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いかに九次第定を極めるか

1 :神も仏も名無しさん:2019/04/16(火) 23:26:06.38 ID:vJO4L+E7.net
まず初禅をどのように修めるのがベストか
諸賢のアドバイスをいただければ幸いです。

加えて、不幸にしてカルト幼稚園で心の傷を負わされた園児さんの心のケア、
邪師から受けた催眠暗示の解除、その他仏教全般の課題についての議論の場になり、
彼岸中学(見諦道中学校)に入学できる、加行道小学校」の授業を開講したいです。

134 :神も仏も名無しさん:2019/06/13(木) 05:11:23.08 ID:yaRVKPLA.net
無生法忍
三法忍の一。無生忍ともいう。真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。
一切のものは不生不滅であることを認めること。「 忍」とは認可,認知のこと。
一切の衆生を空であるとみて邪見に落ちないのを生忍 (衆生忍) といい,一切は空であり,実相であるという真理のうえに心を安んじ不動であるのを法忍という。

135 :神も仏も名無しさん:2019/06/15(土) 05:41:28.49 ID:Fo7UwUUo.net
宗教の御利益で病気が治った人は居ますか?


プラシーボ効果というものがあり、鰯の頭を拝んでも、何をしても、信じさえすれば治癒の作用が起きる現象は実際にあります。
自分のことをいえば、(自分は正直宗教と思ってませんし、何かの宗教団体やありきたりな和製の伝統仏教と同列に思われたくないのですが)
禅定を深めて行き、第四禅で全ての感覚を捨てた時、歯の痛みが消えるなどはしょっちゅうあります。
ですから、何によらず、信じる者は救われるというのは当然の真実と思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11208940786

136 :神も仏も名無しさん:2019/06/15(土) 09:13:38.59 ID:Fo7UwUUo.net
人生不可抗力で酷い目にあって一時期判断力や精神力が低下していました。…具体的な解決策あったら宜しくお願い致します。

A)
禅定です。正しいブッダの教え、八正道を学んでみるとよいです。
以下は誤ったカルト信心の例です。
騙す側も長年のノウハウの蓄積があるので洗練の極に達している面もあります。
真如苑の場合、信者は若年性の認知症になるのか
さほど高齢でなくても、勧誘に応じない批判者や脱退者に攻撃的になったりします。
また被害妄想がひどくなり、教えに対する批判を
宗教弾圧ででもある風に大袈裟に解釈することがあります。
もともと認知の歪みを引き起こされていた上に
老年性のせん妄が加わって症状の激化に結び付いている可能性があります。

誤った道に迷いこまぬよう、確かな洞察力をもって邪道を見抜き、安易な宗教妄想に頼ろうとしないことです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13209129588

137 :神も仏も名無しさん:2019/06/15(土) 14:28:55.82 ID:Fo7UwUUo.net
識が転じて法界体性智を得た人は大日如来です。釈尊がお覚りになられた真理そのものと一致した境涯ですから。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12209144507

138 :神も仏も名無しさん:2019/06/17(月) 00:53:18.35 ID:RKQ2Dhb/.net
『十地経』の第八地の無生法忍を得たものはその悟りから離れてはならないといいます。
なおかつ、それを最上のものとみなしてはならないこと、発心することを最低限求めます。
さらに、それができた者に対して世界を観察することを要請します。衆生、世界のさまざまな違いを知るのです。

139 :神も仏も名無しさん:2019/06/17(月) 10:00:41.63 ID:RKQ2Dhb/.net
>行が消えたということですと、縁起説から言えば正念正知によってまず無明が消えた、ゆえに行が消えた、
ということになります。
>そうなると、それは解脱したということに他なりません。

行は「形成力」、および「形成された物」だと思うのですが、
解脱は、「過去に蓄えてきた全ての形成された物」の消滅であって、
個別の「形成された物」、「形成力」の消滅に関しては、普通に起こり得るものであると思っていました。


確かに、私も体の観察、慈悲の瞑想などを通すことで、「形成された物」が消えていくのを感じます。


>執着していないので、勝手に滅していきます。
>それがあたかも正念正知によって滅したように感じられるかもしれませんが、実際には執着が消>えたことによって、自分から離れた、ということだと考えられます。

執着していない状態ということは、無明でないと言い換えることもできる

無明(「色,受,想,行,識」についての縁起,無我,無常,苦のさとり(目覚め)がない)ゆえに、想=>行の輪廻の循環を作る。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14209244629?__ysp=556R5oOz

140 :神も仏も名無しさん:2019/06/17(月) 18:53:42.94 ID:RKQ2Dhb/.net
毎日
呼吸瞑想
インナーボディ
思考観察
を続けていると、視界にあるものを包んでいる空間が「自分」であるという感覚を微細ながら感じるようになりました

