訛し、日本ではハチマンシンと呼ばれるようになった。

ユダヤの絶対神ヤハウェはまた、音訳されてヤエイ(弥栄)とも呼ばれた。
これも転訛して栄光を意味する「イヤサカ」と呼ばれ、
更に「ヤサカ」になり、京都の八坂神社の名前の由来にもなった。

83 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 22:58:19.56 ID:qCUX60ip0.net
>>80
もう通説になっとるけどな

84 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:01:23.31 ID:58XkEd1w0.net
飛鳥、奈良時代のことを伝説というのは違和感がある

85 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:02:07.99 ID:sdDEkvTT0.net
◆弓月王とヤマト民族

伝承によると秦氏は応神天皇の時代に、
朝鮮半島の百済から日本への移住を希望していたが、
朝鮮半島の覇権国家である新羅に阻まれて叶わなかった。

そこで応神天皇は朝鮮半島の新羅国境に軍隊を派遣して
新羅の軍勢を牽制し、その間に
弓月君(ゆづきのきみ)という首長に率いられて
130県の秦氏が海を渡る事に成功し、日本に帰化した。

これらの出来事があったために彼らは応神天皇を
自らの崇める神の遣いとして神聖化し、
それゆえに八幡神には応神天皇の存在も投影されている。

弓月君の系図は秦始皇帝に遡る。
始皇帝の子孫は秦が滅びるとともに行き場を失ったが、
やがて中央アジアの弓月王国に身を寄せたとみられる。

弓月王国は邪馬台国に並び、魏の皇帝から
金印を授けられた2つの国のうち1つである。
現在のカザフスタン東部にあり、
ここには現在も「ヤマトゥ」という地名が残っている。

「ヤマト」とはユダヤ人が昔から
自らの民族をさして言っていた言葉である。

ヘブル語で民族は「ウマトゥ」という。
絶対神ヤハウェは簡略形で「ヤー」という。
「神の民」をさすヘブル語が「ヤウマト」なのだ。

86 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:03:28.21 ID:g0SSxLAH0.net
>>83
君の脳内通説は知らんけど
秦氏といえば稲荷神社でしょ
明らかに中国文化の影響が強く、ユダヤ教の面影はないな

87 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:07:17.11 ID:sdDEkvTT0.net
◆新羅とローマ

北朝イスラエル王国が紀元前722年にアッシリアに滅ぼされた後、
人々はアッシリアに連行。
スキタイの攻撃で前612年にアッシリアが滅んだが、
イスラエル人はユダヤに帰らず、スキタイに吸収されて
一緒に中央アジアを駆けずりまわった。

その末裔が築いた国が弓月王国と見られる。

なお新羅は秦氏の渡海を邪魔した。
ローマ帝国の事をずっと後に日本では漢字表記で「羅馬」と書いたが、
偶然にも新羅とは「東方の新しいローマ帝国」のような国であり
シルクロードの西側における様々な文化や文物が集積されていた。
聖書も既に新羅にあった事がわかっている。

88 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:07:28.90 ID:bMXmgLKL0.net
キリスト教徒は平気で歴史を改ざんする
布教に熱心なのはいいが、真実を裏切ってはいけない

89 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:14:29.28 ID:sdDEkvTT0.net
◆中国西方の遊牧民 "羌族"

秦氏は秦の始皇帝をルーツに持つと説明されている。
では、秦とはどういう国であったのか。

紀元前17世紀から中国河北には殷(商)という王朝があった。
しかし30代目の王である帝辛 (紂王) の悪政によって国が乱れ、
西伯侯であった姫昌という男が
羌族出身の"太公望" 呂尚という男の協力のもとに反乱を起こし、
紀元前1046年に牧野の戦いで殷軍を打ち破り、新たに周王朝を成立させた。

太公望は代々の周王に自分の一族の娘を嫁がせ、
日本でいう藤原氏のように外戚として権勢をふるった。

ちなみに周王家のDNAは山西省黎国墳墓からの発掘調査で、
なぜか日本人に近い事がわかっている。

太公望こと姜子牙の出身である羌族とは、
中国の西方に住んでいたチベット系遊牧民の事である。
『羌』とは『羊』に足をつけた文字で、「羊の女」を意味する『姜』姓を名乗る。
これは彼らが発祥以来、ずっと遊牧民であったことを端的に示している。

古代中国の三皇五帝の一人である『炎帝神農』も姜氏であり、
その子孫とされる牛頭の魔神『蚩尤』も羌族である。
今日では羌族は河南省を中心に民族のアイデンティティを保っている。

なお日本人とチベット系遊牧民のY系遺伝子はハプログループDに属し、
中国人や韓国人の属するハプログループとは大きく異なっている。
ハプログループDと人種的ユダヤ人の属するハプログループEは
太古に同じ1人の男から生まれて派生したものであり、最も近い近縁種にあたる。

