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いかに九次第定を極めるか

183 :神も仏も名無しさん:2019/07/24(水) 07:20:09.59 ID:1pz+B9p6.net
梵と我を対立概念としてとらえるから、誤解が起きる。
我がなければ梵に意味はない。
意味はない、というのは「存在しない」という意味ではなく、「空性」の問題となるのです。

光と闇を対立概念でとらえるようなものです。
闇は光に依存していますが、光は闇に依存しているわけではありません。
つまり、光は単独で存在できるのです。
このとき、仮に光を遮る障碍を排除したとすれば、世界は光で満ち溢れます。
光しかないのなら、光は意味を持ちません。

外と内とを遮る「我執」という障碍を排除すれば、外も内もない。
外側、内側という「分別」に意味はないのです。
ここから演繹されるのが「自他不二」です。
密教の面白い点は、その「自他不二」を疑似体験させるシステムにあるのです。

これは私自身が体験していることです。
そして途中で帰ってきた。
その時私は、確かに「一切智者」であり「一切者」だった。
そしてあっという間に元の自分に戻った。

一切種智の境地に至ることができる。

184 :神も仏も名無しさん:2019/07/26(金) 06:11:39.73 ID:ah8qMwAM.net
諸法実相

現在残されている仏典の中から択法覚支をもって正しい法を選び、自分の段階に合った説法を修行の指針に据えて行くこともよいことではないかなと思います、ただし決して執着したり崇拝すべき対象ではない

185 :神も仏も名無しさん:2019/07/28(日) 01:48:38.53 ID:yO+9UhkV.net
仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るならば、即ち如来を見ることになる。

186 :神も仏も名無しさん:2019/07/28(日) 04:44:26.75 ID:dIdZQzxl.net
http://i.imgur.com/K382PXN.jpg

187 :神も仏も名無しさん:2019/07/28(日) 15:07:14.31 ID:yO+9UhkV.net
五蘊に我は無いと捉えても五蘊は我に非ずと捉えても
真我を否定してはいないということですね。
無我の二文字だけ独り歩きしても意味を為さないというか。
あとマハルシの言うパンチャ・コーシャ =
真我を覆い隠す五つの身体の鞘
とは、五蘊と同じものを指しているのですね?
とすると、五蘊非我とは、真我を覚るための方法論で
ゴータマブッダもマハルシも同じことを示していたと解釈
できますね。

188 :神も仏も名無しさん:2019/07/30(火) 07:19:28.52 ID:CfG4m5CN.net
五蘊は五身体で構成されてはいる。

例えば五蘊の識は身体でいうと意思鞘と理智鞘の複合体意識になります。
それが阿頼耶識でありサーンキヤ哲学の大・覚の複合体意識になります。
五身体の概念です

https://www.ayurvedalife.jp/column_201305_003.aspx

ゴータマブッダもマハルシも同等ですが厳密に言えばマハルシの方が高いところまで到達しています。

少し説明すると
梵我一如は真我ですがその上にもうひとつ梵我の概念があります。
プルシャとプラクリティーのもう一段階上の梵我の概念です。
マハルシはその我の概念で話をしています。
ウパニシャッドの哲人ヤージニャヴァルキヤもこの我の話が出てきます。
この我を簡単に書くと
私は私であって私でなく宇宙である。
五蘊越えるとこんな言葉にしかならないんですよ。
〜ではないとしか言えないんです。
言葉にならないのでマハルシは聖典を捨てるときが来るって感じのことを言ってます。

189 :神も仏も名無しさん:2019/07/30(火) 13:39:42.06 .net
仏陀が語ってるのは五蘊超えた世界だ

190 :神も仏も名無しさん:2019/07/30(火) 18:43:30.68 ID:CfG4m5CN.net
ブッダは真我を否定も肯定もせず、
ただ語るべきでなく、確かめるべき事とだけ説いたのです。
また「アートマン」をほのめかす表現はいたるところに見られますが、
五蘊非我は重要な方法論なので、決してアートマンに執着すべきではないというのも
確かです。それとこれは仏教だけの話ではなく、政治的イデオロギーの主張の仕合を
したいわけでもなく、比較宗教学の問題なので、初歩的日本語の勉強や仏教入門のレヴェルの設問ではありません。

191 :神も仏も名無しさん:2019/07/30(火) 18:50:01.60 ID:CfG4m5CN.net
>>189
その五蘊を越えてる「我」をインド古代思想ではプルシャと呼び、
プラクリティの仮の現われである五蘊を幻想と見る点でも両者は同じというお話

五蘊に我は無い
五蘊は我に非ず

五蘊無我の我とは、単なる(エゴとか執着意識とかの)自我という意味ではなく、真如=真我という意味と捉えるべきですか?
たとえばダライラマが転生していく時の転生仏の魂そのものを「我」、真我と捉えるべきで
五蘊とは別個の真我ありとするならサーンキヤ学派の解脱観とそう開きはないように思えてくるのですがどうでしょうか?
塵を払う段階にいる者に対してひとまず無我を説くのはよいとして、究極に到ろうとすると、その先に見えて来る世界があり、
それが見えない人にとっては、無いという結論になるに過ぎないといった話でしょうか?
プラクリティを実在原理という時の実在という日本語にとらわれているだけで、
有部以前の(無実体という思想に過剰に拘泥せぬ観点からすれば)実は
サーンキヤ学派における解脱と阿羅漢(唯蘊無我心)段階の覚りは同等なものだったのですか? 或いはさらに抜業因種心以上の
心的段階の概念も仏教以前に既にあったということでしょうか?

192 :神も仏も名無しさん:2019/07/30(火) 19:04:37.47 .net
>>191
私は阿羅漢ではないのでそれを実体験として語る資格があると思わない
知識としてのみ知っていることを語るべきではないだろう

193 :神も仏も名無しさん:2019/08/01(木) 01:56:08.13 ID:bmjJU4xs.net
真我を否定してないなら何も問題ないですね。
何が問題なんだろ? 無我という外来語の解釈、使い方?
我=プルシャ(梵我一如)の上の唯一にして絶対のものアートマン=真我、と見て
五蘊無我=五蘊に我は無い 五蘊皆空=五蘊は幻想 マハルシの言ってることもほぼ同じ
無我か非我かは漢訳時の翻訳上の問題で、あくまでも、その「我」とは真我の事で、、
我は我であって我で無く宇宙である。

194 :神も仏も名無しさん:2019/08/01(木) 07:06:36.75 ID:bmjJU4xs.net
ヒンドゥー教(バラモン教)混入は仏教衰退期と
重なります。
ですから大黒天や吉祥天などのヒンドゥーの神々も
取り入れたのでしょう。
護摩はもともとヴェーダ聖典に出ているバラモン教の
宗教儀礼であるホーマです。

『バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると
考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る』

(サンユッタ・ニカーヤ)

195 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 08:27:57.78 ID:lh49O7DT.net
欲界・色界は幻想(五蘊皆空)と覚って、本来、真我・涅槃・宇宙を意味する「我」こそ真実である(真如、外に非ず)と本当に
気付くことが五蘊非我だったのでしょうか?

非我か無我かは漢訳時の翻訳上の問題と考えられます。
一口に仏教と言っても、長い歴史があり、様々な立場や解釈があります。

インド思想では
自我意識は本当は無いこの世界を在ると認識する意識で、それが我執とされた。

我執、五蘊を全て空と照見して
輪廻の苦しみから解脱する、というのがブッダの教えの根本

196 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 08:46:09.86 ID:lh49O7DT.net
パーリ語経典増支部の「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」

197 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 12:52:16.21 ID:lh49O7DT.net
無明に覆われて凡夫は、諸の作り出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その無明があるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起きるのである。
この無明が消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。41偈

198 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 13:17:18.98 ID:lh49O7DT.net
此縁性(此れがあれば彼があり、此れが無ければ彼がない)の観点から、苦である個人存在の再生は、例えば、感受があれば想が発生し、その先の行が発生するなどして再生が連鎖してしまう。
なので、感受が発生したら、想の時点で滅してしまう。そうすれば再生の連鎖を断ち切ることができる。

それがニルヴァーナの覚知であり、なにも完全解脱した先だけにニルヴァーナという世界が広がっているわけではないということ

禅で言うところの「無念無想」や「思いの手放し」であったり、山下師が提唱する「青空」の概念も??

大乗の空は、ブッダの説く空とはまったく異なります。縁起=空じゃない.
あくまでも縁起の一側面であり、空の体得がニルヴァーナではない、ということ.

それが大乗に至って、涅槃=空と理論体系化され、それが止観の瞑想法として編成され、それをネタ元として、中国天台の智が『小止観』にまとめ、それをネタ本として『坐禅儀』が出来、その坐禅儀が禅宗のお手本となっている.

禅宗の悟り≠フ核心は、空の悟りであってブッダの説くニルヴァーナではない.

199 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 13:21:48.68 ID:lh49O7DT.net
すべてを捨てて出家されるのでない限り、基本は、ブッダとの縁≠ノよって未来世に渡って必ず涅槃に至るということ

200 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 13:26:58.52 ID:lh49O7DT.net
無為とは、作られないもののことです。有為とは、因縁和合に依って仮に作られているこの世界の事象のことをいいますが、それに対して無為とは、因縁がなく存在するもののことです。因縁によらずにありますから変化せず常住します。
無為とは、涅槃の別名

201 :神も仏も名無しさん:2019/08/03(土) 13:30:17.30 ID:lh49O7DT.net
観るものと観られる対象、認識する者と認識されるもの、というのは因縁です。
私が心を観るとき、観ている私と観られている心という因縁があります。
このような主客を超えて、直観的にありのままをとらえることによってしか無為の境地には入れません。


無我とは自他分別を超えて、自他無分別の境地に入ること

ニッバーナを体験している時は自他無分別である

合掌

202 :神も仏も名無しさん:2019/08/05(月) 04:52:06.04 ID:jlXgIrC+.net
初禅(五禅支の生成)正思惟、正智(出世間上上智を観じる)
第二禅(喜・楽・一境性)止 内清浄
第三禅(楽・一境性)正念(四念処観)、正見
第四禅(一境性単独状態)止(一切の受を捨てる)不苦不楽
空無辺処定 空の無辺性の観想
識無辺処定 識の無辺性の観想
無所有処定 止 何ものも私・私のものと執着しない、何ものも真実には存在せずと観じる瞑想
非想非非想処定 微細な意識による止観 無余依涅槃界の観想
滅尽定   止 相の無い心の統一 涅槃寂静

203 :神も仏も名無しさん:2019/08/07(水) 05:21:13.90 ID:GMTCPk2r.net
家にいようと森にいようと、心こそが克服されるべきもの
それが森の中でできるのなら、どうして家の中でできないことがあるだろうか?

ニルヴィカルパ サマーディ(無分別三昧)は、真我(真実在・涅槃・無為・宇宙我)の中に溶けこみ、世界に気づかないまま留まる
原初の、純粋な、自然状態の中に努力も要さず留まっている状態がサハジャ ニルヴィカルパ サマーディ(ラマナマハルシが留まっていた状態とされる)
密教的に言うと
法界体性智(宇宙我)に溶けこみ、世界に気づかない(五蘊が現われない)まま止まる

204 :神も仏も名無しさん:2019/08/09(金) 06:47:24.37 ID:75qzqpPx.net
仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない
仏像があると思って(その物自体を)仏と思っては誤りである

いかなる相も虚妄であり
認識できるものは幻想であり(いかなる「個としての枠組み」も、思考分別が作り出した幻想で)

諸々の相は相に非ずと見るなら
認識できるものは真の実在ではないと見るなら

即ち如来を見ることになる
即ち空の智慧を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事となる

205 :神も仏も名無しさん:2019/08/11(日) 00:16:40.42 .net
パオ・セヤドー
 正しいサマーディ・「正定」とは何かというと、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、これを正しいサマーディと呼びます。
http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-c074.html

206 :神も仏も名無しさん:2019/08/11(日) 13:54:32.86 ID:fEh5ZGr2.net
九次第定
自身の内界を如実に捉える方法
悟りは「色蘊を空じた」ということであり、受想行識すべてを空じることですべての修行過程が終わる(悟了同未悟)
煩悩を断滅し尽くす
九次第定で、色界の四禅から無色界の四禅へと入られ、「言語」「感受」「表象」「想念」を滅した禅定に入られた。
「滅想受定」が「滅尽定」、つまり「涅槃(ニルヴァーナ)寂静」涅槃寂滅

悟りに段階があることは臨済禅の公案の示すところです。悟りは一つではありません。
何と一如になるにせよ、一度悟っただけでは「一枚悟り」というところであります。悟後の修行が重要であることは宗派を問うところですらありません。

九次第定は三昧の段階を示したものであり、だれだって通過する境地である。
悟りなんて簡単なものです。肇(じょう)法師の「聖人に己無し 己ならざるところ無し 天地同根 万物一体」という言葉が分かればいいのです。
坐禅はこの悟りを実際に行うことなのです。道元禅師は「証上の修」「修証一如」とか言われています。

207 :神も仏も名無しさん:2019/08/13(火) 07:54:49.43 ID:pTB8ke3/.net
ニルヴァーナという心的状態は常に再生を滅している過渡的な状態
ニルヴァーナとは滅する心の働き・滅している心の動的状態(静止している状態は四禅。だから釈尊も滅度される最終段階の心の状態は第四禅でした)
ニルヴァーナは覚知できる。それを解脱した心を解脱した心だと知る「解脱知見」という。
重要なことは、ニルヴァーナは対象となる心ごとに体験されるもので、それこそ即座に、目の当たりに体験されるもの。
個別に発生する心に関しては、誰でも四聖諦の真理を覚って正しく心を扱えば、いつでも体験出来る。
そのように初期経典でブッダや仏弟子も言葉を残しています。

208 :神も仏も名無しさん:2019/08/15(木) 07:35:49.76 ID:l5/KMRh3.net
空空寂寂 → 四聖諦(道諦の実践によって縁起を覚り) → 世間法即涅槃(菩薩として生きる境涯を体得)、生死即涅槃

209 :神も仏も名無しさん:2019/08/19(月) 04:09:34.23 ID:3azu99Ty.net
大乗は自他の不二を、釈尊は一切の無常を主体に説く。
大乗は無分別智を、釈尊は煩悩の断滅を主体に説いた。

210 :神も仏も名無しさん:2019/08/21(水) 01:54:28.27 ID:DnuzGZ+3.net
ブッダガヤの菩提樹下で瞑想をしていると、明けの明星がきらめく頃、明星の光が目に入った瞬間に明星が自分だという体験をなされ、
真我独存を覚った。この世界の全てが自分の心であり、肉体を持った人間は存在しないと証悟した。

211 :神も仏も名無しさん:2019/08/22(木) 05:47:39.20 ID:MFtacLyy.net
釈迦が菩提樹の下で悟りを得た。という内容に関して
悟りを得る事になった経緯
@瞑想、禅定を続け肉体業をいくらやっても悟りは得られない事に気づいた
A自問自答により、自分のこれまでの行いに間違った行動と思念がないか考え一つ一つ精査し反省と修正を行った
B偏りのない心により調和された思念と行いが重要であるという中道理念を思いつく
Cブラフマン梵天と言われる啓示的な現象を受ける
D更に心の奥深くに内在する仏智、パーニャパラミッタを考察しつつAの作業を続ける
E宇宙即我を体験
自分の魂が巨大化し宇宙大になる。肉体は足元から米粒大となり次第に極小化する様を見て釈迦は肉体が仮の姿であり中に入ってる魂が本当の自分であると気づく

以上の体験から、魂の本質を知り 肉体とは無関係に魂本体の心の調和を基本とする指針を得た事を悟りを開くと言う
この時の現象により過去世の記憶を取り戻し、内在された偉大な仏智を覚醒させた事(法界体性智に転じる)を心眼を開くと表現している

212 :神も仏も名無しさん:2019/08/22(木) 05:56:15.83 ID:MFtacLyy.net
心が平静で、慈悲の心に満ち、常に穏やかでいる

多種な感情や欲求に対しても、それを外側から観察するように対処できる。理性的に動ける。

森羅万象一切が、自分の内に見えている状態 → 一切は自分の心であると悟った境地

213 :神も仏も名無しさん:2019/08/25(日) 08:04:53.10 ID:LHe/3Z3s.net
菩薩になるためにはまず懺悔が必要です。仏の前にすべてをさらけだして告白し、そのゆるしを得て、心身を清浄にしましょう。
解かりやすい仏教講座(1)懺悔文
https://www.youtube.com/watch?v=3s7mtFdb-Ws

214 :神も仏も名無しさん:2019/08/27(火) 00:55:40.34 ID:SYRbFuC2.net
識無辺処では、無にいる自分に意識が向いてました。
僕は無だと思いました。
しかし気づきました。

無なのだから自分さえないと。
そして無所有処になりました。

ほんとのただの無だけになりました。
自分の中に無だけがある、だか、無があるのです。

無というのは、無があっては無ではないと気づきました。まるで宇宙です。
それに気づき無がある状態から脱し、何もなくなりました。
それが非想非非想処です。

無色界の頂点はまだ天界の域を出ていませんから、涅槃ではありません。
涅槃に入りたいなら兜率天に往生すると、次に如来となる弥勒菩薩の説法を聴いて、自分も如来となることができます。

215 :神も仏も名無しさん:2019/08/29(木) 08:16:24.40 ID:2Ht9Dc1l.net
苦行でも覚りを得られないとみて、菩提樹下で止観をして、ついに成仏しました。
涅槃に入ることと成仏とは、同じ境地ですから、お釈迦様は止観によって覚られています。

216 :神も仏も名無しさん:2019/08/31(土) 09:09:22.69 ID:0qc0KL3f.net
輪廻からの解脱を説くのが本当の仏教では? 
カルマ(識の汚れ)によって永続する魂が輪廻するという思想は幻想になりますか?

以前、投票でBAに選ばれた方が、輪廻の考え方を述べた時点で仏教ではないといった見解を書いてましたが、
仏教の解釈にも諸説あり、果たしてそう言いきってよいのか?
仏説を伝統的インド思想と完全に断絶した思想と捉えるのが正確なのか、
重なる点もあるならどの点か
を思惟、尋伺したいと思います

第三回 現代仏教塾1 「初期仏教の輪廻思想」輪廻とは何か?
https://www.youtube.com/watch?v=zsNMhDfTWC0


初禅の境地
まず、欲界から離れること
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12210692462

ブッダが本当に説いた事は何だったのか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12210550967

ブッダが最後まで語らなかった事は何か?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12210364957

般若を空と説くは浅略で、世間法即ち涅槃と説くのが深義、をわかり易く説明すると、どのように言えますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13210155923

217 :神も仏も名無しさん:2019/09/02(月) 05:44:45.10 ID:sLM/amKh.net
第三回 現代仏教塾2 「初期仏教の輪廻思想」解脱とは何か?
https://www.youtube.com/watch?v=PmVHkiFGe60

第三回 現代仏教塾3 「初期仏教の輪廻思想」業とは何か?
https://www.youtube.com/watch?v=9wzLrvLA3rk

第三回 現代仏教塾4 「初期仏教の輪廻思想」現代の仏教学者の説
https://www.youtube.com/watch?v=JoYQisFK8pE

第三回 現代仏教塾5 「初期仏教の輪廻思想」対談:<無記説>について
https://www.youtube.com/watch?v=WhhE0QVlzUM

第三回 現代仏教塾6 「初期仏教の輪廻思想」質疑応答
https://www.youtube.com/watch?v=lJsMx63LsM0

218 :神も仏も名無しさん:2019/09/04(水) 06:50:27.21 ID:0uLZQ6Ph.net
ブッダ同様に生きることが”仏の悟り”を生きること

自他平等・無分別の境地に到り、大いなるいのちに目が開かれること

お釈迦様の坐禅は自我という囚われから開放されて、天部から覚者まで何にでもなれるという自由自在の境地

219 :神も仏も名無しさん:2019/09/06(金) 05:44:55.12 ID:7pZirajB.net
一点集中して
止と
徹底的に思索し抜く観行、
八聖道・菩薩行を一生懸命修めるなら
塵のひと粒から大宇空にまで自由自在に飛翔できる
との仏陀の悟り

220 :神も仏も名無しさん:2019/09/08(日) 09:02:56.39 ID:1NbYAvVp.net
理解しても体得するまでにはまだ距離があるとするなら、まず理解することも大事かもしれません。
煩悩を制御できる段階に達した人の体験より学びましょう。

221 :神も仏も名無しさん:2019/09/10(火) 04:59:21.30 ID:kf46oPLA.net
悟り体験記に【私】というものを肉体に幽閉されたものとみなし、
時間を過去、現在、未来を直線的な流れでとらえる時空構造に縛られたカルマの鎖からの真の解放がある

222 :神も仏も名無しさん:2019/09/23(月) 13:24:18.65 ID:pYClbhn+1
 第一義諦を
涅槃の境地。究極の在りよう。あるがままの世界における真理
と捉えてよいですか?

一切経は禅定の注釈・仏典は「三密行」へのガイドブックと見るべきか

ino********さん 2019/9/2307:38:39

原始仏典といわれるものも釈尊の没後数百年を経て編纂されたものであり、我々に馴染みの大乗仏典は釈尊の没後5、6世紀も経って編纂され、
膨大な仏典は後世の人間の創作物といってよい。どこが釈尊の直説かこれまた議論のあるところである。

「自己生命の実物」も、その表現は当初は釈尊の使われた「自己」であり、「自心」となり、そして、
心、一心、唯心、空、不二、如、如々、如是、如実、如実、如来、如来蔵、真如、恁麼、不可得、法性、法身、法界、仏性、
涅槃、中道、一乗、実相、妙有、畢竟空、法住、法位、不二法門、般若、不生不滅、一乗、空性、円成実、自性清浄心(順不同)などと表現されるようになった。

このようにいろいろの表現がありニュアンスも違うけれども、たった一つの「自己生命の実物」のこと。しかし、
言葉でどう表現しても表現のしようのないが「自己生命の実物」であるから、実物はただ実物する、つまり「行」しかないというところに行き着かざるを得ない
のである。

澤木興道老師は「一切経は坐禅の脚注である」と言われている。

>仏教の一つの目標は
悟りを開いて、生死を超越した仏として覚醒し、全ての苦しみから解放されること

生死も輪廻転生も縁起によって起こる現象であり、サンカーラの中での現象。
ご存知の通り、サンカーラは無明が原因で生じる世界であり、無明を滅した真理の世界には生死も輪廻転生もありません。
ただありのままの今この瞬間があるだけ

223 :神も仏も名無しさん:2019/09/25(水) 11:39:17.18 ID:jzL0jvmB.net
第一義諦を
涅槃の境地。究極の在りよう。あるがままの世界における真理
と捉えてよいですか?

一切経は禅定の注釈・仏典は「三密行」へのガイドブックと見るべきか

ino********さん 2019/9/2307:38:39

原始仏典といわれるものも釈尊の没後数百年を経て編纂されたものであり、我々に馴染みの大乗仏典は釈尊の没後5、6世紀も経って編纂され、
膨大な仏典は後世の人間の創作物といってよい。どこが釈尊の直説かこれまた議論のあるところである。

「自己生命の実物」も、その表現は当初は釈尊の使われた「自己」であり、「自心」となり、そして、
心、一心、唯心、空、不二、如、如々、如是、如実、如実、如来、如来蔵、真如、恁麼、不可得、法性、法身、法界、仏性、
涅槃、中道、一乗、実相、妙有、畢竟空、法住、法位、不二法門、般若、不生不滅、一乗、空性、円成実、自性清浄心(順不同)などと表現されるようになった。

このようにいろいろの表現がありニュアンスも違うけれども、たった一つの「自己生命の実物」のこと。しかし、
言葉でどう表現しても表現のしようのないが「自己生命の実物」であるから、実物はただ実物する、つまり「行」しかないというところに行き着かざるを得ない
のである。

澤木興道老師は「一切経は坐禅の脚注である」と言われている。

>仏教の一つの目標は
悟りを開いて、生死を超越した仏として覚醒し、全ての苦しみから解放されること

生死も輪廻転生も縁起によって起こる現象であり、サンカーラの中での現象。
ご存知の通り、サンカーラは無明が原因で生じる世界であり、無明を滅した真理の世界には生死も輪廻転生もありません。
ただありのままの今この瞬間があるだけ

224 :神も仏も名無しさん:2019/09/27(金) 04:50:01.50 ID:BGxEfJro.net
色に実体無く恰も夢幻の如くであるというのは古今を問わず真理

ヴェーダでも世界はマーヤーと言い、
ブッダも「世間を空なりと観ぜよ」と説き
大乗の一切皆空も
より徹底した法無我・空観・中観を追求する。
時代は変わっても
変わらぬ真理が説かれているとも解釈できるし、
そう観じるのが自然。
だから諸賢は
虚妄に過ぎぬ物質界の現実に幻想を抱くな(幻を実体と迷うなかれ)と
執着の無意味さを悟って、煩悩を滅尽し、無上菩提に目覚めるすじ道を説示しているのでしょう。

225 :神も仏も名無しさん:2019/09/27(金) 12:12:55.74 ID:BGxEfJro.net
そして
悟りはある日突然やってきます
悟りは 想像よりも はるかに大きく
圧倒的な至福に包まれます。
目覚めた智慧は持っていたあらゆる疑問を埋めてくれます。
そして悟りは何度もやってくるようになります。

226 :神も仏も名無しさん:2019/09/29(日) 15:05:27.92 ID:+PkfeSHd.net
『インド密教学序説』《44〜45ページに書いてあること》
「小乗教と大乗教との最も根本的な相違はここに存するのである。声聞も縁覚も証悟することは出来るが、かれらは一切智を得ることはできない。」
(解脱するには煩悩障と所知障を克服しなければならない。大乗仏教は煩悩障と所知障を克服し得るが、声聞と縁覚は煩悩障のほうしか克服できない。
よって真の解脱はできない。だから密教の方が縁覚、声聞の修行より優れている)

227 :神も仏も名無しさん:2019/10/02(水) 06:26:43.98 ID:y9XMR5uU.net
>最高精神と結びつく方法。
宇宙を創造したのは最高精神であると語る科学者がいます。

「古代の創造神話や伝説に共通しているのは、
この物質世界が
或る精神的な中心から作られたという事で、
物質的なものは最後には再び精神的な世界に帰ってゆく」

これはヴェーダの世界観ですが、
「精神が物質を作った」という考えについて、どう思いますか?

参考
https://www.youtube.com/watch?v=1t3R9OvlIgI&feature=youtu.be&t=5095

https://www.youtube.com/watch?v=1t3R9OvlIgI&feature=youtu.be&t=3812

https://www.youtube.com/watch?v=1t3R9OvlIgI&feature=youtu.be&t=1128

>「精神が物質を作った」という考えについて
全を照覧する存在であるアートマンが無意識に世界を認識したことから
この宇宙は開展したのかもしれないですね
無名天地之始、有名万物之母

極微のエネルギーの塊だった原初宇宙から識大が離れて虚空が生じ、天地が始まったと。


最高精神(法身仏)とつながるには

三密加持すれば速疾に顕はる

無我を観じるのは真我を覚るためのプロセス・一方法論
手段が目的になってしまってるのが二乗の誤謬。

228 :神も仏も名無しさん:2019/10/04(金) 08:22:50.04 ID:rZKcC/6L.net
ブッダのさとりに相応することが大事

ニーチェはラカンに比べ一面的。
人間、飽食すれば菜食主義者になったり断食したくなったりするし、
権力にうんざりすれば反権力に傾斜するだろうし、
またエロはもうたくさんと感じれば禁欲主義者になったり、
志向性は常に欠如したものに向かい、心さえも無常なりと気づく
仮観・空観を超越した中観的立場というか
一切は空虚で実体が無い「一切皆空」と観じつつ、ブッダのさとりに心を結合する
(そのプロセスの内の一つである第三禅の観想法が四念処観)実践に向かう心にいつか目覚める
人間には皆、仏に成ろうとする心があり、その心を正しく起こすことが菩提心生起。

229 :神も仏も名無しさん:2019/10/07(月) 04:55:42.63 ID:4VPUvfyh.net
ダンマパダ

157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。

158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。

160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
http://hosai.world.coocan.jp/dammapada-01/damma-all-text.htm

230 :神も仏も名無しさん:2019/10/07(月) 06:39:05.73 ID:4VPUvfyh.net
菩提心生起、四聖諦、五蘊非我、八正道

231 :神も仏も名無しさん:2019/10/09(水) 04:12:37.77 ID:H2AKD/DU.net
無色禅で
しゃっくりも止まりました。

232 :神も仏も名無しさん:2019/10/11(金) 06:53:07.83 ID:VF2bcVov.net
空があるから仏の心と触れ合う事が出来ると言う方もいました。それも「縁」と思います。また
「先祖・前世の因縁」といって、人を不安にさせるのが仏教ではありません。
過去の原因が様々な条件のもとで現在に現れたとしても、それを自分の行動で変えていけるのが仏教の無常観

233 :神も仏も名無しさん:2019/10/11(金) 09:41:03.17 ID:g1XdHuHa.net
初期ウパニシャッドの思想家ウッダーラカや、
その弟子ヤージャニャヴァルキヤは、次のような主張をしています。

> 真実の自己はアートマンであり、「真の実在」にほかならない。
>
> ・・・一切の生類は「真の実在」を根底とし、拠り所としている。
> われわれは、「真の実在」を、
> 具体的なものとして認識することはできなけれども、
> しかし、「真の実在」は見えざるものとして
> われわれの人格の根底に潜んで存在している。
>
> ・・・生命の去ったとき、この肉体は滅びるが、
> しかし生命の本体は死ぬことがない。
> それは真実なもの、アートマンであるからである。
>
> ・・・人は無限の生存を繰り返すのであるが、
> しかし人が師について万有の真理たる「真の実在」を悟ると、
> 死後に完全に有と合一する(これが解脱の境地である)。
> それはあたかも故郷から連れ去られて人が、
> 束縛・羈絆を脱して故郷に帰るようなものである。

>> われわれは、「真の実在」を、
>> 具体的なものとして認識することはできなけれども、

具体的なものとして認識できない概念に過ぎないものをあーだーこーだと妄想する
戯論とはまさにこのことだわな

234 :神も仏も名無しさん:2019/10/13(日) 12:19:51.32 ID:Hbc6/aLt.net
>初期ウパニシャッドの思想家ウッダーラカや、
その弟子ヤージャニャヴァルキヤは、次のような主張をしています。

> 真実の自己はアートマンであり、「真の実在」にほかならない。
>
> ・・・一切の生類は「真の実在」を根底とし、拠り所としている。
> われわれは、「真の実在」を、
> 具体的なものとして認識することはできなけれども、
> しかし、「真の実在」は見えざるものとして
> われわれの人格の根底に潜んで存在している。
>
> ・・・生命の去ったとき、この肉体は滅びるが、
> しかし生命の本体は死ぬことがない。
> それは真実なもの、アートマンであるからである。
>
> ・・・人は無限の生存を繰り返すのであるが、
> しかし人が師について万有の真理たる「真の実在」を悟ると、
> 死後に完全に有と合一する(これが解脱の境地である)。
> それはあたかも
故郷から連れ去られた人が、
> 束縛・羈絆を脱して故郷に帰るようなものである。

235 :学術:2019/10/13(日) 12:21:15.28 ID:epIw5Bhp.net
ブラフパパ アートママ。

236 :神も仏も名無しさん:2019/10/13(日) 23:20:59.30 ID:Hbc6/aLt.net
釈尊が否定したのは祭祀主義であって
極論すれば
彼は伝統的なインド思想に基づくウパニシャッドの修行に応じた沙門だったといえる

237 :神も仏も名無しさん:2019/10/28(月) 00:06:35.51 ID:8ieAoies.net
自分の心のあらわれ。
自分の業の結果として現在と未来があり、
その事を理解して道諦を
正しく実践するなら、識も浄められるし、因縁も変えられる
そしてアートマンにもアナートマンにも執着しない
出世間の四諦説法が
ブッダ
の本来の立場と観じました。、
また正見には、十事正見、四諦正見もあります。

238 :神も仏も名無しさん:2019/10/30(水) 03:45:58.90 ID:MiXy8pD7.net
至上我とは
『こころを肉体から分離して、それを至上我へ合一させる。これがサマーディなりと知るべし。
これはダシャー等からの解脱と名づけられている』
(続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治)
のように説かれていますが、ダシャーとは、忘我トランスと解釈され、涅槃未満の有頂天あたりの境涯かと推測されます。

またそれは三業を清浄にする事で心眼を開き、解脱に到らしめる宇宙我で、
五蘊を超えたブラフマンの奥、真我に通じる世界

239 :神も仏も名無しさん:2019/10/30(水) 03:51:05.78 ID:xlJDwuu5.net
o

240 :神も仏も名無しさん:2019/11/01(金) 04:58:39.91 ID:xw5cmLMj.net
『戒定慧』の三学では、煩悩から離れるようにする『戒』が、一番最初の土台となる

241 :神も仏も名無しさん:2019/11/01(金) 06:07:01.03 ID:xw5cmLMj.net
『戒定慧』の三学では、煩悩から離れる土台の上に道諦の実践をすすめ、一切のものに囚われない無執着の心境に至らしめる

242 :神も仏も名無しさん:2019/11/03(日) 08:20:40.29 ID:+gLHWIJe.net
諸事象の無常・非我なることを知り、如実に見るとき、無明が滅して明が生じる。





無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。 〔雑阿含経、12〕

243 :神も仏も名無しさん:2019/11/04(月) 12:27:20.03 ID:Pdx34/K9.net
悟り悟りってそんなすごいのならノーベル賞でも取ったら?
仏教じゃB29も落とせなかったろ?

244 :神も仏も名無しさん:2019/11/04(月) 20:03:16.86 ID:fY0bPFyY.net
>>243

づ ダライラマ法王

245 :神も仏も名無しさん:2019/11/05(火) 05:50:33.42 ID:po2b2zGH.net
真実を見る事によって
別に執着するに価するほどの事でないと気づき、悟る

余計な回り道をせずとも
(実地に醜い現実を)見る前に飛べる方法がある。それを教えるのが・・・

246 :神も仏も名無しさん:2019/11/07(木) 07:32:13.10 ID:wSxwQuKW.net
空即是色
ヴェーダでも世界はマーヤーと言い、
ブッダも「世間を空なりと観ぜよ」と説き
大乗の一切皆空も
より徹底した法無我・空観・中観を追求する。
時代は変わっても
変わらぬ真理が説かれているとも解釈できるし、
そう観じるのが自然。
諸賢は
虚妄に過ぎぬ物質界の現実に幻想を抱くな(幻を実体と迷うなかれ)と
執着の無意味さを悟って、煩悩を滅尽し、無上菩提に目覚めるすじ道を説示している。

247 :神も仏も名無しさん:2019/11/09(土) 02:48:45.00 ID:aeo5gkd6.net
スマナサーラについては、諸方面ですでに論破されているようですし、ここで論ずる気すら起きません。商売上手な方のようですね。
変な回答者が出没してましたが、
分別説部の成れの果ての哀れむべき妄執の徒であると観ぜられます。

248 :神も仏も名無しさん:2019/11/11(月) 07:51:45.87 ID:VW+rfSMo.net
瞑想 禅定 九次第定 道諦

249 :神も仏も名無しさん:2019/11/13(水) 05:34:40.51 ID:4WC+yI+v.net
混乱に陥ってる方々を一つ教化してあげます。
無我というのは漢訳時の過ちで
非我が正しい。

>テーラワーダのいう「慧」とは有為法の、つまり形成された
「慧」のことであって「仏の智慧」ではない
>「正しき智慧=仏の智慧=無為法」
つまり涅槃のことで真諦

自性清浄心は涅槃そのものであって、それが真我と思います。

それと同じですよ

250 :神も仏も名無しさん:2019/11/15(金) 04:06:35 ID:e6Dn9HVq.net
因縁の空なるを覚る
生も死も性も幻想なりと気づく事で
解脱する

251 :神も仏も名無しさん:2019/11/17(日) 07:41:51.29 ID:nuz3H3Tx.net
如来とは佛である。

252 :神も仏も名無しさん:2019/11/17(日) 07:42:52.78 ID:nuz3H3Tx.net
佛とは、真理(さとり) である。

253 :神も仏も名無しさん:2019/11/17(日) 09:18:31.48 ID:lIK/gwvL.net
原爆こそ神である
https://i.imgur.com/UHtUVVu.png

254 :神も仏も名無しさん:2019/11/21(木) 05:39:49.18 ID:4wrxIZ8B.net
無我を観じる→縁起を覚る→空を直観で見抜く→法界体性智を顕わす

255 :神も仏も名無しさん:2019/11/24(日) 05:20:44 ID:fNJe1BF/.net
三密加持と九次第定
この二つを正しく実践する事で即疾に即身成仏することが出来る

256 :神も仏も名無しさん:2019/11/26(火) 17:20:09 ID:wpbV/1br.net
九次第定
自身の内界を如実に捉える方法
悟りは「色蘊を空じた」ということであり、受想行識すべてを空じることですべての修行過程が終わる(悟了同未悟)
煩悩を断滅し尽くす
九次第定で、色界の四禅から無色界の四禅へと入られ、「言語」「感受」「表象」「想念」を滅した禅定に入られた。
「滅想受定」が「滅尽定」、つまり「涅槃(ニルヴァーナ)寂静」涅槃寂滅

九次第定は三昧の段階を示したものであり、だれでも
修することのできる境涯の段階。
禅は万物一如の悟りを実際に行うこと

257 :神も仏も名無しさん:2019/11/30(土) 09:09:06.65 ID:YOhEKzlM.net
三密加持と九次第定の二つを正しく実践する事で速疾に即身成仏する

258 :神も仏も名無しさん:2019/12/01(日) 01:18:50.91 ID:xo/LrT0v.net
自身にブッダが顕現する境涯
    ↑
本当のブッダを見る境地
    ↑
自心のブッダを垣間見る境地

259 :神も仏も名無しさん:2019/12/04(水) 07:01:40 ID:ABf5xhJ2.net
因縁の実相を如実・ありのままに見抜き、道諦を完全に実践して自他を解脱に至らしめる

260 :神も仏も名無しさん:2019/12/06(金) 06:57:04.85 ID:/jMHd2p/.net
ありのままを唯
如実に観じるなら
無執着のあり方に
至る

261 :神も仏も名無しさん:2019/12/22(日) 03:16:01.10 ID:pqoHFkYZ.net
日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。

職人気質は悪しき文化
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1573270987/755

dzg

262 :神も仏も名無しさん:2019/12/25(水) 00:03:07.78 ID:aFQy5I3Z.net
菩提心生起とは
仏陀に成る
と決意・覚悟を定めること

263 :神も仏も名無しさん:2019/12/28(土) 02:01:52.75 ID:mLiiX5gg.net
一切有情の救済が目的

264 :神も仏も名無しさん:2019/12/30(月) 06:59:34.98 ID:IhS1rENW.net
仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない
仏像の物質的な形が仏と思って(その物自体を)見るのは誤りなのである

265 :神も仏も名無しさん:2020/01/01(水) 01:27:53.36 ID:RGhRLqeX.net
いかなる相も虚妄であり
認識は幻想であり(いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影に過ぎず)

266 :神も仏も名無しさん:2020/01/03(金) 03:59:18.88 ID:KEOaeVl7.net
諸々の相は相に非ずと見るなら
認識したものは真の実在ではないと観じるなら

267 :神も仏も名無しさん:2020/01/06(月) 05:24:50.16 ID:aTmYgYvw.net
即ち如来を見ることになる
即ち空の智慧を生じて
涅槃寂滅を知解する(宇宙一切万象の一体性をさとる)
事となる

268 :神も仏も名無しさん:2020/01/08(水) 10:57:54.59 ID:NbPYm/I8.net
無為法の慧

269 :神も仏も名無しさん:2020/01/12(日) 08:25:35.26 ID:jxpDZCEK.net
真我とは

270 :神も仏も名無しさん:2020/01/15(水) 04:12:34.16 ID:lk3yeXit.net
全ての魂を救済することができる

271 :神も仏も名無しさん:2020/01/18(土) 21:47:18 ID:Fl4aeXvM.net
0 5 3 1 ( 4 5 ) 4 9 0 0

272 :神も仏も名無しさん:2020/01/20(月) 06:03:33.87 ID:n7/Z+EOx.net
人間の場合は、

273 :神も仏も名無しさん:2020/01/22(水) 04:54:37 ID:S4iOTOuC.net
無明があって実体の無いことに幻想を持つから、前欲望(諸欲の未発現の状態)から執着が生じる状態にリリースされる
また実体の無いことに幻想を持っていたんだと気付く事で、欲望の虜にされていた状態から本当の意味で自由な状態へリリースされて、正しい覚りに達する。

274 :神も仏も名無しさん:2020/01/24(金) 07:49:47 ID:5vjqk6Z7.net
無明が滅して明が生じた

275 :神も仏も名無しさん:2020/01/27(月) 04:13:23 ID:LfKHB3w4.net
空無辺処定 欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れた、一切の作為の無い
無辺の空を観じる

識無辺処(しきむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第2天。認識作用の無辺性についての三昧の境地。
無色界の初天である空無辺処を越えて、その空の無辺なるを厭(いと)い、心を転じて識を縁じ、識と相応し心定りて動かず、
三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観すること。

無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。 いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、
この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。
何ものも真実には存在せず
と観察し達観する三昧境とも

非想非非想処定
想いが有るのでも無く、無いのでも無い、深い三昧の境地
想いが有ろうが無かろうが、心が主客に分かれない、すべてわかって何も分かれない無色界の有頂天にもとづく
非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て
「非非想」、または「非無想」という。

276 :神も仏も名無しさん:2020/01/31(金) 06:13:08 ID:xQpugY5s.net
諸事象の無常・非我なることを覚り、如実に観察するとき、無明が滅して明が生じる。

無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。 〔雑阿含経、12〕


木片を焼いたら浄らかさが得られると
考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る

サンユッタ・ニカーヤ

277 :神も仏も名無しさん:2020/02/04(火) 04:58:58.04 ID:PiN5AFu3.net
日本におけるシヴァ神信仰の変形verとしての不動信仰
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1580758829/

278 :神も仏も名無しさん:2020/02/08(土) 10:16:32.10 ID:Vmaxm8e2.net
無論争の境地を安穏と観ぜよ

279 :神も仏も名無しさん:2020/02/08(土) 11:23:17.57 ID:aS4zbHNf.net
Ajp

280 :神も仏も名無しさん:2020/02/10(月) 08:41:51.99 ID:woSYKMPw.net
v

281 :神も仏も名無しさん:2020/02/10(月) 08:42:18.44 ID:woSYKMPw.net
スペースをつくろう

282 :神も仏も名無しさん:2020/02/14(金) 00:04:43 ID:Xm8iUGg3.net
そもそも生と死は平等であり
分別する意識は幻想。
全ての生命はやがてその境界線を跨ぎ越える定めにある。それは当然の話で
午前零時を過ぎて日付が変わるのと同じ事。

283 :神も仏も名無しさん:2020/02/16(日) 06:01:46 ID:dXfC7MO1.net
無明があるからあらぬ幻想を持って執着が生じる
無明滅すれば如実に観じ、大智慧(無為法の慧)より菩提生じて涅槃解す

284 :神も仏も名無しさん:2020/02/20(木) 06:46:30.50 ID:yzyj6qzR.net
そもそも元来、坊さんという概念も無ければ、坊さんである必要も無い
本当に
唯仏陀に成れば良し

285 :神も仏も名無しさん:2020/02/25(火) 03:42:02.62 ID:HUDOc99o.net
誰もが
本来仏陀である
事に正しく目覚める事
それを覚りと呼ぶ。

286 :神も仏も名無しさん:2020/02/29(土) 12:31:50 ID:mCR/QmO5.net
如来が世間に在りて完全な法を説く
世間にあっても如来は仏。

287 :神も仏も名無しさん:2020/03/02(月) 04:54:22.76 ID:Do05l5If.net
出離の楽しみ

288 :神も仏も名無しさん:2020/03/03(火) 04:07:03 ID:dBtycxR8.net
「我」とは如来なり
真我、全宇宙、涅槃

289 :神も仏も名無しさん:2020/03/06(金) 07:22:35 ID:lF+lmZzT.net
断見にも常見にも陥らず、それらを超越している事

290 :神も仏も名無しさん:2020/03/07(土) 02:38:06 ID:vP7Tj1B0.net
出離の楽しみ

第三禅までの「楽」
輪廻からの解脱を求める決意(動機付け)

291 :神も仏も名無しさん:2020/03/13(金) 03:21:54.90 ID:ipf+BB5l.net
本来自分が仏であれと説くのが仏教なのに
それを放棄させ、真実から故意に目を逸らして真理に到達する道を放棄するのが最も重い罪。
それが騙された者の罪(カルト菌毒感染にやられた結果)
の核心

292 :神も仏も名無しさん:2020/03/13(金) 06:07:55.33 ID:ipf+BB5l.net
ブッダのさとりの根本・仏教の根幹

踏み込んで追求すれば見える
大衆部が上座部から離れ否定した誤謬を
(形骸化した日本の)儀式仏教とカルトは再吸収してしまった有様を

293 :神も仏も名無しさん:2020/03/15(日) 04:55:40.63 ID:RiOtX1//.net
>日本の末端寺院等は
とうに本筋から外れた
どうでもよい偶像や創作経典や 挙句は生臭坊主までをも拝んでる
という事かな

294 :神も仏も名無しさん:2020/03/31(火) 10:23:12.98 ID:plGVG+3J.net
如来の正しき覚りは 時間も空間も 言語さえをも超えたものである

295 :神も仏も名無しさん:2020/04/04(土) 03:51:03 ID:MLNM0Yb4.net
>数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成

296 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 06:29:07.69 ID:PPpBJyAZ.net
>大きく見たら1、小さくみたら無数
という表現に閃きを感じました。一即一切。一切即一ですね。

虚空が生じて
>一なるエネルギーの塊が 極小単位で分割されたから 今の宇宙=物質世界が生じた訳ですね。

297 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 06:37:41.11 ID:PPpBJyAZ.net
無限ではないけれども
ほぼ無限
無限無数の極小に散らばって宇宙大に拡がり
且つ「一」なる識は共に蔵す

298 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 06:48:17.80 ID:KL8zWHCy.net
虚空を蔵すだけで
実は「一」のまま不変 恒常

299 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 09:45:00 ID:upGLnI6j.net
ttt

300 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 09:49:06 ID:upGLnI6j.net
>>596
バスター先生乙
ご無沙汰ですね。。
まったくその通りです^^

301 :神も仏も名無しさん:2020/04/15(水) 04:14:01.22 ID:h6RGriDB.net
>仏教の真髄は慈悲
慈悲の心を忘れて己の利益ばかり追い求める者は外道
人間のみならず生きとし生ける者全てを救おうとの慈悲心で坐禅し入定する。
それも菩薩行

302 :神も仏も名無しさん:2020/04/15(水) 04:19:43.25 ID:h6RGriDB.net
輪廻を続けても心は解脱してるのが菩薩。

涅槃にいれても あえて輪廻に身を投じて衆生を救う それが理趣経の菩薩観
世間法即ち涅槃。 拡大解釈するなら生臭坊主も
我ら衆生も仏

303 :神も仏も名無しさん:2020/04/15(水) 12:52:21 ID:h6RGriDB.net
仏道は、
夢から覚め、
個我意識から脱して、無明という迷いを
離れて行く道

304 :神も仏も名無しさん:2020/04/15(水) 12:52:21 ID:h6RGriDB.net
仏道は、
夢から覚め、
個我意識から脱して、無明という迷いを
離れて行く道

305 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 06:58:01 ID:b1SfuZyg.net
空想が現実を生む

306 :神も仏も名無しさん:2020/04/23(木) 07:57:56 ID:Nvvr19lG.net
諸々の作られたものは 実に無常である
それが故 一切は皆 苦しみである
諸々の事物(五蘊)は「我」に非ず
それら真理をさとって涅槃寂滅の境地に至る事が出来る

307 :神も仏も名無しさん:2020/04/26(日) 07:44:29 ID:7V4dX9uU.net
>>305

五蘊皆空
欲された物・対象に実体は無い
何かを願う思いにも実体は無い

308 :神も仏も名無しさん:2020/04/28(火) 06:25:32 ID:kWQLTVMb.net
As above so below. The study sited in this article points coherence being observed in even large comic bodies.

