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【光市母子殺害】大月(福田)孝行死刑囚(41)の第2次再審請求を棄却 死刑囚側は決定を不服として異議申し立て―広島高裁 [デデンネ★]

751 :ニューノーマルの名無しさん:2022/04/25(月) 21:04:59 ID:0aViQxch0.net
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。

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