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日本国は首都機能を東京から西日本に分散しろ

275 :名無しさんの主張:2012/02/11(土) 13:52:57.94 ID:???.net
992 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/10(金) 22:04:49.56 ID:IRr3IYJL
聖武天皇は、東国人をもって中衛府を組織して宮中を守らしめた。
「此の東人は常に云く、額に箭(や)は立たじと云ひて、君を一つ心を以て護るものぞ」と孝謙天皇「宣命」(『続日本紀』)に述べられている。
これ気概は佐伯部が、「大君の辺にこそ死なめ、のどには死死なじ」といったのと同じ思想である。
東国人は君のためには生命を捨てること鴻毛のごとしというのである。
古代東国は蝦夷がもっぱら住んでいたところである。
貴紳、豪族の従者、すなわち「侍」というものは多く東人であった。
蘇我入鹿の従者も東国人であった(『日本書紀』)。
時代が下って平安朝・鎌倉時代までも常にそうである。
九州の海岸を守る防人ははるばる東人を東国から連れて行った。
一時は往復が非常に煩わしいので、これを止めて九州人を用いたことがあった。
しかし「筑紫の人は辺をまもるの器にあらず」となって、再び筑紫の海岸は東国人で守ることになった(『続日本紀』)。
平安朝にも筑紫人ではまともに防人が勤められず、蝦夷を辺境の防備に使った。
また、蝦夷はしばしば兵士として、また警士・警吏の下役として用いられた。
海岸防御、海賊の退治、強盗の追補など困難で危険、面倒なところには蝦夷を引き出すというのが朝廷の常套手段であった。


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