There’s Growing Evidence That the Universe Is Connected by Giant Structures
https://www.vice.com/en_us/article/zmj7pw/theres-growing-evidence-that-the-universe-is-connected-by-giant-structures

309 :神も仏も名無しさん:2020/04/30(木) 06:40:02.35 ID:7uacTiki.net
>菩薩の語源は悟る前の釈迦の事
最高の悟りが阿羅漢果でその手前が不還果といって輪廻もしないんだよ

大乗の悟って尚涅槃入りせずという菩薩の境涯を四向四果に当て嵌めると不還果以上ブッダ未満という境地になる訳ね

大乗五十二階位が出来たのは大乗派生から百年以上後の話だから合わせて考えても大菩薩は輪廻しないとなるんだよ

観音菩薩や地蔵菩薩は後一回の転生で涅槃入りするから一来果

310 :神も仏も名無しさん:2020/05/04(月) 08:02:43 ID:20TydEK9.net
人間が力強く成長することは可能なのか 何故成長していないのか
スライヴ (THRIVE Japanese)
https://youtu.be/yp0ZhgEYoBI?t=192

311 :神も仏も名無しさん:2020/05/08(金) 04:09:02.48 ID:rI+O1eqg.net
迷いを生み出すものを捨てれば良い

(カルト盲信に繋がる、邪師から受けた催眠暗示や誤った認識一切を含む)

312 :神も仏も名無しさん:2020/05/12(火) 09:51:40 ID:uL9S9TUx.net
心と感受を空にして
眠ることに集中すれば
不眠はない

313 :神も仏も名無しさん:2020/05/14(木) 12:17:39 ID:XAO6sPcp.net
「諸法空相」に対して「諸法実相」と言うのが有ります。
諸法とは現実に在る有形無形の一切事物(というこの世に在る物)は全て空の相であり、実の相でもあるという意味になります。
般若心経は「空」について記述した経典ですが、大乗仏教における菩薩の覚りを説いた経典でもあります。
さらに「色即是空・空即是色」と書いてあります。「色」とは「目に見える物質」であり、「空」は実体が無いという意味ですが、「目に見えないもの」
つまりエネルギーやそれら(Eとm)より上位にあらわれるもののことです。
「色即是空」は、物質は目に見え無い縁起によってできている、
「空即是色」は、見え無い何ものかも見える物質として顕われ得るという事です。

314 :神も仏も名無しさん:2020/05/21(木) 07:30:49 ID:sMrIigbu.net
霊という表現も 実は精神世界の一側面を表現している言葉ではあるのですが、
それほど正鵠を射た言葉ではありません。精神世界とは、そんなカルト感染患者等が
容易く理解できるような生易しい代物ではないのだと思います。しかし覚者ならダイレクトにわかる
そういう事です。

315 :神も仏も名無しさん:2020/05/28(木) 12:54:38 ID:+KhJyLUz.net
>>313

物質や体のように目に見えているものが色であり、多くの人は、それら物質を確固とした存在であるかのように捉えているが、実は
無限に続く因果の連鎖の中で偶々あらわれた途中経過に過ぎず、構成要素の一つでも抜けていたら、その物にはなり得なかった不確実な存在である。
全ての物は、色と空を行き来し、姿かたちを変えて変化し続ける仮の現象だったということです。

316 :神も仏も名無しさん:2020/06/01(月) 04:23:30.94 ID:iUnuaM/o.net
ブッダの教えは衆生を輪廻から解脱させ、無明を滅して真の覚りに導くもの。
したがって 輪廻から解脱したいという心、菩提心を起こさなければ本来、意味は無いといえるでしょう。
ブッダは、煩悩を克服することを目指して修行を始めたのですから、煩悩を滅ぼしたい という真摯な願いが動機
として設定されることが大事なのです。

317 :神も仏も名無しさん:2020/06/01(月) 05:56:47.40 ID:iUnuaM/o.net
・正しく「止」行を完成させるために「観」と「止」を持続する事が必要なのかも知れません(その為に無色禅は必須なのでしょう)
例えば、次のように。

初禅 ;欲界からの出離、「覚」「観」 「離」による「喜」・「楽」
第二禅:「止」 内清浄による「喜」・「楽」
第三禅;四念処観 正念、正見 「楽」
第四禅:「止」 一切の受が捨てられた不苦不楽

物質的な形へのとらわれという「まよい」の止(色界からの完全な「離」)
空無辺処定:無辺の「空」の「観」 → 空の中に 残りの迷いも自ずから滅され、結果、訪れる「止」(徐々に止と観が渾然一体となって行く)
識無辺処定:「識」の無辺性の「観」→ 清浄寂静なる 識の「止」
無所有処定:無所有処の境地の「観」→ その結果、自然に訪れる (在るという)「想い」の「止」   「一切の存在は幻影」と真に気付く
非想非非想処定 微細な意識、細想による「観」(如来意識との同調・如来と主客未分状態の実現)より 完全な「止」(即ち個我意識の滅尽)に至る道
  「行」の止 に至って、五蘊を皆空じた状態 を照見する(観音菩薩の境地)
滅尽定(滅想受定)  完全な「止」の完成(ブッダの意識を目覚めさせブッダと成る)実践努力

ブッダは、煩悩(無明)の完全なる滅尽を目的の一つとして
正定(道諦=八正道)を実践していたのだと 行を通して判りました

318 :神も仏も名無しさん:2020/06/01(月) 07:30:42.81 ID:iUnuaM/o.net
要は 実践して体得する事が重要ですが、色々と解説もされています
一例として

原始仏教における四禅と四無色定 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/44/2/44_2_871/_pdf/-char/ja

319 :神も仏も名無しさん:2020/06/01(月) 07:44:06.82 ID:iUnuaM/o.net
315で無色禅などと書いてしまいましたが
四無色定および滅尽定は全て「定」です。
このへんの違いも大事です。

320 :神も仏も名無しさん:2020/06/02(火) 04:16:45.17 ID:mjUoMKTg.net
観は智慧の瞑想、止は禅定に当たる
感覚的経験の世界が欲界であり、禅定の実践によって、まず色界の初禅定に到達する
心が一つの対象に集中し、完全に定まったとき、三昧(サマーディ)と呼ばれる

321 :神も仏も名無しさん:2020/06/02(火) 04:20:39.63 ID:mjUoMKTg.net
>>264-267

仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るならば、即ち如来を見ることになる。

322 :神も仏も名無しさん:2020/06/06(土) 14:22:49.93 ID:qeGL0rda.net
過去は既に決定済みでも 未来はまだ決定されていない
それを選びとり正しく決めるのは自分
だという事です

323 :神も仏も名無しさん:2020/06/07(日) 04:39:43.55 ID:eR1+slO5.net
>>317

滅尽定とは涅槃寂滅 寂静の境なり

324 :神も仏も名無しさん:2020/06/11(木) 04:15:59.26 ID:eJy1CVue.net
八正道を正しく実践することで「戒」めは自ずから身心に具わり
智慧の瞑想と禅定の継続的な修練で「定」と「慧」も修められる
つまり出家などせずとも
正定を中心とした八正道の実践をするだけで
仏教の真髄である三学「戒」「定」「慧」を修習できる事になり、
それを完全に行えたのがブッダ。誰しもがブッダと成れる道を歩めるのですし、実際
可能なのです。

325 :神も仏も名無しさん:2020/06/11(木) 10:00:16.66 ID:eJy1CVue.net
>色即是空にも
実は様々な解釈が有得るのです

@空を縁起と捉える解釈
>「色即是空」は、物質は目に見え無い縁起によってできている、
「空即是色」は、見え無い何ものかも見える物質として顕われ得るという風に解釈しています。
肝心の空ですが、物質より上位に位置する何ものかですが、(それをエネルギーと言い切る人もいますが、)これの表現が難しい。
現代科学でもエネルギーと物質の上位階層にある何ものかを想定し始めているからです。

>ヤコブ・ベッケンシュタインが現代科学のトレンドを要約した記事では
科学者たちが"物理的世界は情報でできており、エネルギーと物質は副次的なものであるととらえる"ようになるとの示唆が含まれていて、
Eとmのより上位に位置づけるべきものとしての「情報」や
大乗仏教的に想像すると、一つには「一心縁起」とか
考えられますが、般若心経からは外れます

>色蘊も原因と条件から成立し、何かの要素が少しでも欠ければその形にはなれなかった無実体な現象というような事

326 :神も仏も名無しさん:2020/06/11(木) 10:14:36.49 ID:eJy1CVue.net
A五蘊を空にするとは つまり執着を離れ、煩悩を克服する
すじ道と見る解釈
つまり、そのような実体が無いものごとというのは、執着するに価せぬものである
との覚者からの説法として示されたもの


>心経が仏説か否かについてですが
空についてのブッダの教えは「世間を空なりと観ぜよ」であり、
その哲学的な意義を、竜樹等が大乗の展開の中で深めたのだと理解しています。


結論;般若を空と説くは浅略で 世間法則ち涅槃 と説くのが深義である
みたいに 「仮」も「空」も超越した中観、「中道」の立場からの批判なら兎も角。
空の思想の歴史的意義や深く重要な意味も理解せず、闇雲に貶めようとするのは
どうなのかという事。

327 :神も仏も名無しさん:2020/06/13(土) 04:37:44 ID:A5AGQDng.net
観は智慧の瞑想、止は禅定に当たる
感覚的経験の世界が欲界であり、禅定の実践によって、まず色界の初禅定に到達する
心が一つの対象に集中し、完全に定まったとき、三昧(サマーディ)と呼ばれる状態に達する


・正しく「止」行を完成させるために「止」(禅定)と「観」(智慧を生じる瞑想)を 三十七道品をベースにして
交互に持続する事が必要なのかも知れません
(その為に四無色定および滅尽定は必須なのでしょう)
例えば、次のように。

色界の四禅 五禅支の生成
初禅 ;欲界からの出離、「覚」「観」 「離」による「喜」・「楽」
第二禅:「止」 一境性 内清浄による「喜」・「楽」  
第三禅;四念処観 正念、正見 「楽」
第四禅:「止」 一切の受が捨てられた不苦不楽  一境性

四無色定より滅尽定
物質的な形へのとらわれという「まよい」の止(色界からの完全な「離」)
空無辺処定:無辺の「空」の「観」 → 空の中に 残りの迷いも自ずから滅され、結果、訪れる「止」(徐々に止と観が渾然一体となって行く)
識無辺処定:「識」の無辺性の「観」→ 清浄寂静なる 識の「止」
無所有処定:無所有処の境地の「観」→ その結果、自然に訪れる (在るという)「想い」の「止」   「一切の存在は幻影(皆空)」と真に気付く
非想非非想処定 微細な意識、細想による「観」(如来意識との同調・如来と主客未分状態の実現)より 完全な「止」(即ち個我意識の滅尽)に至る道
  「行」の止 に至って、五蘊を皆空じた状態 を照見する(観音菩薩の境地)
滅尽定(滅想受定)  完全な「止」の完成(ブッダの意識を目覚めさせブッダと成る)正精進 涅槃寂滅

ブッダは、煩悩(無明)の完全なる滅尽を目的の一つとして
正定(道諦=八正道)を実践していたのだと 行を通して判りました

328 :神も仏も名無しさん:2020/06/13(土) 04:46:12.21 ID:A5AGQDng.net
八正道(三十七道品)を正しく実践することで「戒」めは自ずから身心に具わり
智慧の瞑想と禅定の継続的な修練で「定」と「慧」も修められる
つまり出家などせずとも
正定を中心とした八正道の実践をするだけで
仏教の真髄である三学「戒」「定」「慧」を修習できる事になり、
それを完全に行えたのがブッダ。誰しもがブッダと成れる道を歩めるのですし、実際
可能なのです。

329 :神も仏も名無しさん:2020/06/13(土) 10:59:09.04 ID:A5AGQDng.net
幼稚園で学んだ事の中にもヒントぐらいは隠れてましたね。おそらく大衆部のコアです。

成仏道とは覚りへ向かう実践行である
その気持ち、気付きこそ大事で、それが判れば
出家も在家も関係ない という事

330 :神も仏も名無しさん:2020/06/14(日) 04:19:14.72 ID:Szi19vp+.net
正法(仏滅後五百年)の時代には正しい修行法が維持されていたので無数の解脱者・阿羅漢を輩出したとも言われる。
像法以降は、歓喜地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけとか言われる為体
また正法の時代の経典がそのまま
二千年経った現代に残されているのかどうかも実は怪しい
多分、八正道や実践面のコア以外の経典類は
後付けの補完資料的なものではないのかと
択法覚支により一度は疑ってみる必要もあるかと


おそらくブッダの真意として
各個人向けの対機説法によるものが多く、
十把一絡げに万人向けの教説として提示し得るものは率的に低いかもしらんから
経典編纂とか無駄なことは おやめなさい という感じではなかったのかな。
それでも後代の弟子たちには結集せざるを得ない動機が生じたと、
それは時間の経過が招く忘却や風化を恐れ、教説の消失を惜しむ気持ちからだったとも

331 :神も仏も名無しさん:2020/06/14(日) 10:34:43.68 ID:Szi19vp+.net
輪廻の根本原因=割愛・妄執、執着といいますね
「ミリンダ王の問い」でも、生の最後において生への執着が絶たれていたならば
解脱できるというようなことが言われていたようですが、般若経典の眼目も
詰まる所は「取」の超越・「取」からの離

龍樹
>有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る
般若経典には般若理趣品があります。理趣経といわれるお経の有名な百字の偈で
輪廻も涅槃への執着すらも超越した菩薩の覚悟が説かれます。衆生救済のために
あえて涅槃に入らないというのです。無住処涅槃とも言われ
智慧あるが故に生死にとどまらず 慈悲あるが故に涅槃に住せず といわれます

332 :神も仏も名無しさん:2020/06/16(火) 03:22:11.24 ID:Qhf+w9+2.net
>>330

釈迦入滅後五百〜千五百年の像法の時代ですら
末法思想によれば 既に 正しい修行が行われないため、悟りを開く者のなかった時代とされ
ナーガルジュナやアサンガくらいしか歓喜地に至ったものは無しと言う人もいますが
正法の時代には 名も知れぬ覚者が無数にいたと考えられ
それは、正しい修行が行われていたからと考えられます

正しい修行とは何か 道諦の実践であり、正定つまり九次第定を中心とした三十七菩提道品に拠る生活です

333 :神も仏も名無しさん:2020/06/16(火) 09:27:07.19 ID:Qhf+w9+2.net
華厳十十無尽縁起より観察すれば
空とは「全」なのであり、
一なる個が纏う仮初の色も 空のあらわれの一種なのである。人間の身体も宇宙万物によって
生かされているのだから

334 :神も仏も名無しさん:2020/06/17(水) 08:56:17.45 ID:r7WjjnlD.net
弘法大師の「般若心経秘鍵」によると
心経の分別諸乗分の末尾について

『法華経』や『涅槃経』などの枝葉末節をまとめて、根本に帰入させる教えは、
実に「無智亦無得 以無所得故」という十字に含まれる とありますが、
つまり 対象と主観を共に拒否することで、それらの無実体性を説いてる訳ですか??

天台系の阿弥陀仏にお縋りする「他力」信心を一道無為心とすると 第十住心に進む前に
華厳宗の極無自性心があります。これも究極の他力かもしれませんが、
庫を開く上では通るべき関門かも知れないのです。、心経の分別諸乗分は
華厳宗についても含みますか?

>そもそも心経や般若経典の成立時に華厳宗はまだ立てられていなかったので、華厳宗は含まないと考えられます。
また秘鍵は、あくまでも弘法大師空海の解釈なので、分別諸乗分に関しても
幾つもの解釈が存在します。

智も無く、また得も無し 得る所無きを以ての故に

一例ですが、
自分という我も、本来は無いのだからと
主客についての妄分別を離れるよう促しているとも
とれますね。また
自分は覚った、という漫や錯覚や智を得るとか得たとかいう果への執われを離れるよう説いているという解釈もあります。
智慧を得たとか思ううちは、まだ得てはいないのだと。
本当に覚った人は「自分は覚った」なんて言わないし思わないものかも知れませんね。

335 :神も仏も名無しさん:2020/06/17(水) 08:58:42.23 ID:r7WjjnlD.net
色という表層的な現象面だけにとらわれるなら刹那滅でもいいのだけど
それは「仮」の見方で、「空」の中では心経に説かれる通り「不生不滅」
またミクロの世界で対生成対消滅が起きてるといってもエネルギーから変化してるだけなので
エネルギー保存則からしても「不増不減」

336 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 02:09:32.67 ID:2Zkj3bBO.net
欲界・物質界とは、一切が過ぎ去り滅して行く事象の世界
まず無色界に至り、修行を完成して
涅槃を証さずにはすまぬ事を覚るべし

337 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 05:06:03.26 ID:2Zkj3bBO.net
仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るならば、即ち如来を見ることになる。

338 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 12:23:00.16 ID:2Zkj3bBO.net
>>334

無智亦無得 以無所得故

智も無く、また得も無し 得る所無きを以ての故に


別解

全ては平等であり、区別できないと本来悟っているのだから
この上、智慧やさとりを求めることに執着する必要も無し

339 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 12:30:36.26 ID:2Zkj3bBO.net
>>333

空の意味
A 実体が無い
B 一切、全
C  無我
D  平等

色即是空 空即是色   と
一即一切 一切即一


>毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。


空の中には仏がいる

340 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 20:16:42.05 ID:2Zkj3bBO.net
無色定の最初の三昧行において空無辺処を観察する実践は初期仏教からあった。
表話編歴天とも呼ばれたが、物質的存在がまったく無い虚空の無限性の観想と
一番最初に「仮」観を超えた「空」観という発想が生じたことの間に関連性は?



大衆部が独立した動機の一つに
見解の齟齬があったのは間違いないが、その内の一つが在家など衆生救済に関わる点で
「在家の衆生も如来蔵思想によってブッダになれるんだ」という姿勢があったと思われます。

>大乗の教えは阿羅漢止まりではない。仏陀になれるんだ。と主張し、パーリ増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。
ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」つまり、自性清浄だが客塵煩悩によって汚れているとの仏説を根拠に、如来蔵が説かれるようになった。

341 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 20:18:36.51 ID:2Zkj3bBO.net
実際、心経は、読む人の心の成長の度合い、理解の深浅に応じて
幾らでも多様な解釈を許すとこがあって、色即是空≒一即一切という見解に傾きつつはあるけれど
例えば、五大の「空」から物質世界は生じたという解釈も有得るし
実際、ミクロのエネルギーの塊からビッグバンが起きて時空が生じ、虚空から(風火水地といった
運動エネルギー、熱エネルギー、物質粒子や分子構造、時空の歪みとしての重力及び)宇宙の秩序が生じたとか
さらに時空のもっていたエネルギーがヒッグス機構によって粒子に質量を与えたという科学的根拠も見出されており、
虚空から物質世界つまり「色」が生じたとも言え、その意味で現代人の科学的認識を前提に置いた場合でさえ
色も本来は虚空と一体のものである という解釈だって有得るとは思うね

342 :神も仏も名無しさん:2020/06/18(木) 21:02:47.42 ID:2Zkj3bBO.net
空の思想から言って、人は厳密に因果の鎖の中で運命決定論的に固定された存在ではなく
空があればこそ執着も捨てて縁起さえ変えていけるという根拠の一つではあったかなと。
つまり、大乗以前の教義はガチガチの因縁論に縛られ、皆、閉口していたと。

343 :神も仏も名無しさん:2020/06/19(金) 04:43:22.87 ID:+7/QOUL7.net
>最初期の金剛般若経において、世尊の説法として須菩提長老に

「自我」「個体」「生きているもの」などという想いは(※空であるが故に)本来はない。
また相(特徴)などというものも本来はない。
菩薩はそれをわきまえて、自他の差別をすることなく慈悲によって一切衆生を「悩みのない永遠の平安」という境地に導かなければならない。
(※この経典の時代には未だ空という言葉は使われてなかった)

というようなことが説かれています。

大乗仏教は、救うものも空、救われるものも空、無分別で平等であるが故に自他不二であり、だからとらわれることなく慈悲の心を起こせる、という菩薩
の道が説かれます。
空なればこそ利他行ができるということです。

344 :神も仏も名無しさん:2020/06/19(金) 07:55:41.26 ID:+7/QOUL7.net
ニカーヤなどでも あまりにもわざとらしくややこしすぎる叙述法のもありますね
ただ大乗にしろ、前のものにせよ
創作経典ではあっても
編纂者が真理だと確信した教説の精髄を要約する形で纏めたのなら真理の集成書と見て誤りでもない
それから個別向けの対機説法として行われたブッダの仏説を
智慧ある人が 本質を損なわぬよう発展させて
万人向けに(少なくとも参考になるように)本旨から外れぬよう普遍化させた説であるのなら
般若経典や十地品のように 方便になる経と呼べるのではないかなと。

>五蘊皆空であることは釈迦仏教でも説いている。十二処十八界が空であることも釈迦仏教が説いている。

345 :神も仏も名無しさん:2020/06/19(金) 08:17:34.75 ID:+7/QOUL7.net
・五蘊皆空であることは釈迦仏教でも説いている。十二処十八界が空であることも釈迦仏教が説いている。
しかし、四諦も12縁起も空と説いたのは般若心経だ。釈迦仏教ではそこまで説いてはいない。
これをどう解釈するべきか?

それは既に菩薩の悟りの段階に至った求道者が
役割を既に果たした筏は捨てねば・・・という
見道以上の段階向け

ボーディーサッターエー以降が(良い感じで)誇らしげに
菩薩のさとりを説く
そのすぐ前というとこがポイントだと思います。
おそらく説法者は修道以上の菩薩で
聞く側は見諦道の阿羅漢

346 :神も仏も名無しさん:2020/06/19(金) 09:40:18.47 ID:+7/QOUL7.net
「智」は、さとりに達する手段を示し、「無所得故」の「得」は、達せられるさとりのことをいう。

このような境地では、理法と智慧が渾然一体となっているので、あえて「一」と名づけたのである。

『法華経』や『涅槃経』などの枝葉末節をまとめて、根本に帰入させる教えは、
実に「無智亦無得 以無所得故」という十字に含まれる。
もろもろの教えの違いを、智慧ある人は観察しなさい。

詩にいう。
 蓮華を観察して、自らの心がきよらかであることを知り、
 蓮華の種を見て、心にあらゆる徳性がそなわっていることをさとる。
一乗の教えにおいて、主体と客体とが一つに溶け合えば、
声聞・縁覚・菩薩という三種教えは、仏という偉大な教えの中に自然に帰入してしまうのである。

「ハラソウ」という字は、顕教・密教の両種の教えを包んでいる。
一つひとつの声字を説明すると、無限の時間をかけても仏たちも極めることがない。
一つひとつの言葉の名称と意味は、無数におられる仏たちも極められることはない。

もしそれを読んで、よく保ち、講説して、供養するならば、あらゆるものの苦しみを取り除いて、楽しみを与え、
もしこの経典の教えを守り行い、思惟するならば、さとりを得るとともに、不思議な力すら身につけるであろう。
その経典の意味が深いと賞賛されるのは、まことにもっともなことである。
https://piicats.net/hikkenn.htm

347 :神も仏も名無しさん:2020/06/19(金) 13:52:51.39 ID:+7/QOUL7.net
本当に見諦道に入ったかは別として、少なくとも四諦という真理を知って
十二縁起の因果の連環中で生老死苦から離れようとする大衆に向けて
普遍的遍在的な苦の根源を空によって滅しようと
大乗の菩薩は考えたのではないでしょうか

348 :神も仏も名無しさん:2020/06/19(金) 21:40:01.46 ID:+7/QOUL7.net
無常であり空があればこそ
縁起も超越して解脱して行くことが出来る

349 :神も仏も名無しさん:2020/06/20(土) 10:36:28.17 ID:mbVXN5G2.net
スッタニパータの4・5・1等が最古層とするとテーラワーダ過激派とか今のスリランカ分別説部の信奉者から 見ると
大変都合悪いらしいんですね。ニカーヤは凄い飛躍があると
連中だってちゃんと自覚がある

経という色も空なり
幻想に憑かれた者がいたからこそ実体無き色が生じたのである。

>小学生の間で なんかの嘘をついたり、インチキなことやったりした時に 「大川隆法だ」って言われるそうなんだけど
苫米地もそれっぽくなってるよね近年。スマナサーラと関わったせいで可笑しくなったか
天台の寺と縁があったからって、観音菩薩も信じれないような腐敗僧の言説垂れ流すようじゃ修行も
しれたもんだったと

>部派〜上座部の歴史は虚妄であったと
分別説部の方が認めています。
八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍がありますが、
仏教史にはそのような飛躍の傍証となるような伝承が一切ない

つまり、般若経典が創作という以前に、原始仏典ですら既にその疑いがあると
信者は気付いてる

全ての経は後代につくられた色であり。そこには人の解釈も紛れ込み、
即ち是ら皆空なり

350 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 02:49:36 ID:aaL/pWDH.net
ガチガチの理系でも納得させるには「即是」の超越的翻訳力を要する。
空をエネルギー、色を物質質量とすると
色=E / Cの2乗  つまり空を光速の2乗で割る、というのが解になる。何を意味するか?
わかるかな?

色即是空を
E イコール エムシーの2乗
と訳した人いたかな? 質量とエネルギーの「等価性」を示してるんだよ。つまり
空即是色の即是の意味は「イコール 光速の2乗 ×」


光速の2乗で割る とは
原初のほぼ無限小ともいうべきエネルギーの塊を
虚空で微塵に砕くかの如く、さらなる極小単位で分割した と解釈し得る。
その結果あらわれたのが、ほぼ無限大の宇宙とも。
では、さらに虚空を際限無く 間に割り込ませることで宇宙の物質世界を生じさせたのは何か
それを考えた人もいる(そのうちの一人=「我」なり)

解は識であり、一心ともいう。
だが話はまだ終わらない。その上がある。
識さえも超越した無所有の境涯があり、無所有処という。何ものも真実には存在しないのだとさとる。
意識がどんどん微細になり、非想非非想処という境地に達し、真の「無我」に近付いていく。
そしてさらなる高みには 究極のニルヴァーナ

351 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 03:59:25 ID:aaL/pWDH.net
ガチガチの理系でも納得させるには「即是」の超越的翻訳力を要する。
空をエネルギー、色を物質質量とすると
色=E / Cの2乗  つまり空を光速の2乗で割る、というのが解になる。何を意味するか?
わかるかな?

空即是色を
E イコール エムシーの2乗
と訳した人いたかな? 質量とエネルギーの「等価性」を示してるんだよ。つまり
空即是色の即是の意味は「イコール 光速の2乗 ×」

或いは 空即是色の空即のあとで改行をしてみれば 分かり易いかも。
日本語には「行間を読む」という言い方があり、即はイコールで、そのすぐ後に 光速の2乗 ×
が隠れていると読む。

色即是空空即是色 の意味は「物質は元々エネルギーであり、エネルギーは物質としてあらわれ得る」と解釈することも可能
また実際には重ねあわされた雲のような空の状態である「真実在」から、確率的に縁起して現象が出現すると言い得るかな?

352 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 04:03:59 ID:aaL/pWDH.net
前半書き直しました

353 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 04:43:57.69 ID:aaL/pWDH.net
四諦を知って阿羅漢の悟りに達したり、十二縁起を独自に覚っただけでは
まだ他に法を説かない。ブッダが今なお崇拝される存在なのは衆生に法を説いたから。
だが成道後、何週間も法を説くべきか迷ったとも言われ、そのへんの逡巡に纏わる梵天勧請の伝説も残る。
つまり覚っただけではゴールとは言わず、寧ろ衆生救済のスタート地点に立ったと捉えるのが大乗の視点で
自分が覚るのも全ては衆生救済の為なのである。
また法を説いて衆生を救う段階の求道者が菩薩と呼ばれる。

ただ現代は厄介な時代ですね。ニセ如来ニセ菩薩が彼方此方に出現して似非仏教花盛りのようです。
大川隆法が如来ですか? 創価や真如苑などの名誉会長や教主などが何等かの仏に相当しますか?
熱狂的な信者からは、その如くに思え盲信させられたとしても、少なからず本当の仏教を知り、
智慧によって観察する者から見れば、彼らは哀れにも騙された獲物に過ぎないと喝破できると思います。

354 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 07:33:01.28 ID:aaL/pWDH.net
前に挙げた「エネルギーと質量の等価性」を示す式は特殊相対性理論の中の有名すぎる式だが
一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式に当てはめてみると
色は右辺の物質場の分布量と捉えられるし。
空は左辺の時空の歪み方を示す幾何学量と捉えることも可能で、これなら「即是」を只の等号と翻訳して終了です。
こちらにしましょうか

Gμν + Λgμν = kTμν =

上のアインシュタイン方程式は空即是色を表した式と解釈可能と思いますが
単に右辺と左辺をひっくりかえせば色即是空だよなんて説明で済ましてしまったら
いかにも分別説部のことば遊びみたいでつまらないし無意味。もっと多様な解釈を織り込んだほうが
この経典の解釈として適当な感じもします

355 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 14:17:34.03 ID:aaL/pWDH.net
あと五蘊皆空を五蘊非我つまり五蘊のどこにも我無しと
とる人もいます。つまり無常なるものは我がアートマンに非ずという無我相経
のアレですが、そうとると阿含と同じことになってしまうと思いますが、空を
照見する菩薩が主人公なので、そこで見ている「我」がいるのです。

心経に出て来る「無」はすべて「私のものでは無い」で、
色即是空も「この肉体も我が物に非ず」という
解釈はあまり見ませんが、それこそ正解に近いような気もして
きました。

空即是色は
元々我が物でない身体も縁により父母から授けられた物である。
色不異空は この肉体は外在的・非我的なものに外ならない


>業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。
しかし戯論は空においては滅びる。

心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993

五蘊皆空と照見した時には戯論は滅びて我という概念も滅する

356 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 21:31:52.96 ID:aaL/pWDH.net
通常人の一般的感覚からして
五蘊のうち、色・受・行、およびケンリツダヤ識・阿摩羅識を除く識は
「我が物に非ず」と理解し易いでしょう。しかし「想」は「我」が思っているのでは
と最後まで錯覚が残るというか観想の残像も多少継続し、完全な「止」に至らないと思うのです。
そこから、残りの一切をクリアするのが非想非非想処定から滅尽定に至るプロセスではないのかなと

357 :神も仏も名無しさん:2020/06/21(日) 21:56:25.28 ID:aaL/pWDH.net
応《まさ》に住する所無くして其《そ》の心を生ずべし

滞る事無く(執着心をもたず)して真実のさとりの心をおこ(発)すべきである

358 :神も仏も名無しさん:2020/06/22(月) 06:14:55.02 ID:U/V9xVBN.net
応無所住 而生其心
(おうむしょじゅう にしょうごしん)

359 :神も仏も名無しさん:2020/06/22(月) 06:54:49.03 ID:U/V9xVBN.net
五蘊皆空と五蘊非我は別物ですか?
心経の無や空は、どこにも我は無い と言ってるだけで色即是空は
「色蘊にも我は無い」と言ってるだけでは? 又この場合の「我」とは個我じゃなくて
法性、如来そのもの


色不異空 空不異色
肉体は外在的・非我的なものに外ならない。元々私のものでは無い父母より作られた肉体に外ならない。

色即是空 空即是色
この身体に我は無い。元々我が物でない身体も縁により父母から授けられた物である。

色は無常である。無常なものは苦である。苦なるものはアートマンにあらず。アートマンにあらざるものは、私のものにあらず。われにあらず。われのアートマンにあらず。このごとく正しい智慧によって如実に見られるべきである。
『阿含経』(無我相経)

弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう

360 :神も仏も名無しさん:2020/06/22(月) 12:45:23.72 ID:U/V9xVBN.net
>「恒久不変でそれ自体 自性のある実体」=「我」

本来、照見する我は一つでは?
ただ個別的な因縁によって下階層に位置する各人の五蘊に分岐してるだけ
大多数の人は覚ってないから五蘊が「我」と思い込む。
無為法の慧に拠ればわかる。


心経は勝義にまでは言及してない?
三世諸仏依ーあたりは、もう仏の悟りの話

大縁方便経だったか
「唯一にして絶対のもの
アートマンすなわち真我」とあります。

自ずとわかったのは、無我の意味で
我が無い  というだけでは誤解を招き
五蘊の中に我は無い または 五蘊は我に非ず

361 :神も仏も名無しさん:2020/06/23(火) 10:00:54.16 ID:y+rUZFLI.net
個人の因縁を完全に超越したブッダの視点から全てを見通すということです。
「私」という認識が残っている段階は、まだ誤謬の中で迷ってる状態。
完全な無私の段階まで行くと心のゼロ点と交わり、それこそがブッダの領域、
法身説法も受信できるようになる。

362 :神も仏も名無しさん:2020/06/23(火) 10:06:24.25 ID:y+rUZFLI.net
真俗二諦(しんぞくにたい)

漢訳仏典の中でも古い経典とされる阿含部の経典では二諦の語は『増一阿含経』第三の「阿須倫品」に説かれるものが指摘されてきた。
しかし、『増一阿含経』そのものが経典成立からいえば、相当に新しい部分の初期経典であるので、二諦の説をもっとも古いものとすることには問題がある。
といえ、二諦の語そのものは相当古くから用いられていた。

最も古いとされる、仏陀の言葉を直接伝えたものを多く含んでいると考えられる『経集』(suttanip?ta)に「パラマットハ」(paramattha)、「サンマティ」(sammati)という語があり、前者は「勝義」、後者は「世俗」を意味する。
しかし、ここでのこの二語は決して対語として用いられているわけでないから、後世の真俗二諦と同じようには考えられない。
したがって、真俗が対語として用いられるもので最も古いものは『ミリンダ王問経』ということになり、時代的には大分後のものとなる。

漢訳阿含経でみれば真俗二諦について、『中阿含経』第四十二巻「分別六界経」に
 >真諦とは、いわく如法なり。
 >妄言とは、いわく虚妄法なり
とあって、真諦と妄言ということで如法と虚妄法という形の二諦をといている。
これと同じような筆法で二諦を説くものを考えると、「世俗」(loka)と「出世間」(loka-uttara)、「第一義空」と「俗数法」、「世俗常数」と「第一之義」などがある。

363 :神も仏も名無しさん:2020/06/23(火) 10:07:34.96 ID:y+rUZFLI.net
>般若心経に説かれる波羅蜜多は、その原形が釈迦仏教にある。六波羅蜜の忍辱が、釈迦仏教にないと思ったが、
誰かがアングリマーラ経に忍辱行の原形があると指摘した。なるほど、アングリマーラが民衆から迫害された時、釈迦の助言は、耐え忍べ、であった。
妙薬は

根本智を得た覚者の二諦
世俗諦〜ことばによる説明で伝わる範囲の真理。
勝義諦〜ブッダの教えにおける深い真実、言語によって説明され得ない奥義。シニフィエ
最勝真実の道理のことで、諸法実相・真如・涅槃
ことばの持つ本質的な意味

364 :神も仏も名無しさん:2020/06/23(火) 11:38:59.16 ID:y+rUZFLI.net
>釈迦の時代から世俗諦や真諦についての概念はあったが、
釈迦の時代にはよく理解し合っていたので、二つの言葉の概念について記述する必要がなかった。

なお真諦を名色、受、想、行、識、心、心所、色、涅槃、触、意思、一境性、命根などとするのはテーラワーダなどの部派仏教の方式で、
大乗仏教だとそれらも空じられ真諦は空になる。

「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」

勝義に入れば悟りという言葉(名)・概念は当然なくなります。
しかり勝義に入れば悟りという言葉が示すものを体感することになります。

>真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。

後得智を使う菩薩は諸法の実相を知る根本智を得ているので、後得智で使う世俗諦は凡夫の世俗諦とは違って勝義の方を指しています。

阿含経では、悟った者の場合は聖八正道

>資糧を積み、聖八正道を守って、忍辱して禅定に精進すれば智慧が深まって悟る

365 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 01:24:24.03 ID:hRAxnRhW.net
心経は多様な解釈を許すところがありますが、
では市販本に書かれてるような解釈は 本当に正しいのでしょうか?