>今ここで実際に体験している世界の全てが本当の自分なのです。
そのことを本当にそう感じられることが悟りです。


>もっとその境涯を深めて行ってください。とても良い兆しがあらわれてます。
意識は空間、法界唯識、六大無碍にして常に瑜伽なり。
じぶんも、この虚空が意識と一体であると感じられるようになりつつあります。
九次第定により、天地を貫く実相と相応します。
釈尊の到達された境地も、行者の入我我入の境涯も、日々の無相の修行から続いているものだと妙観します
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13209282073

141 :神も仏も名無しさん:2019/06/17(月) 19:40:18.88 ID:RKQ2Dhb/.net
悟りを開きたいです。

断食は健康によいですし、タイのお坊さんみたいに午後は抜くとか、
長時間食べない時間をつくるのはお薦めです。
あまり堅苦しく考えず、九次第定を学び、修めてみるとよいと思います。
特別な団体がさとりの情報を握っているわけでなく、寧ろ悟りから遠ざけるもので、
ブッダの覚りは誰にでも手の届くところにあるし、
経典が死後だいぶ経ってから編纂されたのも、九次第定つまり正定を中心とした
八正道の実践が生きていたからだと思います。経典が編まれたことで
逆に文字の字面に頼り、修行の核心部分が見えにくくなった面があるような気がします。禅定といっても、何もスタイルに執着する必要はありません。夜寝るのに横になった状態で行ってよいのです。
(ブッダは入滅時に九次第定を初禅から想受滅まで上下したあと
第四禅で入滅したと説かれています)
また長時間かける必要もないでしょうし、苦行と快楽主義の両極端を離れた
不苦不楽の心境で行じてみることですね
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10209081280

142 :神も仏も名無しさん:2019/06/20(木) 04:37:34.93 ID:fPNdJkjC.net
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである(色即是空 諸法空相)。

唯識  心のあり方・識の穢れを瑜伽行(ヨーガの行・実践)で浄めて、悟りに至る (唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)
他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ)が存在する
からと唯識では考える(カール・グスタフ・ユングの集合的無意識と類似の思想)

又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。

又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心
??大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三

『華厳経』は、覚った仏の側から説いているので、すべての存在現象が、そのままみずからの心のうちに取り込まれて、全世界・全宇宙が心の中にある
と言うのである。そこで、すべての縁起を集めているから「集起の義」について唯心と言うのである。

143 :神も仏も名無しさん:2019/06/20(木) 06:40:36.97 ID:fPNdJkjC.net
・ブッダのさとりの内容を推し量ったもの(深浅・僧俗の多種混在)

・釈迦伝説を哲学的、論理学的に発展させたもの

・結集前から生のまま伝えられてきた九次第定・生きた八正道

144 :神も仏も名無しさん:2019/06/22(土) 06:58:08.35 ID:/mJ/Uqj1.net
一切法空

一切が空であれば、一切は執着に価する対象ではないので、区別や差別をすることから離れなければなりません。

>「無色、無受・想・行・識」とは、「形あるものを否定し、感受作用・表象作用・意志作用・認識作用を否定する」という意味です。存在の完全否定ではなく、そのことに執着しないというような意味合いです。

般若心経では、「是故空中、無色、無受・想・行・識」というように、「これゆえに空においては」と前置きがありますから、「空においては、形あるものに執着せず、感受作用・表象作用・意志作用・認識作用に執着しない」と読んだほうがいいです。
なぜなら、因縁によって起こることを空といい、仮といい、中というからです。心(受想行識)は因縁によって仮に有りますが、実体は欠如しています。実体が欠如していることを空といいます。固定して存在する実体というものは欠如していますが、
因縁によって仮に有るので無ではありません。有るのではなく、無いのではないので、非有非無の中道といいます。


>「空」の本当の意味は実際驚くほど誰もわかっていません。
私達は自分は物質的な世界の中にいると信じきっています。しかし、本当は物質的な世界なんて実在しないのです。
ノンデュアリティの人達が言うようにただ体験だけがあるのです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13209093613

145 :神も仏も名無しさん:2019/06/22(土) 07:15:11.86 ID:/mJ/Uqj1.net
>アートマンと仏性は違いますよ。
アートマンは個我の内面的本質であり、輪廻の主体でもあります。
しかし、大乗は無我の立場であり、仏性は輪廻の主体とはなり得ません。
一見同じに見えますが、似て非なるものなんですよね。
如来蔵とは、仏陀になる「可能性」のことであって、梵我一如とは違った意図を持つものだと思います。

そういった意味で言えば、阿羅漢にしかなれないと定義したのは部派仏教であって、そこからして仏説ではないのです。

整理すると

まず、七仏通誡偈からも分かるように、お釈迦様は過去仏を認めています。
つまり、お釈迦様以外にも仏陀はいるのです。
そこを部派仏教は、仏陀になれるのはお釈迦様だけ。他は阿羅漢まで。とした。

146 :神も仏も名無しさん:2019/06/22(土) 07:21:22.96 ID:/mJ/Uqj1.net
大乗の教えは阿羅漢止まりではない。仏陀になれるんだ。と主張し、パーリ増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。
ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」つまり、自性清浄だが客塵煩悩によって汚れているとの仏説を根拠に、如来蔵が説かれるようになった。