90 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:16:53.66 ID:sdDEkvTT0.net
◆6つの『秦国』

周王朝の孝王の臣下であった『非子』という男は
紀元前10世紀末頃に牧畜を行い、多くの馬を飼育することに成功。
この功績によって『羸』という姓を賜る。

非子は後に大夫となり、広大な領地を得、
これが秦王国の始まりとなった。
場所は中原から見て西方、現在の甘粛省礼県あたりと考えられている。

欧米の歴史学者アーサー・コットレルは、
秦の民族は中原の漢民族とは異なる民族であったと主張する。

もともと農耕民である漢民族にとって、馬は農作業に使うものであり、
乗り回して機動力として使うのは異民族である遊牧民族の習俗だからだ。
非子が大量の馬を飼いならした手腕は、もともと彼が遊牧民族であったことを暗示している。

同様にチベット研究家の佐藤長氏も、
周と秦は広い意味で羌族の国家であったと主張している。

なお、『秦』という名を冠した国は春秋戦国時代の秦国と始皇帝の秦帝国だけではない。
中原が異民族によって支配された五胡十六国時代に『秦』の名を名乗る国がいくつも出現した。
歴史学では紀元前の秦と区別するために、それぞれ『前秦』『西秦』『後秦』と呼称している。

まず前秦は青海湖を拠点としていたチベット系遊牧民の『テイ族』が中心となって
西暦350年に東晋国から独立した国である。
後秦は384年に成立した国で、支配層は羌族である。
一方の西秦は385年に前秦から独立した国で、王家は「鮮卑族」である。
鮮卑族はチュルク系またはモンゴル系と呼ばれる遊牧民だ。

91 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:18:43.22 ID:sdDEkvTT0.net
◆羌族はイスラエルの末裔

一見してわかるように、『秦』と名乗った歴代の国は、
いずれも漢民族とは異なる遊牧系騎馬民族によって建国されたものだ。

そしてこのうち羌族は、イスラエルの調査機関アミシャーブのDNA検査によって、
失われたイスラエル十支族の末裔である事が明らかになっている。

いつの時代に混血したのかは不明である。
だがこれで羌族は、新約聖書でイエスが生前に述べた
「失われたイスラエルの羊」のひとつである事は明らかとなったという事だ。

鮮卑族もまたユダヤと関係があるとされる。
鮮卑族は北アジアを席巻した騎馬民族で、スキタイ文化の継承者である。
朝鮮半島を拠点とし、日本列島にまでやってきた夫余族と言語が非常に近く、
彼らの中にスキタイによって連れてこられた
失われたイスラエルの十支族がいた事は十分予想される。

また『秦』の字を冠してはいないものの、五胡十六国のひとつ
『後趙』を建国した『石勒』もユダヤ人である。
これは確かな話で、子孫が今も中国におり、ユダヤ教の信仰と風習を守りつづけている。

石勒は匈奴の支族「羯族」の出身である。
去勢した羊を意味する『羯』という文字にも「羊」が含まれ、
彼らの祖「羌渠」の名にも、やはり「羊」がある。
状況から考えて、失われた十支族である羌族との関係があると考えて間違いない。

92 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:20:33.28 ID:sdDEkvTT0.net
◆無数の『大秦』王国

ところで、なぜこれら遊牧系騎馬民族がそろって『秦』という国名を名乗ったか、
不思議ではないだろうか。

さらに不思議なのは中国の古代文献を繙くと、『秦』とは別に、
『大秦』と呼ばれる国がいくつも登場する事だ。
ひとつは古代ローマ帝国である。

古代ローマ帝国に対する中国の呼び名は「藜軒」や「拂菻」などいくつかあるが、
そのひとつが『大秦』だ。
後漢の時代、西暦166年、古代ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスから
使者が来た件について、ローマ皇帝を『大秦王安敦』と書いているのだ。

また唐代の635年に中国に伝来したキリスト教ネストリウス派──
中国名『景教』の教会も『大秦寺』と呼ばれた。
景教の経典『大秦景教宣元本経』でも、ローマ帝国領ユダヤのナザレについて
「大秦国那薩羅城」と書いている。

更にペルシアも『大秦』と呼ばれた。
中国ではペルシアを南部の地名ファールスを漢訳して『波斯』と表記していたが、
南宋の僧志磐が1269年に撰した仏教史書『仏祖統紀』の注釈39には
「波斯国は西海に在り、此に大秦と云う」と書かれている。

なぜローマ帝国とは全く別の国であるにも関わらず、
これらの国々を同じ『大秦』という国名で呼んだのか?