個人的には、ブッダの「世間は陽炎の如し」の ”世間”を五蘊(の一つである色蘊)と言い換えた
無常と無自性が融合したイメージを喚起する 出世間のことばと理解していましたが、
実は、空の意味として、他にⒶ無実体Ⓑ幻想・夢幻 等をはじめ、様々な表現が有り得ると判り、
又たとえば空をシンプルに 唯心と解釈したり、非我、人無我、法無我を表すとか、(一即)一切、全、自他平等無私の境地、虚空やエネルギー、時空の歪み、スーパーポジション、
(有無を超えた)妙有、中諦、凄まじい多面性のあるもの・貪欲や怒りを完全に鎮める方法、形而上的背景に支えられたもの、梵我一如、生死輪廻を超越する技法、
心の中心に具わっているゼロ点、真実在、理法、清浄、万物を包み込む母胎、無所有、浄化力、迷妄を消す方便、仏菩薩の内証の一側面、
現象の三世に亘る全相貌、空無辺処定により生じる智、無垢、透明化、妄執を滅する神通力を秘めたシニフィエ、一瞬で無明を消し去る力を有するキーワード、
三界の自在な往来法、六神通の素、如実知見法、浄真如、
無明のまよいをクリアするワイパー、誤解錯覚を覆し喝破し覚醒させる智慧の働き、理性を呼び覚ます内なる声、誤った認識を断つパワー、滅諦の実性、
法則、宇宙の最上位階層に位置する「情報」、思想、一境性、三昧境、無分別な把握法、無執着、一切に囚われない心境、完全に執着を離した状態の実現、
仏智による世界の直観的認識術、高度な透視能力、全てを見通す性質、煩悩の滅尽、寂滅、一心縁起、宇宙、仏がいる処、仏そのもの
 等々  幾らでも出てきます。(また全て、ブッダの心にある、言葉で表現される以前の無分別な究極のシニフィエとして
の真諦=仏教の真理に目覚めた人だけが知っている実相を指します)

色即是空解釈の誤り4
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1592925387/

366 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 02:58:40.86 ID:hRAxnRhW.net
無限の多様性を包含する超越的概念、概念を超えたシニフィエ、超自然的認識、如来を現わす力

367 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 15:11:46.12 ID:hRAxnRhW.net
大般若波羅蜜多経の要約が般若心経(という説が有力)、龍樹はその大般若波羅蜜多経の正しさを証明する書ともいえる大智度論を書いた僧侶、中観はその龍樹を祖とする仏教学派。


大般若波羅蜜多経卷第四百三

舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不染不淨。不増不減。非過去非未來非現在。
如是空中。無色。無受想行識。無眼處無耳鼻舌身意處。無色處無聲香味觸法處。
無眼界色界眼識界。無耳界聲界耳識界。無鼻界香界鼻識界。無舌界味界舌識界。無身界觸界身識界。無意界法界意識界。
無無明亦無無明滅。乃至無老死愁歎苦憂惱。亦無老死愁歎苦憂惱滅。無苦聖諦無集滅道聖諦。無得無現觀。
無預流無預流果。無一來無一來果。無不還無不還果。無阿羅漢無阿羅漢果。無獨覺無獨覺菩提。無菩薩無菩薩行。無正等覺無正等覺菩提…

ここで舍利子に説いているのは佛、つまりブッダ


>龍樹はこの十二支縁起をブッダの教えの中でも最も優れたもので、誰でもこれを正しく見るなら、その人はブッダそのものを知り、最上のものを見るとして、
全く否定はしていません。

>釈迦は12縁起を解したら悟りだとしている。

その「解する」というのは、それこそ真諦としてで、ブッダと同じ深さでシニフィエを
観じなくてはダメで、心経もそれを言ってる


心経が実体無いと言ってるのは
縁起自体じゃなく、それを悟ったとか錯覚した浅学者の幻想をズバリ
戒めてると

筏の喩え
https://www.kosonji.com/buddhismepisode/bep17.html

368 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 22:45:15.39 ID:hRAxnRhW.net
 真俗二諦

真諦は、「第一義諦」の項に、梵語パラマールタ・サティヤ(paramārtha-satya)の意訳。世俗諦に対する語。勝義諦・真諦ともいう。真如法性、真如実相などに同じ。言説を絶した仏自内証の正覚の内容であり、出世間の真理をいう。

俗諦は、「世俗諦」の項に、梵語のサンヴリティー・サティヤ(samvrti-satya)の意訳。第一義諦に対する語。俗諦、世諦ともいう。仏の正覚の内容について仮に説きあらわされたものをいう。


龍樹の真俗二諦

 龍樹は、仏陀が有と説く説法形式を世俗諦とし、空と説く説法形式を第一義諦とし、仏陀の説法に二種の形式があるとする約教二諦説を主張しているのである。
即ち『般若経』では諸法実相の妙理である第一義諦の境地を説くのに亦有亦無の世諦があるとしたのに対して、竜樹では世諦、第一義諦ともに中道実相の理を説く一つの表現形式であるとするのである。
かくて、世俗諦と勝義諦は対等の位置をもつことになったのである。

仏陀の聖なる教えは 二種の真理に依存している。
条件付きの真理と、 超越的真理である。
これら二つの真理の違いを 知らない者は、
意味深い仏教の真髄を 知ることができない。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6

369 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 22:47:35.34 ID:hRAxnRhW.net
最後のマントラは大般若波羅蜜多経にはない
また観自在菩薩も大般若波羅蜜多経には登場しなかったはず

世俗諦であるブッダの説法で第一義(勝義)に至った修行者はブッダの教えを捨て去るべきである。
ブッダの説法の中でも中核である十二支縁起も第一義においては捨て去るべきである、それに捉われてはならない。
そして、その十二支縁起は第一義に至るための最高の教えであると龍樹は勧誡王頌の中で王に説いているということです。


次に中論25章涅槃の最後の偈

二四 〔ニルヴァーナとは〕,一切の得ること(有所得)が寂滅し,戲論(想定された論議)が寂滅して,吉祥なるものである。
ブッダによって,どのような法(教え)も,どのような処でも,誰に対しても,説かれたことはない。

これは第一義の法は言葉で定義できるものではないので説かれたことはないということ。
その第一義に至るには世俗諦を用いなければならないのですが(中論24章)、その世俗諦の教えの中でも最高の教えは十二支縁起であると
龍樹は勧誡王頌の中で王に説いているということです。

次に般若心経ですが、本来言葉で定義できない第一義を世俗諦で何とか表現したのが是諸法空相以下であり、第一義においては
十二支縁起は捨てるべきですし実体がないので第一義として成立はしません
(説一切有部などの部派仏教では第一義においても法有を認める部派が殆どなので第一義でも十二支縁起は成立するのでしょうが)。
しかし、十二支縁起は間違った教えであるというようなことを般若心経で説いてるわけではないというのは勿論のことです。
この辺は空なればこそ四聖諦は成立するとした中論第24章で確認してください。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5343&id=66474415
般若心経で十二支縁起の次に無とされている四聖諦についての説明ですから。

370 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 22:49:05.77 ID:hRAxnRhW.net
般若経の空思想の影響を受けそれを理論化した龍樹と般若経の大般若波羅蜜多経を要約引用している般若心経との関係において、
十二支縁起はそのように見做されているということで、全てが同じ見做し方であり何も矛盾はありません。


>十二支(相応部の城邑経など経典によっては十支)を滅したところに彼岸があるので

無明滅すれば則ち行も減す、行滅すれば則ち識も減す、識滅すれば則ち名色も減す、
名色滅すれば則ち六入も滅す、六入滅すれば則ち触も減す、触滅すれば則ち受も減す、
受滅すれば則ち愛も減す、愛減すれば則ち取も減す、取滅すれば則ち有も滅す、
有減すれば則ち生も減す、生滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩も減する。

川を渡った時点で十二支は捨てられる、というよりも滅しているということになります

371 :神も仏も名無しさん:2020/06/24(水) 23:01:48.17 ID:hRAxnRhW.net
>どの道、十二支を滅して解脱したのならその十二支縁起の理法には執着せずに理法を手放すもの


ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァハー
行け 行け 彼岸に行け 彼岸に正しく行け
菩提(さとり)を成就せよ

>サイトによって微妙に訳が違いますがだいたいはそんな感じですね。

同じ真言を勿論唱えているチベット語の般若心経の訳だと↓
http://www2.tst.ne.jp/yakushou/madhya/madhya3.html

八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人が
もしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである。

372 :神も仏も名無しさん:2020/06/25(木) 06:18:35 ID:XeCO/xEF.net
>>327 327 351

八正道(三十七道品)を正しく実践することで「戒」めは自ずから身心に具わり
智慧の瞑想と禅定の継続的な修練で「定」と「慧」も修められる
つまり出家などせずとも
正定を中心とした八正道の実践をするだけで
仏教の真髄である三学「戒」「定」「慧」を修習できる事になり、
それを完全に行えたのがブッダ。誰しもがブッダと成れる道を歩めるのですし、実際
可能なのです。

・五蘊非我

通常人の一般的感覚からして
五蘊のうち、色・受・行、およびケンリツダヤ識・阿摩羅識を除く識は
「我が物に非ず」と理解し易いでしょう。しかし「想」は「我」が思っているのでは
と最後まで錯327覚が残るというか観想の残像も多少継続し、完全な「止」に至らないと思うのです。
そこから、残りの一切をクリアするのが非想非非想処定から滅尽定に至るプロセスでは


・五蘊皆空と照見した時には戯論は滅びて我という概念も滅する

個人の因縁を完全に超越したブッダの視点から全てを見通すということです。
「私」という認識が残っている段階は、まだ誤謬の中で迷ってる状態。
完全な無私の段階まで行くと心のゼロ点と交わり、それこそがブッダの領域、
法身説法も受信できるようになる。

373 :神も仏も名無しさん:2020/06/25(木) 06:35:52.55 ID:oP1VmaOJ.net
無私 では人間は生きられない。

私 という観念が、社会生活に支障をきたし、苦しみの原因となるのは真理。

つまり、その 私 とは 統失妄想。

統失妄想とは、自分の脳が作り出した 独り善がりの想像。つまり実態がない。空。

無私とは、つまり統失妄想からの解脱。

しかし、統失傾向は誰にでもあるもの。

ゆえに、統失妄想からの完全解脱は不可能。

しからば、統失妄想を自覚 することが肝要。

精神医学心理学的にも、

健全な自我とは、自分のシャドウを自覚している状態。

五蘊皆統失妄想 統失妄想=空

色即是空、空即是色。

はい!悟った!

374 :神も仏も名無しさん:2020/06/25(木) 06:52:00 ID:XeCO/xEF.net
>>372

無い、等と言ってるのじゃなく、「もう執着する必要は無いんだよ」と説いてるだけでしょう

五蘊皆空
五蘊は我に非ず 五蘊の中に我は無い

色即是空 空即是色
色蘊も我に非ず 元々我が物でなかった 外部の「実在世界」全てから 因縁により 五蘊が生じた
→ 自分というものの自我も(人間の身体や人格一切も)生きている時代の一切事物によって形成されたものである


観自在菩薩は智慧ある主体者として心経の説法者に選ばれ、五蘊の何処にも我が無いという微妙な真理を照見する「我」なのです。

375 :神も仏も名無しさん:2020/06/25(木) 07:08:45 ID:XeCO/xEF.net
325 327 351 370
無い、等と言ってるのじゃなく、「もう執着する必要は無いんだよ」と説いてるだけでしょう

五蘊皆空
五蘊は我に非ず 五蘊の中に我は無い

色即是空 空即是色
色蘊も我に非ず 元々我が物でなかった 外部の「実在世界」全てから 因縁により 五蘊が生じた
→ 自分というものの自我も(人間の身体や人格一切も)生きている時代の一切事物によって形成されたものである


観自在菩薩は智慧ある主体者として心経の説法者に選ばれ、五蘊の何処にも我が無いという微妙な真理を照見する「我」なのです。
アートマンが五蘊の中にアートマンが無いと照見するお経かもしれないが
そうだとすると それはやはり仏教の枠を超えた教えになり、それを示すために
マントラが添えられ、密教経典と呼ばれたりしたとか・・・

376 :神も仏も名無しさん:2020/06/25(木) 08:35:17.31 ID:XeCO/xEF.net
四諦も縁起も言葉で知っただけならブッダの悟りとは違い、まだ本当の等正覚では無いんだよというのが見道未満のビギナー向け
見道に達した段階向けには、役割を終えた筏にはもう執着せず、捨てよ と。

五蘊の中の十二縁起や四諦の中にも「我」は無い、
では何処に「如来」はいるのか? 空を照見した「我」は
完全に執着を手離した菩薩の覚りを得、
三世諸仏のように智慧方便によって無上正等正覚を得るのである。

377 :神も仏も名無しさん:2020/06/25(木) 20:02:16.71 ID:XeCO/xEF.net
金剛般若経

第三章


「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、
次のような心を、起こさなければならない。」
『生きとし生けるもの、
卵から、生まれ出たもの、
母胎から、生まれ出たもの、
湿気により、生まれ出たもの、
他から生れず、自ら生れたもの、
形のあるもの、と、形のないもの、
想のあるもの、また、想のないもの、
想があるでもなく、ないでもないもの、
そのほか、ありとあらゆる生けるものを、
私は、無余涅槃に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
もし、生きものという実体に、囚われるなら、
もはや、かれは、菩薩と、言えないからである。」
「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
もし、自我や生命という実体に、囚われたり、
もし、個体や個人という実体に、囚われるなら、
もはや、かれは、菩薩とは、言えないからである。」

第十四章

「しかし、師よ、実に、彼らには、
自己、人生、個人、個体という思い、
思いという思い、思わないという思い、
このような思いなど、生じることがない。
仏陀とは、一切の思いを離れたものゆえに。」

https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12291549474.html

378 :神も仏も名無しさん:2020/06/26(金) 02:40:37.96 ID:m+SyzR2B.net
>玄奘は
色不異空空不異色
色即是空空即是色
と2段にしてしまったが、
本来は、三段あったと、中村氏はいっている。
色性是空性
色不異空空不異色
色即是空空即是色

または、
色空空性是色
色不異空空不異色
是色即空是空即色
だそうだ。

これは、龍樹の縁起は即空、即仮、即中
に対応

>空においては
肉体、形 という名字(概念)すらも無分別智により滅するのに、苫米地氏の言ってることの方がおかしいと思います。
>空は概念ではありません、むしろあらゆる概念(名字)を滅したものが空であり言葉で肯定系で説明できるものではありません。
空を概念とする人は、空亦復空として空についてあれこれ戯論をするのをやめないと、勝者ブッダ によってどうしようもない人と呼ばれます
>一切皆空なのですから空即是色、受想行識亦復如是は文法としても成立します
>八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、
その人々を「何ともしようのない人」と読んだのである。
>また空は有と無の両方を含む概念というのも違うと思いますね。
有と無の両方を否定しているのが空性という方が正解に近い
>そして無〜無〜の連続はインドではなくて中国の思想だから偽経というのは偽経の根拠としては弱い
>元ネタの摩訶般若波羅蜜経や大般若波羅蜜多経はインドで作られましたが無〜無〜(na〜na〜)が続くのは同じです
>まずもって空は無を包摂してない、空を無理に言語化すれば非有非無の中道です

379 :神も仏も名無しさん:2020/06/26(金) 18:20:10.36 ID:m+SyzR2B.net
>「無と有の間をゆらいでいる状態」

素粒子の世界もそれだし、人生だって長いようでも結局それでしょ
誰しも死に向かって歩んでるんだし、突然逝く人もいる、
全存在も、五蘊も、「無と有の間をゆらいでいる状態」にある

それが空」の正しい解釈に近いです

いま最良の解釈の一つがわかったですよね
ただ自分は、他に十個くらい捨てがたいのを知っていますけどね

物質存在にしても人の五蘊(色)にしても
「無と有の間をゆらいでいる状態」 にある
「無と有の間をゆらいでいる状態」 から
まさに物質存在も人の五蘊(色)も生じたのである
それが色即是空空即是色の意味



「宇宙が一番、縮んだ状態」と
「宇宙が一番、拡がった状態」の間を往還してる訳ですね
ビッグバウンス説は。縮もうが拡がろうが宇宙は一個で不生不滅不増不減
それこそ「諸法空相」

380 :神も仏も名無しさん:2020/06/27(土) 01:49:28 ID:Uv/Fpm6K.net
参考意見
確かに縁起説は韻文経典には無く、後代にできたものですね
ちなみに最古層においてはアートマンも違和感なく肯定されています。
マハルシの名が出てましたが、案外ヒンドゥー教の方にブッダの教えが遺ってる
のかも知れません

弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう

・構成力から発生したものとは

>”常”(無常ではないもの)のことだと思いますが、それは仏典に記述があり、
まずはニッバーナ(涅槃)が常だとされ、次に虚空(我々の住んでいる宇宙がある空間)が常だとされます。

何ものも私、私のものと執着するべきでない
無常や無我、涅槃に対してさえも

381 :神も仏も名無しさん:2020/06/27(土) 09:43:40.64 ID:Uv/Fpm6K.net
訂正 378 ・構成力から発生したものとは  は
構成力から発生したのではないものとは  の間違い

構成力から発生したのではないものとは
>”常”(無常ではないもの)のこと
仏典に記述があり、
まずはニッバーナ(涅槃)が常だとされ、次に虚空(我々の住んでいる宇宙がある空間)が常だとされます。

何ものも私、私のものと執着するべきでない
無常や無我、涅槃に対してさえも


犢子部(とくしぶ、梵: Vātsīputrīya, ヴァーツィープトリーヤ)は、釈迦の没後300年頃に分派した、部派仏教の一派である。 ...
「主体が存在しない輪廻」の理解に苦しんだ後代の仏教徒が、
無我説と輪廻説をつなぎ合わせるために、苦肉の策として、無自性である五蘊の他に、死後も存続する補特伽羅を想定した。

>宗派によって様々な見解がありますが、
倶舎論(有部という部派仏教の一派が説いていた見解の解説書)では、貴殿が存在する宇宙そのものが刹那生滅を繰り返してると想定してた


>空性は真実 苦しみは一回性の人生に於ける現実

無明の一般人にいきなりそんな事を言って理解出来る訳が無い

命も借金苦も何時かは終わるとでも言っとけばいい

382 :神も仏も名無しさん:2020/06/27(土) 11:18:09.20 ID:Uv/Fpm6K.net
>色とは成仏の因である、(色即是空)
成仏の因より色を承けたのである
色という因と道諦の実践という縁により成仏という果を得るのである。

383 :神も仏も名無しさん:2020/06/27(土) 14:41:19.65 ID:Uv/Fpm6K.net
色と一切諸仏の因とは本来別のものでは無い(色不異空)
一切諸仏の因と色とは同じものなのである (空不異色)
色とは成仏の因である、     (色即是空)
成仏の因より色を承けたのである (空即是色)
受・想・行・識についても全く同じ事が言えるのである(受想行識亦復如是))
色という因と道諦の実践という縁により成仏という果を得るのである(行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄


五蘊を成仏の因と見る「空の境地」を得た人にとっては
客観的認識対象も
認識するための道具およびその認識自体、概念さえも
無に等しくいかなる実体的な意味も執着も無いのである

仏典に「常」と説かれたものとして二種あって、それは
涅槃と虚空です。だから空を虚空とすると無常な色と対立するので、ダメですが
「我が無い」とすると全部意味が通るのです。

384 :神も仏も名無しさん:2020/06/27(土) 17:14:20 ID:Uv/Fpm6K.net
ナーガルジュナも
「全ての誤った見解を断つ為に聖なる教えを説き示された
ゴータマブッダに礼拝いたします」と
記している



無常・苦・非我なるものは
無常・苦・非我なるものと如実に観察すれば
涅槃を知る事が出来、またその逆も真

プッタタートという20世紀タイの高僧も
「何事も私、私のものと執着するべきでない
という教えが、三蔵中のたった一粒のダイアモンドです」と言っている。
そうまで言ってくれている「たった一粒」を心経の空と「無」に当てはめれば全部意味が通る。
五蘊にも我は無い(私のものは無い)十二処、十八界にも無いし
覚ったと思った縁起や四諦ですら自分のものでは無い、執着する理由は無い、
菩薩は全ての囚われから解放されて真の自由を得ている・・・
そういう事

385 :神も仏も名無しさん:2020/06/28(日) 04:45:37 ID:PCxJ5dgY.net
もちろん空=「アートマンが無い」や「アートマンに非ず」とも解釈でき、無我と解釈する方もいる位なので
空をアートマンと訳す訳にはいかないと思いますが、ヤージュニャヴァルキヤのアートマンの定義に近い印象を受けています
「この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。しかし一方では、
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。
したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であって、
アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないこと」

つまり上記定義に該当するものが無い というのが 心経における空や「無」の意味になるのではないかなと、
また心経における真の空の意味をプラクリティ(梵)と捉える人もいます。
一説には、仏教は五蘊の解釈を勘違いしたという指摘もあります。(五蘊は全て意識原理なのに色を物質原理とした等。

imoさん
>「存在」である「自分」は、いくら探しても見つかりません。(「存在と時間」を書いたハイデガーは、何とか「存在」を取り出そうとしましたが、
成功していません)

私たちは、身体、顔、心、名前などを「自分」と勘違いして、これらにアイデンティティーを抱いているのです。(これが「自我」です)
このアイデンティティーを、本当の「自分」に転換することができれば、それが悟りです。その時、本当の「自分」は、時間も形もない、
ただ「ある」としか言えない存在であることに気づくのです。

それは言葉に表すことができません。般若心経の言う通りです。

386 :神も仏も名無しさん:2020/06/28(日) 12:32:02.81 ID:PCxJ5dgY.net
是故空中無色
空の中では色という区別されるようなものはない

是故空中 を死後の世界においては と解釈する人もいるようです。
また、空を悟った境地にあっては 空の境地を身に着けたならば という風に訳す人も。

完全に無分別な智慧が生じ、五蘊の何処にも照見する我は無いことを覚知する。

387 :神も仏も名無しさん:2020/06/28(日) 13:52:06.74 ID:PCxJ5dgY.net
五蘊とは意識原理である。意識原理から五蘊が生じたのである。


空の境地を身に着けたならば
この世界が心からのみ成り、外界の対象は存在しない事が理解できる。
(意識原理の中では、この世界が心からのみ成り、外界の対象は存在しない)
幻や影のように実体が無い現象世界は、名前のみある仮の姿にすぎない
(空の中では、対象世界も 認識のための道具も 認識自体も 概念さえも全て実体が無い)


>韻文経典では、十二支縁起説は説かれておらず、無我ではなく非我が説かれ、アートマンが積極的に承認されています。
最古層に属する経典がそうなのであり、実はスリランカ系統こそ飛躍に満ちていて、後代に分別された説との声もあります。

388 :神も仏も名無しさん:2020/06/28(日) 21:04:18.41 ID:PCxJ5dgY.net
「是故空中無色」→空においては色(肉体・物質)には実体(自性・本性)は無い
「色即是空」→色は即ち空である(故に色には実体は無い)
同じ意味になります
>>是故空中無色は、色は無である、ではなく、空の中には色(色法)は無い、
ですので、色の本性を無としているわけではないのが色即是無との違い

摩訶般若波羅蜜経巻1奉鉢品

菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。
何以故。舍利弗。但有名字故謂為菩提。但有名字故謂為菩薩。但有名字故謂為空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。〜(以下略


というように「色即是空空即是色」はインドで作られた般若経の常套句ですが、サンスクリット原文だとどうなっているか

>煩悩はそのまま煩悩でしょう。
本能や生存欲求に基づく欲求は煩悩(渇愛)とは別でしょうね。
「諸法(諸々の事物)はただ名字があるだけであるがその名字故に戯論や邪見が生じる」というようなことが大般若経や大智度論で繰り返し説かれており、
名字を見ないで諸法はただ空であると般若波羅蜜を行えば戯論や邪見が滅し、業と煩悩も滅するということです
それには、業や煩悩自体が名字であり空であるという般若もあります

389 :神も仏も名無しさん:2020/06/28(日) 21:12:58.22 ID:PCxJ5dgY.net
他にも例えば、金剛(ダイヤモンド)や金、お金なども本性は空であり実体はない、故に他と分別しないという無分別智の般若波羅蜜を行えば、
人の煩悩の基となる「生滅」「浄不浄」「増減」も滅するので煩悩も滅するという行(観行)もある
それが般若心経で説かれている「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」の六不中道です。
ちなみに「不生不滅」は不生不滅の実体があるというわけではなく、自性としても他性としても、自性と他性の合一からも、無因からも
生じたり滅したりすることはないという意味です。

「中論」 第1章 原因(縁)の考察
一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの
(無因生)も、あることなし。
要するに諸法が減少として在るのは縁起に依るもので仮であると、それが「空即是色」ということ

390 :神も仏も名無しさん:2020/06/28(日) 21:57:50.17 ID:PCxJ5dgY.net
『空においては色の名字(概念)は無い』

中論の
業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から〔起こる〕。 それら〔分析的思考〕は、戲論から〔起こる〕。
しかし、戲論は空性(空であること)によって 滅される

心の作用領域(對象)が止滅するときには、言語の作用領域(對象)は止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)の如くである。

391 :神も仏も名無しさん:2020/06/29(月) 00:13:48.34 ID:q4WREbLc.net
>>386

今生でも死後の世界でもないと思いますよ

あらゆる物事が尽きた事を仮に空と呼んでるだけで空すらも空ならば「空なる世界」もまた存在と非存在のどちらにも属さないのだと思います

392 :神も仏も名無しさん:2020/06/30(火) 03:36:36 ID:79B/p0VV.net
>中論頌を読む限りにおいては、
二諦によって、中に導くという感じがします。
また、心経そのものは、
色即是空 空即是色
世俗義、勝義
そして、心経そのものは中
つまり、実相
実相というは、非相、故に実相
呪、故に、現量

・煩悩に対する複数の見解
坐得断(坐禅によって煩悩を断じるを得る)
煩悩即菩提
>密教となると欲望・煩悩は
「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」
「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」
「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」
「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」
と大欲をもって小欲を制す、そのためにも発心するのだと空海が説いていたとあります↓。
http://www.kurusonzan.or.jp/information/shingon.php

こちらのゾクチェン僧?が顕教・密教・ゾクチェンでの悪(煩悩も含んでいるでしょう)への対処について上手く説明しています。
https://youtu.be/AdaAvc44-3A?t=88

正法眼蔵   「生死(しょうじ)」という章では

「生死の中に佛あれば、生死なし。(略)ただ生死すなわち涅槃(ねはん)とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし
このときはじめて、生死をはなるる分あり。」

ここで生死を迷いとするか輪廻とするかで解釈が分かれるようですが(輪廻の場合でも輪廻を「迷いの生」と言ったりするので大差はなさそうな気もしますが)、
迷いだとして迷いを厭わず涅槃を貪るように願ったりしない、その時初めて迷いを離れることが出来るとしています。
これだと煩悩も迷いの内ですから煩悩を除こうとしてはならないに繋がるかもしれません。

>アビダルマにも無因唯作心っていう見解がある。
唯する事は業を生じないって趣旨で、それをそのまま道元禅師の思想に当て嵌めて考えるのは?

393 :神も仏も名無しさん:2020/06/30(火) 04:00:46 ID:79B/p0VV.net
己の煩悩を断じ尽くしたならば、
次は見道から修道へと菩薩の階梯を一段ずつ上って行くように
衆生救済、他を輪廻の苦しみから解脱させる実践行に移して行くのです。

>ブッダの聖句「無論争の境地を安穏と観ぜよ」を四聖諦に当て嵌めると
論争をしたくなる執着、我執、三毒等が集諦、
八正道を実践して、妄執を離れ、執着を持つ醜さ、無意味さを知るのが道諦
無執着(無論争)の境地(=空)に至って、涅槃寂静を得る のが滅諦

苦と云うのが言語によって分節された戯論であり、空を概念として仮に捉えた幻
苦と云うのが空性であることを覚知しないから苦なのであり
空性であることが覚知されれば苦は当然に消滅する
苦は空の中に滅される

受け流すことが できる根本の心
忍耐とかともまた違う
もっと完全に解放された寛容でクリアーな心境

394 :神も仏も名無しさん:2020/06/30(火) 04:08:27 ID:79B/p0VV.net
空を照見する観自在菩薩は、実はアートマンの象徴かも知れません。

スリランカ系統の南伝、分別説部の悟りというのは、何かが削ぎ落されている
低い段階のものかも知れません。
注意しましょう

395 :神も仏も名無しさん:2020/06/30(火) 12:11:34.00 ID:79B/p0VV.net
日々是好日さん2019/9/1321:35:53
何が輪廻転生するかといえば、魂ということになろうかと思います。
ただ、おそらく魂の中心部たるアートマンについては、大宇宙大生命と一体化したものであり、輪廻転生をしないと言えるのではないかと思います。
なぜなら、おそらく、アートマンは輪廻を超越し、魂の輪廻の様子を照覧するものだからです。
このアートマンが真我、つまり、我々がハイヤーセルフと呼んだりしているところの、究極的な「我」なのではないかと思うのです
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12213500432

396 :神も仏も名無しさん:2020/07/01(水) 03:37:44 ID:ga+M17Sp.net
名字をつけないことによって実体視を避け執着を手放すのが般若波羅蜜、そしてそれこそが無分別智による、名を付ければ悟りであり涅槃であり、
それはこの世界で実現される

道元は更に進んで、悟り・涅槃を実体視して追い求めることなく、悟りの世界・涅槃であるこの世界(生死)に身心を脱落させる



生死の中に佛なければ、生死にまどはず  とは、
五蘊の中に我非ざれば、諸法に惑わず

五蘊(色、諸法、物質界)の中に我非ずと照見するなら、即ち真理が会得され、是により生死の迷い自ずと空じらる(消滅する)

397 :神も仏も名無しさん:2020/07/01(水) 11:29:32.71 ID:ga+M17Sp.net
心経は
唯識の資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位を前提に説かれてる。
修習位以上から通達位以下への説法ととるなら、無苦集滅道も全く自然である

またパーリ仏典の仏種姓経では十波羅蜜が挙げられ、
布施、持戒、出離、智慧、精進、忍辱、真諦、決意、慈、捨  となる。

はっきり言うと上座〜分別説部の歴史は虚妄であると分別説部のものも認めており、
ブッダの教えを正しく理解するには、大衆部〜大乗の流れにまで散らばる真仏説を
慧眼と択法覚支によって、正しく選び取る必要がある。
正しい理解なくして正しい体得は無い。妄分別された虚妄のニカーヤには要注意。

398 :神も仏も名無しさん:2020/07/01(水) 11:52:14.30 ID:ga+M17Sp.net
五蘊(色)の中に我非ずと照見するなら、即ち真理を体得し、是により生死の迷い(執着、苦の起源)を 空じる(消滅させる)事が出来る


1160 五種の構成要素(五蘊)を、[アートマンとは異なった]他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、
微妙なる真理に通達する。――毛の尖端を矢で射るように。
  1161 またもろもろの形成されたもの(諸行)を[アートマンとは異なった]他のものとして見て、アートマンであるとは見ない人々は、
精妙なる真理に通達した。」
(「テーラガーター 仏弟子の告白」中村元訳 岩波文庫)

399 :神も仏も名無しさん:2020/07/01(水) 12:30:48.90 ID:ga+M17Sp.net
諸法(五蘊)から完全に心が離れたときに、「それ」(照見する我=真我)は顕れるのです。
>ですから、「知る」とは言わずに、そのことを「悟る・覚る(自覚する)」と言う

|1159 もろもろのつくられた事物は、実に無常である。
| 生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。
| それらの静まるのが安楽である。

|1160 五種の構成要素(五蘊)を、
| [アートマンとは異なった]他のものであると見て、
| アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
| ――毛の尖端を矢で射るように。

|1161 またもろもろの形成されたもの(諸行)を
| [アートマンとは異なった]他のものとして見て、
| アートマンであるとは見ない人々は、精妙なる真理に通達した。」

| (「テーラガーター 仏弟子の告白」中村元訳 岩波文庫)


|「もろもろの原因から生じ、壊滅するものである
| もろもろの形成されたもの(諸行)を
| (自分とは異なった)他のもの(わがものではないもの)であると見なして、
| わたくしは、あらゆる煩悩を捨てました。
| わたくしは清涼にしてやすらかなものとなりました。」

|(「テーリガーター 尼僧の告白」中村元訳 岩波文庫)
https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/03561d0502ed182a2755c341d2b80ae4

400 :神も仏も名無しさん:2020/07/01(水) 20:56:58.14 ID:ga+M17Sp.net
ブッダのオリジナルとバラモン教は そんなに距離は無いという見方もあります。
ウパニシャッド系の行者と見る見方です。ただ行法が独創的で
九次第定とか優越性がある。だからあちらも影響されたし、実際ヒンドゥーでも
神の扱いです


>舎利子は神通の証が無いのにブッダに阿羅漢と認められてる
神通が無かったという話が初期大乗経典で弄られてるだけ

401 :神も仏も名無しさん:2020/07/01(水) 22:44:48.23 ID:KZV69FVP.net
>>400

ええっと‥私のレスを引用する主意はなんでしょう?

402 :神も仏も名無しさん:2020/07/02(木) 04:32:02 ID:wijWJw5L.net
仏説に「名があらわれて色があらわれる」とあり、
名無ければ無色も色も同根。即ち是を空と説いてるのでは?
(老子の「名無きは天地の始」とほぼ一緒)

>17・2
涅槃は世間と、少分の別も有ること無く、
世間は涅槃と、少分の別も無し。

> 空即是色、唯識でいう色即是空の根本智を得た後の後得智 ?
ととる見解もあります

403 :神も仏も名無しさん:2020/07/04(土) 06:10:53 ID:SBP5NdJn.net
>>401
神通があると確信を持っていた大乗の菩薩が
神通のあらわれない阿羅漢に説く
という設定にこそ、意味があるかも
知れません

404 :神も仏も名無しさん:2020/07/04(土) 09:44:15 ID:aND1sllN.net
>>403

それは判るのですが 貴方のレスと私の文章の繋がりが見えません

>ブッダのオリジナルとバラモン教は そんなに距離は無いという見方もあります。
>ウパニシャッド系の行者と見る見方です。ただ行法が独創的で
>九次第定とか優越性がある。だからあちらも影響されたし、実際ヒンドゥーでも
>神の扱いです

405 :神も仏も名無しさん:2020/07/04(土) 14:25:09.38 ID:SBP5NdJn.net
歴史的事実とか厳密に検証しようとか言い出すと諸説あり、
そういう些事に執着していても無意味
そもそも仏教とはブッダの死後、弟子たちによって作られたものとも言え、
各自が各論に拘泥せず、覚りに向かう姿勢が大事というような例ですね

406 :神も仏も名無しさん:2020/07/04(土) 17:07:42.61 ID:aND1sllN.net
>>405

ああ そういう事ですか?

あのレスで私が言わんとした事は神通は必ずしも悟りの証とはならないという事でした

神通に拘り過ぎて其処に止まってしまって理解から遠ざかる人達もいますからね

手段と目的が違うというか

407 :神も仏も名無しさん:2020/07/05(日) 07:21:42 ID:ncTS6RTU.net
当然の話ではありますが、小学生向けにも、良い教材と思われる文章ありましたので掲載します。(非我の最終的見解については、影響されないよう無執着で)

弘法大師の
>密教は、一切法自性清浄、一切法平等、於一切法皆得自在、一切法無戯論性、清浄法界性智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の四智が至る所に遍満
している)、
そして理趣経「十二段 (有情加持の法門) 外金剛部の巻」にある「かくて、(曼荼羅においても)如来や菩薩のはるか外にある仏法の守護神である
外金剛部の諸天も、(如来蔵を有するが故に)自己の本質において、宇宙そのものである大日如来の化身であることを悟り、
大日如来自身の境地に入り、〜
という風に説かれ、『般若心経秘鍵』での迷悟も本性においては清浄(無分別)で平等で無戯論 と解釈する向きもある。

道元も現成公案の序文にて

諸法の仏法なる時節,すなはち迷悟あり,修行あり,生あり死あり,諸仏あり衆生あり。 
万法ともにわれにあらざる時節,まどひなくさとりなく,諸仏なく衆生なく,生なく滅なし。

と身心脱落して(初めて)勝義に至りそこで迷悟がなくなるというようなことを説いている

408 :神も仏も名無しさん:2020/07/05(日) 07:25:26 ID:ncTS6RTU.net
・智慧を得て解脱するためには「観」の瞑想を行うのですが、深い智慧を得るためには、まず、何か一つのものだけに集中し続けて、
言葉による認識のない状態でその対象との一体化を目指す「止」の瞑想が必要

小乗仏教でも、まず、呼吸など40種類の対象(四十業処)に集中する「止」を行って集中力を高め てから「観」に移ります。
「止」を行う際、集中する対象を指す言葉を繰り返し唱えながら集中することもあります。例えば、呼吸に集中する場合は、
「息を 吸った、息を吐いた」と繰り返し唱えます。

これに対して『般若心経』が説いている「般若波羅蜜多」の瞑想法は、「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中する方法


禅定すること自体は空海も大いに勧奨し
『般若心経秘鍵』の発起序にも「無辺の生死、何んが能く断つ 唯だ禅那正思惟のみ有ってす」とあります

>般若心経の最後の真言は空を観ずるためにまず止の瞑想を行う、
そのための真言で真言にのみ集中して止を行い集中力を高めてから空の観の瞑想(空観)に至る
との解説もあります。
>『般若心経』で述べられている「空」の思想は、
「観」の瞑想をするための指針
>北伝アビダルマ(説一切有部系)の修行道は『阿毘達磨倶舎論』に、大乗仏教の般若経系の修行道は『現観荘厳論』にまとめられています。
般若経系の修行道は、北伝アビダルマの修行道を、空思想と菩薩の利他主義の観点から組み直したもので、「五道」という形にまとめられています。
『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。具体的な説明はしていませんが、
「般若波羅蜜多」の修行は「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法を使った修行

真言を唱え
自分が体験していることや外界の存在などの現実を対象にして観察 します。
日常的な主観を排除して、『般若心経』で述べられている「空」の教説に沿って、自分がそれらに対して妄想や執着を持っているけれども、
実際にはそ れらが存在しないこと、つまり、「法」も含めてすべては「空」であると理解します。

409 :神も仏も名無しさん:2020/07/05(日) 15:24:32.80 ID:o01dW3v3.net
大変面白くて有り難いのですが 理趣経を含む五部秘教に当たる経典や修行法の公開は謹んで頂きたく思います

真言宗に於いて独習独行は厳禁とされており 在家信徒及び門外への公開もされておりませんので 御協力頂ければ幸いです

古くから被りと呼ばれる奇怪な現象や不運の連鎖が言われており 我々はそれを恐れる次第です

410 :神も仏も名無しさん:2020/07/05(日) 22:09:39.13 ID:ncTS6RTU.net
菩薩に恐れはありません。また真言宗でもありません。
歴史的に見て、密教も元があるものですから、これは歴史的アプローチが賢明な
ケースといえましょう。カルトの不幸の手紙擬きの書き込みはスルーで。
(反応からして、かなり良い情報みたいですね)

411 :神も仏も名無しさん:2020/07/05(日) 23:35:25.69 ID:o01dW3v3.net
>>410

貴方が真言宗でないのは内容を見れば判ります

我々在家でもネットが無ければ本来知る事の無い情報を危険性も知らずに拡散して 密教に関しては無知同然だと知らしめてるのですから

まあ自己責任ですから 注意は一度だけです

それが正しいと思うのならご自由にどうぞ

法の報いを怖れない方には付ける薬も有りませんので

412 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 08:10:27.96 ID:oOA2xGPq.net
>>407-408

>ブッダが中観の立場で説いたとしても、説かれる側が仮や空観だったなら、その水準の解釈の仏説しか残ってない事になる。
声聞が聞いて伝えた説は、全部声聞の色眼鏡を通した声聞の理解でしかない。現在残されている仏説中に本物があったとしても
結局クオリティはそんなもの。それから密教ってのは、悟りを追求したのは間違い無いとしても、これも仏教だと断言するのは
恥ずかしいし誤解を招く可能性が高い事に気付き恐怖して、秘密とした面もあるね


般若経典に相当する内容を
生前ブッダが説いていたとしても、それを聞いた智慧無きものや
後代の理解力のない部派は「意味わからん」と勝手に分別した可能性
あるね

>>410
少なくとも只の恐怖心満載真言オタクから教わることは何も無いです。
さようなら。

413 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 08:31:12 ID:oOA2xGPq.net
現在でも高野山では、毎朝お大師さまに朝食を運んでいますね。
それは興味深いことですが、そうした進行から派生した戒禁取見を一般の正しく仏教を学ぶ者に押し付けるのは
狂信迷信者の妄念が為せる業にも見えます。
我々が見据えている覚りはもっと広く高い水準のもの。
いまや密教も仏教全体から見渡せば枝葉末節とも見え、ほんとうに学ぶべき事も
ほんの僅かしかありません。その、
ほんの僅かを知らせない為の粘着は妨害でしかありません。
以後、スルーします。

414 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 09:21:12 ID:oOA2xGPq.net
405-406で取り上げられた本は自分も持っていますが、
上手に要約できてると感じます。感謝いたします。
その本を出版したことで高野山大学長や出版社に祟りが起きたという話は
聞いたこよありません。

415 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 11:22:21.01 ID:Q+7r2Wai.net
>>412

教えるのは私では有りません

貴方が教われるかどうかも知りません

危険だと言ってるだけですので もし経験したらその時に学習すればいいだけですので

さようなら

416 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 11:32:02 ID:Q+7r2Wai.net
>414

出家修行をされた方よりも独行した者に害が出るのですが ご存知ないならそれで良いですよ

417 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 12:08:39.52 ID:oOA2xGPq.net
盲信者が誰かに押し付けてるのは戒禁取見です。
誤った戒律や誓いを守らせようと他人を騙して脅す行為で不妄語戒も犯しており、
様々な誤った見解を閲覧者に植え付けようとしてる。本来の仏教は妄想とは無関係だ。
戯論は空によって滅される

418 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 13:08:15.22 ID:Q+7r2Wai.net
密教で昔から禁じられてる事で実際に害になる場合が有るとお伝えしてるだけですので 押し付けには当たりません

既に申し上げた通り注意は一度だけですので 後はご自身の器量でどうぞ

419 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 15:37:12 ID:oOA2xGPq.net
迷信を押し売りするのが仏教ではないという事
しつこく粘着するようなのは仏徒とは言えません
嫌がらせでしかありません。粘着者の行状をよく観察し、反面教師としま
しょう。信じる必要はありません。

420 :神も仏も名無しさん:2020/07/06(月) 15:40:22 ID:Q+7r2Wai.net
話は終わっているのに どちらが粘着してるのか

421 :神も仏も名無しさん:2020/07/08(水) 04:10:42 ID:+jpkd5iU.net
中観派の我論

 ナーガールジュナの著述でそのような仏教理解を示したものとして, 『中論』 18 章の
「もろもろのブッダは 「我 [が有る]」 とも仮説し, 「我が無い (無我である)」 とも説き,
また 「いかなる我も無く, 無我も無い」 とも説いている」 (6偈) が挙げられる。
チベットの伝統で重視されるチャンドラキールティの 『中論』 註(4) はこの箇所を, それぞれ,
1 不善をなす者に, それをやめさせるための教え,
2 善はなしているが実体視に縛られている者に, 涅槃への渇望を生じさせるための教え,
3 涅槃に 近い者に, 我はないが無我もまた実体ではないことを説く教えとして説明している。
他には 『六十頌如理論』 に, 「愚かな人たちは物体 (色) に愛着する。 中間にある人たちは貪りを離れる。 物体の本性を知る最高の智慧のある人たちは
解脱する」 (55 偈) という教えが見られる。

 釈尊が様々な異なる教えを説いた理由について, ナーガールジュナは 『宝行王正論』 で, 文法学者も初学者にはアルファベットから教える
という喩 えを挙げ, 相手の能力に合わせて異なる教えが説 かれたと説明している。

「文法学者は字母のようなものでも教えます。
そのように, 仏陀は教化の対象である人びとの 能力に応じて, 法を説かれました。
そこで, ある人びとには罪悪から逃れるように法を説き, ある人びとには福徳を完成するように法を説き, またある人びとには両者によるところの法を
説かれました。
また, ある人びとには, 両者を超え, 深遠であり, おそれる人を畏怖させる法を説き, ある人々には, 空性と慈悲からなり, 菩 提を完成する方法を持つ
法を説かれました。」 (『宝行王正論』 4 章 94󿰀96 偈)

422 :神も仏も名無しさん:2020/07/08(水) 04:16:25 ID:+jpkd5iU.net
>末那識の錯覚を消そうと努力し、個我意識が薄れ五蘊のみ意識されるようになるのが唯蘊無我心の段階の瞑想
阿頼耶識・諸法の縁起を覚り、業の因となる種を伐採しようとする心が抜業因種心
阿頼耶識・諸法が唯識のみであると覚り、仏縁・無縁乗に目覚め、(弥勒菩薩の瞑想の門・大いなる慈しみの瞑想・すべての如来の大いなる慈しみが
無量であるのを覚知する)大乗の菩提心を起こすのが他縁大乗心

423 :神も仏も名無しさん:2020/07/08(水) 12:57:52 ID:+jpkd5iU.net
>諸法非我の意味での諸法無我…ダンマパダの「「一切の事物(ダーマ)は無我(アナッタ)である」(諸法非我)
と 明らかな智慧をもって観るときに〜、の諸法無我

>大乗仏教の法無我の意味での諸法無我…一切事物(諸法)に実体はない、の諸法無我

物質界、現象世界のもの事というのは無常で実体視しようが無いものであり、執着するに値せぬものである

424 :神も仏も名無しさん:2020/07/09(木) 10:59:10 ID:Ajqhe2eu.net
5ch上やカルト運営側から企図された情報には、様々な悪覚者による洗脳用の誤った理解に陥れる言辞や
そもそも気付き以前の迷信・盲信・狂信に属する書き込みが多種ありますので注意を要します。
あくまでも客観的な参考資料として受け流しましょう
(下記はまだ良いほうの事例)

>南宗
  達磨−恵可−僧?−道信−弘忍−慧能
  (仏性顕在論、煩悩即菩提、定慧等学)

 馬祖禅
  即心是佛、作用即性、平常心無事
 
 石頭禅
  馬祖禅批判、本来の自己(我と渠)

>思量せず知るのが ”本有円上の活仏心” で、その不生を守
れとする

>それ(思量しないで知る(=唯識でいう現量))は ”受(五蘊の第二)” に過ぎず、 ”受を受けぬのが正受である” のだ。
>(見聞宝永記 面山瑞万 より要約
>本体(渠)と作用(我)の関係において、本体というものが作用を離れてあるのではありません。
しかし、作用即性

>自分を見ない、評価しない(至道無難唯嫌揀択)、ということだから、
自己を忘ずるとか、身心脱落とかへ向かう方向性と合致
>思想の違いがある、ということじゃなくて、表現が違うだけ

425 :神も仏も名無しさん:2020/07/09(木) 12:45:28.84 ID:Ajqhe2eu.net
>顕密のボーダーラインも曖昧化してて、禅問答の中にも密教の深秘釈に相当する内容が含まれる場合があるね。それが有害というなら
そもそも密教は危険思想だとか言ってるのと同じであって、それもやはり狂人妄想の世界。。、

>深い覚りの内容を語ってはならぬというなら、それはそも覚りじゃないし、
逆に容易に深義は理解できず、長文説明要するものかも知れず、
本当に禅問答向き。原始仏典では伝承がムリだった世界

>「語ってはならぬ」というのが、密教のことでしたら、それは
誤解。

>密教が秘密の教えなのは、誤解されるからで、人を見て、理解出来る人には積極的に語るようにと説かれてます。

426 :神も仏も名無しさん:2020/07/09(木) 12:49:06.96 ID:Ajqhe2eu.net
たとえば世間法即ち涅槃 とは、どういう意味ですか? という世間一般人からの質問への答えになり得るレスが
このスレにも幾つかあったように見えますが、しかし中村元氏の引用だけをもって皆が完全に納得できるかというと、
まだ釈然としない人が多いと思うのです、道元も最初から「人は皆本来覚っているのなら何故修行の必要があるのか」と思ったそうですが、
では天台本覚思想の優位を証す核心はどの辺でしょうか?