もちろん大乗経典は釈迦入滅後、500年以上後に編まれた創作経典ですから、非仏説であることは間違いないんです。
外道のものもたくさん取り込んでいます。
しかし、非仏説ではあっても、非仏教ではないと

147 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 03:59:40.58 ID:LvHXA4+b.net
@ブッダの教えの深さは禅定によって深く知ることができると感じていますが、
大乗仏教・如来蔵思想を正確に理解しようとした時に
どうしてもインド哲学との共通性に引っ掛かるのです。

zysさんが
実際には日本の仏教は「梵我一如」になっていると言われたように
大日如来ってバイローチャナをブラフマン化させて宇宙の真理にして
また圧倒的な実在性まで与えて、我々衆生もその一部と悟るのが修行道と言われるまでになったわけですよね。
またブッダの二百年くらい前の哲人でブッダに影響を与えたヤージュニャヴァルキヤという人は
「この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。しかし一方では、
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。
したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であって、
アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないこと」を説いたのです。
これはアートマンを確かめるべきで語るべきでない、と説いたブッダの説法とあまり距離が離れていないようにも 思えるのです

148 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 04:18:35.16 ID:LvHXA4+b.net
A
ヤージュニャヴァルキヤの言ってることは間違っていません。
昔、バラモン教の一派が、アートマンを輪廻転生の主体ととらえたようです。
お釈迦さまは、それを否定するために「諸法無我」を唱えたようです。
ヤージュニャヴァルキヤの言うアートマンは、
お釈迦さまの言う「諸法無我」と全く同じものです。
アートマンは人の脳の認識を超えているため、「ある」とも言えません。
そのためお釈迦さまは、それを「諸法無我」と表現したのです。
それから、ブラフマンとアートマンは実際は同じものです。それが梵我一如ということです。
加えて、禅定だけでは悟りに到ることはできません。
まず、この世界は脳が反応しただけのものであることを、分からなければなりません。
脳が認識できる世界は、脳が認識できない世界の無限分の1でしかありません。
(脳は紫外線・赤外線を見ることができません。目の前の花の色が、
本当はどのような色をしているのか、人間にはわからないのです。
光線は無限に広がっています。私たちが見えるのは、その無限分の1にしか過ぎません。このことは五感すべてに言えることです。私たち人間は世界の本当の姿を知ることができないのです)
この脳が認識できない世界こそが、アートマンです。このアートマンこそが「本当の自分」です。それをわかることが悟りです。

その方法として、お釈迦さまはヴィパッサナー瞑想を説いています。他にも方法はあるかもしれませんし、
悟りは難しいものではありません。

149 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 04:25:09.52 ID:LvHXA4+b.net
Bヴィパッサナー瞑想は第3禅の四念処観に含まれると思います。
色界・無色界の8つの瞑想を超えてブッダが到達した涅槃寂静の境地こそ、仏教の核心
と感じますし、九次第定は経典結集前から生き続けていた正定です。八正道の実践によって正しい覚りに到れるよう努力して、修行を完成して行きたいと思ってます。

150 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 04:42:37.13 ID:LvHXA4+b.net
エックハルト・トールの本を読んで、毎日思考を止める訓練をしておりましたら、
ある時から景色がきれいに見えるようになりました。特に木々が3Dのように見えるのです。
こんなことはよくあることなのでしょうか。

エックハルト・トールの本を読みましたか。いろいろなスピリチュアルに関する本を読みましたが、この人の著書が最高のような気がします。皆さんの中で≪悟る≫ことができた人はいますでしょうか。
エックハルト・トールによると「さとり」妨げているものはエゴという「思考」である
。「思考」は過去と未来でできている。従って「悟り」にいたる道は「いまにある」ことによるしかない。
「いまにある」ことによって「大いなる存在」につながれば、この世の問題も問題でなくなる。
と言っていると理解しています。
思うに私たちの心には二つの心があります。どちらかが「本当の自分」であり、どちらかが「偽者の自分」です。
真我と小我というべきでしょうか。私たちの考え・思いは殆ど小我から来るものであり、
「思考」を止めたとき自然に真我に至る、そして「思考」は「いまにある」ことによってのみ止めることができると理解していいのでしょうか。
皆さんの中で本当に「さとる」ことができた人はいますでしょうか。

151 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 04:55:26.45 ID:LvHXA4+b.net
pinkroseyellowrose3さんは、思考を止める必要もないと言っておりますが、
エックハルト・トールの著書の中には幾度となく「思考を止める」という言葉が
出てきます。思うに「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」のp182には
「目に見えない世界」の入口のひとつとして「思考を止めること」をあげていますが、
しかし入口は他にもあると言っております。あなたの方法でもさとりがひらけるのかもしれませんね。


a)
いつのまにかなにかしら考えているでしょう?それを止めるのがいいと言っているのではないのです。
その思考について「いまにあれ」と言っているのです。
つまり 今過去への後悔という思考が流れているとしたらそれに気づいてじっと
その思考を「観察」しなさいと言っているのです。
「ああ、自分は今過去への後悔で悲しくなっているなあ」と
まるで他人の思考を見ているように客観的に眺めましょうということです。

