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【イエス】統合・修道スレ56【キリスト】
- 551 :神も仏も名無しさん:2024/05/04(土) 10:56:55.20 ID:2fpFlJeL.net
- >>490
質問者です、出先なのでID変わっています
言われてみて気がつきましたが、ぼくが想定していた場面は、自分の命と尊厳がかけられているような場合に躊躇なく社会的の枠からはみ出ることは十分にあり得ること、ということを考えていました
質問の論点である他者の命も含んでしまうような場合、つまり例えばアブラハムのイサク奉献のような場合はどうか、と言うことならば、めめしく弱音を吐きますが、それはぼくにとっては理念の段階で留まっています
宗教的な原理も理想も理解できますが、現実という目の前のリアリティのために実際に実行すだけの意志は持てないようです
ただし、これは出来ないというだけでそうすべきとは思っています
それがぼくの社会とは反していると自覚している私の善悪ですし、この善悪は社会側から見れば明らかな反社会性があることも自覚しています
勘違いのないように加えておくと、これらは程度の違いがあれど「私の信念」に他者がいるかいないかという場面の答えです
伝導、改宗を迫る、ということについては、ぼくの持つイエスの理解はかなりの放任主義だったと理解しています
なので伝道については、自分の知っている限りのことを伝えてあとは「その人の自由意思」に委ねる、ということしかしません
キリスト教というのは教えてもらって信じるようになれるとは思えません
経験則ですが、自分で獲得していかなけければ人格そのものに根付くことはないように思います
今回の話になったのは、もう時間がなくなっている人に信仰告白をしてもらう、というなかなか稀な話だったので、自由意思云々の話は平時でしか使えない話だと思いました
急なときは説得ではなく強要もあっていいとぼくは思っています
でもよくあることだと思いますよ
異邦人でも死の前のムルソーに神父が訪れて信仰告白をせまります
キリスト教の伝統的なやりかただと思います
単純に相手に天に行ってほしいという願いだと思います
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