『「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察』での

九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

の中村元先生の解説
「われわれの現実生活を離れた彼岸にニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。
これに反してその同じ事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。
輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に期するものであって、それ自体はなんら差別のあるものではない。」


輪廻も涅槃も無い  道元さんの「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」の境地
つまり本当のところ在家者の境涯の中にこそ、既に出家者に勝る涅槃がある場合もある
と、そう納得できる説明にどのようなものがありますかね

427 :神も仏も名無しさん:2020/07/09(木) 14:37:16 ID:Ajqhe2eu.net
>真如を非限定と見て、修行が限定行為であればそれは余計な業を重なるだけって事になるけど、修行が非限定(無所得・無所悟)
なら良し

>非限定は一であって空、限定は多であって色
とも云える。しかし、
>非限定と限定は相即相入・非同非異になる
>限定された我々がどこまで非限定に溶け込んで(仏果を感得して)いける
ぁを修行と見る立場
.理性起(因) 〜 生まれながらに仏性を有する
 2.行性起(プロセス) 〜 修行によってそれが明らかになってゆく
 3.果性起(結果) 〜 仏果を感得する

>日本の禅宗の方々は、台密も学んでて、
台密には東密も流入してるけど、あまり禁忌がどうとか騒がないから
自然に深秘釈が表に出て来る?

428 :神も仏も名無しさん:2020/07/09(木) 20:17:54.79 ID:Ajqhe2eu.net
「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」

「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」

五蘊無我相の修習を比丘らに説いたのも
無いと思えば、有る 何ものかを確かめよ
という主旨だったかも知れないですね。有ると思えば、無い と
ならないように。

429 :神も仏も名無しさん:2020/07/10(金) 02:36:22 ID:nFdiuGxf.net
ブッダの五蘊無我相の修習とは物理学では無く解脱のための方便・方法論

>アーナンダよ、比丘が、じつに、感受を我と誤認せず、感受なきものを我と誤認せず、また『私の我は感受する。
なぜなら私の我は、感受という性質を有するからである』とも誤認しないならば、それゆえ、
そのように誤認しない彼は、世間においていかなるものへも執取せず、無執取において恐れず、恐れなき者として各々般涅槃します。
『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もはやこのような〔輪廻の〕状態へ〔至ることは〕ない』と知るのです。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c03.htm


>脱落する身心(自我)は空

430 :神も仏も名無しさん:2020/07/10(金) 02:39:31 ID:nFdiuGxf.net
>空即是色を
「名」があらわれて「色」があらわれる と訳せるかなと。とすると
色即是空=形ある物は名前がつけられただけのものに過ぎない

>須菩提、譬えば色、受、想、行、識の如きも亦た和合の故に有り。是れも亦た不生不滅にして(自性として自ら生じたり滅したりしないで)、
但だ世間の名字を以っての故に説く。
須菩提、般若波羅蜜、菩薩、菩薩の字も亦た是の如く、皆是れ和合の故に有り。是れも亦た不生不滅にして、但だ世間の名字を以っての故に説く。
(大智度論四十一巻)  とあり、まさに唯名論といえそうです

>得道のなかに修行すべし
>万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
>迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、

>『弁道話』の現代語訳

そもそも修行と悟りは別のもので、一つではないと思うのは、外道の考えです。仏法では、修行と悟りは同一なのです。この坐禅も悟りの上の修行なので、
初心の修行は悟りの全体なのです。
ですから、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを持ってはならないと教えるのです。修行は悟りを直ちに指し示すものだからです。
既に修行そのものが悟りなので、悟りに終わりは無く、悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。
これによって、釈迦如来や迦葉尊者は、共に悟りの上の修行をされたのであり(原文:ともに証上の修に受用せられ)達磨大師や大鑑高祖(六祖慧能)も、
同じく悟りの上の修行をされたのです。仏祖の仏法護持の足跡は、皆このようであります。
既に悟りを離れない修行があるのです。我々は幸いにも、優れた修行の全体を伝えられているので、初心の修行は、悟りの全体を
無為の地に得ることが出来るのです。
http://www.dogen-shobogenzo.com/bendowa12.html

431 :神も仏も名無しさん:2020/07/10(金) 04:58:14.26 ID:nFdiuGxf.net
本来、一個の「世界」として分けようの無いものだという感覚が根底にある筈だったのが
左脳というか、西欧的知性は全てを分析して名前を付け捲り、しかしそれは道端の石ころにAとかBとか書いて行くような些末な作業に過ぎないと悟り、
全体の中で情報がどう流通してるか こそ大事で、それは右脳に住む人格の仕事。
おそらく右の脳には全てを平等に見做せるブッダの意識がいる。
しかし通常は眠っている。それを目覚めさせるのが(左の)「止」行で
第四禅では「受」が止まるけど、全部の「止」まで完遂するには九次第定を
最後まで完成しないと五蘊皆空とまでは行かない

432 :神も仏も名無しさん:2020/07/11(土) 03:56:26 ID:UajD/gbB.net
仏性=アートマン即ち真我=右脳
個我=利己主義的自意識=左脳
両方の働きが本来具わっているが、日常生活においては損得づくの競争原理にもとづく経済活動や破壊的攻撃的な(ばかりでなく悪しき誘惑が氾濫する)
現実への対応
に追われて右脳の本質発現の機会は極めて少なく、現実原則によって抑え込まれている と考えれば全て説明がつきます。

>観音菩薩の禅定の境地
智?の観心門 観不可思議境

空海 一道無為心の深秘釈
>観自在の真言および『法華経』の題名の梵名について、密教的な解釈を与えている。
一道無為住心は、これ観自在菩薩の三摩地門なり。所以に観自在菩薩の手に蓮華を執っ て、一切衆生の身心の中に本来清浄の理あることを表す。
無明三毒の泥中に沈淪し、六趣四生の垢穢に往来すといえども、染せず垢ならざることなおし蓮華のごとし。この本来清浄の理を一道無為と名づく

433 :神も仏も名無しさん:2020/07/11(土) 04:30:33.70 ID:UajD/gbB.net
>>372 327

観は智慧の瞑想、止は禅定に当たる
感覚的経験の世界が欲界であり、禅定の実践によって、まず色界の初禅定に到達する
心が一つの対象に集中し、完全に定まったとき、三昧(サマーディ)と呼ばれる状態に達する

・正しく「止」行を完成させるために「止」(禅定)と「観」(智慧を生じる瞑想)を 三十七道品をベースにして
交互に持続する事が必要なのかも知れません
(その為に四無色定および滅尽定は必須なのでしょう)
例えば、次のように。

色界の四禅 五禅支の生成
初禅 ;欲界からの出離、「覚」「観」 「離」による「喜」・「楽」
第二禅:「止」 一境性 内清浄による「喜」・「楽」  
第三禅;四念処観 正念、正見 「楽」
第四禅:「止」 一切の受が捨てられた不苦不楽  一境性

四無色定より滅尽定
物質的な形へのとらわれという「まよい」の止(色界からの完全な「離」)
空無辺処定:無辺の「空」の「観」 → 空の中に 残りの迷いも自ずから滅され、結果、訪れる「止」(徐々に止と観が渾然一体となって行く)
識無辺処定:「識」の無辺性の「観」→ 清浄寂静なる 識の「止」
無所有処定:無所有処の境地の「観」→ その結果、自然に訪れる (在るという錯覚)「幻影」の「止」   「一切の存在は虚妄(皆空)」と真に気付く
所得の幻想の空しさ・因縁の空なるをさと(れば解脱できるのであ)る→行蘊を空じる
非想非非想処定 微細な意識、細想による「観」(如来意識との同調・如来と主客未分状態の実現)より 完全な「止」(即ち個我意識の滅尽)に至る道
「想」の完全な止 に至って、五蘊を皆空じた状態 を照見する(観音菩薩の境地)
滅尽定(滅想受定)  完全な「止」の完成(ブッダの意識を目覚めさせブッダと成る)正精進 涅槃寂滅

ブッダは、煩悩(無明)の完全なる滅尽を目的の一つとして
正定(道諦=八正道)を実践していたのだと 行を通して判りました

434 :神も仏も名無しさん:2020/07/11(土) 14:22:36 ID:UajD/gbB.net
>アートマンとはこのようなものである。それはこの私の心臓の内部にある。それは、米粒、麦粒、芥子(けし)粒、黍(きび)粒、
そして、黍粒の核よりもさらに小さく・・・、大地、天空、そして、これら諸世界よりも大きい。
(シャーンディリヤ)

アートマンとは認識から成り、諸機能の中に在って、心臓の内部において光明を発するこの人我(プルシャ)である。
(ヤージニャヴァルキヤ)

シャーンディリヤは仏教でいう色法的な性質も有するものとしてアートマンをとらえているようですが、そのサイズについては
心臓の内部にあって黍粒の核よりも更に小さく、しかもブラフマンでもあるためか天空よりも大きいと

435 :神も仏も名無しさん:2020/07/12(日) 00:18:14.05 ID:ApkES6gE.net
龍樹中論「涅槃は世間と少分の別も有ること無く、世間は涅槃と亦た少分の別も無し」

《スッタニパータ》
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。

《中論》
>およそ,〔もろもろの要素に〕依存して,あるいは縁って,生死輪転するもの,それが,縁らず,依存していないとき(諸々の要素の因縁を受けないとき)に,これがニルヴァーナである,と説かれている。
〔ニルヴァーナとは〕,一切の得ること(有所得)が寂滅し,戲論(虚妄分別)が寂滅して,吉祥なるものである。ブッダによって,どのような法(教え)も,
どのような処でも,だれに対しても,説かれたことはない。
※最後は究極の教えは言葉では説けないことを意味しているとされています。またおそらくは、特にニルヴァーナにおいては分別がないので
言葉で説くことはないという意味もあるかと

(参考)ウダーナ 涅槃に関する経 8-1
「比丘たちよ、その場所(処、境地)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、
識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、
表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、
この世なく、他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと
〔説く〕。
これこそは、苦しみの終極“おわり”である」

436 :神も仏も名無しさん:2020/07/12(日) 09:06:31.61 ID:ApkES6gE.net
欲界から離れ(離=決して制度化されない戒めを良く保ち)、止=禅定(定)と智慧を生じる瞑想(慧)を修めて、最高の清浄に達すること。

437 :神も仏も名無しさん:2020/07/13(月) 09:09:31 ID:t8qyIxXg.net
(第五十五偈)
愚かな人たちは物体(色)に愛着する。中間にある人たちは貪りを離れる。
物体の本性を知る最高の智慧を具えた人たちは解脱する。

(第五十六偈)
欲望の心がある人には貪りが生じ、それを除いている人は貪りを離れる。
幻化人のように〔世界は全て〕寂離であると見る人は涅槃に至る。

438 :神も仏も名無しさん:2020/07/14(火) 10:09:57 ID:RSFyRhXJ.net
諸々の事象は過ぎ去るものである。が、恒常なのは「探求している自分の意識」=ブラフマン(宇宙全体)、真我(永遠不滅のアートマンの覚り)、本地法身・・・
自然界を超えたところにある永遠不滅の真実=純粋意識を残したものの一つがウパニシャッド
純粋意識はブラフマンなり(リグ・ヴェーダ)

ヴェーダとは
https://www.youtube.com/watch?v=b3eSNtcSAio

般若心経 Heart Sutra (サンスクリット/梵語/Sanskrit) ヴェーダの音階で聞く
https://www.youtube.com/watch?v=WCIFo6zPf2Y

チベット人の若者たちへの法話 2日目
https://youtu.be/qsp1-eoYjWI?t=7398

有名な古典的動画 1:11:20ころから
https://www.youtube.com/watch?v=yb20eeLMsmo


密教については、
>密教が秘密の教えなのは、誤解されるからで、人を見て、理解出来る人には積極的に語るようにと説かれてます。
理解できない人は見ても理解できません。理解できないのに、いい加減なことを発信する方には要注意です。しかし、理解できなかったり
曲解していながら他人に強制する者は少ない。
また
インド密教→チベット密教、東密(真言蜜)台密とあり、
台密には深秘釈も流入していると見れます。

439 :神も仏も名無しさん:2020/07/15(水) 05:52:03 ID:VtWEObeD.net
三密加持すれば即疾に顕はる

身密 身に仏の契印
口密 口に仏の真言
意密 心に仏の内証・大日如来の瞑想の境地


加持とは仏との合一
身密と口密により仏を外に顕わし、意密で仏を内部に成就し即身成仏に到る

440 :神も仏も名無しさん:2020/07/16(木) 08:15:42.15 ID:Ouyw1wJU.net
色即是空 
Aに追加→ つくられたものは実に無常である すべての形あるものは 原因と縁に依って、つくられたものである
五蘊・諸法は、その物自体として最初からあった訳ではない(し永続するものでも無く、固定したものでない)
 
D一切衆生の身心の中に本来清浄の理あること(観自在菩薩の三摩地門・一道無為住心による解釈)  また、「色(諸法)も成仏の因」
F現象は万物の本源から派生したものである  色なる現われも(名の無かった天地の始にあっては、無色も色も)元来区別は無い「空」なる本体であった
 形ある物は名前がつけられただけのものに過ぎない (老子的解釈&名色の縁起)
G諸の相は相に非ず(金剛般若経的解釈)
H身体(五蘊)から完全に顛倒夢想を遠離した彼岸の境地に到る事
I見えている物は、実は見えない深淵な真理(例えば三法印や真如縁起など)の顕現したものである
J大日如来自身の境地に入って、自心も本性においては清浄にして無分別平等で無戯論なり と悟る事(密教的解釈)
K宇宙と一体の境地を表わす四字熟語 何ものも孤立した存在は無い 「個」は「全体」と不可分」の関係にあり、
a.(一つの形ある存在物というのは、実は「全体」の中の一部に過ぎず、「世界」の中で動き回り変化を続ける)微小な突起物みたいなものである ←空間的
b. 現実の顕われ(色)とは、移ろい行く全体の一断面であり、変化の途中経過である ←時間的

ものは あわれなり あわれということが ものの本質なのである

人間を作る五種の要素(五蘊)が、真実には存在しない(空)と覚り、あるゆる苦しみから解脱したのです。

微細な意識に移り、細想だけになり、それも徐々に滅し、完全無想無我の三昧境に入る → 五蘊、我への執着を手離し、煩悩の滅尽に到る


「無」とか「無にする」とかでも結構なのですが、全部リセットする や無い と言ってるのじゃなく、簡単に言えば左脳の悪い意識のみ綺麗に無くしなさい と。
何ものも私、私のものと執着すべきでない それが三蔵経の中のたった一粒の金剛だとブッダタートも言ってる位で、「無執着」に全仏教の精髄が集約されている。

441 :神も仏も名無しさん:2020/07/17(金) 16:09:08 ID:cUfQ3Rge.net
真仏説とウパニシャッド、インド哲学の深甚微妙なる部分、仏滅後興った所謂仏教なる伝承については
仏陀のさとり及び仏説との関係で意味があるとの根拠を見出せる三蔵等(大乗、密教も含め)を主に対象とします
握り拳は一切ありません。


欲界から離れ(離=決して制度化されない戒めを良く保ち、一切の物に囚われず)、止=禅定(定)と観=智慧を生じる瞑想(慧)を修めて、最高の清浄に達する。

良い仏の説を聞き、深く理解して正しく思い、上記に示す「三学」を完全に修める。八正道を実践しつつ、出世間の智慧を生じて行く。それこそ、仏教の真髄であります。

442 :神も仏も名無しさん:2020/07/18(土) 01:16:49 ID:8NeoFxfl.net
行為と煩悩を滅すれば解脱に到る

行為と煩悩は、誤った認識から生じ、

それらの妄分別は戯論から生じる

そして戯論は空によって滅される

443 :神も仏も名無しさん:2020/07/18(土) 14:58:00.42 ID:8NeoFxfl.net
「色」という今の形(現われ)も 三世に亘って
無限に続く全体という「空」(究極のあり方)の中の一コマ
に過ぎない

無限に続くんだから時間的だけでなく空間的にも「世界」との境界は
どんどん曖昧になる。たとえば百何十年後かに隕石が落下して地表が二千度以上
になった時、高山にいて助かった人が下山して焼け野原を目にしたら
いかに社会や環境という全体に依存してたかを知るような話

444 :神も仏も名無しさん:2020/07/18(土) 19:39:52.11 ID:8NeoFxfl.net
仮と空を超えつつ同時に見るのが中の道

三学は当然ある筈で
第四禅の「不苦不楽」、あれが空の境地、五禅支→一境性だけになる。
本来、そのあと色界を離れ無色定に行くべき

「不苦不楽」=空
受が空ぜられ、無色定に入れば色蘊が即ち是、空ぜられる
あと識と行と想を空じるのが大変で、そのために無所有処定や非想非非想処定なんてのを
ブッダも先生から教わった。だがまだ未完成で最後まで完成して皆空です


1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

是の如く我れ見聞しけり

ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。
空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。
なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。

それが本当なら釈迦仏説は五蘊盛苦や集諦で終わりだった訳だが道諦によって滅諦をさとる。その道諦が
「行深般若波羅蜜多で照見五蘊皆空となり、涅槃に渡る。つまり道→滅で照見される境地が皆空となる。
空ぜられた境地がそのまま色身として顕われる

445 :神も仏も名無しさん:2020/07/18(土) 19:45:38.05 ID:8NeoFxfl.net
苦とか楽とかの分別は仮で
区別の無い無分別が空、
仮と空を超えつつ同時に見るのが中の道

446 :神も仏も名無しさん:2020/07/19(日) 03:33:28 ID:DcnoSu3o.net
ブッダが言った「空」も
陽炎の如き世間は実体無きもの という意味では同じだけど
そうした実体無きものに執着するから苦の原因になってしまう訳だし、
さらに言えば空を苦と限定する理由など全く無くて、不定形で全で零ということは
(真諦つまり涅槃は別として)無常・非我くらいは兎も角、 第四禅以降では苦・楽、不浄・浄も全て無分別で非相なんだよね
というか、それすら見解への固執を永遠に拒否する用語が空

447 :神も仏も名無しさん:2020/07/19(日) 11:39:37 ID:DcnoSu3o.net
?世界が空だとわかったならば死の王をも遠ざける
?五蘊が空だとわかったならば一切の苦厄を度せる
?上記より、スッタニパータ(仏陀)も心経(大乗の観音菩薩)も同じ事を説いてる
空の境地を身につけるという事は世界(一切諸法)も五蘊も空だと見做せるという事

448 :神も仏も名無しさん:2020/07/19(日) 12:33:52 ID:DcnoSu3o.net
445 について実はマハルシも
たぶん同じような事を言ってると思われます

真我の探求『私は誰か?』マハルシの教え
https://www.youtube.com/watch?v=l34W5N0Y_Wg

補足

449 :神も仏も名無しさん:2020/07/19(日) 12:51:59.99 ID:DcnoSu3o.net
内観によって五蘊(諸法)という幻を遠ざけて「実は世界は真実には存在しない」と覚る→純粋意識たる真我を確かめる事なのです。
本来それは語るべきでないお話でした。

>確かにニカーヤの7割はあやしい、というかただの言葉遊びに過ぎません
後からとってつけたようなカッコだけの文句が過半だ。
20世紀タイの高僧ブッダタートも三蔵全ての中のたった一粒の金剛は
「なにものも私、私のものと執着すべきでない、それは自分の涅槃に対する認識についても同じ」だと言ってる。
そのたった一粒の金剛が空の思想の核心

450 :神も仏も名無しさん:2020/07/19(日) 19:17:49.39 ID:DcnoSu3o.net
世界を空なりと観ぜよ ブッダ・シャキャムニ


見られるものである世界が取り除かれた時、真我は実現される

私という想念が絶対に無いところ それが真我である。それは沈黙と呼ばれる


世界は一つの夢のようなものと見做されなければならない

ラマナ・マハルシ

451 :神も仏も名無しさん:2020/07/20(月) 04:21:31 ID:SM3TCoYT.net
>本当にマハルシの言ってることはブッダシャキャムニと同じです。
彼は五蘊非我を説いてます。
不思議な話ですが、ヒンドゥー教も仏教化して、そちらにブッダの教えが生きてるのか、
元々のバラモン教にもそれはあったのか、
或いは仏滅後の伝承のほうが「アナートマン」という方便に固執し過ぎたあまり
過剰に妄想分別し過ぎたのか?

>数年前の確かNewsweekの実態レポートで特集
組まれていたけど、僧侶を巡る批判はどこの国も大して変わりませんよ。
肥満や高血圧、不祥事とか、南伝だからといって幻想をもたない方がいいと思いますよ。
タイやスリランカに行った時も評判は日本と変わらなかった
https://core.ac.uk/download/pdf/267913045.pdf

https://www.google.co.jp/amp/s/www.newsweekjapan.jp/amp/stories/world/2013/07/youtube-1.php

452 :神も仏も名無しさん:2020/07/20(月) 04:33:08 ID:SM3TCoYT.net
陽炎と見れる人なら苦の原因たる執着も起こさないから当然苦も生じない
つまり空観とは、滅諦に到るための道諦でもあり、滅諦の比喩でもあるのです。単に言葉の理解の問題。
先ほども >テーラワーダが般若心経を攻撃するのはテーラワーダには本当の悟りが伝わっていないから「空」が理解できないのでしょう。

との指摘を見たばかりでした、また真仏説とは仮・空を超えた中の道と観じます。

453 :神も仏も名無しさん:2020/07/20(月) 08:41:37.74 ID:SM3TCoYT.net
第三禅での四念処観での
無常・苦・非我・不浄 は、あくまでも心や感受や一切事物、身体についての観ですよね。それは戒定慧の慧に当たり、
また定に当たる禅定も当然、正定に入ると思います

ここでいう定とは、智慧によって思索し抜く瞑想に対する
一点集中の瞑想、禅宗の皆さんもお得意のジャンルです

つまり観に対して止があるというお話でした

454 :神も仏も名無しさん:2020/07/20(月) 09:26:08 ID:SM3TCoYT.net
つまり、受が苦と観じている段階では「空」では無くて
「止」の第四禅で受が捨てられて 受即是空空即是受となり、
当方の方便になりますが
四無色定に入って色即是空空即是色、
(識、行、想も同様に止め)滅想受定にて五蘊皆空の照見です。
ここまで行くには大変な修練が普通必要で、以下のように論じられています。
>十地経の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の菩薩の地(くらい)において初めて、「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする。
入中論』の月称(チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定する

455 :神も仏も名無しさん:2020/07/20(月) 09:52:32 ID:SM3TCoYT.net
無心定には、無想定と滅尽定とがあり、いずれも心・心所を全く滅する定である。四禅(四静慮)・四無色・滅尽の九定は、異心をまじえずに次第を追って
順次に修得するときは九次次第、無間禅と名付けられる。
四禅と四無色定の上に、滅尽定すなわち、想受滅定があり、九次第定と呼ばれる。
無想定は、凡夫や外道が無想の状態を真の悟りと誤認して修めるものであるが、滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである。
無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。
九次第定とは、パーリ語仏典では9つの定を置く形で説明が保たれており、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、空無辺処(定)、識無辺処(定)、無所有処(定)、
非想非非想処(定)、想受滅となり、この最後だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定とされる。
十地経の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の菩薩の地(くらい)において初めて、「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、
第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする。
入中論』の月称(チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定するということであるとしている。
ツォンカバの『密意解明』でも同様である。

滅尽定   参考
https://www.youtube.com/watch?v=mqDJVhRzuiY

456 :神も仏も名無しさん:2020/07/22(水) 03:44:24 ID:wuvhI8lk.net
>大乗では完全に五蘊を去った状態を五蘊皆空と言ってるだけです。
原始仏典流に簡潔に言うなら
五蘊は悪魔の棲家と明らかな智慧により如実に見て、しかもそれを完全に遠ざける
という事は大変な事だと思いますよ。それを無我、皆空と呼んだのでしょう。ブッダもその境地に到るために出家後
まず仙人について(九次第定でいえば七番目に当たる)無所有処定を学び、次に先生を変えて非想非非想処定を学び
さらに長い年月をかけて孤独な修行の末に滅尽定に至って初めて成道となった訳です。
ですから、その境地まで達しなければ本当の無我、皆空とは呼べないし、涅槃もまだ浅いものなんでしょう。
その段階に行くには菩薩の十地の六〜八番目にならないと、と論書にも書かれていますね。
ただ人によっては、像法の時代以降で菩薩の初地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけと言う人もいます。
そこまで厳しくは無くて無名の解脱者は大勢いたとは見てます

457 :神も仏も名無しさん:2020/07/22(水) 04:07:05 ID:wuvhI8lk.net
仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。

相に非ざる如来(空)が
色身を得て顕われている(仮)

458 :神も仏も名無しさん:2020/07/22(水) 18:33:08.46 ID:wuvhI8lk.net
五蘊を去って無我となっただけでプルシャを見てるかどうかわからない段階が阿羅漢のさとりと見る人もいる
舎利子は神通が無くてもプルシャを覚っていただろうという有識者もいる。
観音菩薩はプラクリティを覚り、それを阿羅漢に説いたと。釈尊の真我の覚りは
プルシャ・プラクリティの上との事。

459 :神も仏も名無しさん:2020/07/24(金) 03:44:09 ID:3I4/pzDR.net
釈尊が悪魔を降伏して成道したという伝説は
完全に五蘊を去った 
という境地の比喩

心経は
識を超えて欲界も色界も消えている菩薩が説法者の設定ですから
とうに彼岸に渡った解脱者による説法です。ですから、
その境地にては既に輪廻も空であるのでしょう

460 :神も仏も名無しさん:2020/07/24(金) 12:12:47.53 ID:3I4/pzDR.net
>>167

心経は、原始経典では詳述されなかった
「形成作用を離れる」事の意味をよりわかり易く
「空」として説かれた経か?

さとった人にとっての空即是色とは
さとってなお、衆生救済のため現世に色身をあらわす


ブッダは成道後、三昧に入ったまま死ぬつもりだったと言う者もいる
少なくとも他に法を説くべきか熟慮したのは確かだ
その辺の経緯が梵天勧請伝説に残されている
しかしブッダは成道後、五十年近くに亘って法を説いた
だが声聞乗独覚乗は自利・解脱のみ(現代においてはそれすらあやしい!)で他人に説かない
菩薩は少なくとも利他があり、法を説き、衆生を救おうと行動する

願より菩提心発し
初発既に・・・という説もあり、
正しくさとりを求める心をおこせば、それがさとりに到達する

461 :神も仏も名無しさん:2020/07/25(土) 07:53:05.45 ID:mk/fqpa1.net
諸行無常と苦・集・滅・道を悟って完全に五蘊を去り、
ほんとうに非我の境地を達成した状態を大乗では五蘊皆空と呼んでる
五蘊皆空の解釈が苫米地信者やテーラワーダ、スリランカ等に感染した者の場合、誤ってる
色即是空は五蘊皆空のうち色蘊について述べた熟語

462 :神も仏も名無しさん:2020/07/25(土) 08:49:13 ID:mk/fqpa1.net
>>24

ブッダも無師独覚のまま法を説かなかったら無名のまま
歴史に名も残らず、独覚乗で終わってたかも。
しかし如来であるのは人々を救い、後に続く求道者=菩薩を生んだから
阿羅漢にそのような力無し、拘るのは妄執

五蘊が本当に滅したならば、それは無余依涅槃になる
ブッダ在世時を考えてみても、成道後、直ちに肉体が滅んだ訳ではない

463 :神も仏も名無しさん:2020/07/25(土) 10:28:58 ID:mk/fqpa1.net
煩悩を断じ六道輪廻より解脱して行く預流、一来、不還、阿羅漢の四段階のさとりを通って声聞の覚りを得る。
末那識の錯覚を消そうと努力し、個我意識が薄れ五蘊を越えプルシャをさとるのが唯蘊無我心の段階の瞑想
阿頼耶識・諸法の縁起を覚り、業の因となる種を伐採する段階が抜業因種心。縁起を独自にさとる独覚乗
>一切は因縁よりなることを体得して無知をとりのぞく。このようにして迷いの世界を除いて、ただひとり、さとりの世界を得る。
阿頼耶識・諸法が唯識のみであると覚り、仏縁・無縁乗に目覚め、(弥勒菩薩の瞑想の門・大いなる慈しみの瞑想・すべての如来の大いなる慈しみが
無量であるのを覚知する)大乗菩薩の菩提心を起こすのが他縁大乗心
第六住心=他縁大乗心−人びとの苦悩を救う
 一切衆生に対して計らいなき愛の心を起すことによって、大いなる慈愛がはじめて生ずる。すべての物を幻影と観じて、ただ心のはたらきのみが実存であるとする。
第七住心=覚心不生心−一切は空である
 あらゆる現象の実在を否定することによって、実在に対する迷妄を断ち切り、ひたすら空を観ずれば、心は静まって何らの相なく安楽である。
第八住心=一道無為心−すべてが真実である
 現象はわけへだてなく清浄であって、認識における主観も客観もともに合一している。そのような心の本性を知るものを称して、仏(大日如来)というのである。
第九住心=極無自性心−対立を超える
 水にはそれ自体の定まった性はない。風にあって波が立つだけである。さとりの世界はこの段階が究極ではないという戒めによって、さらに進む。
第十住心=秘密荘厳心−無限の展開
 密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は庫の扉を開く。そこで庫の中の宝はたちまちに現われて、あらゆる価値が実現されるのである。

464 :神も仏も名無しさん:2020/07/26(日) 21:48:14.54 ID:4be6m7df.net
ここ数年の心経解釈の流れを見ると苫米地スマナサーラ本をはじめとして、かなり劣化してきてる印象を受け、
また驚くべきことに影響されてる方もいるようなのです。上記出版物については論破されてるとも見えますが、
全ての読者が正しい認識に達しているかは不明です。
心経について深く思惟するきっかけになれば良いとは思いますが、何冊も読んで比較検討する人は多くないかも
知れませんし、そんな駄本を掴んで洗脳されたり無意味な議論に時間を費やす以前に
もっと検討に値する(ひょっとしたら宝の山を蔵する庫の如き)別解が
まだまだあるかも知れないと気付いた訳です。


真理を解さない生半の凡夫が(大乗が創作だとか)
ああだろう、こうだろう、と考えても、それは異なったものと成る。
なぜなら、それはその者の虚妄(サッカsacca=真実の反対)だからである。
大乗経典にしろ、より古い経にしろ、凡夫が何かで読んで、そうなのかなとか思ったことを
真理などと考えてはならない。
それこそが無常であり、虚妄であり、誤解であるからだ。

>現代のテーラワーダは根本分裂時の上座部と同一視は
全くできないのは確かです。彼らの主張に惑わされている方々が多い
のは間違いありません。

465 :神も仏も名無しさん:2020/07/29(水) 07:43:30 ID:IwiYbua9.net
『六祖壇経』
>「我がこの法門は、定慧をもって本となす(中略)定慧は一体にして是れ二ならず」
慧能禅師によりますと、定慧をそれぞれ灯りと光に例えて、灯りがついて部屋が明るくなるのは、別々のものが組み合わさるのではなく、
灯りと光は本体として同一のものであって、定慧の関係も是の如し

>ブッダ自身が、不善根からの離と六根の清浄が修行者に多大な利益をもたらす事に体験的に気づいた
中部・伝車経では、戒清浄を目指すのは心を清め、それによって禅定における定力を高めることで心清浄の境地に到るためだと説かれ、
心清浄に到るのは、養われた定力によって四念処を行い、智慧を開発し見清浄の境地に到るためだと説かれます。
さらに度疑清浄・道非道智見清浄・行道智見清浄・智見清浄を得て、解脱に至る事となります。

要点は
正しく仏に成る心を起こしている事であり、発心は大切な事です。

466 :神も仏も名無しさん:2020/07/30(木) 05:49:22.42 ID:JoSnoU10.net
参考
>漢訳された無分別って、智慧のパラフレーズって事

>現量とか無分別って言葉が漢訳語であること

>無分別っていう言語は智慧のシノニム

>想念を焼き尽して余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とを ともに捨て去る。
(中村 元. ブッダのことば−スッタニパータ (岩波文庫) (Kindle の位置No.124-129). 株式会社 岩波書店. Kindle 版)

ここで「想念」(vitakk? 複数)というのは、思慮し思考することである。心の静まった修行者には、思慮分別 はいらない、
(中村 元. ブッダのことば−スッタニパータ (岩波文庫) (Kindle の位置No.8809-8812). 株式会社 岩波書店. Kindle 版. )

相応部経典45-8 分別

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げていった。
「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝らのために分析しようと思う。
よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7052602.html

そして仏陀は八正道の八支を一つ一つ分別してはもろもろの比丘たちに解説していった

467 :神も仏も名無しさん:2020/07/30(木) 05:51:43.90 ID:JoSnoU10.net
ブッダたちと同じ地点に立ちながら、あらゆる真理を学ぶ場がここです。

スッタニパータ
>少なくとも無分別について説かれてる個所は8個所ある


>521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落し、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、
かれを〈沐浴をすませた者〉と呼ぶ。
 >531 諸々の汚れと執著のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種の想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、
かれを〈すぐれた人〉と呼ぶ。
 >793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、
この世でどうして妄想分別させることができようか。
 >802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのない
そのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
 >803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
>(ブッダの言葉 スッタニパータ 中村元 岩波文庫)

468 :神も仏も名無しさん:2020/07/31(金) 21:37:09.83 ID:g9OroL3e.net
識(grAhaka)と境(grAhya)が消えるのは無想定か滅尽定に入った時と涅槃に入った時だけ

パーリ仏典で「渇愛・見解・思考について考えないこと」→最終的に識別が終わるので、主客を超越する

大乗仏教で「主客に二分して考えないこと」→主客を否定することで一元的且つ世界を否定するので
溺愛、妄執、見解、戯論、妄分別を却下できる



>諸々の汚れと執著のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。
>三種の想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、かれを〈すぐれた人〉と呼ぶ。
欲愛等の破壊するものが、「三種の想い」である。〔そしてさらに〕感官の喜びという名の「汚泥」を除いて、
〔三種の想いと汚泥を〕除いた〔者〕は渇愛・見解・思考のどれか一つ〔について〕でさえも「妄想分別に赴かない」
妄想分別を構成するのは三つ(渇愛・見解・思考)
世俗諦を説かないと勝義諦が説かれ得ない
そしてその分別(世俗諦)は、勝義諦に於いて虚妄分別として否定される

469 :神も仏も名無しさん:2020/08/01(土) 04:54:29 ID:s5/JbCU7.net
縁起説の起源(元々は十二支ではない)  四諦とか縁起とかの概念ではなく、仏陀の智慧そのものが如来
最初はスッタニパータ三章の二種の観察のような二支縁起
スッタニパータには縁起が書かれてないと書いてた人がいたが二種の観察は

此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、
此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
の縁起論そのもの

>宮崎哲也が否定的に書いているのは縁起ではなくお釈迦様の縁起成道説
同様に仏教学者の多くが十二支縁起をブッダの証悟の内容とすることに否定的
この背景にはパーリ経典に十二支縁起成道記事そのものがわずか(3個)しか見出せないという事情も絡む。

スッタニパータ386
https://76263383.at.webry.info/201403/article_14.html

スッタニパータ1126
https://76263383.at.webry.info/201512/article_15.html

>修行者は時ならぬのに歩き廻るな。
定められたときに、托鉢のために村に行け。
時ならぬのに出て歩くな、執著に縛られるからである。
それ故に諸々の(目ざめた人々=諸仏)は時ならぬのに出て歩くことはない。

470 :神も仏も名無しさん:2020/08/01(土) 04:57:48 ID:s5/JbCU7.net
テーラガーダ

679.(679) 彼は、覚者(ブッダ)に従い覚った者、強烈なる勤勉者――コンダンニャ長老は、生と死を捨棄した者であり、梵行についての全一者である。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html

>南伝の教義ではブッダは(在世時において)お釈迦様一人で他を認めてないけど、オリジナルと大乗では複数のブッダを認めてるという共通性がある ?
>そもそもパーリ仏典は同じ時代にブッダが二人いることを否定してる  しかし
>初期まではブッダとは釈迦限定ではなく、悟りを得た仏弟子の呼称だった ?  しかし
>パーリ仏典内で阿羅漢の仏弟子をブッダと呼ぶことはないし(ブッダーヌブッダ[仏に随って目覚めたもの]とは呼ぶ)
ましてや正等覚者(サンマーサンブッダ)と呼ぶことはありえない
>有名な四門出遊の例えは長部経典「大譬喩経」でヴィパッシン仏の話として語られてる
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn14/dn14c00.html

「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊として世に現れたその者、彼は今から九十一劫〔前〕に生まれました。」
(ito so, bhikkhave, ekanavutikappe yaM [ekanavuto kappo (syA. kaM. pI.)] vipassI bhagavA arahaM sammAsambuddho loke udapAdi. )

「比丘たちよ、かの阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊として世に現れたその者、彼は今から三十一劫〔前〕に生まれました。」
(ito so, bhikkhave, ekatiMse kappe [ekatiM sakappo (sI.) ekatiM so kappo (syA. kaM. pI.)] yaM sikhI bhagavA arahaM sammAsambuddho loke udapAdi).

「比丘たちよ、まさしく〔シキンと同じ〕その三十一劫〔前〕に、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊が世に現れました。 」

「比丘たちよ、まさしくこの賢劫のうちに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊が世に現れました。」
さらにコーナーガマナ世尊、カッサパ世尊・・・と続く

471 :神も仏も名無しさん:2020/08/01(土) 09:25:53.13 ID:s5/JbCU7.net
去る者を追う訳ではないですが、十二支縁起はブッダの証悟の内容でないというのは中村元氏あたりでも(はっきり言わないだけで)
わかっていたと感じます。というのは、スッタニパータでも十二支縁起は説かれておらず後代の説というのは自明であり、それからも
二支縁起がブッダの証悟のほんの一部だったとわかるからです。というより、ブッダのさとりとは、世俗の者に対機説法で与えた枝葉ではなく、もっと巨大な さとりの智慧そのもの
では?と感じます。無我も同じですが残骸でしかない痕跡の記録に固執し過ぎでは?