イライラしてる時にそれに巻き込まれるのではなく
「ああ、自分はいまイライラしているなあ」と
客観的に思考を自分の体の外に取りだして見てみるような感じです。
そうするとイライラがどんどんなくなっていきます。過去への後悔、未来への不安がなくなっていきます。ただなくなっていくのがいいとまた勘違いしないでください。
そうやって喜ぶとまたエゴの罠にはまります。
そう思った時には「後悔、不安が減ってきてよかったと思っているなあ」と
その思考を眺めればいいのです。どこまでも「観察」です。

私のこの文章を読んであなたにも思考が流れるでしょう。
「偉そうだなあ」と思ったらその思考を眺めてください。
自分にとって必要な思考しか流れてきません。
ですからあなたに流れてくる思考を大切に観察することです。
ぼんやり思考に巻き込まれて客観的に見れない状態が普通の人です。自分の思考に気付いて眺めることが「いまにいきる」人です。呼吸に集中するのを勧めているのは思考をとめるためではなく、思考に気付くためです。思考に気付くことが難しいからです。

152 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 04:59:39.41 ID:LvHXA4+b.net
悟った人はいっぱいいると思います。
―どの段階の”悟り”かという話もありますが―

pinkroseyellowrose3さんのおっしゃるように
観察を続けることがよろしいかと思います。

思考の流れをただ眺めるためには集中力が
必要なので呼吸に意識を集中することで
呼吸を碇にして「今の感覚」に意識を置いておく方法があります。
―アーナパーナサティと言います。―

もう一つの方法は
思考が起こる基底にある沈黙
音が起こる基底にある沈黙
に意識を集中して思考が起こるままに任せる方法もあります。

観察を続けることによって、観察者/気付/意識が自己となり、
自我―思考―との同一化がなくなります。
後は自然と意識は拡大します。

思考と自我はただ流れるプログラムとなります。

そうなればその観察者との同一化をやめることです。
そうすれば意識と氣付きが自己と一体となり、
対象者と観察者は一つになります。

153 :神も仏も名無しさん:2019/06/24(月) 06:20:34.98 ID:LvHXA4+b.net
エックハルト・トール著「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」33ページには
「思考を客観的に眺めていると、その行為をしている『ほんとうの自分』の存在に気づきます」とあります。

「眺めているものが本当の自分である」

「眺めているもの」を意識してみましょう。

やがて、「眺めているもの」にアイデンティティーの転換が起きるのです。それが悟りです。その時、「本当の自分」は時間も形もない存在であることを知るのです。身体的感覚としては「自分はいない」と言う感覚です。お釈迦さまの言う「諸法無我」です。

154 :神も仏も名無しさん:2019/06/25(火) 00:13:41.25 ID:9p+HHMLl.net
縁起説とは何か

此れが有るから彼が有る、此れが起こるから彼が起こる。
【此有故彼有。此起故彼起】(「しうこひう、しきこひき」)
如是我聞。一時佛住拘留搜調牛聚落。時有異比丘。來詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。謂縁起法。爲世尊作。爲餘人作耶。
佛告比丘。縁起法者。非我所作。亦非餘人作。然彼如來出世及未出世。法界常住。彼如來自覺此法。成等正覺。爲諸衆生。分別演説開發顯示。所謂

【此有故彼有。此起故彼起】。

謂縁無明行。乃至純大苦聚集。無明滅故行滅。乃至純大苦聚滅。佛説此經已。時彼比丘。聞佛所説。歡喜奉行
『雜阿含經』 (No. 0099 求那跋陀羅譯 )

縁=(苦の)原因。起=生起する。直訳すると、縁起=(苦の)原因があるから(苦が)生起する。仏教は苦をなくすことが重要だから、縁という言葉も重要視される。
縁の例:行(形成力と訳される 諸行無常の行)、識(認識)、食、愛、喜、憤怒など。例:愛から憂いが生じ、愛から恐怖が生じる。愛から解放された者に憂いや恐怖はない。
要は、肉体や精神が制御できていない(縁をしらない)から、安らかになれない=因縁の空なるを知らぬから解脱(識の目覚め)に至れない
本来は自分自身の苦に関する原因と結果の話

http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm スッタニパータ731〜参照。

下半分は、浄土真宗本願寺派所属の善行寺(富山県射水市)在住の十川仁史氏の説を参考

155 :神も仏も名無しさん:2019/06/26(水) 00:47:59.03 ID:Pq2lrw2S.net
智の見解では、この経典は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
【「華厳経如来性起品」を参照(『大乗仏典12 如来蔵系経典』に収録。高崎直道訳注、中央公論社のち中公文庫)】
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。