93 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:23:51.03 ID:sdDEkvTT0.net
◆"秦人"の正体

さらに紀元前3世紀半ば、ギリシア人によって
アフガニスタン北部に建設されたのが「バクトリア王国」である。
後にアレクサンドロス大王によって征服され、大王の死後は
セレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けた。

バクトリアも中国では『大夏』の名前で呼ばれる一方、
仏典の『那先比丘経』では「大秦」と表記されている。
バクトリアを支配したシリアについても、中国の史書は『大秦』と表記している。
そしてこれらの国から来た人々についても、中国では『秦人』と表記している。

しかし近隣にあるその他の国については、
『大秦』とは呼ばず、固有の地名で読んでいる。

いったい何故だろうか。
何をもってこれらの位置がバラバラの国々を
同じ『大秦』という名で呼んだのか。

実はこれらの国に共通しているのは、
いずれも多数のユダヤ人が居住していたという事である。

例えばペルシアにはバビロン虜囚から解放された多数のユダヤ人が移住し、
勤勉である事から異民族でありながら重用されていた。

アケメネス朝ペルシアの大王、クセルクセス1世の時代にはユダヤ人モルデカイが宰相となり、
そのいとこであるエステルが王妃になっている。
これらの事は旧約聖書』の『エステル記』に詳しく書かれている。

クセルクセス1世は帝国内に勅命を発布してユダヤ人の自由と権利を保証し、
これを記念して「プリムの祭」が行われた。
現在でもペルシアの流れを汲むイランには数多くのユダヤ人がおり、
プリムの祭を今も続けている。

同様にシリアにもバクトリアにも、ディアスポラにより多数のユダヤ人が居住していた。
古代中国ではユダヤ人の事を「秦人」と呼んでいたのである。

94 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:25:26.83 ID:2uVufxTH0.net
群馬の羊毛から絹への変遷は興味深い

95 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:26:27.69 ID:/RNkt4Ee0.net
>>35
久留米の由来はクメール人ってくらいの信憑性だなw

96 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:27:19.97 ID:qCUX60ip0.net
>>86
INRI ナザレの王イエスキリスト

それがイナリな

97 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:29:02.85 ID:YaTrmM9Z0.net
結局だからなんだと言う話になるんだよな

98 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:32:57.36 ID:sdDEkvTT0.net
◆『秦』の意味

かつて中国の内部には多数の「秦」という国が興った。
それらはいずれもチベット系遊牧民かユダヤ人が深く関わっている。

中国の外部にも多数の「大秦」と呼ばれた国があった。
いずれもユダヤ人が多数住んでいた。

そしてそれらの国から渡来した者たちを
古代日本ではざっくばらんに「秦氏」と総称していた。

では、これら全てき共通する『秦』とは一体何なのか。

表向きはこの字は「舂」と「禾」の字を合わせた会意文字で、
稲がすくすくと成長する様を意味する。
秦王家の先祖が与えられた甘粛省秦州の地が、
作物を育てるのに適していた土地であることに由来するという。

だが裏の意味は異なる。
『秦』を分解すると『三人ノ木』となる。
三人の木とは三本の柱の事であり、三柱の神を意味する。
三柱の神とはキリスト教における『御父と御子と聖霊』の事である。

ユダヤ教は元々多神教だった。
創世記で最初の人間アダムを創る時にも、神々は
「われわれに似せて人を創ろう」と自らを複数形で語っている。

つまり『秦』とはユダヤの奥義をさした文字でもあるのだ。

99 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:34:01.78 ID:qCUX60ip0.net
>>73
>>82

日本神話とキリスト教を繋ぎ合わせると父なる神は国常立命になる

根源神を追い出したから、その息子が帰ってくる

追い出した側が悪い小作人の喩え

100 :ウィズコロナの名無しさん:2023/04/30(日) 23:38:57.66 ID:sdDEkvTT0.net
◆造幣局長官・羊太夫

古代日本に渡来した秦氏は養蚕技術に優れ
沢山のはたもの(生地)を献上しているほか、
金属の精錬にも優れていた。

奈良時代の豪族。羊太夫もまた冶金術に通じ、
製鉄技術を駆使して優秀な農機具を作っていた。
また彼は平城京建設にも多大な功績を残した。

『羊太夫伝説』では、彼は武蔵国秩父郡で
和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し、
朝廷に献上している。

この功績で彼は多胡郡の郡司を任せられ、
藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。

『続日本紀』 巻四によると、この和銅の発見により
年号が「和銅」に改められ、
日本で最初の流通貨幣と言われる「和同開珎」が発行された。
その鋳造長官が羊太夫だった。

羊太夫は関東と畿内を行き来する多忙な生活を送っていたが、
その際に立ち寄っていた現在の名古屋市北区辻町の屋敷が、
羊太夫を祀る『羊神社』として残っている。

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