>南伝 聖求経
漢訳 羅摩経
この経には、最初の弟子達、所謂五比丘達が釈迦の弟子になった経緯が説かれている。
最初にコンダンニャが真理に眼を開き、やがて五比丘皆が聖者になったと、説かれている。

472 :神も仏も名無しさん:2020/08/01(土) 21:31:18.43 ID:s5/JbCU7.net
参考

>禅定について学者の説のまとめ

1.
原始仏教に於て説かれた禅定(C)観は仏教独自のものでなく、その当時行なわれていたインドの修法に基づくものであろう。(吉瀬)
2.
仏教が成立した最初の時期には、禅定(C)の修行は行っていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
すなわちdhyana、yoga, samadhi などである。(中村)
3.
瞑想(C)はその機能から大きく二つの範疇(止観(A,B))に分けられました。(箕輪)
4.
samatha(止(A)) というのは、仏教が成立してしばらくたって一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた。(中村)
5.
vjipassan(観(B)) という語は、原始仏教においても、かなり遅れて成立した。(中村)
6.
定には種々の使用例があり、止(A) 観(B)もその一部である(吉瀬)


引用論文
1.6. 〜 原始仏教の禅定観〜吉瀬 勝 / 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_823/_article/-char/ja
2.4.5. 〜 原始仏教における止観〜中村 元 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_24/_article/-char/ja/
3. 〜 仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── 〜箕輪顕量 / http://zenken.agu.ac.jp/research/42/14.pdf

but

スッタニパータW
マーガンディヤ経
847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。

>これは心解脱と慧解脱を指していると思われます。 とすると最古層の段階で解脱には二種類あると説かれいたことになります。

473 :神も仏も名無しさん:2020/08/02(日) 03:13:29 ID:pgcE/z8z.net
三十七道品に基づく正しい生活態度で日々を過ごすことで識が浄化されて行き
智慧によって無知を晴らして行ける

真に菩提心を生起した求道者ならば
>形式的な概念化に囚われず、必要なこと、修行の本質を知りたいと思うであろう

474 :神も仏も名無しさん:2020/08/02(日) 09:04:47 ID:pgcE/z8z.net
大乗は
何よりもまず、全ての有情、在家者のための教えである。
本来ならば、出家修行者のように
痴気に塗れた世間の有情たちから遠く離れ、僧院に籠って
修行に適した静かな環境で仏道を実践するところを
在家は世間の泥と隣り合わせの劣悪な環境で修行に取り組まねばならない。
これは考えようによっては、出家者よりも厳しい難業ともいえる。
しかも利他という目的がある。これは守旧派が何と言おうと、守旧派には無い眼目である。
他の三毒までをも空じて自他ともに救うには
まず(コイツは何だ といった)私的な思いを綺麗に空にして
自他差別など遥かに超越した大乗菩薩の慈悲心を生ぜずには済まぬのである

475 :神も仏も名無しさん:2020/08/04(火) 04:28:57 ID:B6+ZPsrR.net
スッタニパータ
356 [ヴァンギーサいわく、]第七の仙人さま。あなたのおことばを聞いて、わたしは慶びます。わたしの問いは、決してむだではありませんでした。
バラモンであるあなたは、わたしをだましません。

>過去から数えて七人目のブッダという意味?
>ゴータマ・ブッダ以前にブッダがいたことがそれだけ知られていたという事

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/1/46_1_391/_pdf

初期仏教の仏陀観は「―世界一仏」論が原則

部派仏教の時代になり大衆部所有の仏教説話集(アヴァダーナ)のマハーヴァストゥでは大乗仏教を彷彿とさせる複数仏陀観が説かれ、
「空間的には仏国土が多数あるので一つの仏国土に一人の仏陀が存在する」、「時間的には釈迦牟尼仏は過去世に色んな仏に授記され
最後に過去七仏が置かれ、また釈迦牟尼仏は未来仏として弥勒に授記する」
というスケールの大きな話となり、大乗仏教との親近性を窺わせるとのこと。

スッタニパータ
355「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者に
出会った尊き師はそのようにかたった。

>勝義に於ける自他の別は無く世俗に於いては各人の差別が生じる

476 :神も仏も名無しさん:2020/08/04(火) 04:33:25 ID:B6+ZPsrR.net
一つ言えるのは、大乗では
ひとたび菩提心を起こして求道者となったならば
(その菩提心が正しい菩提心であるならば)その瞬間より菩薩道に入る
とのこと

477 :神も仏も名無しさん:2020/08/07(金) 01:04:14 ID:pY1Tal/i.net
色として認識された物は、実は虚妄分別された結果としての情報に過ぎないのである
>すべての現象は幻のごときものと知って
執着を離れ、束縛から解放されます


金剛般若経

第三章

師は、このように話し出された。

「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、
次のような心を、起こさなければならない。」・・・
ありとあらゆる生けるものを、
>私は、無余涅槃に、導かなければならない。
>しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
>実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。」
>「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
>もし、生きものという実体に、囚われるなら、
>もはや、かれは、菩薩と、言えないからである。」

この説法から
他(他人)とは言語表現だけのものであり実体はない
https://gamp.ameblo.jp/0358rainbow/entry-12291549474.html

478 :神も仏も名無しさん:2020/08/07(金) 11:05:45.03 ID:pY1Tal/i.net
増一阿含経 三一、五

『盲目のアヌルッダは、自分で裁縫をするとき、針に糸を通すことができない。そこでいつも誰かに助けてもらっていた。
ある時、「お願いしたい」と声を出した時、「では、わたしが功徳を積ませていただこう」と、釈尊がアヌルッダの手から針と糸をとられた。
アヌルッダはびっくりして、「わたしは世尊に申し上げたのではありません」と、答えた。
そうすると、世尊は「どうしてだね?アヌルッダよ。わたしもまた、幸福になりたいと思っているのだよ」と、答えられた。

そして続けて、
「そうではないのだよ、アヌルッダよ。仏陀であっても、なお求めるものがある。最高の仏陀であっても、これで十分と満足してはならないものが六つある。その六つのものは、・・・
まず第一が、「施」。人に施しをするのに、これで充分ということはない。
第二は、「教誡(きょうかい)」。弟子の指導に、ここまでで充分というところはない。
第三は、「忍」。じっと耐え忍ぶことに限界はない。
第四は、「説法」。信者に法(真理)を説くのに、これだけ説けばもういい、という限界はない。
第五は、「衆生の愛護」。これにも限りがない。
最後に、「無上正真の法を求めること」。仏道は無窮であって、仏陀はいつでも最高の真理を求めつづけている。
だから、仏陀はいつでも幸福を求めているのだよ。仏陀はいつでも精進を続けているのだよ。もうこれでよいという限界はない。つねに前進をつづけるのが、仏教者なんだよ・・・。』

こう語られる釈尊の姿に、悟りを得るということは何か、そして悟りを得たとしてもなお衆生に苦しみがある限り真理を求めてやまない、無上の幸福を求めてたゆまぬ精進をする仏教者の姿があります。

その一方経典は、悟りを得た後も魔の誘惑があることを伝えています。既に勝利したことであっても再び誘惑されるのです。
もちろん、既に勝利した内容なので乗り越えることは容易であるのですが、試練はその後も訪れるのです。

479 :神も仏も名無しさん:2020/08/12(水) 05:27:33 ID:cb7IZ8GH.net
>>心経の批判は
有部の法有の見解にずぶずぶ嵌り込んでる方を対象
としたピンポイント爆撃的な面もあった

というより
もっと広い意味があったんでは? たとえば有部や諸派がブッダのさとりから
如何に堕落したかを戒める狙いがあったのでは

つまりニカーヤにしても言葉っちりや経の体裁や表層的な概念への固執や
因縁なるもののマニアックな分類だのに執着して実体視し、押しつけがましく
説教するだけで、それよりそこから解放されるすじ道を明らめるほうが大事だと。
釈尊は教義などゴリゴリ説かなかったでしょ

480 :神も仏も名無しさん:2020/08/15(土) 04:06:38 ID:3MQdZI2C.net
空観より中観へ。円成実性

481 :神も仏も名無しさん:2020/08/15(土) 04:09:12.54 ID:3MQdZI2C.net
仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。

仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである
認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず
認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら
即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである

像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。
また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。
像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。
形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代
日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。

)【像法】
(「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。
多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。

482 :神も仏も名無しさん:2020/08/15(土) 14:42:28.15 ID:3MQdZI2C.net
>要は空海によれば、六大は如来内証の阿字本不生の世界の諸相をいうものなのであり、元素のことではなかったのである。
 >すなわち、この六大は、如来内証の世界の本体が、本不生・離言説・離塵垢・遠離因縁・等虚空であり、かつそれらの覚証の智慧でもあること(理智不二)
すなわち本覚真如の世界「仏、六大を説いて法界体性と為す。」

華厳経でいう三界唯心、つまり唯識をベースとしたこころの顕れ、円成実性
>基体に疑似されるのが 縁起(業感縁起、阿頼耶識縁起、如来蔵縁起、法界縁起、六大縁起)ではないのか

第八住心くらいで如実知自心という言葉はでてきますね
この自心というのを真我と言ってよいように感じますが、ただ本来ブッダが
語るべきでなく確かめるべきとした「我」を あえて説くのが密教であった所
大乗の展開において顕教でありながら我を説く枝が生えてしまった訳ですね

483 :神も仏も名無しさん:2020/08/17(月) 03:54:46 ID:WMLL8KB7.net
あまり好きな比喩ではないのですが、脳科学に詳しい人が書いてたこと
で共感できることがありましたので、単純化して説明すると、
人間の左脳には利己的な心、というより五欲や物本位に縛られた下向きの性質があり、
また右の脳には、左と正反対の利他的な仏性、如来がいる。
ブッダが空にせよ我を無にせよと説いたのは、その左に付着していた性質で、さらに言うと
そうした障りをクリアすればストッパーが外れて、仏心全開となるという事です

484 :神も仏も名無しさん:2020/08/19(水) 07:21:57 ID:ovmRx1D6.net
魂魄という言葉について

>魄については元々、白骨死体を意味する文字とも言われ、
辞書では
精神をつかさどる陽の気を魂というのに対して、陰の気に属して肉体をつかさどり人の成育をたすけるもの とあり、
生まれながらに持っている身体の設計図といった意味も中国医学では持つようで
さらに
「魄に変われば極楽浄土」と書いていた人もいました。

心経は道教と関係があると言う人もおり、自分も
道教由来とまでは行かないにしても、もしかしたら
或るレヴェルで意識が合ってる領域があるのでは、と感じていました。
それはたとえば、仏教的に言えば、五蘊(心経の色など)は魂魄の魄(陰)に該当し、
また非我の我は魂魄の魂(陽)に該当するという視点です。
無論、魂や霊なる概念を実体視したら仏教では無くなってしまうという考え方も
あるでしょうが、少なくとも日本仏教について見る時、どうも
避けては通れぬ根深い問題が存在するように感じる訳です。
また道元の身心脱落も五蘊から解脱して
プルシャ、真我に焦点が合った状態とも言える気が
しますが、如何でしょうか?

485 :神も仏も名無しさん:2020/08/19(水) 18:19:17 ID:ovmRx1D6.net
四〇
ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
(ダンマパダ 中村元訳)

486 :神も仏も名無しさん:2020/08/20(木) 00:01:56 ID:r3vKNMTX.net
>>485
それダンマパダではなくてウダーナヴァルガ
https://76263383.at.webry.info/201910/article_12.html

487 :神も仏も名無しさん:2020/08/21(金) 20:36:41.02 ID:3jLA36oV.net
このように現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
 >ブラフマンとなったアートマンによって住する(解脱している)
 >(ディーガ・ニカーヤ)


>真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-?tman)であり、最高の我の意味
仏果の徳の上につけた名で、すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、
その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認める

ウダーナヴァルガ 27 は  ”第27章 観察”

 ”明らかに見る(prapa?yan)” は、
”.『出曜経』にも『法集要頌経』 にも「妙観」
(と訳される真我を探究するための”観察”)

釈尊の死後におこった仏教なるものは所謂自称仏弟子たちによる噂話のようなもの? ただの詩人も大勢いた?

488 :神も仏も名無しさん:2020/08/22(土) 15:51:23.59 ID:LvAuBjxk.net
滅尽定まで行って、一切の想を止滅させるほうが重要では?

止観逆かもだが、観を伴った、すぐれた止は煩悩を

よく制する気がする

489 :神も仏も名無しさん:2020/08/24(月) 12:10:57.52 ID:YPrhU1SB.net
屁理屈に惑う者が多い
 サーンキヤでは梵から阿頼耶識が生み出される 
あなたの仰る他者とは欲に囚われてる蘊であって、さとったのは真我であり、
残された衆生を正しい認識に導くだけ。未脱却の他者はいるから菩薩行が出来る。
また主客の妄分別も、仮我・欲我=無明から出た幻想=戯論(というより無明から幻想が縁起する)なので、それを
晴らせば、さとりに到る

建前として仏教はアナートマンだから、本来は我という語は出せない。
チベットでも同じですよね。ところが実には真我=真如であって、如来蔵
チベットでも如来蔵は第三法輪で説きますね。我も如来も同じで言葉の問題。
五蘊無我とは方法論なのに、世界の法則とか誤解してる方が多い

490 :神も仏も名無しさん:2020/08/24(月) 13:55:18.69 ID:YPrhU1SB.net
>サーンキヤではプルシャは無限にあるとされていますが、あるプルシャが
別のプルシャを救済しよう
という考え方は無く、
サーンキヤは自分の苦悩を救うためだけ ということは小乗に相当するのですかね
梵我一如の上に もっと高いレヴェルのアートマンという見方もあって、それはヤージュニャヴァルキヤ
の言う「この世界は全てアートマンに外ならない」、それ華厳や密教の教主と同じじゃないですか
また大乗の衆生救済への動きについては、ブッダ成道後の梵天勧請伝説と関係すると見てます。

491 :神も仏も名無しさん:2020/08/24(月) 19:06:01.40 ID:YPrhU1SB.net
大縁方便経(マハーニダーナ・スッタンタ)
「アーナンダよ、作用する、者に二つがある。
それでは、この二つの者とは、如何なるものか。
第一に、概念を作り出す、心の働き、名である。
第二に、形状を描き出す、物の働き、色である。」
「アーナンダよ、名が現れて、色が現れる。
主体が現れるから、客体が現われるのである。
すべての起源は、二つに分かれたこと、である。」
「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」

有ると思えば、無いとは逆に ブッダは、無いと思え(沈黙して、ただ確かめよ) と
説いたのだよ

如来=我 であって、それを無にしては逆なので、
そう覚るのを妨げる欲我、小我、自分中心の心、五蘊に繋縛された穢れを
無にせよというのが本来

492 :神も仏も名無しさん:2020/08/24(月) 19:07:31.46 ID:9zsvnrjv.net
>>490
>梵我一如の上に もっと高いレヴェルのアートマンという見方もあって、それはヤージュニャヴァルキヤ
>の言う「この世界は全てアートマンに外ならない」、それ華厳や密教の教主と同じじゃないですか

華厳の三界虚妄などと同じにするのだったら「この世界は全てアートマンが創り出した幻影に過ぎない」までしないとね
まさか目や耳の感官までアートマンそのものというわけではないのだから

ま、ヤージュナヴァルキヤが空想したアートマンは後にシャンカラによって「この世界は全てが基体であるブラフマンが創り出した幻影マーヤである」という哲学として完成したけどね

493 :神も仏も名無しさん:2020/08/24(月) 19:15:19.05 ID:9zsvnrjv.net
>>491
その訳が間違い

「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」

こんなことは仏陀はその経典の中では説いてない

こちらが本当の因縁経の訳
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c00.html

我を想定する者は取るに足らない理由で我を想定する
我を想定しない者は取るに足らない理由で我を想定する
我を誤認する者は五蘊の受を我を誤認するがそこには矛盾がある
だから世間においていかなるものへも執取するなそうすれば解脱できる

という説法が因縁経の教え

494 :神も仏も名無しさん:2020/08/25(火) 03:03:12.61 ID:WhPkIeNa.net
>>493

レス有難うございます。
まだ見解の相違の段階です。翻訳の優劣について、前者の訳が間違いで
そちらの訳が正しいとの根拠は何でしょうか?

495 :神も仏も名無しさん:2020/08/26(水) 17:27:17.79 ID:X6zW0eWZ.net
認識者がいなければ何も実在はしない

ブッダは数学や物理学の話をしてた訳じゃないから。
そういうのは、それこそ「無記」だよ
何も説かない。で、覚れる弟子には四諦説法をした

苦の起源についてこそ知るべき
空=ゼロだという見解への妄執こそ苦の起源なのであって、
ブッダは、それに気づくとともに、その執着こそゼロにせよと説いたのだ。ゼロに執着しろ
と説いたのではない

豚魔の低能脳では、色即是空は色即是零になるから誤りじゃ とかなるのであろう
しかし、ある場合には零という語を使ってあらわせる場合もあるにしても
零といいきるだけでは、オマエの脳と同じく幼稚過ぎるのだ。。

496 :神も仏も名無しさん:2020/08/29(土) 23:16:12.09 ID:DDYFhZiK.net
慈悲の心に基づいて、全ての誤った見解を断つために、聖なる教えを説き示された ゴータマブッダに礼拝いたします

497 :神も仏も名無しさん:2020/08/29(土) 23:17:53.14 ID:DDYFhZiK.net
空を覚る・極無自性心・秘密荘厳心
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1598708654/

498 :神も仏も名無しさん:2020/09/02(水) 20:52:59.01 ID:M6YbIj2j.net
空=0と解釈しようが、無と言おうが別にどーでもよいが
凡夫の五蘊の顛倒夢想はゼロではない。そもそも仏教は
五蘊はゼロである、とかのテーゼを拝んだり覚えたりする教えじゃなく
五蘊=ゼロとなるよう努力して修行を完成させよ、という教えであって、
実践する気がまるでない只の謎解きみたいな話なら仏教とは関係がない。
悪い煩悩や欲が詰まった五蘊をゼロにしようとの努力を放棄し、
下らん動画拡散で他に苦しみのみ撒いてたら
先は暗い



777 名前:神も仏も名無しさん 2020/09/02(水) 14:59:42.26 ID:M6YbIj2j
空がゼロとしてあらわれることもある ならそれもよかろう
だが、∞としてもあらわれ、その時には、マイナス∞もどこかにペアで
生じていて、ただし生じたものは必ず滅するので、生滅繰り返す現象は
仮の相であって、真の実体とは呼べない。それが空の大意


仮のものは仮の現象とわかる観察者の心を仮に空の中と表現してるのでは。
さらに仮の立場より見るなら、欲がゼロになったら、それが覚り
煩悩がゼロと呼べるほど微細になったら、それこそ悟り。真実には大小の別さえ無く、極小である微細な意識が
全宇宙を究め尽くしているのがブッダ・マインド

499 :神も仏も名無しさん:2020/09/04(金) 05:38:50.71 ID:5cJJfb9w.net
(中論24)
二二 それ自体として存在するものが、どうして再び(註:自律したものとして)生起するだろうか。それ故に<空であること>を排斥する人
にとっては、苦しみの起こる原因【の真理】(集諦)は存在しない。

無も有も誤解錯覚で
実には空より空へ遷移してるだけ
それ恰も氷が溶けて水になり、蒸発して水蒸気になって雲となり
雨雪降らして水氷に転ずるが如きで状態変化繰り返し
可視不可視に関わらずH2Oの本質不変なのと同じ事なり

500 :神も仏も名無しさん:2020/09/04(金) 13:40:20.57 ID:5cJJfb9w.net
色即是空;如去
空即是色:如来

無も有も誤解錯覚で
実には空より空へ遷移してるだけ
それ恰も氷が溶けて水になり、蒸発して水蒸気になって雲となり
雨雪降らして水氷に転ずるが如きで状態変化繰り返し
可視不可視に関わらず水分子の本質変わらざるが如し

苦滅のための道諦と苦滅そのものである滅諦、或いは四諦を直観で見る事を空といいますね
それから色即是空 の一つの解釈として 水とは即ちこれ、水分子の集まりである とも言え
水分子、あるいは、その集合体という(容易に肉眼視できなかった)本質を指して「空」という、というか
科学的にも立証可だけれども直ちには確認し難い本質(縁起など)を指すと。

初撮影!原子が結合する様子を映像で
https://www.youtube.com/watch?v=IlJ54qk_IvY

501 :神も仏も名無しさん:2020/09/05(土) 04:12:30 ID:08thhrEh.net
>「因縁生の法。是を空相と名づけ、また仮名となづけ、また中道と名尽」
(大智度論)

「因縁生の法。是を空相と名づけ、また仮名と名づけ、また中道と名づく」
(中論)

縁起の自在な観察者=空=仮名と観じる=中の道

502 :神も仏も名無しさん:2020/09/05(土) 04:21:01.38 ID:08thhrEh.net
「衆因縁生の法、我即ち是を空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」
(中論)

三密加持 即疾顕
有頂天にもとづき心と心所法を止滅する 「五蘊は非我なり」と覚る
五蘊の顛倒夢想を除く 五蘊に我無し(欲我消え、また識を越えて、智慧生如来顕)
即身成仏

503 :神も仏も名無しさん:2020/09/05(土) 08:14:05.30 ID:08thhrEh.net
ダンマパダ

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。


釈尊は
五蘊=苦と、その因と、苦を滅する方法=空=乃至 滅した状態を
説いたのです

504 :神も仏も名無しさん:2020/09/06(日) 09:16:04.20 ID:zD+QcipR.net
五蘊が綺麗にゼロになったと言えるくらい執着を捨てさえすれば、
苦は消滅する と説かれた訳でしょうね
また諸法つまり欲色界が消える=五蘊非我を本当にさとった心のあり方とは
仏=我を覚った境涯、つまり成仏(真の自己に目覚める事)を意味する

505 :神も仏も名無しさん:2020/09/06(日) 10:49:57.54 ID:+SAQkxow.net
ナワラタナ

506 :神も仏も名無しさん:2020/09/07(月) 06:41:59.84 ID:Bawwe2Fn.net
ブッダは真我(真の自己)も無我も肯定してる。(アートマンは輪廻と同様に前提としてあって、沈黙としてあらわされる)無我とは、
個我・欲我・小我・エゴを無にせよ と言ってるだけ
ブッダの教えたブッダになる方便(九次第定・三十七道品・四諦を直観視する空・五蘊無我相の修習など)の実践で
大日如来(本来具わる法界体性智)の目覚めに導く事が本旨

507 :神も仏も名無しさん:2020/09/08(火) 08:27:18 ID:5Nc9rGR5.net
(8) 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。
〔その二つの真理とは〕
世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
(9) この二つの真理の区別を知らない人々は、
ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
(10) 世俗の表現に依存しないでは究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
(11) 不完全に見られた空は知慧の鈍いものを害する。
あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の咒術のごとくである。
(12) それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されえないことを考えて、
聖者(ブッダ)が教えを説示しようとする心はやんだ。
— 『中論』24:8-12

508 :神も仏も名無しさん:2020/09/08(火) 15:30:31.70 ID:5Nc9rGR5.net
人の身体を開いて中いじる医者は、少なくとも
表面に見えるかたちの空はさとってると思う。大半はね。あと、受、
想、行の空も。ただ識の空まで悟れてるかは微妙で、だから古い知識に
縛られて誤診をやる時がある

邪見を抱えたまま眺めても、それじゃ何も理解できないのは何事も同じ
「阿含経を読めば誰でも分かる」等と居丈高に我見呟いて空の正しい解釈頑固に拒む御仁を前から見掛け
ましたが、つまり、阿含経への偏執は、空の見解育む上での妨げになり得る という事を示してるのかな?

不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。恰も不完全に捕えられた蛇、或いは未完の咒術の如し

ここで不完全という語が出ましたが、全ては無常で不完全で確率的にしか予測
できないというのも、空像である世界の一つの性質といえるかも知れないですね。
ただ医学知識も無常で不完全なものと本当に気付いたら、或る種の正直すぎる人は、
医者などやっていられなくなる気はします。

509 :神も仏も名無しさん:2020/09/09(水) 08:14:22.56 ID:lYxEMama.net
明らかな智慧によって
対象物と主観の空(五蘊皆空)を観察している
「真の自己」がいる(諸法非我)
という事です。

510 :神も仏も名無しさん:2020/09/09(水) 22:11:05.02 ID:lYxEMama.net
ちゃんと正定を実践されてるのですか?
どの段階までかにもよりますが、
少なくとも「止」で一境性を体験すれば。空や無我の何たるかもわかる筈ですよ
理論でなく実践してわかる世界ですから

>龍樹菩薩 
大智度論 巻第十九(上)

大智度論釋初品中三十七品義第三十一


問うて曰く、四念処は、則ち能く具足して、道を得しむれば、何を以ってか、三十七を説く。
若し汝、略説を以っての故に四念処、広説を以っての故に、三十七なれば、此れ則ち然らず。
何を以っての故に、若し広ければ、応に無量なるべければなり。

答えて曰く、四念処は、具足して、能く道を得といえども、亦た応に、四正懃等の諸法を説くべし。
何を以っての故に、衆生の心は種種に不同にして、結使も亦た種種あり、所楽、所解の法も亦た種種なり。
仏法は、一実、一相なりと雖も、衆生の為めの故に、十二部経、八万四千の法聚に於いて、是の分別を作して説けばなり。
若し爾らずんば、初転法輪に、四諦を説けば、則ち足り、余法を須たず。
有る衆生は、苦を厭うて楽に著すれば、是の衆生の為めの故に、四諦を、『身心等の諸法は、皆是れ苦にして、楽有ること無し。
是の苦の因縁は、愛等の諸の煩悩に由る。是の苦を尽くる所の処を、涅槃と名づく。方便の、涅槃に至る、是れを道を為す』、と説きたまえり。
有る衆生は、多念、乱心、顛倒の故に、此の身、受、心、法中に著して、邪行を作せば、是の人の為めの故に、四念処を説く。
是の如き等の諸の道法は、各各、衆生の為めに説きたまえり。
譬えば、薬師は、一薬を以って、衆病を治すを得ず、衆病同じならざれば、薬も亦た一ならざるが如し。仏も亦た是の如く、
衆生心の病に随いて、種種に衆薬を以って、之を治したもう。
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm?20200909-2021

511 :神も仏も名無しさん:2020/09/11(金) 12:03:31.11 ID:6SuYijBS.net
世俗における真理は無数にあるが、勝義においては涅槃であり、無為の慧。
それは涅槃寂滅、涅槃寂静である。一方、色即是空や五蘊皆空の勝義は諸行無常に近く、
また凡夫からは一切皆苦と見え、聖者には諸法非我

と了知される。

512 :神も仏も名無しさん:2020/09/14(月) 05:08:19.81 ID:corwOQuZ.net
内観  自己の内部を見つめる

ダンマパタ やスッタニパータを読んでも
>とにかく自己の内面を観察するのが主なる教えだったらしい

紙は無かった、

>木の葉や、皮、石板、粘土板、等、古代文明世界は王の業績等を記録していた。
釈迦牟尼は、文字で残さなかった。
ただ語った。

人々の不要な食べ物を1日、1回、午前中に食した。

働かず自由を確保し、真理を探究することに没頭するための最低限、最小限度の生き方をした。
これならば、許されるであろう、と言う事である。

一日(あるひ)釈迦牟尼は炎天下、農作業に忙しい農民のそばの道を次の村へ足を急がれていた。
それを見た農民が、言う。
何もせず、ただ生きていると言うのは、理解できないなあ。
これを聞いた釈迦牟尼は言われる。
あなた方は 田を耕す、わたしはこころを耕す。

これらの事を、お弟子さんは、詞の覚えやすい形にして覚え、修行僧が出会えば、互いが覚えている詞を言いあって、確認し合った。

如是我聞
にょーぜーがーもん


>>511 無為法の慧

513 :神も仏も名無しさん:2020/09/14(月) 06:12:54.41 ID:corwOQuZ.net
人の心には二つ、我があって
一つは小我とか個我とか我執とかエゴとか言い、もう一つは真我とか
仏性とか法性とか円成実性等と呼ばれる

梵我。至上我はどっちも右脳です。
五蘊は、凡夫の場合、ただの曇りであって
全部錯覚、テン倒夢想に支配されてる

さらに言うと五蘊は苦の因を集める器であり
悪魔の棲家と見做されるべきもの。
苦の因を集めるのが我執。それを晴らすのが
空=道諦

514 :神も仏も名無しさん:2020/09/15(火) 05:30:18.47 ID:KCdxiEct.net
五蘊がさとるのではない
如来(我)が覚るのである
本来悟っている仏を自覚
する事である

515 :神も仏も名無しさん:2020/09/17(木) 02:38:52.76 ID:lSefZYX8.net
>全ての物は他に依存して存在している
無い訳では無い

>全ての物ごとには(独立性は無く)関係性・相互作用だけがある
五蘊・自我も世界→周囲との繋がりによって
形作られた仮初のものに過ぎない

>いま見えている橋も何時破壊されて消滅するかわからない危険を孕んでる時、それは幻同然だと言われ
崩落直前のWTCビルヂングのように、今見えている物でも何時かは消滅するのだから幻のようなもの。
何十年とか、場合によっては数百年保存できたとしても何時かは消え去り、その時間も幻想で、この星で
の長い時間もどっかの天体では一瞬であり幻


>ガウタマシッダールタさんが出家して森の中で師事した二人の師は、瞑想を教えた。
三昧(ざんまい)の達人であった。

516 :神も仏も名無しさん:2020/09/19(土) 15:40:37.16 ID:K4eWG2ic.net
>フロイト的に説明すると、ヒトの精神にはエスと超自我が葛藤を繰り広げる領域があって、通常そこを”自我”と呼んでる。
統失者の書き込みを見てわかるのは、
もう超自我もへったくれもなく、超自我がぶっ壊れてるのか最初から良い按配に
出来上がらなかったかで、ただ闇雲に欲望充足の運動のみに五蘊が支配されてるような
感じだ。題目唱えるのもそうした低級な心のはたらきでやってる。仏教と無関係。
本来ブッダの無我とは、そうしたエスのほうを
限りなくゼロにして
自己の内面を見つめ、煩悩を滅ぼすことである。またブッダの意識も
エスが住み着いてる五蘊も超自我をも遥かに超えた普段は滅多に立ち
あらわれることのない至上我の世界であって、それを自覚するのが
瞑想の一つの目的である筈

517 :神も仏も名無しさん:2020/09/22(火) 09:49:44.72 ID:/yoeqxLT.net
ブッダは入滅するまで生涯、九次第定を続けておられたのだと
観察しますが、第三禅はどのような内証であったかは大いに興味があります。
弟子たちが行うような四念処観や四諦正見より、また進んだ観察であったような気は
しています。

>タイの20世紀の坊さんでブッダタートという人がいたが、
三蔵中の「たった一粒の金剛」は、何ものも私、私のものと
執着すべきでない、それは涅槃でさえも同じだと言ってる。(所謂 小乗圏で、この方は阿羅漢でしょ)それが空の意味です

「何ものも私、私のものと執着すべきでない」というブッダシャキャムニの教え
こそが、たった一粒のダイヤモンドと南伝系の人も言っていて、
それは般若のエッセンスと同じで、ただ密教においては、般若を空と解くは
浅略とも言ったりはします

>この宇宙のものごとというのは、
おしなべて何かを犠牲にしなければプラスは得られない。
労働をしなければお金は得られない、糖質のフリをせねば障害年金は得られない、
智慧方便に依らねば(これ犠牲じゃないかね?)無上の覚りは得られぬ…

単に言葉の問題で
智慧方便・般若波羅蜜多と大乗では呼んでるだけで本質は同じ。
ただ菩薩の覚りを説いてるのだから、当然、ブッダよりは一歩ひいて
て控え目だね

518 :神も仏も名無しさん:2020/09/22(火) 10:10:39.99 ID:/yoeqxLT.net
5chや知恵袋を見てると
ヴィパッサナー瞑想だけでも悟れたという風な話をなかなかよい感じで書く方がいて、
書きっぷりからして、(どの段階の悟りかは別として)必ずしも嘘ではないようにも感じたりします。
そうとするなら、ヴィパッサナーを含む第三禅だけでも、色界の禅だけでも大変な功徳のある実践行という事だと思います。

>>106-110
>六神通ろくじんづう
仏・菩薩などが持っているとされる(完全な精神統一などを行なって得られる)6種の超自然的な力。
止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したもの

519 :神も仏も名無しさん:2020/09/23(水) 14:28:13.07 ID:d3RfyPHZ.net
「執着して取ること」が無いならば涅槃を得る、ということは、執着して取ることがないならば生死輪廻が滅尽する、という意味です。
十二縁起、無明〜渇愛〜取(執着)〜生老死。
渇愛・取(執着)がなければ、生老死(生死輪廻)は滅尽するという教え、それが涅槃

釈迦の悟り・涅槃は、五道輪廻からの解脱と煩悩からの解脱

>十結煩悩解脱=五道解脱=阿羅漢、です。
五下結煩悩解脱=四悪道解脱=不還、です。
三結煩悩解脱=三悪道解脱=預流、です。
三結煩悩断じ二結(欲貪・瞋恚)薄れて、
三悪道尽きて、人間界にあと一回だけ生じるだけまでに、五道解脱が進んだのが一来です。

「中論」第二五章 涅槃

九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374

(鳩摩羅什訳 漢訳)
諸の因縁を受くるが故に、生死中に輪転し、
諸の因縁を受けざる、是れを名づけて涅槃と為す。

大般若波羅蜜多経卷第四百三

舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不染不淨。不増不減。非過去非未來非現在。
如是空中。無色。無受想行識。無眼處無耳鼻舌身意處。無色處無聲香味觸法處。無眼界色界眼識界。無耳界聲界耳識界。無鼻界香界鼻識界。無舌界味界舌識界。無身界觸界身識界。無意界法界意識界。
無無明亦無無明滅。乃至無老死愁歎苦憂惱。亦無老死愁歎苦憂惱滅。
無苦聖諦無集滅道聖諦。
無得無現觀。無預流無預流果。無一來無一來果。無不還無不還果。無阿羅漢無阿羅漢果。無獨覺無獨覺菩提。無菩薩無菩薩行。無正等覺無正等覺菩提…

520 :神も仏も名無しさん:2020/09/23(水) 14:29:15.55 ID:d3RfyPHZ.net
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」

「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。
名称で表現されるものを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。
しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が{有る}と考えないならば、
その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾となるもの{煩悩}は、もはや
その人には存在しない。 」
サンユッタニカーヤ

521 :神も仏も名無しさん:2020/09/23(水) 15:25:52.33 ID:d3RfyPHZ.net
識(grAhaka)と境(grAhya)が消えるのは無想定か滅尽定に入った時と涅槃に入った時だけ

パーリ仏典で「渇愛・見解・思考について考えないこと」→最終的に識別が終わるので、主客を超越する

大乗仏教で「主客に二分して考えないこと」→主客を否定することで一元的且つ世界を否定するので
溺愛、妄執、見解、戯論、妄分別を却下できる



>諸々の汚れと執著のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。
>三種の想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、かれを〈すぐれた人〉と呼ぶ。
欲愛等の破壊するものが、「三種の想い」である。〔そしてさらに〕感官の喜びという名の「汚泥」を除いて、
〔三種の想いと汚泥を〕除いた〔者〕は渇愛・見解・思考のどれか一つ〔について〕でさえも「妄想分別に赴かない」
妄想分別を構成するのは三つ(渇愛・見解・思考)
世俗諦を説かないと勝義諦が説かれ得ない
そしてその分別(世俗諦)は、勝義諦に於いて虚妄分別として否定される

522 :神も仏も名無しさん:2020/09/23(水) 17:06:32.07 ID:d3RfyPHZ.net
>相応部の経において、片方では五蘊は苦であり、もう片方では五蘊を空としている。
また相応部の他の経では五蘊は無常であり、また他の経では五蘊は無我(非我)であり、また別の経では五蘊を悪魔と観じるのが正しい観察としています。

結局はこれら色々な喩えは、

「そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。
厭い離れることによって、貪りを離れる。
貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである」

というように解脱して苦滅に至るための筏(方便)であり、解脱の時にはそれらへの見解も手放さないといけない

523 :神も仏も名無しさん:2020/09/23(水) 18:08:53.14 ID:d3RfyPHZ.net
識が消えるのは滅尽定

>プルシャ純粋意識は五蘊を越えたものと。

胎蔵=大日経系密教はインド東部で、金剛界=金剛頂経系密教はカシュミールあたりで誕生しているので、
系統的には全く異なった密教といわれますが、こうした理性・智慧という区別を分かり易く説明すると
どう言えますか?

参考
ヨガのお話|プルシャとプラクリティ|10月23日朝ヨガライブまとめ
https://www.youtube.com/watch?v=f2i13XX6NxY

>nakさん2019/7/16 0:45 のご投稿から引用させていただきます

>悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。

早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはありません。
「北枕西向」
お釈迦さんは、神々の住むヒマーラヤに足の裏を向けなかったのですよ。
つまり、この一事を以てお釈迦さんが敬虔なバラモン教徒であったということが判ります。
仏教は、バラモン教の非合理的部分に対するアンチテーゼなのであって、バラモン教を否定したわけではないのです。

524 :神も仏も名無しさん:2020/09/25(金) 21:33:38.44 ID:yV7gElg+.net
【仏教のもつポテンシャルと空海】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/8u0qG58q8Ao

【密教の曼荼羅とは?】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/XotUI0r4FLs

【恵果阿闍梨との運命の出会い】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/LU9vh06cOo4

525 :神も仏も名無しさん:2020/09/28(月) 03:11:42.82 ID:N8AKwgFR.net
空海の代表作。秘密曼荼羅十住心論
https://youtu.be/K4xM0yrKiyc

【十住心の紹介(1/3) 私たちの物の見方に合わせた段階】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/XGi1dDgNZEU?t=1

【十住心の紹介(2/3) 神仏習合が起きるわけ】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/bxNW4E2JbD0

【十住心の紹介(3/3) 仏教固有の段階】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/0k79lr_9IBM

526 :神も仏も名無しさん:2020/09/28(月) 03:18:00.81 ID:N8AKwgFR.net
色界の四禅から四無色定を経て滅尽定に到る九次第定は、
現世で有余依涅槃を知る方便なのです。
また三密加持で即身成仏する秘密の教えもあります。

527 :神も仏も名無しさん:2020/09/28(月) 03:43:47.37 ID:N8AKwgFR.net
>>96

「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確かめるべきであり、語るべきではない。」

釈迦はケーヴァッダに識を越える時、色界も消えて欲界も消えると説き
内側に外界があり外界に内側など無いことを説く。

自我を越えて大我にいたるを梵我一如や即我宇宙や真我や眞如(さとりの真理)というが
主体は真我(己)であり悪魔や神は外界の客体であり
客体を生み出しているのが主体の囚われ(煩悩・カルマ・末那識・アーラヤ識)による五蘊で形成された実体の無いエゴで、
それらを空と悟ることで悪魔は己に調伏され神は己に帰依すると説かれている

528 :神も仏も名無しさん:2020/09/28(月) 22:47:31.78 ID:N8AKwgFR.net
>龍樹の大智度論や十住毘婆沙論には九次禅定、無色界定(無空定とも)などの言葉がどんどん出てきて
はいたが、
また天台系の宗祖は一切経で知ってはいたものの
龍樹も智もあまり評価してなかったということですね

>現在の仏教の中で未だに無色界禅定まで極めようとしているのはチベット仏教

とのことですが、ダライラマもさほど九次禅定について、言及しているようには見えませんし、
ということは、やはり、おそらくは、正法後期以降の仏教の実践において
その認識と、実践それ自体が忘れられていた可能性がありますね。
実は確かに色界の四禅まででもじゅうぶんに実践の功徳はあるのは確かですし、
第三禅に当たるヴィパッサナーだけでも実践した結果さとったと言う方がたはいます。
しかしブッダが生涯、実践を貫いた九次禅定を言葉のみできちんと行おうする人があまり
見られないのは、大変不思議です。少なくとも
何故九段階必要かというと、まず五蘊を越える事と滅尽定を完成させる為
なんです。そして九番目まで行かねば涅槃は体験できないと思われます。
もちろん有余依涅槃ですけど。
第四禅では受が捨てられますが、色想行識を完全に消すのは大変な努力を要する事で、
とりわけ想蘊を止めるのは難しく、だからこそ8番目の非想非非想処定が最後に
置かれたと気付きました。

529 :神も仏も名無しさん:2020/09/28(月) 23:59:58.89 ID:N8AKwgFR.net
テーラワーダの藤本氏って、第四禅から第三禅に戻れと言ってるような話なので
変だと感じました。また智慧を得るための禅定とは初禅と第三禅で、徹底的に行い、
第二・四および無色定は一点集中の精神統一、止で一境性がどんどん深化していく
ことになります。自分の方法論としては止と観を交互に六回繰り返し
次第に完全な止を完成させるよう試みるのです。

530 :神も仏も名無しさん:2020/09/29(火) 12:14:48.80 ID:Hf6kc/Zb.net
アートマン
ブラフマン

531 :神も仏も名無しさん:2020/09/30(水) 01:50:21.59 ID:ZvjW2HSY.net
>有部において静慮いわゆる禅とは、止と観とが拮抗した心の状態、『倶舎論』における玄奘三蔵の訳語をもって言えば、
>止観均行なる勝れた心の状態を示すもの

そうです。理想の無色定は、「止観均行なる勝れた心の状態」にあると常々感じていました。
私見を述べれば、初禅から滅想受定にいたる流れを止と観の関係より大雑把に要約すると
以下のように止と観を七度ずつ反復して
完全な止={五蘊皆空」を完成させる流れとなります。

@瞑想を始めるに当たって、まず欲界から離れ、五禅支の生成=(日常的な思いの)止 → 初禅=観
A第二禅=止(尋・伺が捨てられる) 三昧
B第三禅=観(正念・正智・正見)
C第四禅=止(一境性単独状態) サマーディの完成
D四無色定=色界が消え、観より止へ ×4 止観均行
E滅想受定=完全な止、涅槃

532 :神も仏も名無しさん:2020/10/03(土) 22:36:42.83 ID:2sRm+vlB.net
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533 :神も仏も名無しさん:2020/10/04(日) 02:53:11.24 ID:qXILS6vP.net
唯識的な世界の見方でも統一的把握は可能で辻褄が会うこともあるけれども、
しかしそれは本来密教的な事柄であって、
あまり大きな声で語るべきでない話かも知れず、執着してしまうと
カルト妄信の偏執病に陥る

534 :神も仏も名無しさん:2020/10/09(金) 07:25:37.54 ID:4MKenY75.net
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010050000/

535 :神も仏も名無しさん:2020/10/09(金) 07:29:40.87 ID:4MKenY75.net
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diaryall/

536 :神も仏も名無しさん:2020/10/09(金) 09:32:15.86 ID:4MKenY75.net
平川彰氏は、「阿含経では、四禅は決まり文句で、次のごとく説かれている。」として、次を引用する。
 「比丘等よ、ここに比丘あり。諸欲を離れ、諸の不善の法を離れ、有尋・有伺にして、離より生ずる喜と楽とある初禅を具足して住す。
尋と伺とが止息することより、内清浄となり、心専一性となり、無尋・無伺にして、
定より生ずる喜と楽とある第二禅を具足して住す。
喜を離れることより、捨に住し、正念正知にして、身に楽を感受し、諸の聖者が「これ捨にして、正念ある楽住なり」と宣説する第三禅を具足して住す。
捨を捨て苦を断ずることより、さきにすでに喜と憂とを滅したるが故に、
不苦不楽にして、捨による念の清浄なる第四禅を具足して住す。」
平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、381頁。
に引用。「南伝大蔵経」16巻下、174頁。「増阿含経」巻14、大正、2巻、97a。「長阿含経」巻8、大正、1巻、50c。

537 :神も仏も名無しさん:2020/10/11(日) 03:16:42.65 ID:5cI3SR97.net
長時間の座禅を行う者には
断食、
または厳しい糖質制限は必須

538 :神も仏も名無しさん:2020/10/12(月) 21:13:04.31 ID:JuHCGCiS.net
三界の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間
である中の道に仏は
大般涅槃で入滅していかれたという解釈も
あるのかな?