156 :神も仏も名無しさん:2019/06/26(水) 00:52:36.29 ID:Pq2lrw2S.net
華厳教学の存在観。究極的な縁起のあり方。すべての個々の事物・事象の中に一切が含まれるという形で、あらゆる存在が互いに関連し合って生起していること。
諸事象の真実の姿を真如といい,その本性にそなわっている起の性質,すなわち動きという性能が外界に顕現した結果を縁起という。
森羅万象がその根本の真実の姿に関係して,一即多となっているのが法界であり,それらが相即相入していることを説くのが法界縁起である。
真如がまさっている場合を浄縁起といい,無明がまさっている場合を染縁起という。



ゆいしん‐えんぎ【唯心縁起】
仏語。一切の諸法は一心の縁起によって顕現したものであるということ。

157 :神も仏も名無しさん:2019/06/26(水) 05:47:02.61 ID:Pq2lrw2S.net
大日如来が備え持つ五つの智慧が、そのまま五仏に配当されること。
前五識、意識の奥にある無意識
末那識(まなしき。我に執着する心。分別する意識を生む。)
阿頼耶識(あらやしき。現実に起きることを生み出す心。)
阿摩羅識(あまらしき。無垢清浄な心。

仏性・如来を蔵する真識が仏と成る性質
前五識と末那識は妄分別の素因となる煩悩や自我などの幻想を生み出し、そのせいで心に曇りが生じ、阿摩羅識・真如を覚知できないでいたが、
、「転識得智」によって仏智が生じ、真我の正体を悟る(魂が真実に目覚める)に至る

阿頼耶識 ⇒大円鏡智(だいえんきょうち)
すべてのものを鏡のようにありのままに映す智恵
五智如来:阿?如来(あしゅくにょらい)

末那識  ⇒平等性智(びょうどうしょうち)
すべてのものが平等であることを知る智恵
五智如来:宝生如来(ほうしょうにょらい)


阿摩羅識 ⇒法界体性智(ほっかいたいしょうち)
物事の本質を明らかにする絶対的な智恵
五智如来:大日如来(だいにちにょらい)

意識   ⇒妙観察智(みょうかんざつち)
すべてのものを正しく認識する智恵
五智如来:阿弥陀如来(あみだにょらい)

前五識  ⇒ 成所作智(じょうそさち)
すべてのものを完成させる智恵
五智如来:不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

158 :神も仏も名無しさん:2019/06/28(金) 22:52:08.01 ID:sm8HVtOb.net
\ ハーゲ♪ ハーゲ♪ /
     ,,,-,,,    ,, - ,,
   (( ミ   ミ   ミ  ,ミ ))
    (( `∩彡⌒ミ∩" ))
     ` (´・ω・`)´
       Yー--Y
      く/_リ___ゝ
.       し' レ'
        !i
       ((  ))

159 :神も仏も名無しさん:2019/06/30(日) 07:20:39.33 ID:/nFc53ln.net
五蘊無我相の修習から始めて完全無我認識(主客平等の境地)に達し、涅槃寂静を知解する、ということでしょうか。
梵我一如への執着さえ越え、体でさとった解脱と、他をもさとりに導く仏道は、ブラフマンの奥から続く心境に支えられた教えといえますね。

160 :神も仏も名無しさん:2019/07/02(火) 00:59:25.91 ID:h5rB+hBZ.net
菩提心論
龍樹の著として伝えられる書。1巻。正式には『金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論』といい,『発菩提心論』ともいう。
不空の訳とされているが疑問がある。発菩提心を密教的に基礎づけ,心を統一すること (禅定) による即身成仏を説く。
真言宗では行者必須の論書とされる。

161 :神も仏も名無しさん:2019/07/04(木) 00:31:55.31 ID:R7INfC59.net
無為
心、心所、不相応の四法の実性。現象の本質(真如)。

無為 (仏教)
仏教における無為(むい)とは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅の存在のこと。
逆に、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を有為(うい)とよぶ。また、涅槃のことを無為ということもある。

説一切有部における無為法(虚空・択滅・非択滅)
・虚空(こくう) - 物(色)の存在する場所としての空間。
・択滅(ちゃくめつ) - 涅槃のこと。無漏の(正しい)智慧によって個々の煩悩の拘束から離れる時に得られる滅。
「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと。

真如
自性清浄心(本来の心の清らかな状態)、諸法の真実の姿。普遍的な真理、あるがまま究極の在りよう、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性

162 :神も仏も名無しさん:2019/07/06(土) 05:56:24.94 ID:3GJ/Btn1.net
「大日如来(梵:マハーヴァイローチャナ)」は大乗仏教(密教)の尊格。
真言宗の本尊。
大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。
我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。
古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏*1と呼ばれる。
このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。
華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された(毘)盧遮那仏(奈良の大仏として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、
大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。

163 :神も仏も名無しさん:2019/07/06(土) 17:36:51.33 ID:3GJ/Btn1.net
釈迦はケーヴァッダに「識を越える時、色界も消えて欲界も消える」と説き
内側に外界があり、外界に内側など無いことを説いたといいます。
諸法無我の唯識的解釈ですが → 諸法の中に我は無く、「我の中心であるアーラヤ識が諸法を生んでいる」という解釈にもなり得ますか?
また諸法を生むアーラヤ識のさらに奥に潜む阿摩羅識とは、ヤージュニャヴァルキヤが「この世界はすべてアートマンにほかならない」と表現した梵我一如の状態(成仏した
からには法界体性智と呼ぶべきでしょうか)、ブッダの「唯一にして絶対のものアートマンすなわち真我」と同一と見て良いものでしょうか?

