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【日本史】 なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いで圧勝できたのか…「会議の空気を読む」が最重要のスキルと言えるワケ [朝一から閉店までφ★]

1 :朝一から閉店までφ ★:2022/09/15(木) 00:08:25.35 ID:h2RkORn09.net
2022/09/14 12:00

「やりたくない」とは言い出せない空気をつくりあげた
PRESIDENT Online
加来 耕三
歴史家、作家

自分の望み通りに相手を動かすには、どうすればいいのか。歴史家の加来耕三氏は「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか石田三成につくかは、各々で決めればいい』と言った。自分の意見を直接言わず、第三者をうまく使うことはときに大きな効果を生む」という――。
※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
https://president.jp/articles/-/61356





秀吉亡き後、ライバルを順番に蹴落としていった家康

小山評定とは、下野の小山(現・栃木県小山市)で開かれた会議のことです。

秀吉亡き後、家康は自己の地位を盤石なものにするために、ライバルたち――特に、自分と同じ五大老に任じられた人々を、蹴落としにかかります。

まず、前田利家の子で、利家が亡くなった後は五大老の一人に列せられていた利長に対して、謀叛の疑いがあるとして、前田家征伐の計画を立てます。利長は悩んだ末に、母親の芳春院(まつ)を家康に人質として差し出しました(これが参勤交代の発端となります)。

こうして前田家は、家康に屈したのでした。

次に家康がターゲットに定めたのが、やはり五大老の一人である会津(現・福島県会津地方)の上杉景勝でした。家康は、景勝にも謀叛の疑いがあるとして上洛を命じます。しかし、景勝はこれを拒否したため、家康は会津征伐を決意しました。

この会津征伐は、大義名分としては「豊臣家に対する叛逆者である景勝を成敗する」ということでしたから、家康の家臣だけではなく、家康は大老筆頭として豊臣恩顧の大名も数多く従えることができました。

総勢で6万9000もの大軍勢になった、といいます。

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https://president.jp/articles/-/61356?page=2

199 :ニューノーマルの名無しさん:[ここ壊れてます] .net
戦略的な勝利を作ってたのは確か
あの布陣で勝つなんて戦術じゃ不可能

200 :ニューノーマルの名無しさん:[ここ壊れてます] .net
陣の配置見ると動けば天下取れそうなとこにいるのに鼻くそほじってた
毛利がアホすぎたんじゃね?

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