539 :神も仏も名無しさん:2020/10/12(月) 21:36:37.06 ID:JuHCGCiS.net
涅槃というのは死んでから行くものではありません

毎日、生きながら涅槃を楽しんでいる人もいるのです

そして仏教修行者にのみ涅槃は訪れるわけ

でもありません

540 :神も仏も名無しさん:2020/10/14(水) 03:10:55.59 ID:G7k9hW1y.net
禅問答も創価の屁理屈もどうやら同根だな。
というのも、双方ともに顕教の戯論から派生した
表層的な只の言語的遊戯であり、それこそブッダが無記とし
戒めた論争の行いに過ぎぬからだ。

541 :神も仏も名無しさん:2020/10/14(水) 03:24:21.66 ID:G7k9hW1y.net
いまの仏教からは、正定などの正しい実践はほぼ姿を消していて
いま続けられているのは、やたらに金ばかりかかる
形式にのみ囚われた禅問答とかの屁理屈の応酬紛いの遊戯に
堕しているということ

542 :神も仏も名無しさん:2020/10/17(土) 05:33:49.10 ID:0BOszPA3.net
人無我
人間という存在(有情)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、
生死輪廻において
恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは、常見として否定する。
法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な
独自の本性(自性)はないということ

543 :神も仏も名無しさん:2020/10/19(月) 10:13:49.49 ID:sZVWFkEb.net
人は、かなりの部分 幻を生きている
https://youtu.be/vXWpfSoodho?t=619

544 :神も仏も名無しさん:2020/10/19(月) 23:35:57.30 ID:2ai0nKX0.net
憲法9条

545 :神も仏も名無しさん:2020/10/20(火) 09:46:59.37 ID:sRic3jG8.net
言語や思考を越えた絶対否定の理が諸法空相で、
空・有を越えた絶対肯定の中道の理が諸法実相?

546 :神も仏も名無しさん:2020/10/21(水) 10:51:24.71 ID:0Lk2v47G.net
>『創世記』における世界の創造。一日目 神は天と地をつくり、(宇宙と地球を創造し)暗闇がある中、
神は光をつくり、昼と夜ができた。

『新約聖書』「ヨハネによる福音書」
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、
言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
・・・神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするために・・・

ゾロアスター教
ミスラは司法神であり、光明神であり、闇を打ち払う戦士・軍神であり、牧畜の守護神としても崇められた。
ミスラ(Miθra)は、イラン神話に登場する英雄神として西アジアからギリシア・ローマに至る広い範囲で崇められた神。インド神話の神ミトラ
と起源を同じくする、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格。

『リグ・ヴェーダ』
アディティの産んだ十二柱の太陽神(アーディティヤ神群)の一柱

ミスラ神の光明神としての性格が強調され、太陽と同一視された結果、中世ペルシア語では日曜日のこともミフルと呼ぶようになった。
これがソグド語に借用されてミールになり、「蜜」と音写された。
宿曜道とともに平安時代の日本にも伝えられ、当時の具註暦では、日曜日に「密」「みつ」「みち」などと朱書きされていた。

ミトラス教
最大のミトラス祭儀は冬至の後で太陽の復活を祝う12月25日の祭で、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされる。


仏教
諸事象の無常・非我なることを知り、如実に見るとき、無明が滅して明が生じる。

無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。 〔雑阿含経、12〕

547 :神も仏も名無しさん:2020/10/21(水) 18:57:28.60 ID:ZH3aJGV/.net
憲法9条

548 :神も仏も名無しさん:2020/10/22(木) 08:15:16.38 ID:q538v8vS.net
要するに大乗の涅槃経や日蓮の教義ってのは、
自己の内部の魔と戦うんでなく、
外に見えた虚妄なる他宗などの幻影を敵と見立てて闘いを挑む世界であって、それ
仏教じゃないし、凄い悪影響あるね。

549 :神も仏も名無しさん:2020/10/22(木) 11:46:01.12 ID:q538v8vS.net
思っても思わんでも五蘊は幻想だから、実には五蘊に我は無く、
勝義の我は、見ることはできる。
だが、涅槃像や板曼荼羅の類は、五蘊の作した業である故、
実体は無い。

550 :神も仏も名無しさん:2020/10/22(木) 14:00:48.46 ID:q538v8vS.net
『(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。」』(『スッタニパータ』第5章<パーラヤナ篇> Sn.1146  =『ブッダのことば』中村元訳・岩波文庫)

信者さん方は。思い込みに支配されてますよ。

正宗の教義も
世間に数ある「共同幻想」のうちの一つに
過ぎません。

本来、ブッダの教えは
低い次元の思い込みや幻を幻と気付いて
魂の覆いを打ち砕き、深い眠りから目覚めさせるもの
だったんですよ

涅槃
仏教では究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味する。本来は風が炎を吹消すことを意味し,自己中心的な欲望である煩悩や執着の
炎を滅した状態をさす。このような状態は「涅槃寂静」と呼ばれて初期仏教の根本的教えの一つであったが,人が生命または肉体をもつかぎり完全な涅槃
の状態は達成されないとして,これを「有余 (依) 涅槃」とし,死後に実現される完全な状態を「無余 (依) 涅槃」と呼び,釈尊の死を涅槃に入るというようになった。

551 :神も仏も名無しさん:2020/10/22(木) 15:19:55.29 ID:q538v8vS.net
>pariを般、nirv??aを涅槃と音写した語。「入滅」と訳す。
 pariには「完全な」という意味があり、完全な涅槃をいう。あらゆる煩悩を滅し尽くした完全な静寂の境地、さとりの心境、あるいは、そのような心境に入ること。
 梵に般涅槃と云う。般は此れ円を云い、涅槃は此れ寂を云う。    〔倶舎論光記23〕

552 :神も仏も名無しさん:2020/10/22(木) 15:28:34.65 ID:O2Mpa96i.net
>>546

仏教と関連する創造論はリグ・ヴェーダだね

(辻直四郎先生訳)
「宇宙開闢の歌」(10.129)======
1 そのとき(太初において)無もなかりき。
有もなかりき。
空界もなかりき。その上の天もなかりき。
何ものか発動し、いずこに、誰の庇護の下に。
深くして測るべからざる水は存在せりや。
2 そのとき、死もなかりき。
不死もなかりき。夜と昼の標識(日月・星辰)もなかりき。
かの唯一物は、自力により風なく呼吸せり。これよりほかに何ものも存在せざりき。
3 太初において、暗黒は暗黒に覆われたりき。
この一切は標識なき水波なりき。空虚に覆われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり。
===========

553 :神も仏も名無しさん:2020/10/23(金) 21:04:53.73 ID:rks63WYh.net
自分は日蓮系じゃないが曹洞地獄鬼の妄執を見ると日蓮の存在意義が理解できる
日蓮にも一理ある。いやバカが二人いれば二理になり、三名いれば三理にもなる。
結果、日蓮系の勢力拡大を招く。独善的地獄鬼が醜態晒していては
道元禅師も泣くであろう

554 :神も仏も名無しさん:2020/10/24(土) 03:26:16.13 ID:x1duXnxR.net
テーラワーダや現代の分別論者への教化として、おそらく大変適切と言える言葉を見つけました。

それは
「自分がそうだから他人もそうだろうとは思わない方がよい」
という言葉です。これは知恵袋の次の質問
​諸法空相と色即是空の違いをわかりやすく教えてください​。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10224252255

に対するsam********さんという方の回答(BA以外)です。
確かに、空について自分らがよくわからないからといって、誰しもがわからないと思い込むのは変
だと思いますし、それこそ妄分別です。
批判対象へのきちんとした理解も一切ないまま
自分らが理解できないからというだけで、ただ闇雲に
心経を攻撃するのは如何なものか。
その程度の軽薄な誤解で本を出版したり、
多勢の前で法話をとくとくと説いたりしているということは、
その他のディスクールも(苫米地関連商材も含めて)
全てが心経批判と同水準の
ちまちました愚痴の羅列に過ぎなかったということか?
というお話なのです。

555 :神も仏も名無しさん:2020/10/24(土) 03:28:09.38 ID:x1duXnxR.net
そもそも分別論者の邪な企みこそ、「狼子野心」に基づく業と見做されるべきことと観察されますが、
龍樹も
「行為と煩悩を滅すれば解脱に到る。行為と煩悩は誤った認識から生じ、それらの妄分別は戯論から生じる。
そして戯論は空によって滅される」というようなことを言っています。
空を否定しようとして攻撃している分別論者らの妄分別さえもが
空によって滅されてしまうのです。
また先に挙げたsamさんによれば、「正解が分かりにくい時、分かりやすく誤解するくらいなら、分からないままにしておいた方がよい」
とのことですが、しかし、それも一理はありそうではあるのですが、これまでに空について説かれた膨大な論書、
現代にいたる学術書や出版物等によるディスクールはどう扱えばよいのでしょうか? 近年でも
スマナサラ長老や苫米地氏による極めて粗雑な誤解に基づく本が出版されたり、あやしげな動画が氾濫しており
今更分からないままにしておける状況にあるとは思えません。・・・
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300000/

556 :神も仏も名無しさん:2020/10/25(日) 23:57:05.94 ID:UypGbHIa.net
十力(じゅうりき)は、仏と菩薩が人々を救うために使う10種の力のことである。

仏の十力
仏(如来)のみが具える10種の智力のこと。

処非処智力 - 道理と、非道理との違いをはっきりと見分ける力
業異熟智力 - 業とその果報因と果の関係を知る力
静慮解脱等持等至智力 - 禅定を知る力
根上下智力 - 衆生の精神の優劣を知る力
種種勝解智力 - 衆生のまことの望みを知る力
種種界智力 - 衆生の本性を知る力
遍趣行智力 - 衆生が地獄や涅槃など種々に赴くことになる行因を知る力
宿住随念智力 - 自分や他者の過去世を思い起こす力
死生智力 - 衆生が死ぬ道理、むこうに生まれる道理を知る力
漏尽智力 - 涅槃に達するための手段を知る力
菩薩の十力
十廻向の第九無縛無著解脱廻向にある菩薩の具える10種のはたらきで、深心力(探心力)・増上深心力(深心力)・方便力・智力(智慧力)・願力・行力・乗力・神変力(遊戯神通力)・菩提力・転法輪力のこと。

参考文献
中村元、福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年、第二版。ISBN 4-00-080205-4。
多屋頼俊、横超慧日・舟橋一哉 編『仏教学辞典』法藏館、1995年、新版。ISBN 4-8318-7009-9。

557 :神も仏も名無しさん:2020/10/27(火) 18:49:02.91 ID:WEyz1xzF.net
仮に全人類が阿羅漢に達し、子孫が絶えたとしても、解脱できることのほうが
優先されるべきだろうね。だが、そうおいそれと解脱はできるものでもなく、
子孫を残してから出家するものもいる訳で、禁欲が原因で人類が滅ぶこと
は無いよ。


また本当に正しい方法論なら
出家でなくても解脱できる。

558 :神も仏も名無しさん:2020/10/28(水) 03:36:48.11 ID:zTwOFkHH.net
般涅槃でブッダはまず如去として空(想受滅)に到り、
次に如来となって仮・色(初禅)まで戻り、
最後に中(第四禅→色・無色界の間)の道に入って無余依涅槃入りしたとも
解ける

559 :神も仏も名無しさん:2020/10/29(木) 14:44:42.26 ID:YzN7hbo6.net
【カルト】スマナサーラの瞑想で発狂した奴
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535885654/

560 :神も仏も名無しさん:2020/10/30(金) 07:19:21.98 ID:Bibo7oWw.net
   唯物史観の誤り
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1604008431/

561 :神も仏も名無しさん:2020/10/30(金) 12:16:00.52 ID:Bibo7oWw.net
トムこそ低能じゃねえのか?

餓鬼以下の禅天魔(5ちゃん悟りスレの数匹については日蓮は正しい)の妄執を全否定するものなら
”皆さん”の批判は,至極真っ当なものだよ。臨済犬山・曹洞トム等が、ただやってるのはブッダ
の説く正定では有り得ない。

562 :神も仏も名無しさん:2020/10/31(土) 05:34:46.87 ID:lhboK0QA.net
印象というものも虚妄である

563 :神も仏も名無しさん:2020/10/31(土) 16:46:38.46 ID:lhboK0QA.net
哀れな者の五蘊の空が意味するのは、empty=「物に囚われる五蘊は徳が無い」である。
が、断見の者には「唯物論の完全否定」を示し、常見には「カルト御花畑全否定」になり、
また分別論者や有部の見解に執着する石頭には、脱構築=真理を捉え直す方法論
とも説かれよう。

564 :神も仏も名無しさん:2020/11/01(日) 07:14:26.54 ID:Wd1JBN+T.net
ブッダは「スジャータのおかげで覚れたのだよ」と言うかもしれません。
また「我が衆生を救ったというより、梵天さんが利他をすすめてくれたから説法しただけなのだよ」と言うでしょう。
決して衰退のおべんちゃらの出鱈目詭弁で史実を曲げ過大評価するのが道理な訳はなく、
いわんや日蓮が持ちだしたとされる鎌倉時代の真言僧(いったい誰!?)のような
仏を卑下する言説に理があるという訳ではありません

565 :神も仏も名無しさん:2020/11/01(日) 09:02:20.29 ID:Wd1JBN+T.net
瞑想して仏に成る事が正定
仏であるための実践 が八正道(菩提分法) つまり
仏である事を妨げない行が
道諦(仏道)

566 :神も仏も名無しさん:2020/11/04(水) 12:48:54.60 ID:7CFhySDa.net
世間法即涅槃、生死即涅槃、煩悩即菩提

>この、今こうして当たり前に生活してる
この様子を捨ててどこか超越した何かに涅槃とか悟りとかがある訳ではない。

>「この生死は、すなはち仏の御いのちなり、
これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。
これにとどまりて、生死に著すれば、
これも仏のいのちをうしなうなり。
仏のありさまをとどむるなり。
いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。
ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなか れ」正法眼蔵 生死

567 :神も仏も名無しさん:2020/11/05(木) 15:42:02.20 ID:3e+txTEC.net
臨死体験者とか、一度本当に自分は死ぬかもしれないと覚悟した者が強いのは
所有観念を完全に手離すから、そういう人は意識として、出家してなくても出家して全て捨てたのと同じ気になれる

568 :神も仏も名無しさん:2020/11/07(土) 12:01:47.11 ID:1ZJR+Ek9.net
意識が第七識を意識して言語化したものが
「自我執着」だよ。そしてほんとうに一たび覚ったなら
以後は平等と見て、エゴは醜い幻でしかない

内観で「エゴは醜い幻でしかない」と
見るようになれば、もう平等性智だよ。

ただ現実の社会では、エゴがないと
対応できない世界もあるようだ。あと万一、暴漢とかに
襲われてまだ死ぬべきでないと思うなら身を守る。昔の阿羅漢は、それも
因果と思い、そのままやられた

悟った境地にあっては、
もう相場などという騙し合いのゲームも馬鹿らしくてやれなくなる。
そもそも覚者は手を出さないが、エゴはないとやれないことは
世間に多い。

仏の教えという「法」を
ただ知識として論争に用いて、自我執着を膨らませてしまうか。
本当の実践の手引きとして生かすかで、かなり
差は出るよね

ブッダの無我を「我執を無くすこと」と本来的な意味で理解するなら
第七識を転識得智する でおしまいだね。
阿羅漢は頭割られて死んだとかいう話も、彼らが無我に達してた証拠にはなるが、
他人に業を積ませないという発想はなかったのか

569 :神も仏も名無しさん:2020/11/07(土) 16:36:49.10 ID:1ZJR+Ek9.net
5chの悟りスレは、
ブッダの覚り
じゃなく、仏滅後のダメな仏教に執着するスレみたい。

ブッダは仏教がなかった時代にさとったんだし
ブッダ以後にブッダが出てないとすれば、
仏教って多分、未完成だったか、仏に成れる教え
じゃなかったという事

ブッダも梵我一如には達したんだと思います
そのための方法がアナートマンで
それはバラモン教では、かなり独自な教説な
だけ

>「今ここ」って書いてるのいた。
つまり禅の方のさとりなるものを 良く目にするのですが、それ殆どが
実質・和風梵我一如、中華風梵我一如
です

570 :神も仏も名無しさん:2020/11/07(土) 16:52:37.68 ID:1ZJR+Ek9.net
ヒンドゥでもブッダは神です。梵我一如も悟れてない者が
神扱いされることはありえません。

571 :神も仏も名無しさん:2020/11/08(日) 03:34:01.84 ID:RSn/4Yvg.net
無上正等正覚を開くためのスレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1604769706/

572 :神も仏も名無しさん:2020/11/08(日) 05:39:25.12 ID:RSn/4Yvg.net
IQにもいろいろあって、テストでわかるIQとテストでは評価できない
裏の、といったほうがよい智慧の水準がある
たとえばオウムをはじめカルトの幹部には高学歴のものが多いけれど
とんでもない邪師につかまったりするのは人を見る智慧の眼が劣っている、
肝腎な裏IQが劣っているということで、同様に子供の時から勉強ばかりで異性を見る目がじゅうぶん
できてない人が悪い異性にひっかかって痛い目に遭うとか
健康リスクを甘く見て食事や飲酒などの生活習慣リスクに注意ができなかったり
老年までうまく生きれたとしても高齢運転のリスクに気づけず適切なライフスタイルの改善をしないで事故を起こしたり
幾らでもテストIQでは測れない諸問題が人生には山のようにあり、
その意味でも、ブッダの言うよう人生は苦なので
その解決法がまさに道諦の実践ということになる。
まよいの縁起を超越するほんとうのIQともいえる仏の智慧を輝かせる
方法はふつうの学校では教えてもらえません

573 :神も仏も名無しさん:2020/11/09(月) 05:27:33.33 ID:ioKmA0ye.net
スマナの動画とかあげてた人、わかってないな

574 :神も仏も名無しさん:2020/11/10(火) 12:49:59.73 ID:svNXy5Al.net
 無我ってのは我執を綺麗になくそってことで、
そうすると本当の「我」がわかる
あらわれてくる、ということで、たぶん「我はない」とか言う方は、その本当
の体験をしてないってだけ

575 :神も仏も名無しさん:2020/11/10(火) 23:39:31.22 ID:svNXy5Al.net
 変なおじさんに洗脳されてたら、
心の成熟した大人になれません

ただ少なくとも ブッダが出た時代には、そうした洗脳にがんじがらめにされた状態を
打破しようという志を持った求道者もいた

576 :神も仏も名無しさん:2020/11/10(火) 23:41:04.60 ID:svNXy5Al.net
大衆部が出た時も
脱構築への挑戦ではあったのだろうね
それ半分は成功し、二千年信じられた経典も
生まれた

577 :神も仏も名無しさん:2020/11/11(水) 00:26:55.42 ID:Q7o/zE2o.net
苦痛を耐える苦行ならやんないほうがいいね、ブッダは初転法輪
で快楽主義も苦行主義も否定した。また身体を動かさん行をするなら断食か
厳しい糖質制限とセットだよ。成人病の素質もった人が普通に食べててそんなことしてたら大変だ、
そこまで注意喚起も添えてすすめろよ

大乗仏教、曹洞宗 とは、洗脳の教えですか?
工作員はんの書き込みは只の洗脳にしか
見えんよ

苦痛に耐えて座れとか苦行をすすめるのは何も悟ってない証拠だよ。
また足の悪い人にはできない、万人向けでない教えを
特定の人にすすめるだけなら、大乗の主旨にも
反する。

578 :神も仏も名無しさん:2020/11/11(水) 07:18:18.66 ID:Q7o/zE2o.net
おそらくブッダ入滅後、仏教を興した弟子たちが
生前の教説を保存し、さとりの内容を維持しようと試みはしたが、
そもそも悟りなるものが正しく理解できてたか、くまなく経典として伝承できてたか
また阿羅漢の認定とかにしても間違いなく法の運用ができてたか、
客観的に評価できないまま五百年が過ぎ
そろそろ何か変だぞ と気付いた有志らが大衆部を興した
のだと思うよ、

579 :神も仏も名無しさん:2020/11/12(木) 07:13:09.50 ID:q6cperTV.net
(声字実相義)
五大にみな響あり、十界に言語を具す、
六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。

(現代語訳)
地水火風空の五大に皆それぞれ響きがあります。また、下は地獄から上は仏界までのあらゆる世界にそれぞれ言語があって意志を伝え合い表現し合っています。そして眼耳鼻舌身意という六根が対象とするいわゆる色声香味触法の六境(六塵)も広く理解すればすべて文字(メッセージ)だといえます。そう考えますとこうした声字の当体としての法身が実在するということに

名は必ず体を招く。これを実相と名づく。
名が出れば必ずそこに本体があらわれます。これを実相といいます

580 :神も仏も名無しさん:2020/11/13(金) 14:24:49.26 ID:SfXbj6F5.net
心身脱落とは、おそらく無余依涅槃のことを言ってるのではないでしょうか
自分は曹洞フリークではなく、トム君のレスは吐気がしますが、
おそらく道元は、瞑想中に体外離脱して無余依的観想をしたのでは、と想像して
います。スウェーデンボルグみたいにね。

581 :神も仏も名無しさん:2020/11/13(金) 14:35:07.71 ID:SfXbj6F5.net
>自分が変性意識に入ると、近くにいる他人も同調して、変性意識に入りやすくなる。
相手の認知システムの中にある情報空間にアクセスして、影響を与えてしまう。

そういう意味では座禅会等もよいかもですが、一時より犀の如く地道に実践するほうが
確かな気はします。

582 :神も仏も名無しさん:2020/11/15(日) 02:27:58.24 ID:dZWH0hvR.net
毎日、一瞬ずつでも
成道する。

583 :神も仏も名無しさん:2020/11/16(月) 07:17:42.46 ID:4eTw4KON.net
ほんとうの仏説に拠る正しい教えと
たとえば恐山や純密教系(チベット、インド、東密、台密)のような民俗的なものと
それに近いスピ系のもの(インド思想)と、悪質な洗脳をするカルトとあり、それらは
分けて考える必要あります

584 :神も仏も名無しさん:2020/11/17(火) 06:38:26.60 ID:OJ8AnKEv.net
空があるからこそ、仏の心と触れ合う事ができる

585 :神も仏も名無しさん:2020/11/19(木) 10:29:54.65 ID:D4bwFSfG.net
 人に迷惑かけない人になりたいだけなら、それはそれでよいとは思います(それすらできない方が近頃多い)
しかし、単なる利己主義では、大乗仏教ではありません。
また天部の勧請を容れて法を説いたブッダの姿勢にも反するものでしょう。
煩悩を滅ぼし、無上の覚りを求めて菩提心を起こしたブッダと同様、正しく成仏道を歩むのが真の求道者であります。
また十波羅蜜にも示される通り、成熟有情智を修め、身に着けるのは自然なあり方で、世間の人に不快感を与える幼稚な自己
主張で仏教への疑問を生じさせる書き込みは只、無視すべきであります。

586 :神も仏も名無しさん:2020/11/19(木) 12:19:35.23 ID:D4bwFSfG.net
無我という方法論を提示 → 真我を確かめよ

「仮」に疲れたら → 真実(「空」)に目覚めよ 世界・五蘊は全て空なりと観ぜよ → 中の道へ

587 :神も仏も名無しさん:2020/11/20(金) 10:49:33.08 ID:xDkl1KXV.net
>現量から無漏智までいくと六神通を証得出来る ?

588 :神も仏も名無しさん:2020/11/20(金) 20:44:11.47 ID:OMp3z2Go.net
https://file21-d.kuk...7763c0063277c904.gif
https://vps16-d-cdn....e225dd3a424587c8.jpg

589 :神も仏も名無しさん:2020/11/20(金) 21:34:01.36 ID:WN3yiOCI.net
>>586

「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)

590 :神も仏も名無しさん:2020/11/21(土) 04:18:36.53 ID:nfiTK+XM.net
その中部のマッジマじたいが、後代切り貼りされて捏造されたもので、
単なる仏滅後の偏向した見解を仏説らしく仕立て上げたものだろうね。
そもそもニカーヤじたいが、そういう仏説を歪めた
飛躍の産物とも見れるよ

591 :神も仏も名無しさん:2020/11/21(土) 04:46:32.79 ID:dh8ZygOJ.net
 (279)「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、
     人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

ダンマパダ

592 :神も仏も名無しさん:2020/11/21(土) 23:16:25.73 ID:nfiTK+XM.net
完全なごやく誤訳ですな。
諸法非我とは一切の事物は実体が無い ということを言ってるもであり、
我とは、涅槃のこと。南伝には解釈のおかしい
のがいる

593 :神も仏も名無しさん:2020/11/21(土) 23:27:50.76 ID:nfiTK+XM.net
>部派〜上座部の歴史は虚妄であったと
分別説部の方が認めています。
八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍がありますが、仏教史にはそのような飛躍の傍証となるような伝承が一切ない

>>現在、上座部を名乗っている教団の正体を知っていますか?
部派仏教時代に上座部の中で有害な説を説く異端分子が破門になりました。その異端分子を分別説部といいます。
その後、本来の上座部が滅んだのをいいことに、分別説部は自分たちが正当な上座部だと主張しました。
つまり現在の上座部は元々異端分子なのだから本当の仏陀の教えなど伝わっていないのです。
分別説部についてはウィッキぺディアにも載っていますから、ご確認下さい。

594 :神も仏も名無しさん:2020/11/22(日) 17:49:02.89 ID:tU6opAT3.net
憲法9条

595 :神も仏も名無しさん:2020/11/22(日) 21:40:56.23 ID:e/0d/gwq.net
 異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、
現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。

ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。

>スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。
また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、そもそも無理があります。

>部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。

>テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。
それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。

378神も仏も名無しさん2020/08/02(日) 20:44:54.73ID:4fzFl6ba
別にブッダゴーサ教でも異端でもいいがスマナサーラはホラ吹き破戒僧
母国のスリランカ仏教徒は異教徒を弾圧に虐殺
スマナサーラ教信者は発狂する奴が続出

596 :神も仏も名無しさん:2020/11/22(日) 22:05:25.10 ID:0whtQ1Hy.net
>>592

涅槃に入ったら阿羅漢達も互いに見分けが付かないとの経典も有るし 涅槃が非我だという事は複数の経典で示唆されている

勉強不足の分かったつもりは沢山だ

597 :神も仏も名無しさん:2020/11/22(日) 22:34:31.01 ID:e/0d/gwq.net
分かったつもり 君は594だろ
示唆されてる だけでは何の論証にもならん。589は良いが、587は、
全く研鑽不足であり、誤訳以外の何ものでもない。587がどの時点で混入してきたか
それこそ南伝の汚点として追及せよ!

598 :神も仏も名無しさん:2020/11/22(日) 22:36:59.57 ID:e/0d/gwq.net
587のは、当時の経典編集者による私見が混入または後代の捏造、誤訳

599 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 01:05:39.77 ID:k+EMSz9O.net
>>597

学術的にも南伝は正当な釈迦の経典と認められている

科学的根拠は否定出来ん

南伝と漢訳以外に原始経典は残存さえしていない

我を認めたら仏教はバラモン教やヒンドゥー教と何ら変わらない

600 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 01:12:47.58 ID:k+EMSz9O.net
>>598

各地に散会して修行する比丘達に編集等存在しない

口伝暗誦は結集の度に確認されているし 普段から二十名以上の比丘達の前で暗誦して認められない限り経典を習得した事にならないからだ

結果としてパーリ語聖典の古層には古代マガダ語表現が今も残っている

故意の改竄が有ればそうした部分が残る筈がない

そもそもパーリ語ネイティヴでもないシンハラ人に経典の自由な編纂なんて不可能だ

601 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 02:14:58.79 ID:PZL/p6uI.net
593を良く読め。そのレスに、おぬしの迷いや多くの者の謎を解く鍵があるのだ

ブッダゴーサの経典改竄と除名は有名だぞ

お前らが狂信しとるのは、あくまでも分別説部が持ってた、あやしげなものの一群に過ぎん

そんなことも知らんのか?w

602 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 02:15:40.19 ID:PZL/p6uI.net
またブッダがウパニシャッドの伝統を完全否定したというのは誤りである。

生前、梵我一如に到れぬ者は死後も到れぬと説かれた経もあり、それに矛盾する587等こそ捏造であろう。

古代インドの否定者がヒンドゥーで神とはされることは実際問題として

有り得ないのだ。

603 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 03:12:44.67 ID:PZL/p6uI.net
>ブッダゴーサというのは経典改竄で上座部から除名された存在で
要するに
今の南伝というのは、そもそも異端であってブッダの教え
そのままではない。

604 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 03:23:07.42 ID:PZL/p6uI.net
>択法覚支も何も無い。全部いかがわしい商売上の都合で適当に 抓みとられた非仏説が殆ど。
ブッダゴーサ以降で仮に真仏説があったとしても
仏陀自身が教義を書き残さず、経典に残すことを禁じていたのだから、すべての経典は仏陀の意思にそぐわないもの
という意味で偽典

605 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 03:26:05.31 ID:PZL/p6uI.net
ただねぇ587は 梵我一如の理解として、よろしくないものなんだよね。というか引用した奴は
バラモン教批判のつもりなんだよね?w ま、それについては、あえて詳述しないでおく
せいぜいインチョキ捏造経の引用をつづけ給え。見る人が見ればワカル
出鱈目ブッダゴーサ教の証明書だなw

606 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 09:40:53.95 ID:PZL/p6uI.net
>>589 のマッジマの引用の問題点  おかど遅いと嗤われるべき勘違いとは、

『我がもの』の所有観念の否定、つまり「無所有」の境地や「自我に固執する見解」の
否定は仏説として正しいにせよ、それを浅薄な梵我一如理解による他教批判と結びつけた
点が改竄捏造で我説の混入・すり替えなのである

607 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 09:49:16.48 ID:PZL/p6uI.net
梵我一如を きちんと理解できぬまま、
そうした低級で浅はかな誤解に基づき
他教批判に仏を利用する点こそがイカサマ。ブッダが否定したのは俗信であって
バラモン教徒の非合理性だけなのである

608 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 10:09:20.71 ID:PZL/p6uI.net
つまり、ブッダが批判したのは、梵我一如の「解釈の誤り」なのに
仏説を聞き齧った浅学者が、それを「梵我一如の完全否定」と誤解し、広めてしまった。
ブッダは、梵我一如の真義を理解せぬ者の狂信と我執を否定したのに、否定していない
真我を抹殺してる顛倒見

609 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 11:13:44.56 ID:PZL/p6uI.net
>現在の日本語の経典をいちいち解釈して議論する愚かさw
以下その理由

翻訳屋や結集参加の伝言うろ覚え連が釈迦なみならいいがそうではない。
そいつらの記憶力と解釈能力に依存し、性格によっても歪曲を受け、個人的主観が入りまくり。

インド語(色々ある)の経典を中国語に翻訳した人物が釈迦並みならいいがそうではない。
そいつの個人的主観が入りまくり。

釈迦が言ったとされる内容を阿難などが聞いて記憶したとのこと。
釈迦並みでない阿難などが聞いたことなど、伝聞証拠にすぎない。いい加減。

610 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 11:16:42.73 ID:PZL/p6uI.net
>悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。
早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはありません。
「北枕西向」
お釈迦さんは、神々の住むヒマーラヤに足の裏を向けなかったのですよ。
つまり、この一事を以てお釈迦さんが敬虔なバラモン教徒であったということが判ります。
仏教は、バラモン教の非合理的部分に対するアンチテーゼなのであって、バラモン教を否定したわけではないのです。
(以上)

611 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 11:20:59.58 ID:PZL/p6uI.net
ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、
以後ブッダが出てなかったとするなら、
歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかった
とも言える

612 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 11:23:31.62 ID:vP4HDSpH.net
https://itest.5ch.net/test/read.cgi/intro/1605708646/

613 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:12:52.72 ID:k+EMSz9O.net
>>601

そんな事は承知の上だと理解しろよ

漢訳原始経典の方が言語表現が古いのも事実だし スッタニパータやダンマパダ等の古層に属する経典に改変が少ないのも事実

ブッダゴーサの改竄を割り引いて見ても無我説は自称上座部のみならず大乗でも支持される共通理念

中観派も唯識派も我の実在は認めていない

厳密に言えば有我説も無我説も共に邪見として排除されるのが通仏教的な見解だよ

614 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:20:15.84 ID:k+EMSz9O.net
>>602

梵我一如は仏道では通過点に過ぎない

大梵天ヴァカよりも更に二つ上の天界からも解脱したのがブッダの境地だ

涅槃には梵我一如の様な境地も それを量る基準さえも存在しない空性の境地で一度入れば二度と因縁生起しなくなるから 梵天の様に生存者としての心身を持つ事も無くなるんだよ

615 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:24:31.47 ID:k+EMSz9O.net
>>606

ちゃんと論理的に理解して行けば梵我一如も真我もブッダの境地の手前だと解る筈なんだけどな

一つ一つを真剣に考えて無いだろ?

616 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:26:58.91 ID:k+EMSz9O.net
>>607

他教所かあらゆる宗教もブッダの前には肯定されないんだけどな 笑

ではない論法だけが仏教最大の正解だよ

617 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:28:57.14 ID:k+EMSz9O.net
>>608

梵我一如が否定されたんじゃなくて そうした境地は涅槃未満のものだと言ってるんだよ

理解力が足りない

618 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:33:17.71 ID:k+EMSz9O.net
>>610

バラモン教の全てを否定した訳じゃないし リグ・ヴェーダの様な本質的な経典は絶賛し アタルヴァ・ヴェーダの様な経典は排除された

が正解

619 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:36:32.41 ID:PZL/p6uI.net
ブッダの境地にも
ブラフマンにさえも達してないものが、あーだこーだ我見垂れ流してもねぇww
少なくとも587のマッジマを引用した意図が俗信否定ではなく、インドの伝統全否定なの
はバレたから、611-613は論点すり替え。

620 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:39:01.30 ID:PZL/p6uI.net
さーばんど  じゃなく、でおー君かねw

621 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:43:19.06 ID:k+EMSz9O.net
>>619

ブッダの境地にたっして無くても論理的な理解は可能

だから神通の証が現れなかったサーリプッタは阿羅漢と認められたんだよ

ではない論法が理解出来ないお前が停滞してるだけ

論理的に極めて言ったら真我だの梵我一如だのの言語すら消えて無くなった境地というのが推測出来る筈だが 般若心経の言わんとする所すら理解出来て無いんだろ?

話にもならんよ

622 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:45:55.49 ID:PZL/p6uI.net
ブッダ以前にもブッダはいたし、無数の解脱者が出た。
シャキャムニが最初ではないし、涅槃の境地に達した者がいなかった訳でもなかろう
マハルシの言ってることはニルヴァーナを知る者の話で、ヒンドゥも影響されてるにせよ
近世の仏教徒にはあのレヴェルは皆無だよ

623 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 21:59:40.35 ID:PZL/p6uI.net
アナートマンに固執して、ブラフマンどころかプルシャも見てない
南伝系や
その亜流は全部、
デタラメ

624 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 22:22:58.05 ID:PZL/p6uI.net
ちなみにインド哲学の宮元啓一名誉教授によれば、
龍樹はインチキ、となるようだ。当方は、その見解には同調しない。
また彼からすれば、上座部や分別説部も傍流の小者であり、方便や立場によって、色ん
な見方が有り得るのが見えるというだけ。

625 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 22:30:59.40 ID:k+EMSz9O.net
>>620

どっちでもねーよ ハゲ 笑

626 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 22:32:39.82 ID:k+EMSz9O.net
>>622

そんな話はしていない

真我説の是非の話だろ?

627 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 22:34:54.03 ID:k+EMSz9O.net
>>623

そうした用語で誤魔化しても駄目

この宇宙の始まりを見た事が有れば有我説の立場は取らないから

有我でも無我でもないよ

628 :神も仏も名無しさん:2020/11/23(月) 22:41:06.22 ID:k+EMSz9O.net
>>624

龍樹がインチキなら そいつはそれ以下だというだけ

分別説部も説一切有部も絶対の正解じゃないし 様々な部派宗派の共通解の延長線上にしか解脱涅槃は無いから

真我説だの梵我一如だのは途上でしかないね

629 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 03:59:45.21 ID:XC+2sMwI.net
>様々な部派宗派の共通解の延長線上にしか解脱涅槃  ???
 
そも623-626糖質魔物の我の有無論が不毛。南伝・分別説部は根がインチョキ出鱈目なのに、
(せいぜい経典の半分程度は参考になるにせよ、)出鱈目と共通解など求めようもないよ。
解脱涅槃を知らぬ妄執の輩が何を言っても唯の願望

630 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 04:14:26.18 ID:XC+2sMwI.net
南北の共通解を求めれば悟りがわかるなら、そんな簡単な話は無いが、そんな生易しい話でも
なく、現実には多くの坊主が苦海に呻吟し、邪説垂れ流し、仏教を利用するあくどい
ビジネスに精励する有様だ。また「我」についても、理屈や論で真理を体得できると
いうものではなく、623-626妄執の輩はアプローチが誤り

631 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 04:20:05.55 ID:XC+2sMwI.net
それから当方のブラフマンは有・無・空とかじゃなく、
「中」の道なり。
また妄執の輩など低能浅学者の軽卒なる中理解とも
異なるもの であろうな

632 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 04:38:12.10 ID:XC+2sMwI.net
閲覧者の方々(これから真面目に学ぼうとする人)は、
まるで餓鬼のような623-626=妄執の輩
による浅く、短絡的で子供じみた、一方的見解の押しつけには、一切
影響されぬよう、警戒心をお持ちください

633 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 11:48:48.47 ID:Z5ln8T93.net
ハイハイ 異常者さん 笑

まともに経典を通読して筋道考えた事も無いのが丸見えだよ

634 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 12:52:22.72 ID:XC+2sMwI.net
よかった。ID:Z5ln8T93 の正体、数日前から粘着を続ける破戒のものの素性が
判明しました。悟りスレで真言などと蔑視され、真言宗ぜんたいの評価まで
貶めている無智蒙昧の輩です。至る所で相手に絡み、争い起こす破戒の輩。
反面教師として、よく気を付けて観察しましょう。

635 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 13:01:02.09 ID:XC+2sMwI.net
195神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:46:14.83ID:XC+2sMwI>>197>>202
あと南伝系、テーラワーダにしろ、日本の大乗系にしろ、インド思想も
きちんと学んでないのに、なんでわかったフリして梵我一如を否定できるのか? 敬意を
払ってるのは、インドにいるダライ・ラマくらいで、ブッダは本来バラモン教で修行した人。
元を辿らねば、実はわからん事がある。

201神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:55:10.09ID:Yi8bBlCS>>204
>>196
釈尊がアンアートマンと言ったので
お約束として「梵我一如」が否定されているだけで
実は、形を変えて「梵我一如」が肯定されている。
唯識では、「我」が「阿頼耶識」と言い換えられ数々の複雑な過程を経て
転識得智されて「大円鏡智」となるし、
禅でも無分別になって、すべてと一体化すると悟りとなる。
つまりは「梵我一如」や。
念仏でも最終的に「自然法爾」が説かれている あまり一般に知られていないが

>初期仏教が否定した三定型は
・etaM mama, それはわたしのものである
・eso ham asmi,それはわたしである
・ eso me attAそれはわたしのアートマンである

つまり真我じたいを否定したのではなく、それへの執着ですね
それなら、現代の南伝も日本の諸大乗も全て自分らの「見解」に執着してる訳ですから
ブッダの戒めに背いているのは同じで、醜いことです。

636 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 13:16:15.76 ID:Z5ln8T93.net
>>634

真言宗全体の評価は俺一人で揺らぐ程弱くないから 見くびらないでね 笑

637 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 13:20:32.17 ID:XC+2sMwI.net
いやいや、もうかなり落ち目になってきてるとこへネットでの逆宣伝。効くよw

それから、むかし、
「かんまん」というコテで掲示板荒らしてた障がい者だろ
コイツw

638 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 13:35:58.48 ID:Z5ln8T93.net
>>635

ブッダが修行したのは当時のバラモン教から離れて修行する遊行者の集団ですよ
いつ何処のバラモンに弟子入りしたのか文献よろしくね 笑

梵我一如を否定したんじゃなくて それじゃ生死有る創造神梵天の境地だから解脱じゃないよって言ってるだけでしょ?

独学も良いけどちゃんとした注釈論も勉強しなさいな

こっちは教学に関する文献も目を通した上で言ってるけど アンタはそれすらしてないじゃん?

梵我一如になるのは良いけど その境地からも離れた所がブッダの到達した境地だよ

我と我でないものの分別さえも無くなるから無分別なんだし 其処まで言ったら貴方みたいに真我だとか無我だとかの分別も消えると明言されてて それが最古の経典と矛盾してないんだから共通解でしょうに

幾ら見栄張ってもマトモに師に付いて学んだ事が無いのもバレバレだから そのぐらいにしといたら?

有無の二見は共に邪見だと原始経典に有ってそれを受けた龍樹が説一切有部の法体恒有を否定する立場を取ったのも当時の経典を全部通読して得た結論なんだよ

それ以上 有るとか無いとかに拘る必要は無いし どちらもマーヤーでしかないんだよ

そんな事まで逐一説明されないと駄目なの?