一切の諸法は一心の縁起によって顕現したものである

諸法を生む阿頼耶識とは五蘊の中の諸法を生むだけで
梵と我は生み出せません。
もっというと梵が阿頼耶識を生み出します。

大乗の言う無我は五蘊の中に梵も我もない無我です。
小乗はこの我を悟ると阿羅漢と呼びます。

梵と我の合一したもの(梵我一如)をブッダは真我と呼んでいます。

テーラワーダのプッタタート比丘は、(恐らくヤージュニャヴァルキヤの言う)アートマンを仏教のニルヴァーナと同じだと述べています。涅槃は常在だから
「汝それなり」ソレが見えないだけで梵我一如は、現在の状態

古代インド思想と大乗仏教(華厳・密教)との関係

梵我一如とは、一時的な変性意識状態
或いは日常的心理から解脱した永続的な「悟った心」の状態への変化を表す言葉と解釈する事が可能か

>梵我一如っていう意味は梵と我は一つのものっていう意味です。
ドアがあると入り口と出口を便宜上分けているのと同じことです。
アートマンがありそれを便宜上梵と我に分けているだけです。

梵と我は一つのもの

164 :神も仏も名無しさん:2019/07/06(土) 18:18:36.96 ID:3GJ/Btn1.net
三昧の二番目の意味は、「心境一如・物我不二」であります。心境の「心」とは、自己・主体であり、「境」とは、自己以外のもの・客体を指すもので、主観と客観が一枚になることであります。

心境一如とは、万物と我(自己)が一体という意味です。 物我不二とは、これを言い換えたものですが、万物と我(自己)が別々ではなく、不二であるという意味です。これが、釈迦牟尼が悟りを開かれた境地であり、仏教(宗教)が誕生した根源になります。

165 :神も仏も名無しさん:2019/07/08(月) 06:39:34.19 ID:3Ehv4jcO.net
カルトのように「近寄れども見え難し」のようなことが
出家仏教の場合でもあるということですかね。
いや、カルトは、傍で見ても遠くからでも醜いです。
深秘釈は無機質な世界と表現した方がいましたが
灯台もと暗しとかはあっても、本当の仏教は適度な距離を置いて眺めたほうが
素晴らしいということですかね?
富士山の写真も、ある程度離れた地点で撮影したほうが
ロマンを感じさせる作品が撮れるというようなことでしょうか。
さとり涅槃の楽を知解するには、末法の世では、プロに近付かぬことも大事とか・・・

166 :神も仏も名無しさん:2019/07/08(月) 13:39:23.89 ID:3Ehv4jcO.net
釈尊は悟りを開き真理を知ると輪廻の輪から解脱すると説かれました。解りやすく言うと死後の世界も輪廻転生もありませんということです。

般若心経に「色即是空 空即是色」と説かれるのは「肉体は実体ではなく、実体のないものを肉体であるかのように見ているに過ぎない」という意味です。

私が生きているのではなく、今この瞬間の宇宙が生きているのです。今この瞬間の宇宙が生きているだけと本当に感じられた時、その命こそが仏の命です。

167 :神も仏も名無しさん:2019/07/10(水) 01:07:12.16 ID:zbs77PV0.net
原始仏典「ダンマパダ(DP)」153〜154 ブッダが悟った時の歓喜(よろこび)の詩

「私は、幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
ー「自分」という家屋の作り手を探し求めてー。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
だが家の作り手よ、お前の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした」

168 :神も仏も名無しさん:2019/07/12(金) 01:05:37.11 ID:JZ4WhLRu.net
ブッダはアーナンダに対し次のように言う(マハー・パリニッバーナ経)、
「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。
「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」
とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」
とか「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とか思うところがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。」

169 :神も仏も名無しさん:2019/07/12(金) 06:08:54.31 ID:JZ4WhLRu.net
五蘊無我 諸法無我
行即是空 法界体性智

第五住心=抜業因種心−おのれの無知を除く
 一切は因縁よりなることを体得して無知をとりのぞく。このようにして迷いの世界を除いて、ただひとり、さとりの世界を得る。
第六住心=他縁大乗心−人びとの苦悩を救う
 一切衆生に対して計らいなき愛の心を起すことによって、大いなる慈愛がはじめて生ずる。すべての物を幻影と観じて、ただ心のはたらきのみが実存であるとする。
第七住心=覚心不生心−一切は空である
 あらゆる現象の実在を否定することによって、実在に対する迷妄を断ち切り、ひたすら空を観ずれば、心は静まって何らの相なく安楽である。
第八住心=一道無為心−すべてが真実である
 現象はわけへだてなく清浄であって、認識における主観も客観もともに合一している。そのような心の本性を知るものを称して、仏(大日如来)というのである。
第九住心=極無自性心−対立を超える
 水にはそれ自体の定まった性はない。風にあって波が立つだけである。さとりの世界はこの段階が究極ではないという戒めによって、さらに進む。
第十住心=秘密荘厳心−無限の展開
 密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は庫の扉を開く。そこで庫の中の宝はたちまちに現われて、あらゆる価値が実現されるのである。

170 :神も仏も名無しさん:2019/07/14(日) 06:47:56.98 ID:G4hoBl3V.net
ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 1〜16 通読
https://www.youtube.com/watch?v=R884Fvj_Cgs

171 :神も仏も名無しさん:2019/07/14(日) 07:58:19.15 ID:G4hoBl3V.net
ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読
https://www.youtube.com/watch?v=cQ0Wp_yT3hQ

172 :神も仏も名無しさん:2019/07/17(水) 04:10:04.79 ID:g/JTgfFd.net
ブッダの言葉・スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章 1〜18 通読
https://www.youtube.com/watch?v=VyUuiYoS6Fc

173 :神も仏も名無しさん:2019/07/17(水) 18:37:54.40 ID:g/JTgfFd.net
わが解脱は達成された。
これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。
聖求経

174 :神も仏も名無しさん:2019/07/19(金) 06:19:57.20 ID:vFky8uWf.net

https://www.youtube.com/watch?v=nMLJKTKbDWU

175 :神も仏も名無しさん:2019/07/19(金) 07:16:44.04 ID:vFky8uWf.net
悟りに至る最後の扉 悟りの最終段階での注意事項と助言 デヴィッド・ホーキンズ博士のレクチャー
https://www.youtube.com/watch?v=A8IEdVLUOpQ

176 :神も仏も名無しさん:2019/07/20(土) 03:54:12.67 ID:e6h8zn1k.net
初禅の境地
まず、欲界から離れること(衆生を「欲界」へと縛り付ける束縛である煩悩・五下分結を断つ事)と思いますが、どのように初禅を始めておられますか?
ブッダが出家前に太子であった頃、野に遊戯中、樹下にての瞑想時に初禅を得ていたと柔軟経に説かれ、
またこの経に対応するパーリ経典では、幼時の釈尊は、この禅なる境地において
「これこそ解脱に至る道であろう」と思惟したとあります。それがブッダガヤの菩提樹下での成道に至る因と
考える人もいますし、最初が肝腎です。五蓋の除去・五禅支の生成に先立ち、まず欲界からの離に向かう熱望が大事と思いますが、
既に煩悩が薄くなっている人や幸福な状態にある人やマンネリ状態の方が解脱への志を持つためには、どのように導きますか?
覚(尋)・観(伺)・喜・楽・一境性について、各宗派によって、このように生成し、一境性単独状態の三昧(第四禅)に入るのがベストという
秘伝や・・・

177 :神も仏も名無しさん:2019/07/20(土) 07:50:36.11 ID:e6h8zn1k.net
初禅で思索し抜く姿勢も重要で観行がすすみ、
普段の生活においても常に継続するようになり、
日常においては一境性というレヴェルの集中までは行かないにしても
八正道を実践しようと努力するようになります。
考えてみますと、九次第定の中には、初禅の正思惟や
第三禅の正念・正見が含まれ、それらの実践によって道諦の実践
の基礎が築かれる気もします。どのような宗教を歩むにせよ
八正道の実践への熱望が根底にあることは重要と思います。

第四禅で一切の受を捨てることで歯の痛みが消えたり、
無色界の最後まで修めて滅尽定にチャレンジすることで不眠症が改善する等は確かにありました。
誰でも最初は難しくても無想の状態には入れる筈で、それだけでも良い影響がある気はするのです。
というか、続けるうちに涅槃を垣間見られる段階に入り、涅槃寂静とはこんなに素晴らしいものかと感じる経験をするようになるのでは、と思います。

初禅にての菩提心・慈悲の瞑想、第三禅の四念処観、識無辺処定での時間超越、想受滅=滅尽定に至る無余依涅槃・寂滅寂静世界の観想
全て大事です

第二禅 覚・観の止 内清浄
第三禅 正念(四念処観)・正見 上座部仏教では、お釈迦さまはヴィパッサナー瞑想によって悟りを開いたと言われています。
第四禅 楽の止 一切の受が捨てられた不苦不楽

空無辺処定 欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れた、一切の作為の無い無辺の空を観じる
識無辺処定 識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺である理を悟る
無所有処定 なにものも真実在ではない、
無限の過去から作られたものは誤っていて、実体であるものはない、なにものも我体は無く私のものではない、「自分」さえ幻想である
ことを観察する
非想非非想処定 止と微細な想念による観 想いがあるのでもないし思いがないのでもない精神統一 涅槃寂静の観想
有頂天にもとづき、心と心所法を止滅する、無余依涅槃界の静けさになぞらえて修する 
滅尽定 完全なる止 すべての想いが滅し、一々の感受を滅し、想の無い心の統一に入ってとどまる あらゆる迷いの存在が滅尽する、無色界を超えた定