639 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 13:43:12.02 ID:XC+2sMwI.net
636は、まともな知識もなく、ただ適当なことを書いて他人に絡む異常者です
ので鵜呑みにせず。きちんと自分で調べる習慣をつけましょう
そうした変なのを相手にしてると時間が幾らあっても足りません。
あぼ〜んが一番です。

640 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 13:57:51.05 ID:Z5ln8T93.net
>637

部外者が幾ら落ち目とはやし立てても こんなコロナ禍の中でも総本山にお参り行く人達はいるからな

ネットなんか見ない高齢者が支えてるよん 笑

俺が書き込み始めたのは五年前ぐらいだし 人違いだな

一々コテハンとか面倒くさいし 笑

641 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 14:00:24.81 ID:Z5ln8T93.net
>>639

自己紹介乙

悟りスレ迄乗り込んだのが運の尽きだな

俺より勉強してる人に揉んで貰え 馬鹿者が 笑

642 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 14:06:08.13 ID:XC+2sMwI.net
638−639は、まともな知識もなく、ただ適当なことを書いて他人に絡む異常者です
ので鵜呑みにせず。きちんと自分で調べる習慣をつけましょう
そうした変なのを相手にしてると時間が幾らあっても足りません。
あぼ〜んが一番です。

643 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 14:19:59.36 ID:XC+2sMwI.net
638−639は、他スレでも誰からも相手にされてませんね。
犬山一味の疑いが濃厚です。
すべて、はったりと見て、相手にはしないのがよい。
いわば害虫です。

644 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 14:27:17.84 ID:Z5ln8T93.net
>>642

まともな知識の有る名僧達で真我説を説いた人がいれば列挙しなさいな

教学をキチンと基礎から学んだ人は断言を避ける筈なんだけどな?

645 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 14:31:26.51 ID:XC+2sMwI.net
また、あぼ〜んです。
とにかくしつこい
642のような妄執の輩が、仏教徒だとは言えませんよね。反面教師と
してしか存在の意味は無いのですよ

646 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 14:40:34.61 ID:Z5ln8T93.net
私は悪く無いんですアピール ウケる 笑

647 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 15:06:54.03 ID:XC+2sMwI.net
ID:XC+2sMwIという異常者について、
過去レスを見たところでは、ものすごく視野が狭く、
てめえのいる犬小屋や散歩ルートしか見えてないし、客観的に世界ぜんたいを見る
視点が欠如してるという印象

648 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 15:21:22.09 ID:XC+2sMwI.net
645は誤りw  ID:Z5ln8T93という異常者について、
過去レスを見たところでは、ものすごく視野が狭く、
てめえのいる犬小屋や散歩ルートしか見えてないし、客観的に世界ぜんたいを見る
視点が欠如してるという印象です。

649 :神も仏も名無しさん:2020/11/24(火) 19:01:41.29 ID:WVeOW86p.net
>>644
横レス失礼
真我という言葉こそ用いませんでしたが、ヒンドゥーの似たような思想の持ち主だったのが空海とされているようです。

真言密教とヒンドゥー教
――空海とラーマーヌジャによる教義の比較――
松本照敬

〜略〜

小稿では、わが国の真言宗の開祖・空海の教義と、ヴェーダーンタ学派の根本聖典『ブラフマースートラ』にはじめてヒンドゥー教の宗派的注解を施したラーマーヌジャの教義とを比較してみたい。

〜略〜

空海の所説もまた有論である。
空海は、『声字実相義』において論ずる。「もし衆 生もま た本覚法身あり、仏と平等なりといわば、この身、この土は法然の有なるのみ。三界六道の身および土は、業縁にしたがって有なり。こ れを衆生の随縁と名づく」と。
 ただし、両者の有説は、ウパニシャッドの有説の単なる継承ではない。
空海にあっては大乗仏教の空説によって否定された現実界を、ラーマーヌジャにあっては不二一元論派によって虚妄とされた現実界を、再びよみがえらせたものであり、否定の否定によ る肯定の立場である。ここにも、両者の教義の共通性が見られる。

〜略〜

 ともあれ、空海、ラーマーヌジャという二人の思想家は、現実世界を肯定しつつ、究極的に本来の自己の実現をめざした。
空海は、如実に自心の根源をきわめ、そこへ帰ろうとした。ラーマー ヌジャもまた、自心の奥底に神の存在することを確信し、愛をこめてその唯一神を直証しようとした。
 この点において、両者の思索は、唯一なるものを索めて瞑想したウパニシャッドの哲人たちの思索に連なるものといえよう。

http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1983_10_hikaku_%2010_matsumoto.pdf

650 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 03:25:25.09 ID:MhYU6ADo.net
昨日の644までの粘着物
低能疹言=でおー

っての、ヴァレたよ スゲー
嘘つきだねw

651 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 03:57:14.84 ID:C1alQJJA.net
>>649

ちょっと違いますね

ヒンドゥー教の頂点はシヴァ神という神格なのに対し 空海の言う本覚法身とは予め悟られた法の身体とでも言う様な意味合いで我々の認知する宇宙の始まる前の始まりの無い過去から宇宙が終わった後も続く終わりの無い未来へと続く永遠の存在ですから 神よりも前からあるもので 生まれる事も死ぬ事も無ければ 有ることも無い事も無い空性の如来です

仏教では神を生死輪廻の有る六道の生き物と定義しますから バラモン教やヒンドゥー教の様な神教と仏教は本質を異にするのですよ

652 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 08:39:06.79 ID:MhYU6ADo.net
>>649

大変よい解釈だと思います。興味深いレス、アリガトウゴザイマス。
649ハ只の糖質者の知育障害ですから、どうかお気になさらないでください。謂わば仏教
本来の意味での魔です。

653 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 08:51:47.71 ID:MhYU6ADo.net
本日の あぼ〜んID:C1alQJJA

超粘着自演魔で、5chで嘘ばかり書き連ねております。
駆除しなくてはなりません。真言僧だの在家信者だの偽装しますが、孤奴は煩悩多き
只の魔に過ぎません。

654 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 12:43:00.81 ID:MhYU6ADo.net
ブッダは、あの汚らわしい真言粘着者が見せる「見解への固執」じたいを
問題としていたのです。
学びましょう。アレは仏道に乗ってる輩ですら
ないです

655 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 18:09:44.60 ID:fEp+dDul.net
見解で言えば真言宗の十識論を

十識 乾栗陀耶識 ブラフマン
九識 阿摩羅識  アートマン
八識 阿頼耶識  ジーヴァ(ジャイナ教の魂だが)
七識 末那識   マインド

のように一致させるような見解を説くものはけっこう多い
特にスピリチュアル系に

仏教の中ではブラフマンアートマンと一番近いのは言うまでもなく日本では真言宗を代表とする密教

656 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 20:17:04.79 ID:MhYU6ADo.net
>>655

というか大乗の真如という言葉が、真我から来てると思うんですね。
金光明最勝王経などの「真如のみこれ実にして余は皆虚妄」など、まさに
真我由来です

657 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 22:39:40.03 ID:2vFVwD+L.net
マクロコスモスとミクロコスモスが本来的に一体(松長宥勝)


 一九ニ六年、南アフリカ連邦のヤン・クリスティアン・スマックが、その著『ホーリズムと進化』の中で、「全体は部分の総和以上である」と説き、全体を部分の集合と見る近代科学に対し最初の疑問を投げかけた。
それを手始めに以後、個と全体との関係をどのように規定するか、西欧社会で論議が続けられた。
この中で東洋思想が参照される場合、個の集合によって全体がなりたつとともに、「それぞれの個の中に全体が含まれている」という考え方が、東洋の思想に特徴的であると見做される。
その例として『ウパニシャッド』における、マクロコスモスとしてのブラフマン(最高原理)と、ミクロコスモスとしてのアートマン(個人原理)が、本来的に一体であるとする、いわゆる「梵我一如」の思想が取り上げられる。
また「全体との関連性を考えないで、一物たりとも存在しない」あるいは「森羅万象すべてのものは、同時に、全体的に性起する」という華厳哲学が引き合いに出される。

(松長宥勝『仏教と科学』(現代の宗教14)、岩波書店、1997年、pp. 116-117)

 一方、目に見える動植物の生命の基底に、それらの根源となる「永遠なるいのち」を想定することがある。
宗教や芸術、哲学などが対象とするいのちであり、それは通常の時間と空間とを超越しているから、対象化して捉えることはできない。
宗教者がそれを内面的に把握したり、芸術家が象徴的に表現したりする「目に見えぬいのち」である。
仏教ではこの永遠のいのちを体得した仏を、無量寿如来とも称し、あるいは久遠実成の仏ともいう。
密教では、宇宙の永遠のいのちをそのまま仏と見たてて、大日如来と呼んでいる。

(同上、pp. 172-173)

658 :神も仏も名無しさん:2020/11/25(水) 22:40:07.30 ID:2vFVwD+L.net
 ミクロの動植物のいのちが、マクロの宇宙のいのちと本来同体であるという考えかたは、インド古来のバラモン教の「梵我一如」の思想に存在する。
また大乗仏教の如来蔵思想や密教の仏と衆生の一体を目ざす瑜伽の観法も、基調としては異ならない。
 ヒンドゥー教のタントラ派では、人間の身体と天体現象との間に密接な対応関係を想定する。
ヨーロッパにおいても、カバリストや新プラトン主義者たちもまた、大宇宙と小宇宙との間には調和があるため、人体の各部分と、宇宙のさまざまな部分とが共感し合うという。

(同上、pp. 173-174)

 仏教においても、ヒンドゥー教においても、人間と宇宙が本質的に一つであるという認識に到達すれば、同時に現実存在がそのまま宇宙生命の顕現であり、相互に密接な関連性をもちながら存在していることに気づく。
現象世界の多がそのまま絶対の一にほかならず、一がまた無限の多として展開し、多はそれぞれたがいに内面的につながり合っていることが分かる。
 以上のような「多即一、一即多」の思想は、大乗仏教では、基本的な構造としてもっているが、華厳の哲学ないし密教の曼荼羅の思想の中にも凝縮して示されている。

(同上、p. 175)

659 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 09:28:04.92 ID:e+wykwst.net
>>657

言語で説明出来る世俗諦を通して真理を明らかにしようとする大僧正の試みですね

660 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 09:33:02.81 ID:e+wykwst.net
>>658

バラモン教で言う所の梵我一如は梵天という神と一体化するというものですから その説明とは違いますね

仏教では梵天は宇宙より後に出来た三番目の天界に生まれたとされていますから 根本仏 大日如来と梵天は位相が異なりますので

661 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 11:49:01.67 ID:7hbiSW9p.net
梵天という神 などという理解は後代の稚拙な仏教による
皮相なブラフマン理解であり、本質を全然理解していない。
657-658の輩は、さとってないと自ら自白し、また天部も否定した非真言蜜の
外道である

662 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 12:05:41.34 ID:7hbiSW9p.net
以下のレスが一つの証拠。あと如来蔵スレでId見れば、さとってないと自白
したのもわかります。(認めずとも、お見通しですけど)

870神も仏も名無しさん2020/11/26(木) 09:45:42.72ID:e+wykwst
>>535

だって仏教に神を持ち込むんだもん 笑

663 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 12:35:23.57 ID:e+wykwst.net
自分も悟れていない増上慢の癖に 面白い莫迦だな 笑

664 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 13:16:02.00 ID:7hbiSW9p.net
さとれてない とは一言も言ってはいないよ。

ただオマエさんが全く預流にすら達してないのは、
行いを見ればわかる。ここはオマエの来るべき場所ではない。迷惑なので
661に退席を勧告する。

665 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 13:28:23.29 ID:e+wykwst.net
>>664

お前が預流向にも届いていないのは文章と教学理解からバレバレだけどな 笑

ただの粘着ヒステリーなんだから早く治療を受けな

666 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 14:03:24.77 ID:7hbiSW9p.net
低能疹言と言われる小者のレスを
観察すると、かつて洗脳された自分の見解や知識が絶対正しく
さとっているとか誤解させ、そうした錯覚を他にも感染させようとして躍起に
なってるように見えます。

低能疹言と言われる小者は天部を否定しており、それは真言密教に非ざる外道である。さらに
さとってないと自白しながら悟りスレ等にのりこみ他を惑わす邪見の輩である。つまり、

>他宗を中傷 などと宗徒を自称するニセモノ

667 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 14:05:24.85 ID:7hbiSW9p.net
>>665


治療が必要なのは、オマエだろw

早く病院へおかえり

迷惑

668 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 14:54:31.16 ID:bm0poFsD.net
2. 梵我一如の思想(途中から)

 これに対して、ウパニシャッドの哲人たちは、同一視の論理を祭式でなく、瞑想で用いた。
ウパニシャッドには「AをBとウパースする」という句が多くみられる。瞑想でAをBと同一のものとみなして(ウパースして)意識を集中する。
意識の集中により、分別による知を乗り越えて、対象が直観される。
そのとき、主観は対象の中に入り、対象と融和する。対象そのものになり、同化する。
同化すれば、それのもつ力が自分のものになる。
こうして、瞑想によって対象そのものになり、その対象のもつ力を体得することをめざす。
「太陽はブラフマンである」「虚空はブラフマンである」などといったものから「食物はブラフマンである」「思考力はブラフマンである」などと、さまざまな原理が同一視された。
とりわけ、気息、目、耳、思考力などの生活諸機能がブラフマンとの同一視の対象とされた。
ウパニシャッド思想の発展とともに、それらは、個体原理アートマンと宇宙原理ブラフマンの同一視に収束していった。2)

 後にバラモン思想の主流となるヴェーダーンタ思想は、梵我一如の思想を発展させたものである。
また、大宇宙(梵)と小宇宙(我)の融合合一という考えは、その後の神秘主義思想にくりかえしあらわれる。
たとえば、仏教でも密教の大日如来の観想による即身成仏には、同じ発想がみられる。

http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm

ここでもブラフマンアートマンと密教の類似性が著されている

669 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 16:27:24.39 ID:e+wykwst.net
>>667

偽物が顔真っ赤 笑

670 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 16:31:27.06 ID:e+wykwst.net
>>668

阿字観を経験した事の無い人だろうね

そういう意念を用いたりはしないんだけどな

671 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 17:34:09.23 ID:7hbiSW9p.net
>> 668

オマエハ真言宗しか知らん只のバカだから迷惑
ゴキブリに巣へかえりな
有害なだけだから

672 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 17:41:12.80 ID:e+wykwst.net
話の通じないアスペはアポンに限るな

673 :神も仏も名無しさん:2020/11/26(木) 18:06:05.71 ID:7hbiSW9p.net
670コソ糖質の荒らしです。
完全無視が一番

674 :神も仏も名無しさん:2020/11/28(土) 20:55:35.03 ID:oLzQ9HK8.net
『バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると
考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る』

(サンユッタ・ニカーヤ)

675 :神も仏も名無しさん:2020/11/30(月) 09:08:40.76 ID:7O35k/Uy.net
件の荒らしは

676 :神も仏も名無しさん:2020/11/30(月) 09:12:17.70 ID:7O35k/Uy.net
くだんの荒らしは、
まるで仏典に登場するカラスのようなものですね、魔かも知れません。
どのような卑小なもの、欠片のような存在にも役回りがあり、
意味があるのでしょう。

677 :神も仏も名無しさん:2020/12/01(火) 09:22:47.58 ID:eJtoBOdy.net
本日のカラスは
9wAnRX+K です。
小1プロブレム起こす問題児童と同じです。ただの妨害であり、
他の生徒の迷惑

678 :神も仏も名無しさん:2020/12/02(水) 00:08:07.11 ID:SCBFFKDI.net
大乗仏教は「空」で「法無我」と「人無我」を説き、部派仏教で肯定的に受け止められていた「アートマン」(我)的なものをあらためて否定したが、唯識思想になると再び「アーラヤ識」という輪廻の主体を考えるようになった。
輪廻の主体である以上「アートマン」と「アーラヤ識」にどのような違いがあるのかという問題が議論されるようになる。
特にヴェーダーンタ学派の「アートマン」は「アーラヤ識」と極めて近いものであることを、仏教とヴェーダーンタ学派双方が認めている。
唯識思想が「アートマン」的なものを肯定的に捉えたことから、如来の常住不滅を強調するという大乗仏教の思想が「無我」を主張しながらも「我」を超えた「大我」を説くという考え方を生むことになる。
この「大我」は「仏性」あるいは「ニルヴァーナ」と同一のもので、衆生の中に「如来蔵」(真我)として存在しているという。 
これを如来蔵思想という。この思想は2〜3世紀頃にはインドで成立し『如来蔵経』『大般涅槃経』『涅槃経』『勝鬘経』など多くの経典が編纂された。
『阿弥陀経』『般若経(初期)』『法華経』などを初期大乗仏教と呼ぶのに対して、これらの経典は中期大乗仏教に分類される。
そこで説かれる「大我」とは、すべての衆生の個体を超越した普遍的・永遠的な「我」であり、自分の自己は一切の生きものの自己であるという。
南本『涅槃経』ではこの「大我」は八種の自在力を具えていると説いている。

 これはヴェーダーンタ学派の所説をそのまま取り入れたものである。
アサンガが『摂大乗論』でこの説を外道として否定していたが、仏教の一部となり密教として日本仏教に伝えられている。
 「仏性」という言葉が「仏となりうる可能性」という意味で使われ始めたのは大乗仏教になってからである。
中観思想では煩悩も如来も「空」であると説き、そのことを観ずることが仏を見るということであるから、すべての衆生がその可能性を持っているとして「仏性」を説いたのである。
「仏性」を特に重要なものとして論じたのは『仏性論』を著したヴァスバンドゥである。これは、すべての衆生が「仏性」を持っているという「悉有仏性」を認めない者を論破するための論書である。
経典では『大般涅槃経』が「一切衆生悉有仏性」を強調している。
http://www.tokuhou-ji.com/t_Info_detail_news_tokuhouji.php?StageID=11&InfoID=479&InfoStageID=11

679 :神も仏も名無しさん:2020/12/02(水) 00:34:10.50 ID:NDw14rt7.net
大乗の涅槃経以前に如来蔵経をはじめ、
如来蔵が説かれた様々な経典があります。
またパーリ増支部にも端緒とみられる仏説が
あります。

680 :神も仏も名無しさん:2020/12/03(木) 19:18:35.45 ID:TNRfdNHX.net
大乗涅槃経は不純要素が沢山混じっていて
お薦めできませんが、しかし常楽我浄などはよいと思いますよ。
というか、あれこそ大乗における正しい真我観と
言えるでしょう

681 :神も仏も名無しさん:2020/12/03(木) 20:01:56.12 ID:TNRfdNHX.net
ただ常楽我浄って表看板も仏教として奇異に見えるのは確かで、また無我
というのは禅定の中での実践面の話であって、
それを表看板みたいにドーンと外に宣伝すべきことじゃないだろって事です。
したくなるのはわかるけど

682 :神も仏も名無しさん:2020/12/03(木) 20:08:14.73 ID:TNRfdNHX.net
だからアートマンとかアナートマンてのは
ことばで語るべきことじゃない
というのが、本来の意味に近いように思います。
どっちも語ると変ですから

683 :神も仏も名無しさん:2020/12/03(木) 20:12:18.82 ID:TNRfdNHX.net
教学上、やってることを
簡潔に表現しただけだとも思われますが、
とにかくくどくてしつこいですね
執着の極み

684 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 09:56:56.45 ID:Gzzsp53A.net
低い「無我」の解釈にしがみつく無明俗信の輩は、己の経験によって
つくられたイメージを対象の真我観に投影し、対象もその如くだと思い込む。
浅き誤解にしがみつく(日本の大乗やニカーヤ)信者の真我観を対象者のさとりに敷衍
しようとしても、しくじるだけであろう

685 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:15:44.38 ID:tFAFBzZl.net
言葉はいらない
実力で示せ
https://file6-d-cdn.ahk.jp//files/20201118-2139_3872fecc3263ab776fe9f784711c0662.jpg

686 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:16:57.12 ID:tFAFBzZl.net
>>685やっぱり西洋人凄いよな

687 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:18:14.02 ID:tFAFBzZl.net
わかって口で言うから意味不明なんだよ
君ら未来とかわかるか?

688 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:23:58.18 ID:tFAFBzZl.net
https://file14-d-cdn.eay.jp//files/20201129-1614_085d4bbec988cae549299fafb82d7698.png
https://file23-d.kuku.lu/files/20201204-1609_c7f4bc4b89887b3a438c6246bb52dd58.jpg

689 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:28:25.57 ID:tFAFBzZl.net
https://file18-d-cdn.ahk.jp//files/20201129-1552_9f4027e65b8c71dd94356099189fe169.jpg
https://file11-d.kuku.lu/files/20201205-0127_b4b4d856acba9a4f4ed5daa0d37d27a8.jpg

690 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:31:09.90 ID:tFAFBzZl.net
https://file6-d-cdn.ahk.jp//files/20201128-2153_a2ffa3db1d024cb510e8d80f4a8c4b29.jpg

691 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:33:47.73 ID:tFAFBzZl.net
https://vps14-d-cdn.aquapal.net//files/20201127-1901_77b599ace6fe8a22fb8ed112c1769664.jpg
https://vps18-d-cdn.svk.jp//files/20201128-2134_59e75f86382c69a8874156789da47d27.jpg

692 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:38:37.82 ID:tFAFBzZl.net
https://file24-d.kuku.lu/files/20201205-0138_868d0f8db04e4bc417faa3b2db62c1b6.jpg

693 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:50:41.09 ID:Gzzsp53A.net
有るもの見えるものだけが絶対だと盲信してしまってる訳ですね。

>英語圏でもパーリ仏典全体が歴史的なブッダの言葉だと言い張る研究者がまれにいますが、
パーリ仏典が上座部大寺派というスリランカの一派の伝承であって、
それ以外の派には別の仏典伝承があったことは疑う余地がありません。

現存パーリは異端の流れ、
と見る立場もあるようだよ。
釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、と。

694 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 10:58:02.35 ID:tFAFBzZl.net
https://file17-d.kuku.lu/files/20201205-0157_b0d44fdd3026ca47765fdadb40029353.jpg

695 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 11:02:03.43 ID:tFAFBzZl.net
君たちは夢を記録すると良いかも知れない

696 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 11:03:50.79 ID:tFAFBzZl.net
夢を解釈するって神から人類に与えられた公案だから

697 :神も仏も名無しさん:2020/12/05(土) 18:34:12.09 ID:Gzzsp53A.net
 ブッダは革命家ではなかった
自分は教祖ではない、という意味のことも言っている
思うに大乗とは、
ブッダという父とインドの伝統という母から生じた子供たちである
その中には
勝マン夫人のように、父親に説教する生意気な娘もいた
ブッダは革命家ではなかった
ブッダはインドの伝統を捨てた訳ではない
ただ覚りに到るための新たな方便を
全ての人へ向け提示しただけである

698 :神も仏も名無しさん:2020/12/06(日) 03:43:11.32 ID:PeQuiA6p.net
そもそも結集などということをされるのは望んでなかった。
ただ八正道や三十七道品に纏められた
生前からの修行を粛々と実践し完成させなさいということだけ
だったのではないかな

699 :神も仏も名無しさん:2020/12/08(火) 05:55:09.30 ID:WOkGy/YB.net
現代版・九部経

@四聖諦、中道(転法輪経)
A空(般若.a)

700 :神も仏も名無しさん:2020/12/08(火) 07:21:09.17 ID:WOkGy/YB.net
B五蘊非我 真我・涅槃
C八頌品
ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 1〜16 通読
D見諦道、彼岸に至る道
ブッダの言葉・スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章 1〜18 通読

701 :神も仏も名無しさん:2020/12/08(火) 18:28:13.34 ID:WOkGy/YB.net
まだ3つあります。

702 :神も仏も名無しさん:2020/12/08(火) 18:30:27.09 ID:WOkGy/YB.net
観想で得た啓示を基に各人の九部経を形にしてみるのも面白いね

703 :神も仏も名無しさん:2020/12/09(水) 04:45:20.30 ID:WoH+Y53X.net
相応部の古層

704 :神も仏も名無しさん:2020/12/09(水) 04:47:28.48 ID:WoH+Y53X.net
観想ですか

それで全部説明できますね

神通智も しかし漏尽通が

一番大事

705 :神も仏も名無しさん:2020/12/09(水) 07:39:08.78 ID:ZZd8vqGr.net
宇宙神ありがとうございます

706 :神も仏も名無しさん:2020/12/10(木) 06:53:06.30 ID:L1ulM0gi.net
E縁起(抜業因種心)

ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読
https://www.youtube.com/watch?v=cQ0Wp_yT3hQ

中村元 - 原始仏典 ダンマパダ の解説
https://youtu.be/i7TkouxAZI0

ブッダの言葉・スッタニパータ 第一 蛇の章 1〜12 通読 1時間15分
https://www.youtube.com/watch?v=F1d7GMocWOw

相応部経典・有偈篇(サンユッタニカーヤ・サガータヴァッガ)

「サンユッタニカーヤ」(雑阿含経)
https://youtu.be/7zSPvkoWQME?t=41

『テーラガータ』
『テーリーガータ』

ほか原始仏典

Hまで、あと3つあります。

707 :神も仏も名無しさん:2020/12/11(金) 04:24:52.14 ID:HNbX9NhW.net
世俗の穢れた言葉で無我や常楽我浄を言うから変に見える

708 :神も仏も名無しさん:2020/12/11(金) 07:43:15.40 ID:gCO+F008.net
ヒンドゥー教の宇宙観では宇宙は創造と破壊を繰り返しその中に4つの時代(ユガ)があるとする
仏教では世界(宇宙)が永遠であるか否かについては無記

709 :神も仏も名無しさん:2020/12/11(金) 07:56:19.92 ID:HNbX9NhW.net
スリランカはインド思想を正しく理解していない

今のスリランカなどの南伝系は上座を自称しているが本当の上座部では勿論無く、
分別説部が本来の呼び名である。
経典も後代の不届きものによって改竄された怪しげなものが一旦散逸し、南百年も経ってから
外国から再輸入して復元したと
主張する代物である。また六神通が説かれるが、
そんな力のある者は現在いない。

第一結集は、仏教学というより、教科書的な極めて粗い世界史の話。
スリランカ島史 大史に書かれた伝承の説。

仏教学でわかっているのは
南伝パーリ経典は紀元前後にスリランカでシンハラ語訳され
5c頃、ブッダゴーサによってパーリ語に書き換えられたが散逸し
東南アジアから、12c前後に再輸入されたということ。
現在の我々が使うPTSは、19cに英国がまとめたパーリである

パーリは古くて仏説に近いといった共同幻想を
ばら撒いて多くの人に感染させようと謀る輩がいる

710 :神も仏も名無しさん:2020/12/12(土) 01:24:58.52 ID:LmF94ljD.net
南伝にも良いところはあります

711 :神も仏も名無しさん:2020/12/12(土) 19:00:27.39 ID:LmF94ljD.net
ただ元が分別説部ですから、やはり弱いのです。
その上、ブッダゴーサの改竄で除名
さらに一旦途絶えて、散逸したのを数百年後に国外から拾い集めたものがパーリなので
すから、抽象度の高い記述は信頼性が低い

712 :神も仏も名無しさん:2020/12/13(日) 02:53:22.25 ID:EqEu4B1G.net
分別説部は有部から除名されたのですよね?

713 :神も仏も名無しさん:2020/12/14(月) 04:26:05.87 ID:SktlLoI1.net
いまだ悟りを得ていないものにとって、
三界は仮の宿のようなものである

714 :神も仏も名無しさん:2020/12/14(月) 21:21:25.94 ID:SktlLoI1.net
無色界も越えて涅槃寂静境に入る

715 :神も仏も名無しさん:2020/12/16(水) 05:27:23.76 ID:Tmh9O/ZL.net
正しく思い

五蘊を遠ざける

716 :神も仏も名無しさん:2020/12/17(木) 06:10:03.90 ID:cZsy/sQy.net
>無色界の空無辺と識無辺は法界の二つの側面ですが三つ目の側面として鏡またはスクリーンの役目がある、

九識と法界、アートマンとブラフマンの関係性

696神も仏も名無しさん2020/12/17(木) 04:53:06.65ID:JKObwYIR
この世の物に実在は無いでしょ、実在とは生命であって霊であって宇宙大霊としての多次元空間のことで法界真如と同じ、

これを心とし体とした時それを悟りとする

717 :神も仏も名無しさん:2020/12/18(金) 06:25:07.51 ID:vBV1lLPD.net
ブッダが生の終わりに
人生とは甘美なものであった、と述懐したのは、
仏教的には涅槃の「楽」というお話にするべきで、やはり
涅槃は常住・安楽・我・清浄

718 :神も仏も名無しさん:2020/12/19(土) 04:59:39.21 ID:H6RWVDhp.net
五禅支の生成・喜楽、虚空・涅槃、虚空蔵、真我独存、プルシャを覚る、忘我の境、微細な意識、滅諦の実性

719 :神も仏も名無しさん:2020/12/19(土) 21:13:35.97 ID:H6RWVDhp.net
>原始仏教聖典におけるattanとbrahman
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpbs/17/0/17_KJ00001034359/_pdf/-char/ja

○(無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、{しかしながら全く不可思議なことではあるが}
その(無明が)あるが故に、すがたをさらに{正しく}吟味して見るということが起こるのである。
{そして究極において}この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも{無明とともに}消滅するのである。

「すがたと無明の消滅」(人と世の真実を見極めて、無明を消滅する)
https://76263383.at.webry.info/201705/article_25.html

一切皆苦と見ることをしない凡夫は五蘊をアートマンとして見る。
しかしながら無明(煩悩)即菩提であるので、無明があるが故にすがたを正しく吟味して見るということが起きる。
一切皆苦であると見て、苦なる五蘊以外の何がアートマンであるのか常に更に吟味して見る。
そしてアートマンに執着するという無明が消失したときには、すがたを更に吟味して見るということもその無明とともに滅する。

自在の義なり、凡夫は自己の身心を認めて我となせども、身心一も自在なるものなし、我と思ふものは迷倒の見のみ、我の実あることなし。
此の理を悟るを小乗の知見とす、而して彼れ但凡夫の倒我小我なきを知て更に佛の眞我あり大我あるを知らざるなり、即ち佛所証の涅槃は真我なり、
大我なり、佛は八自在を得て一切の繋累を離れ、万法に於て自在なり、之を涅槃の大我とす。『涅槃経』一部の所明是なり。
 有(2)大我(1)故名(2)大涅槃(1)。    〔涅槃経23〕
 汝獲(2)蕪等利(1)。位同(2)大我(1)。    〔大日経1〕
 大我謂諸如來成-(2)就八自在我(1)。於(レ)法得(2)自在(1)者。    〔大日経疏5〕
 今復約(2)眞我(1)明(2)心(ノ)實相(1)。此宗辨(レ)義即以(レ)心爲(2)如來應正等覺(1)。所謂内心(ノ)大我也。    〔〃1〕
唯有(2)大日如來(1)。於(2)無我中(1)得(2)大我(1)也。    〔吽字義〕

720 :神も仏も名無しさん:2020/12/20(日) 06:19:57.27 ID:sKBblfq/.net
まず、自分自身が中学校の修行を完成させて、正しく悟り、それにより、他をも彼岸に導く事の出来る存在になるのである。

諸行の無常なること、諸法の非我なるを知り、一切は苦しみである、と如実に見て
順観・逆観を行じ、現象世界の虚妄なるを見抜く。
そして基本、常に八正道を含む三十七道品の実践修行の完成に努め苦滅・解脱知見を得。これにより生死の迷いより脱した大安楽
を得、仏陀と等しき我を覚り、最高の清浄に達する



究竟道:無学の道に正しく入って、如来の庫を開き、無上正等正覚を成就する。一切有情救済の行を適切に為す

修道高:他まで救済せずにはおかない菩薩道を正しく歩み、大乗の法門を学び、密教の奥義も究めて、大慈大悲の心を起こす

中学校:道諦を正しく実践して苦を滅し、苦の因を正しく抜いて業を除き、塵を払って解脱に到り、見諦道に入る

小学校:菩提心を生起して、迷いに気付き始めた段階

幼稚園:煩悩は消えず、迷いから覚める気配も無かった

721 :神も仏も名無しさん:2020/12/23(水) 21:03:56.40 ID:VuOT7UO+.net
無明のまよいより目覚める

722 :神も仏も名無しさん:2020/12/24(木) 06:31:49.15 ID:5pqR1Q26.net
無明があるから取が生じ・・・

五蘊取蘊は苦なり。

723 :神も仏も名無しさん:2020/12/24(木) 13:59:58.14 ID:5pqR1Q26.net
輪廻から解脱し、他をも解脱させる

724 :神も仏も名無しさん:2020/12/25(金) 00:31:50.57 ID:LVXGITsG.net
>>243
悟り悟りってそんなすごいのならノーベル賞でも取ったら?
仏教じゃB29も落とせなかったろ?
-----------

保江邦夫氏の言ううところでは、先の戦争で実際は東京に落とす予定の原爆をB29ともども天皇の神道の法で消滅せしめたとか、その結果東京に落とされるのは回避出来たが、広島へ落とされた、でも被害の大きさが違った、

一回の祈祷で精根尽き果てた昭和天皇は広島と長崎では防げなかったようです、

その後ミグ戦闘機が米軍と自衛隊にとって脅威になった時には、米軍と自衛隊に頼まれて、ある密教の阿闍梨の可持力の援助をうけて、昭和天皇と2人でミグ戦闘機を北海道に引き寄せて着陸させたこともあったようです、

米軍はおの一件以来研究を重ねて、AIで天皇の祈祷を再現することに成功し、それをAIエンペラーと名付けて、密かに運用しているとのことです、

最近の例としては、インドネシアだったかの旅客機が跡形も無く消えた事件がAIエンペラーで消したという話です、この事は全部保江邦夫氏のYouTube動画よ書籍に書かれていますよ、

ちなみに、総ての話は宮内庁の方から発表の許可がおりた事だそうですよ、これは今の天皇が即位する前に明らかにされたんですが、発表した途端に世界中の要人が天皇の謁見を求めて殺到したと言います、

まあ信じる信じないは自由です。

725 :神も仏も名無しさん:2020/12/25(金) 05:51:23.74 ID:bRy2IKYZ.net
執着が無くなって 心が穢れから解脱した

726 ::2020/12/25(金) 17:02:40.53 ID:cnkLAqmg.net
九次第定を究める、これ自分と同じ方向性なので、5チャンでここのようなスレがあるのは嬉しい限りです、

自分も瞑想・禅定に特化したスレを3つ作りましたが、荒らし以外の訪問者はほぼゼロです、なので今は主に仏教板スレッド巡り中です、

去年はスピを見て廻り一人だけ目的を同じくする修行者に会えました、殆んどの方は自分は分かっててお前は分かっていないと言うスタンスで、自分は今どの位置にいるのかを露にしませんね

話をする前に相互にそこを明確にしないと、学びの参考にするにしても何をどのように信用出来るかの見当もつきません、

自分は仏教経典は禅関連以外に殆んど読んでこなかったので、ここのように多くの経典を引用してくれているスレはとても学びになりますので有難い存在ですね、感謝です

727 :神も仏も名無しさん:2020/12/25(金) 17:53:49.51 ID:vwKRlKQH.net
九次第定を最後まで極めた聖師として、日本に於いては五井昌久聖師と油井眞砂禅尼の御二人しか知りませんが、御二人とも残念ながら故人です、

五井昌久聖師の修行過程は著書の「天と地をつなぐ者」に詳しく書かれていますし
油井眞砂禅尼の著書は以下で読むことが可能です、

「信心と坐禅」
https://www.cbeta.org/node/5388
https://drive.google.com/file/d/11Lu76K8JNhXO1ZQYVOhAfpVYxJzLsBJo/view?usp=sharing

油井眞砂禅尼は生前に作家の今東光氏によって、現代の魔女として紹介されていた方で、数々の奇跡を神通力で現されていたようです、

情報はここに少しあります。
「K大師からのメッセージ」
http://blog.livedoor.jp/mysticart/lite/

728 :神も仏も名無しさん:2020/12/26(土) 06:29:16.37 ID:hJFrGNLj.net
>>724

K寺の大阿闍梨様の事なら 本人の自己宣伝という話も有るし そういう大阿闍梨様は他にもいるから 気を付けた方がいいよ

729 :神も仏も名無しさん:2020/12/26(土) 13:54:20.10 ID:l6RjApQj.net
>>728
そんなの何も書いて無いよ関係ない、油井眞砂禅尼のことだけ、因みに自分の知人もK師、でも在家の大師だけどね

730 :神も仏も名無しさん:2020/12/27(日) 01:16:28.43 ID:yppErMo6.net
>>729

ミグを呼び寄せたのはK寺のN村師の話じゃん

外務省から依頼があったとか妙な話ばっかの…

731 :神も仏も名無しさん:2020/12/27(日) 08:27:24.31 ID:3Gg9k3TF.net
何故か最近やっと、よいレスがつくようになっていますね。しかし、
滅私奉公ということばもありますが、無我を言うもの、まず己を空しく滅すことが必要であって
偉そうに無我を叫ぶ者の姿勢はそもそも違うぞ。という事だと思います。
そして
究極的に菩薩行というものは無私のあり方で為されるべきもので
つまり、
匿名性の大気に融け入る事こそ大事で
我空法空の蜜なる理をベースに
円成実性とは、このようなものか
とわかった立場、皆にも垣間見させるような段階に達する事だと思います。

732 :神も仏も名無しさん:2020/12/28(月) 16:22:38.71 ID:l1jgQd/1.net
201瑠璃色の光2020/12/28(月) 01:25:13.63ID:DzC5Bucp
金剛般若経 第二〇章

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来は、色身を具足されたと、見るべきか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、そう見るべきではありません。
というのも、如来は、こう説かれている。
『色身を具足するとは、具足するにあらず』
これを、色身の具足であると、説かれている。」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来は、諸相を具足されたと、見るべきか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、そう見るべきではありません。
というのも、如来は、こう説かれている。
『諸相を具足するとは、具足するにあらず』
これを、諸相の具足であると、説かれている。」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

この辺が鈴木大拙の「即非の論理」とやらの出どころ

733 :神も仏も名無しさん:2020/12/29(火) 03:44:33.73 ID:l7a7IzWg.net
>何より最初に「菩薩たちの(煩悩の)断は無住処涅槃である」とあるので、読み誤りがなければ、悟った後が無住処涅槃で、自未得度先度他のために輪廻するというのと無住処涅槃は異なる
自得度してからの無住処涅槃というのが唯識思想ではないか
とはいえ得度するまでに菩薩行を輪廻を繰り返しながらしていくというのは唯識でも同じ

734 :神も仏も名無しさん:2020/12/30(水) 05:18:16.46 ID:E4lDAB3V.net
菩薩行とは布施が基本

個人の属性は一切が空に還って行くのです

735 :神も仏も名無しさん:2020/12/31(木) 08:38:16.16 ID:LRp0/qMN.net
「自分」とは何か?