178 :神も仏も名無しさん:2019/07/21(日) 08:37:01.06 ID:mxhQfZVB.net
「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って、・・・乾いた陸地にのり上げた船の舵(かじ)や艪(ろ)のように、全く役に立たぬものである。

さとりに至る道・・・戒めと、精神統一と、智慧とを修めて、わたしは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされたのだ。」

179 :神も仏も名無しさん:2019/07/21(日) 13:43:35.57 ID:mxhQfZVB.net
 ある修行僧が草も木も成仏するという話を聞いて、尊敬する学僧に、自分で考えたり修行したりすることのない草や木がどうして成仏するのでしょうかと尋ねた。
 そのとき、学僧は、あなたは草木成仏のことを尋ねられたが、それではあなた自身の成仏のことはもうおわかりかな、と逆に質問してきた。
 修行僧は、はっと気づくところあって、「恐れ入りました。よくわかりました」と御礼を述べて引きさがったという。
 学僧の言ったことが、どうして草木成仏の答えになっているかというと、何も草や木が功徳を積んで仏になるのではなく、草や木を見る人間が仏になるとき、草や木もいっしょに仏になるのであると教えたわけである。
 わたしどもは自身が仏になったとき、天地も山も川も、草木もすべてがまた仏になると知る

自他一如、内外一如

山川草木悉皆成仏
http://www.jtvan.co.jp/howa/Hasegawa/houwa026.html

180 :神も仏も名無しさん:2019/07/21(日) 14:15:08.27 ID:mxhQfZVB.net
無所有処とはどのような世界でしょうか?
意識が目覚めている人がどの位いるのか知りたい、
目覚めていない人が多いなら目覚めてないことに気づくのが大事と
考える人も結構いるでしょうか? カルトなんかやらされると、逆に強烈麻酔かけられて意識が眠らされてしまいます

181 :神も仏も名無しさん:2019/07/21(日) 15:27:29.14 ID:mxhQfZVB.net
微細な意識だけ残るのは非想非非想処で、その前の段階では、究極の無我に向かう境地といいますか、
まだ意識はあるけれども何ものも自分のものでない、何も真実には存在せぬ事を観察する世界と思うのです。
ただもう既に主客未分・無分別・平等大智の理をさとる段階に達して来ているというか・・・

樹は飽きませんし、樹にとっての時間はあっという間なのでしょう。我々のほうこそ、時をゆっくり感じ過ぎる存在なのかも。
山川草木悉皆成仏といいますが、全て心なのですね。
無所有処の境地に至る精神統一も、ブッダが出家して最初に師事した仙人から学んだ定とされますが、
五蘊無我・諸法非我から微細な意識による止観の精神統一法を経て、完全に想念も感受も煩悩も滅し尽くした涅槃寂静の境地に至る初門、最初のステップとも言え、、
無色界に入る前に、既に受は捨てられている、次に想を捨てるために、空と識の無辺性を観想して
何ものも私、私のものと執着しない、完全な無執着の境地を体得した(して行く)世界なのかな、と思うのです

182 :神も仏も名無しさん:2019/07/24(水) 00:19:35.17 ID:1pz+B9p6.net
インド古代思想では、色界の実在原理、無色界の実在原理ありとする。
一方、中観派・帰謬論証派は一切の実体性を否定した。

四禅という言葉は、禅定の段階に応じて色界を四分割した四禅天の略称でもあり、
物質的領域から離れた無色界では色蘊がなく、
この段階に至った修行者は、触覚、視覚、物質的な構成要素において、微細なものからも完全に離れる修行をする。
有頂天は無色界の第四番目で、非想非非想処(想が非ず非想にも非ずの領域で微細な意識だけが残る世界)、非有想非無想処とも呼ばれる。

三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。

三界は客舎の如し 一心はこれ本居なり

183 :神も仏も名無しさん:2019/07/24(水) 07:20:09.59 ID:1pz+B9p6.net
梵と我を対立概念としてとらえるから、誤解が起きる。
我がなければ梵に意味はない。
意味はない、というのは「存在しない」という意味ではなく、「空性」の問題となるのです。

光と闇を対立概念でとらえるようなものです。
闇は光に依存していますが、光は闇に依存しているわけではありません。
つまり、光は単独で存在できるのです。
このとき、仮に光を遮る障碍を排除したとすれば、世界は光で満ち溢れます。
光しかないのなら、光は意味を持ちません。

外と内とを遮る「我執」という障碍を排除すれば、外も内もない。
外側、内側という「分別」に意味はないのです。
ここから演繹されるのが「自他不二」です。
密教の面白い点は、その「自他不二」を疑似体験させるシステムにあるのです。

これは私自身が体験していることです。
そして途中で帰ってきた。
その時私は、確かに「一切智者」であり「一切者」だった。
そしてあっという間に元の自分に戻った。

一切種智の境地に至ることができる。

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