「観る者は一つ」という答えがある。

736 :神も仏も名無しさん:2021/01/01(金) 05:19:05.86 ID:8ZOHEGyd.net
行とは因縁によって起こるこの世の現象

諸行無常 是生滅法 生滅滅已、寂滅為楽

万物はすべて変転し生滅するもので、不変のものは
一つとしてない

737 :神も仏も名無しさん:2021/01/02(土) 07:33:21.31 ID:Aa1vMqKG.net
ことばにされた瞬間に本来の意味とはまた別な
低級な何かに堕してしまう
とも言え、それが世俗の真理の限界も
示している

現象とは形骸化した抜け殻のようなものだという意味で

従って、諸法や五蘊に動かされて

生じた執着を持つのは無意味と

教えている。

738 :神も仏も名無しさん:2021/01/03(日) 05:35:47.64 ID:aMFfXKdG.net
慈悲の心 五禅支の生成

捨とは無執着

739 :神も仏も名無しさん:2021/01/03(日) 08:19:12.76 ID:vRoR3uQI.net
憲法9条

740 :神も仏も名無しさん:2021/01/04(月) 05:47:16.02 ID:xPPknSg7.net
執心したことも
やがては忘れる  心も無常である

忘れれば、どーでもいいことになり、どうせ忘れる、取るに足りないこと
だったと気付く

741 :神も仏も名無しさん:2021/01/05(火) 06:48:36.04 ID:f+fjR4tm.net
 虚空と涅槃は常と知り

生滅滅已、涅槃寂滅を楽と為し

仏陀・如来の我を覚り

滅諦の実性を体悟して、最高の清浄に達する

742 :神も仏も名無しさん:2021/01/06(水) 05:56:59.06 ID:FrX2xHtI.net
自力を「頼るべき自分」による修行完成に向けての正しい実践努力
他力を仏の慈悲 及び入我我入により一体化する加持力
と見るなら、その双方共に大事であって、自力単独や他力のみ説くのも片手だけで、
他力とは無我の境涯より得るものなり

743 :神も仏も名無しさん:2021/01/08(金) 06:43:04.63 ID:UrmAEgG4.net
そうですとも。左脳と右脳の関係ですよ

それが五蘊と真我=如来相です。

サンスクリットの心経では、「五蘊もまた」

と説かれてますね

744 :神も仏も名無しさん:2021/01/21(木) 10:48:31.31 ID:jnvvxwWr.net
天上天下唯我独尊。

745 :神も仏も名無しさん:2021/01/22(金) 16:40:47.76 ID:Uo5nACJ7.net
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提

746 :神も仏も名無しさん:2021/01/23(土) 05:43:20.66 ID:o3Hw6Kux.net
どっかの板の「いま行きたい神社」ってスレに
ディズニーランドの動画が貼られてたの見た時はワロタw
その如く、人が行きたい、とか、▽〇をしたいと思う志向作用は、何に対しても働き得るし、
神社へなど行きたがるのはヘンだという風にも言える

747 :神も仏も名無しさん:2021/01/24(日) 09:43:15.71 ID:juM9UeB0.net
世界の真実のありようというものは
人の五蘊が分別して得た見解を越えたところのものである。
それは、実には五蘊で計り知ることはできないものである
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010100000/

748 :神も仏も名無しさん:2021/01/25(月) 01:01:44.57 ID:gBtyMJi3.net
世界の真実のありようとは空であり

また勝義においては
浄真如である。真如にも浄と染がある。如来の智慧により
照見された蓮華蔵世界を言う

749 :神も仏も名無しさん:2021/01/25(月) 04:13:07.13 ID:gBtyMJi3.net
執着するもの一切を忘れよ

手離せ。

生と滅とが滅しおわった寂滅

こそを楽と為せ

750 :神も仏も名無しさん:2021/01/26(火) 04:56:43.49 ID:k5JcxI9t.net
 明恵(みょうえ)
は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%81%B5

明恵上人その生涯と足跡(1/3)
https://youtu.be/KkM5ovnNpvU

明恵上人その生涯と足跡(2/3)
https://youtu.be/RI70PfJuOKo

明恵上人その生涯と足跡(3/3)
https://youtu.be/7hvKjG60K80

751 :神も仏も名無しさん:2021/01/27(水) 14:23:20.52 ID:ICwAUq2S.net
>>1

おそらく汎用的な御手本はないでしょう。
各人各様、最適な仕方で自ら開発し、最善の法を
見つけるのです。

752 :神も仏も名無しさん:2021/01/28(木) 05:14:49.41 ID:zQBR1QQQ.net
物質界とは見掛けだけの空虚なものである

それらから仮初の印象を受ける五蘊もまた、

変転して定まらない、不確かなものであり、

実体は無く、空虚である

753 :神も仏も名無しさん:2021/01/29(金) 06:42:12.27 ID:NjyI+kIt.net
六道輪廻は迷界

大乗では仏の慈悲により

発心した衆生も直ちに迷界より出離

解脱する


菩薩は

たとえ輪廻すると雖も心迷界にあらず

既に六道に住さずして

菩薩道に入る

754 :神も仏も名無しさん:2021/01/30(土) 15:35:25.54 ID:bQIi0LGd.net
 トップダウン式に
まず全てわかる、見える
ということが最も大事なこと

755 :神も仏も名無しさん:2021/01/31(日) 03:29:30.38 ID:IT1BqQNj.net
誰もが何かの役に立っている
全てのものには存在価値や意味がある
という考えは、深い哲学的、宗教的命題と
かかわって来る

756 :神も仏も名無しさん:2021/02/01(月) 06:11:21.45 ID:2zwlnHvm.net
衆生救済のために法を説くに至ったブッダの動き
それ自体が
大乗仏教の起源なのでは
なかろうか

757 :神も仏も名無しさん:2021/02/02(火) 04:09:33.68 ID:yWOOw2Vg.net
三悪道への途上である悪い煩悩から離れようと真剣に希求する心を生ずるのが
目覚めの第一歩である(初禅に入る段階)

758 :神も仏も名無しさん:2021/02/03(水) 05:39:31.37 ID:NqahKvlv.net
無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する

無明があるから あらぬ幻想を持って執着が生じる
無明滅すれば如実に観じ、大智慧(無為法の慧)より菩提生じて涅槃解す

本来、照見する我は一つでは?
ただ個別的な因縁によって下階層に位置する各人の五蘊に分岐してるだけ
大多数の人は覚ってないから五蘊が「我」と思い込む。
無為法の慧に拠ればわかる。

759 :神も仏も名無しさん:2021/02/04(木) 07:00:50.88 ID:NFCeYfVZ.net
無為自然。

760 :神も仏も名無しさん:2021/02/05(金) 04:30:01.61 ID:VI7puG6d.net
4時台は、あっという間だ。
その如く、
もう卒業だ。証書を準備
せねば。

761 :神も仏も名無しさん:2021/02/05(金) 07:36:57.78 ID:Ok+1iM6s.net
公案の答え、が悟り、である。
バカには理解できない。
大爆笑である。

762 :神も仏も名無しさん:2021/02/06(土) 03:14:07.35 ID:G1gH1Wl3.net
正法眼蔵随聞記を語る 第11講の(1) 昭和44年  紀野一義 真実を超えた真実
https://youtu.be/_yUu5KS_97M

763 :神も仏も名無しさん:2021/02/07(日) 06:59:22.42 ID:AnoxnS9I.net
よい判釈なら幾つ出て来てもよいでしょう。
ただ、それらには各人の境涯に応じた深浅、段差も生じ、
その人には自分の境遇、波長に合った答えが都度見える というだけ
なのです

764 :神も仏も名無しさん:2021/02/08(月) 02:23:04.48 ID:1NlZ+b9R.net
もし心清らかにして、禅定と智慧を生む瞑想を続けたならば
神通力は
自ずから生じるものなので
あります。

765 :神も仏も名無しさん:2021/02/09(火) 05:35:27.63 ID:JxP+nRld.net
ニーチエは脳梅毒だった
狂気は神聖なものでない
西欧思想の中には、狂人の妄想に影響され、それが発展して肥大した
共同幻想が隠されている。

766 :神も仏も名無しさん:2021/02/10(水) 05:22:04.40 ID:JTYjlcbq.net
世界は見えている通りにあるのではない
と、まず気付くことである。
迷いの中にいることに気付き始めた
第一歩である。

767 :神も仏も名無しさん:2021/02/11(木) 04:52:36.30 ID:44gVVUWP.net
末法以降では、明恵上人という坊さんは
唯一語るに値する人だな
一遍や親鸞以下、みんなエキストラ
に見える

768 :神も仏も名無しさん:2021/02/12(金) 04:50:36.69 ID:JGKmbXig.net
>>766

気付きに上中下とあるなら
まず下の悟りから始めて、煩悩の克服の度合いに応じ、
中、上と進んで行く訳です

769 :神も仏も名無しさん:2021/02/20(土) 02:53:36.26 ID:LPyu/nlv.net
末法には僧にいたるまで下品
と言われる

770 :神も仏も名無しさん:2021/02/26(金) 21:06:42.41 ID:jGioWJXk.net
一心はこれ本居なり

しかし、実際には、われら衆生がそなえて持っている、ただ一つの心が、本来の拠り所なのである。

771 :神も仏も名無しさん:2021/03/05(金) 21:38:15.10 ID:em8V2WyW.net
色とは迷界の幻に過ぎない
色即是空の反対語は、
一心即是本居
なり

772 :神も仏も名無しさん:2021/03/08(月) 04:07:14.80 ID:rdukYS3v.net
  良い因縁も 良くない縁起も
あるように見えて、実は本来実体は無い
だが、それらを形にするものは
心なのである

773 :神も仏も名無しさん:2021/03/10(水) 19:42:28.68 ID:ySdc5fc5.net
心が正しく働けば、悪いカルマも関係ない

774 :神も仏も名無しさん:2021/03/12(金) 05:34:54.41 ID:cxcM4y4X.net
山下清が
もったいを大事にした とかいう床屋談義は仏教とは関係がない。
寧ろ過剰に”もったいない”と騒いでモノに執着する貪欲を捨てよ
というほうがブッダの教えに近い

775 :神も仏も名無しさん:2021/03/13(土) 05:26:22.76 ID:KkUahKQh.net
私は多くの河や山を見るため 世界を旅し、多くの金を使った。
どのような苦労も惜しまず
あらゆるものを見た。
だが、私は忘れていた
家の庭の、
草の葉に宿る
ひとしずくの露が
全宇宙を映しとっていたのを

776 :神も仏も名無しさん:2021/03/15(月) 04:39:39.36 ID:xBWxx7BC.net
タゴール。

777 :神も仏も名無しさん:2021/03/17(水) 03:24:38.36 ID:OVFObTGJ.net
つくられたものは実に無常である すべての形あるものは 原因と縁に依って、つくられたものである
五蘊・諸法は、その物自体として最初からあった訳ではない(し永続するものでも無く、固定したものでない)

778 :神も仏も名無しさん:2021/03/19(金) 04:29:16.75 ID:NzoyCDC4.net
初禅とは、まず欲界の超克から

779 :神も仏も名無しさん:2021/03/21(日) 02:18:25.65 ID:B8JKSdY7.net
>ウパシーヴァ(修行者の一人)がたずねた、
「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして
 大きな煩悩の激流を渡ることはできません。
 わたくしがたよりにして、この激流を渡り得る《よりどころ》をお説きください。
 あまねく見る方よ。」
師(ブッダ)は言われた。
「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、《何も存在しない
 =空〜諸行無常・諸法無我》と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
 諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
(南伝仏典『スッタニパータ 経集』第1069、1070)

780 :神も仏も名無しさん:2021/03/21(日) 11:34:50.90 ID:ZPSVEvG9.net
セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org)
https://aziz-mbacke-majalis.netlify.app/

781 :神も仏も名無しさん:2021/03/23(火) 05:18:00.39 ID:vPBXFOgb.net
思慮深き人の正思惟を解さず
他に個我世界の妄想を投影するは
仔細な規則を知らぬ者が烏鷺の争いを眺め意味不明でいる
のと同じ事なり

782 :神も仏も名無しさん:2021/03/25(木) 00:36:21.37 ID:u+GlxHHM.net
暖かくなったら馬鹿が大声で喋ってる うるせーな マヂ迷惑 外で騒ぐな カス野郎

783 :神も仏も名無しさん:2021/03/25(木) 05:51:14.34 ID:eQVSsFjt.net
正しく理法に拠りて正覚を成ずべし

十事正見
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

784 :神も仏も名無しさん:2021/03/27(土) 06:07:57.88 ID:DbQRzhNm.net
まず己の五蘊を客観視して
正すべきは正し、
怠りなく八聖道を実践
せよ

785 :神も仏も名無しさん:2021/03/29(月) 12:36:23.12 ID:XYCn9Rve.net
カルト化したインチキ宗教に影響されるよりは
世間的な常識を
きちんと身に着ける方向で努力することのほうが
遥かに有益である

786 :神も仏も名無しさん:2021/04/01(木) 06:11:47.14 ID:3OScBDUu.net
世界は沈黙の中に浮かんでいる

787 :神も仏も名無しさん:2021/04/03(土) 04:36:00.96 ID:1tb9wOU0.net
現代にあっては
観音菩薩の化現を称する者でさえ
無明の中に沈淪している
ようだ

788 :神も仏も名無しさん:2021/04/05(月) 02:12:10.81 ID:tS+LkNY/.net
僧に非ざる者が僧を名乗る
末法の世の僧は
ただ形骸化した役割を演じているに
過ぎない

789 :神も仏も名無しさん:2021/04/07(水) 01:56:49.88 ID:wc9mH7uG.net
自ずから
を知るのが悟り

790 :神も仏も名無しさん:2021/04/07(水) 04:40:00.69 ID:xWNV2MWK.net
天上天下唯我独尊

791 :神も仏も名無しさん:2021/04/07(水) 19:20:50.86 ID:dhsCg5OW.net
やはり坐禅が第一でしょう!

792 :神も仏も名無しさん:2021/04/09(金) 04:09:32.05 ID:KjMs2EaS.net
像法以降の世において、
如来を知らぬ
菩薩ならざる者どもが「あの方は菩薩だ」とか言ったとて、彼が菩薩である証には
ならぬであろう

793 :神も仏も名無しさん:2021/04/10(土) 07:00:45.38 ID:28XvJfao.net
決心することが社長と大将の仕事である。
(松下幸之助)

794 :神も仏も名無しさん:2021/04/10(土) 22:19:55.04 ID:28XvJfao.net
如来は自性か無自性か
という風な論議は
実は、あまり意味が
ない。

795 :神も仏も名無しさん:2021/04/10(土) 22:23:53.36 ID:28XvJfao.net
凡夫は
なにゆえ己の貧困なる見解を
他に押し付けようと
するのか。

796 :神も仏も名無しさん:2021/04/12(月) 06:23:51.42 ID:AApq6Oi8.net
自ずから本源を知る心

おのずから(‥づ‥)【自ずから】
〔副〕(「己(おの)つ柄(から)」で、「つ」は「の」の意の格助詞、「から」は、その物に本来備わっている性質の意)
1 もとからあったそのままに。また、物事が行なわれて行くうちにひとりでに。おのずと。
「隠しても自ずから知れる」*源氏‐行幸「この女御殿など、をのづから、つたへ聞えさせ給てむ」

797 :神も仏も名無しさん:2021/04/15(木) 05:51:37.91 ID:XtBTLIjv.net
誰もが覚れる

自ずから覚知する

798 :神も仏も名無しさん:2021/04/17(土) 07:12:16.11 ID:NBSBYff/.net
煩悩も固定したものでなく
いつかは滅ぶ
全ては是の如くで
ある

799 :神も仏も名無しさん:2021/04/18(日) 18:32:39.88 ID:lAzhNldC.net
色とは迷界の幻に過ぎない。
色即是空の反対語は、
一心即是本居
である

800 :神も仏も名無しさん:2021/04/21(水) 07:00:34.58 ID:9QbyvKgq.net
「正しい」とは
完全な
という意味
である

801 :神も仏も名無しさん:2021/04/23(金) 02:14:37.86 ID:LCRMNvmF.net
覚とは正思惟、正思惟とは (中略) 渇愛・妄執を滅ぼす事。

802 :神も仏も名無しさん:2021/04/24(土) 05:48:10.95 ID:ITGW0l5B.net
正しい無我の実践とは
ヘッドパワー過剰な状態を解消して、
真我=ブッダの意識に切り替える事
であろう

803 :神も仏も名無しさん:2021/04/26(月) 22:32:42.25 ID:oC2gFNp9.net
普通の人は
本当の自分を 普段は意識できない。
しかし、多くの時間を本当の自分のまま過ごせる人も
稀にいるのである。

804 :神も仏も名無しさん:2021/04/27(火) 06:46:31.58 ID:VoHoeP0o.net
今ある自分というのは
死んでしまえば消えてしまう
表層的自我にすぎない

805 :神も仏も名無しさん:2021/04/28(水) 07:47:33.62 ID:35GlJxZX.net
当人が心を変える以外に

欲界の罠に嵌って堕落した

悪趣を巡る魂を救う術は存在しない

という事

806 :神も仏も名無しさん:2021/04/30(金) 05:50:15.66 ID:12gJqwnW.net
善男子善女人よ、将に知るべし

今のカルト諸信者連は、せいぜい餓鬼である

餓鬼が畜生を崇め奉っているようなもの

なのである

807 :神も仏も名無しさん:2021/05/01(土) 04:31:15.34 ID:F09zXrpR.net
即身成仏したものには
堕落し穢れた諸教の垢は関係ない

808 :神も仏も名無しさん:2021/05/02(日) 06:42:26.51 ID:Z73yQqqE.net
諸行無常

諸法非我

涅槃寂滅

809 :神も仏も名無しさん:2021/05/03(月) 03:45:10.31 ID:UiMNGsAC.net
欲への執着からも離れ、
また離欲も貪らず
と、ありますね

810 :神も仏も名無しさん:2021/05/05(水) 07:59:06.86 ID:d3BqbqKA.net
シナにやられた

呆けて堕ちた天人は

早く引退したほうがよい

811 :神も仏も名無しさん:2021/05/06(木) 01:44:11.47 ID:ln0BMWtj.net
痛む足をすすげ

812 :神も仏も名無しさん:2021/05/07(金) 07:39:28.87 ID:LnZgUHpb.net
Know about truth of spacetime. Energy is always moving.

813 :神も仏も名無しさん:2021/05/08(土) 08:54:21.03 ID:hrOmSHua.net
宇宙の成り立ちや

時空の真実も明らかになってきている現在

仏教を名乗るカルトが科学の発展を阻害しようとする

のはナンセンスだ

814 :神も仏も名無しさん:2021/05/09(日) 14:58:32.99 ID:HP0207Yj.net
ただ記憶や学問によってだけでは

高められた質的なものを

維持するのは

難しい

815 :神も仏も名無しさん:2021/05/09(日) 21:33:42.80 ID:gPKqV6GG.net
科学の発展とは理論の積み重ねではなく、個人のひらめきでもたらされる飛躍によるものだが
科学的な大発見をするような人は、信仰心や神秘体験を語ることもままあることだ

仏教は既存の考えにとらわれることのないところから物事を見ることでもあり
ひらめきや洞察力というものを非常に鋭くするので
本来は科学の発展を阻害するということはあり得ない

しかし、仏教といっても既存の不完全な経典解釈に囚われてる頭で考えただけの理解からは
科学の発展を阻害するかもしれない
いわゆる悟りなども得られない

いずれにせよ科学は仏教に従属するものではないのだから
発展を阻害するというのは杞憂というものだ
そういう陰謀めいた思考を巡らすことこそが妨げているw

816 :神も仏も名無しさん:2021/05/10(月) 05:31:58.99 ID:WYdx1lLW.net
邪な輩には要注意である

817 :神も仏も名無しさん:2021/05/11(火) 06:25:35.96 ID:BQwl+CF/.net
犀の角のように、唯一人歩め

818 :神も仏も名無しさん:2021/05/12(水) 03:08:32.16 ID:LuwPOyMK.net
スマナサラは科学の発展を阻害するような発言を

平然としてるね。

あ!  アレは仏教じゃないよな。ウィキからも消さないとね

 スマの名詞は全部。

819 :神も仏も名無しさん:2021/05/13(木) 01:44:03.62 ID:QKpp/O4P.net
ヒンドゥ教も輪廻からの解脱は説いている
方法論が違う? 釈迦のほうがストイックだよね
悟りの内容が違う? 本当に? まあ悟りを求めてもいない方が色々言っても
違うのでしょうけどね

820 :神も仏も名無しさん:2021/05/14(金) 05:19:09.50 ID:5mbVd3sO.net
そもそもシナ人も東
南アジア等の者らも古代インドの叡智は適切に理解できず、ベースになっている風土も
背景もよくわからず、予めコンテキストも用意されていない訳だから
完全には伝わっていないし、残されてもいない

821 :神も仏も名無しさん:2021/05/15(土) 02:14:18.89 ID:D4mZTXXs.net
テキストから学ぶ場合は、そこを意識することはとても重要だと思いますね

822 :神も仏も名無しさん:2021/05/15(土) 05:56:13.95 ID:31pwI+Jz.net
弟子たちの見解ではない真仏説は、まずインド人のための教えだったのであり、
往時前提として用意されていたコンテキストを完全に理解しなければ
釈尊の真意は全くわからない
であろう。

823 :神も仏も名無しさん:2021/05/16(日) 09:05:12.39 ID:vNSYAb4V.net
護摩は不要です。

あれは古代印度近辺に残ってた俗習

にすぎません。

824 :神も仏も名無しさん:2021/05/17(月) 05:16:04.82 ID:ZZIUDKou.net
シナ発の特定の宗派とかを経由すると本来の行法も歪み、
ブッダの教えのピュアな美点がかき消され、汚されてしまっている。
八正道はシンプルなもの。誰でも理解でき、すぐに実践可能
な行である。

825 :神も仏も名無しさん:2021/05/18(火) 19:46:33.87 ID:3Rvu6nn9.net
夢が示す意味は結構深い
明恵上人のように
夢を分析するのは
大変意義深い事かも
知れない

826 :神も仏も名無しさん:2021/05/19(水) 20:48:27.89 ID:/GV64+ar.net
どんな夢を見ましたか?

827 :神も仏も名無しさん:2021/05/21(金) 02:58:59.69 ID:bz/MjSot.net
 南伝は

必ずしも仏説の忠実な再現ではない

全ての経典が入滅以前より伝承された内容を 正確に保持している

という訳でもない

828 :神も仏も名無しさん:2021/05/22(土) 07:31:31.68 ID:Ylj5DT83.net
サマーディでは幻覚が現れることもあるが
それには意味はない、意味を見出したら執着する
だから捨てろ、切り捨てろというのが仏教瞑想
夢も同じ

829 :神も仏も名無しさん:2021/05/22(土) 20:06:32.67 ID:mgmXinZS.net
「スリランカと日本仏教の共通項が真理だ」とかの読み難い書き込みも
「凡夫衆生とは、是の如く自説に固執するものか」とか
「何ゆえ虚偽のドグマに騙され、邪教が跳梁跋扈するかの理由」と見るなら、
全ての情報は資糧となり得る。

830 :神も仏も名無しさん:2021/05/22(土) 20:17:37.41 ID:mgmXinZS.net
>>826

夢の中でも瞑想している。
また夢にも二種あり。ただ前意識、無意識を意識化してるだけの場合もあるが、それも心念処と言えなくもない。
しかし、実際は、もっと深く潜行して広大な領域に出る場合もあって、そういう時に「報せ」もある。
いずれにせよ、仏教というものを狭く限定してはいかん。

831 :神も仏も名無しさん:2021/05/22(土) 23:37:08.41 ID:89B8AwKc.net
夢は五蘊に過ぎない

832 :神も仏も名無しさん:2021/05/23(日) 04:47:17.83 ID:fyekIvbA.net
識を越える時、色界も消えて欲界も消える

833 :神も仏も名無しさん:2021/05/23(日) 05:27:03.98 ID:fyekIvbA.net
・五蘊を照見してるのは一体だれか? それ大事です。

五蘊しかない「堕ちた仏教」の世界観では、どう足掻いてもプアー

な解き方しかできない。仏教出現前からのコンテキストを再考する必要がある。

悪い論書もあって、影響されてる

834 :神も仏も名無しさん:2021/05/23(日) 07:40:23.86 ID:Y9aQHlij.net
そうなんです

835 :神も仏も名無しさん:2021/05/24(月) 16:39:30.55 ID:3M7OdBXG.net
一度 五蘊皆空と照見したならば、もはや五蘊に囚われた人ではない

836 :神も仏も名無しさん:2021/05/24(月) 22:02:21.18 ID:3M7OdBXG.net
ラーダ「大徳よ、よく悪魔、悪魔と申されますが、いったい悪魔とは何でありましょうか?」
ブッダ「ラーダよ、色受想行識が悪魔である。すなわち肉体・感覚・思い・意思・意識が悪魔である。
悪魔とは、われわれ自身の肉体と精神のいとなみの迷いに他ならない」

(サンユッタ・ニカーヤ)


>>456
433

《スッタニパータ》
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。
それは老衰と死との消滅である。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。
かれらは悪魔の従者とはならない。

837 :神も仏も名無しさん:2021/05/27(木) 20:41:21.11 ID:grhTySL9.net
初禅とは
まず、般若(智慧)を実践する観自在(観察する人)と成ることから
ですね。確かに。
阿吽

838 :神も仏も名無しさん:2021/05/27(木) 20:51:40.06 ID:grhTySL9.net
五禅支を生成して精神統一しないと智慧の瞑想にならないし、
智慧を発現するための妨げとなっている覆いが、各人各様の方法で取り除かれれば、
普段の生活でも、一日観自在でいられるとは
思います

839 :神も仏も名無しさん:2021/05/28(金) 17:01:50.24 ID:xKRcEOih.net
出入息相応
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snmv/sn54/sn54c00.html

840 :神も仏も名無しさん:2021/05/29(土) 04:52:09.36 ID:j1Tp0x71.net
>相応部の経において、片方では五蘊は苦であり、もう片方では五蘊を空としている。
また相応部の他の経では五蘊は無常であり、また他の経では五蘊は無我(非我)であり、また別の経では五蘊を悪魔と観じるのが正しい
観察とし、
五蘊を厭い離れることによって、貪りを離れる。
貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである


五蘊は苦の因を集める器であり
悪魔の棲家と見做されるべきもの。
苦の因を集めるのが我執。それを晴らすのが
空=道諦

釈尊が悪魔を降伏して成道したという伝説は
完全に五蘊を去った 
という境地の比喩

心経は
識を超えて欲界も色界も消えている菩薩が説法者の設定ですから
とうに彼岸に渡った解脱者による説法です。

841 :神も仏も名無しさん:2021/05/30(日) 04:00:27.14 ID:D8veZsWE.net
829みたいなバカ丸出しの書き込み見ると
レスする気失せるね
前にも低能真言とかいう闖入者がいたけども、そんな生徒しかいないんじゃあ、小学校
の授業も開講できないよw

842 :神も仏も名無しさん:2021/05/30(日) 11:06:41.39 ID:P5s6xfQf.net
夢は常である
夢は無常である

どちらですか?

843 :神も仏も名無しさん:2021/05/30(日) 12:07:02.04 ID:D8veZsWE.net
色々言える
決定的な答などない
見る者の心の段階に応じ、差別も当然ある。要は、言葉であれこれカテゴライズして済ま
そうという態度じたいが無意味なのだ

844 :神も仏も名無しさん:2021/05/30(日) 12:46:14.71 ID:cdnHkuI1.net
夢は当然無常です

これがわからないなら禅定なんか入ってませんw

何が授業ですか
思い上がってないで精進なさい

845 :神も仏も名無しさん:2021/05/31(月) 03:27:30.64 ID:QlafDHba.net
小学一年生なら「夢は無常」で終わりで良いのです。

しかし、これから見諦道に入ろうかという人であれば、夢の中でも瞑想するでありましょう。
瞑想するなら涅槃に達さん。涅槃は無常とはいえません。言葉でAはBであるとか決めつける遊び
が仏教なのではありません。

846 :神も仏も名無しさん:2021/05/31(月) 22:43:30.41 ID:4U5dZ6Sw.net
俺は小学生ではないから妄想するんだ
ということですねそれは

夢は無常であり、涅槃ではありません

子供みたいな言葉遊びしてないで、さあ坐った坐った

847 :神も仏も名無しさん:2021/05/31(月) 22:46:35.12 ID:4U5dZ6Sw.net
つまり確かめてみれば良いんですよ
確かめない限り無常とも常とも、君は言うべきではありません
それをやるから禅定に入れない

禅定に入っていたなら夢がなんであるかわからなきゃいけません
君は禅定というものを妄想してそれをやってるつもりなだけなのです

どうぞ確かめてみて下さい

848 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 06:02:07.12 ID:Q614rblp.net
842,844-845とかは小学校就学(対象精神)年齢未満の幼児さんのようですねw

可笑しな闖入者が彷徨い込んだものですねww

849 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 06:28:08.26 ID:Q614rblp.net
ただ坐ればいい なんてかくのは幼稚園生です。ここは、そんな初歩的なことを学ぶ場

ではありません。禅定の奥義を知る人々が集う処であって、幼稚園児レスでは、対象が異なりますよ

また坐らずとも瞑想はできます。

そのほうが大事

850 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 10:21:23.42 ID:0Lb6KHnu.net
それは禅定に入ってから言うことですな

851 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 10:26:42.33 ID:0Lb6KHnu.net
どこかの経典引っ張ってきてオラついてるだけの
小学生向けのスレだと告白してしまってますな

そのように瞑想を極めることを夢みても極められませんぞ
夢は無常ですからw

852 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 12:23:46.70 ID:Q614rblp.net
いやね、848-849みたいな幼稚園児がしてることは禅定のレヴェルに全然達してないと思うんです。

普段の生活で心念処とか、客観的に自分を観察できる段階では全くなくて、

禅のマネごとか何だか知りませんけど、オ坐りした時だけ、自身の五蘊を見て「ああ無常だ」とか思った

そうしたプアな世界と己の観察結果を園児は書いてるんですね

853 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 13:00:39.80 ID:iCNpMORG.net
禅定には入ってますよ、仏陀の言ってる通りの禅定に
だから、夢は無常だと言っています

本気で何もわかってないですな

854 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 13:05:51.40 ID:iCNpMORG.net
夢に意味づけして真理を探究出来るとか思ってる人には禅定は入れません
初禅にすら入れません
万が一入れたとしても神秘体験に囚われた仏教とはまるで違うことをするだけですね

855 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 13:47:14.62 ID:Q614rblp.net
随分と貧相な人間観、仏教観の披瀝、永久保存&公開しますね。「夢は無常」組の園児さんか
「夢は無常」と言われてオスワリする芸を覚えたワンちゃんか
存知ませんが、ずいぶんと暇があるのか、或いは不良の子供や犬並み
に執念深い方ですよね!

856 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 15:38:03.44 ID:Q614rblp.net
>仏陀の言ってる通りの禅定
などとデタラメなことを書き込んでるソコのアナタ、(かってにシテれば?と言いたい処ですが)
ナゼアナタノ禅定なる何かがニセかを、ズバリ指摘してあげましょう
ブッダは、そうした人に因縁をつけて、絡むようなマネをしろ、なんて一言も言ってないんですね
八正道から離れた行いであっては、たとえ一見して形がそれらしくても正定とは言えません。
その一事をもってしても、仏の教えが身に具わったものの言でないとわかりますし、さらに言えば
本当はわかりもしないことをわかったフリをして断言してしまっている点。
これからヨソに掲載させていただく積りですが、間違いなく、仏陀の禅定なんてのは
アンタの勝手な妄想に過ぎません 笑

857 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 19:46:49.72 ID:Q614rblp.net
人生の3分の1か4分の1か、或いはもっと多いか少ないか
人により長短の差はあるにせよ、それだけの膨大な時間を誰もが休息に費やし、その間
経験する夢について、只のシュールで脈絡の無いドラマで済ますか、菩提と見識に基づき
深い意味を抽出できるかでは、大変な違いが生まれます

858 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 21:04:35.86 ID:Q614rblp.net
ヨソに掲載させていただく
とは書いたものの
あまりにも低レベル過ぎて、適当な場所はそう多く
なさそうです。

859 :神も仏も名無しさん:2021/06/01(火) 22:01:13.16 ID:Q614rblp.net
諸行は無常
であるのは当たり前なのに、何か一つだけを取り上げて
わざわざ●▽は無常 とかレスつける物の程度がしれる というか
品性が疑われるのです。

860 :神も仏も名無しさん:2021/06/02(水) 01:51:27.32 ID:P/TgYyK9.net
ー842とかは全くさとってもいないのに、悟ったフリをして、悟りスレ等を荒らしていた
自称・在家真言門徒の統失者です。「栄進軍曹」とかのコテと
本質的に違いはありません。こうした掲示板等で、あの手の可哀そうな子供を見かけても
気にされませんように。   合掌

861 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 07:42:05.83 ID:/xQpvglV.net
くだんの輩についての情報ですが、

真言宗を自称しながら、本音の部分ではアンチ大乗であるらしく

正体はテーラワーダ過激派一味の工作員という指摘は正しいと見ています。粘着者の書き込みは

真言宗や大乗仏教に対する冒涜ですから

862 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 13:29:42.43 ID:mP10YFXj.net
出鱈目で他人を誹謗中傷する前に仏教をしっかり勉強したらどうかね〜
大乗仏教が根本仏教を否定してると思い込む前に般若心経を中心に勉強して行けば 有る程度根本経典が何を説いてるかわかりそうなものだが 向学心も無く批判と論争に明け暮れるなんて仏教から遠ざかりはしても近づく事はないね
真言宗の僧侶でも原始経典を研究して公開してる人は何人もいるのに知ったか仏教君は道理が解らないみたいだから夜間中学にでも通って勉強のやり方から教わった方がいいよ

863 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 19:21:16.72 ID:/xQpvglV.net
>知ったか仏教君

という表現は、まさに860の”荒らし”のことですよ、皆さん! 完全な勘違いの馬鹿です 笑

その他すべて、860の自称・真言宗信者自身のことを自白しています。誰もそんな統失は

呼んでませんよね 笑

864 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 19:30:50.18 ID:/xQpvglV.net
またまた釣れました 笑 860は何の根拠もなくマウントをとりたがる病人のようです

悟りスレで栄進が40台で傷害年金を受給してるのを読んで、


860は認定されなかったことを引き合いに出して、色々羨み、やっかむようなレスを

つけていたの可哀そうな方ですよ 笑

865 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 21:04:21.74 ID:/xQpvglV.net
くだんの輩について気づいた事で大事なポイントを記しておきます

何か真言宗の教えの迷信じみた面を、恰もカルト信者みたいに盲信してる方向性 と

南伝系の経典をウワベの言葉だけで捉え、覚えればスゴイんだという方向とに分裂していて、

それどっちもブッダの覚りと無関係なガラクタなんです

866 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 21:15:12.43 ID:mP10YFXj.net
皆さんと呼びかけても誰も同調しない件
普通の人はこんな粘着質の基地害に絡まれたくないから黙ってるのにそろそろ気付けよ
世の中にお前の味方をして俺に突っかかる奴もいないし その逆もいない お前さんは常人から見て気持ち悪すぎるんだよ

867 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 21:49:53.13 ID:/xQpvglV.net
>粘着質の基地害

って、まさに864のことですよね誰が見ても 笑

>常人から見て気持ち悪すぎる  のも、まさに864そのものであって、鹿野園同様

まったく中身の無いガラクタ君なんですね 笑

868 :神も仏も名無しさん:2021/06/03(木) 22:14:13.06 ID:/xQpvglV.net
あと一つ言うと

栄進と鹿野園と864の統失は、同一格というか

実は全部同じのの自演じゃないかと思うくらい

中身が同じ

869 :神も仏も名無しさん:2021/06/04(金) 19:19:32.48 ID:l4coAng/.net
「夢は無常とばかりも言えない」ことを学ぶのは、十住心論的に言っても華厳宗の立場
である極無自性心ですから6年次の内容です。小1レベルでは、せいぜい唯蘊無我心で
すから「夢は無常」でよいでしょう。しかし小学1年生が6年生の教科書を見て
「嘘が書いてある」とか指摘しても的外れで変だよ、という事なのです。

870 :加行道小学校長:2021/06/04(金) 19:23:11.25 ID:l4coAng/.net
不審者が侵入した形跡が認められますので、排除されるまで臨時休校と致します。

871 :加行道小学校長:2021/06/04(金) 19:30:01.82 ID:l4coAng/.net
質問がある方やROM専で未閲覧の人は
「色即是空」と般若心経の深義9  へどうぞ。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1599594934/

そちらも小生がたてたスレです(4巡目から引き継ぎました)。
小生が回答するとは限りませんが、
良心的な複数の回答者がいます。
昨今は不審者の出没も途絶えたようで、
大変よい環境が整っているようです。

872 :神も仏も名無しさん:2021/06/06(日) 09:50:43.72 ID:7tnExJ5W.net
>>597

小乗教が全部正しいとか思い込んでるカルト感染者で、
やたら承認欲求が強い糖質が、マウントとろうとしてるだけなんですよ

異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、
現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。

ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。

>スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。
また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、そもそも無理があります。

>部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。

>テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。
それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。

378神も仏も名無しさん2020/08/02(日) 20:44:54.73ID:4fzFl6ba
別にブッダゴーサ教でも異端でもいいがスマナサーラはホラ吹き破戒僧
母国のスリランカ仏教徒は異教徒を弾圧に虐殺
スマナサーラ教信者は発狂する奴が続出

873 :神も仏も名無しさん:2021/06/10(木) 14:03:07.36 ID:hhVOlsdL.net
臨済宗の生き恥晒し。馬鹿野園こと大山バカ太郎
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1615980309/

874 :神も仏も名無しさん:2021/06/11(金) 03:32:25.82 ID:6LVApobU.net
>密教は宗教の一つの完成形ではある。
宗祖大師もラマとして立派だった。
だが、真言宗は始祖以降、迷信じみた「習慣の継承」のみ為されていて、
真のラマも出ていない

875 :神も仏も名無しさん:2021/06/15(火) 14:42:48.09 ID:g56D+cfm.net
>>874

理源大師 覚鑁上人 慈雲噂者… 出てるよ大師様を超えていないってだけで

876 :神も仏も名無しさん:2021/06/16(水) 08:22:31.61 ID:XxRFLcYt.net
現在、上座部を名乗っている教団の正体を知っていますか?
部派仏教時代に上座部の中で有害な説を説く異端分子が破門になりました。その異端分子を分別説部といいます。
その後、本来の上座部が滅んだのをいいことに、分別説部は自分たちが正当な上座部だと主張しました。
つまり現在の上座部は元々異端分子なのだから本当の仏陀の教えなど伝わっていないのです。
分別説部についてはウィッキぺディアにも載っていますから、ご確認下さい。

ブッダゴーサというのは経典改竄で上座部から除名された存在で
要するに
今の南伝というのは、そもそも異端であってブッダの教え
そのままでもない。

877 :神も仏も名無しさん:2021/06/17(木) 00:48:45.59 ID:wv1jt/kB.net
覚鑁以外は却下。聖宝などカルトの温床。

覚鑁にしても

当時の真言門徒の多くが彼にどういう仕打ちをしたかを顧みる時、やはり伝承じたいも

腐っていたと言わざるを得ない

878 :神も仏も名無しさん:2021/06/17(木) 10:00:47.19 ID:ARvNECur.net
>>877

幸福の科学みたいな偏った評価は要らない
部外者は自宗に専念したまえ

879 :神も仏も名無しさん:2021/06/17(木) 10:18:12.73 ID:ARvNECur.net
ああ真言信徒を門徒と読み替える親鸞会のカルトハゲか?

門という言葉は仏教では総じて仏門を表す言葉だから自宗信徒を門徒と呼び慣わして他宗との差別化を計る超傲慢な宗派以外は皆信徒と呼び慣わしてるのも知らない無知だもんな?
もっと正確に言うなら出家持戒をしなければ仏門に入れた事にすらならんから謙虚な宗派は皆自宗の在家信者に門徒を名乗らせたりはしないんだよ
たかが入信しただけで僧侶並みの仏門に入れたと勘違いするなんてとんでもない勘違いだから真宗系以外はこれからも自らに対して檀徒または信徒の呼称を使うだろう

880 :神も仏も名無しさん:2021/06/17(木) 18:11:13.33 ID:wv1jt/kB.net
真宗ではない。真言門徒とは876の通名である。 

881 :神も仏も名無しさん:2021/06/17(木) 18:13:44.44 ID:wv1jt/kB.net
 無明の輩877の書き込み; >大乗経典だけで仏教が成り立つと考え
ておるのは、まさに877の統失特有の妄想であろう
その他シンハラへの妄執なども全て門徒の偏った見解に過ぎず、インド料理とスリランカ
を混同するだけのさもしい我見への執着なのである

882 :神も仏も名無しさん:2021/06/17(木) 18:33:30.75 ID:wv1jt/kB.net
876-877は錯乱した只の荒らし
であり部外からの闖入者
につき、無視するように。


883 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 03:12:38.30 ID:pI0/AVSm.net
宅間 守(たくま まもる、1963年〈昭和38年〉11月23日 - 2004年〈平成16年〉9月14日)は、
兵庫県伊丹市の工場街の工員家庭の家に生まれた
附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)は、2001年(平成13年)6月8日に大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で発生
した無差別殺傷事件(殺人・殺人未遂・建造物侵入・銃刀法違反事件)。宅間 守(たくま まもる)が校内に侵入し、
同校の児童計8人を凶器で殺害、15人を負傷させた。

884 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 03:23:52.84 ID:pI0/AVSm.net
別に閲覧するだけとか勝手にスリランカ等の経を読むのは自由で好きにすればよいわけだが
誰も関わりたくはない粘着質のものが無関係な場所に乱入し
多くの人の学習の妨げをするような迷惑行為はやめましょう。

>>878-879 トハ、永久に縁を切ります

885 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 07:55:46.94 ID:5fLdRv+x.net
878

真宗系以外の在家信者は皆信徒 真言門徒等と言った場合は四度加行を終えた阿闍梨を意味するから普通は使われない
普通使われない言葉が浮かぶのは真宗系の生まれとしか考えられん
そうでなければ出来の悪い寺の子かだな

886 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 08:08:17.37 ID:5fLdRv+x.net
マトモな読解力も無いのに仏教を語るなよ
文献学的な正統性が有ればテーラワーダだろうが漢訳原始経典だろうがチベットのサンスクリット経典だろうが皆同じ 共通項だけを読み取って理解すれば良いだけで 其処に小乗経典だなんて偏見が生まれる筈がない
内容を読み取れない馬鹿者だけがいつまでも小乗だと言っている

俺に書いて欲しくないなら挑発しなければ済む事をわざわざ蒸し返してるのはお前 誘き出しといて集団で叩こうという腹かも知れんが人望もないから誰も追随してないな
つまりそれがお前の器量という事だ
小さな器にいくら屁理屈をてんこ盛りにしても それこそ小乗

887 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 08:12:09.01 ID:pI0/AVSm.net
883 永久に縁を切ります と書いたよ
しつこいね
誰にも相手にされんのだろうな
性質が知れる

888 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 08:16:30.88 ID:pI0/AVSm.net
884は狂人の妄想なので
無視してください。

889 :神も仏も名無しさん:2021/06/18(金) 19:32:00.37 ID:5fLdRv+x.net
885

だったらレスしなきゃいいだけだ 悔しいんだか何だか知らんが 一々下らない事を書き込むな

890 :神も仏も名無しさん:2021/06/19(土) 01:20:31.32 ID:MTLeowTl.net
真言門徒とか呼ばれる工作員の正体

創価ではないかな。

というのも書き込みに内容が無く、栄進や犬山と区別が難しいからだ

疹ゴンゴキブリ駆除よろ

891 :神も仏も名無しさん:2021/06/19(土) 08:32:41.63 ID:7qMYGy7g.net
妄想患者乙

俺は日蓮なんか認めてないからそれはお前の妄想だよ

門徒と信徒の区別もつかない素人に目利きは無理だから一生浸ってな

892 :神も仏も名無しさん:2021/06/19(土) 10:47:12.28 ID:MTLeowTl.net
www
 永久に縁を切るよ と言われても
 しつこく粘着するんだからね
奴さんw

893 :神も仏も名無しさん:2021/06/19(土) 14:09:28.32 ID:MTLeowTl.net
>>891 卑しきものよ! オマエなど高野山に墓が造られたシロアリの霊か ぐらいにしか皆、思っていない
そうした見すぼらしい存在でしかないオマエが(ダライラマだというなら少しは聞いてやるかという気にもなろうが)
何ゆえ スレチの勘違いレスをつけて粘着し、他様に指図できるのか、そのワケを誰もが納得できるような言葉・根拠によって
説明してみよ!

894 :神も仏も名無しさん:2021/06/20(日) 07:10:23.71 ID:RlfrmEkt.net
887みたいな問題児の問題行動を
小1プロブレムといいます

日蓮なんか認めてないのは当たり前。 >臨済宗の生き恥晒し。馬鹿野園こと大山バカ太郎
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1615980309/

895 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 09:58:44.92 ID:fCThzwXK.net
>>893

で門徒と信徒の違いは理解出来たのか?
大所高所から見下ろした様な錯覚は良いから 自分の足下をよく見ろよ

896 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 10:00:33.60 ID:fCThzwXK.net
大体何で何ヶ月も黙ってたのにわざわざ中傷して呼び戻すのかね〜? 笑

897 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 10:32:36.25 ID:twee3K76.net
彼らの課題は調和する事である。

898 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 10:51:14.49 ID:twee3K76.net
が、真言ゴキブリの言説は妄執に拠る所業であり、三毒の輩に過ぎん。

決して影響されてはならぬ。

899 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 16:56:20.20 ID:fCThzwXK.net
門徒が浄土真宗しか使わない用語だとも知らなかったど素人がよく言うよ 笑

900 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 17:29:03.12 ID:twee3K76.net
 薄学のモノよ。「門徒と道場」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444100 を読め

一般には少なく、真宗系でそう呼ばれることが多いというだけであり、門徒という言葉は普通の日本語である。
手前の見解を他人に強要するような態度では、信仰者としては勿論、社会人・日本人としての良識すら疑われるぞ。
或いは諸事情から小学校にも満足に通えなかったと見える。
が、いまはネットでも学べる時代である。ウィキペディアにも「門徒」の項目はあるし、一般的な国語辞典にも必ず項目がある
日本語の一つなのだ。門徒の本来の意味は
「一門のともがらのことを指す呼び方で、ことに同じ門流に属して信仰を共にする人びとのこと」
「一寺に属する檀徒のこと」なのである。
お前は人に教示できる段階には達していない幼児同然の輩であろう。

901 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 18:08:32.04 ID:fCThzwXK.net
ハイハイ 超後出しじゃんけん乙

真宗以外の仏教徒に門徒さんって呼びかけたら変な顔されて終わりだし それすらも知らない引きこもりだもんな…

902 :神も仏も名無しさん:2021/06/21(月) 18:45:09.60 ID:twee3K76.net
糞よりもっと汚らわしきものよ。そもそもオマエなど誰も相手にしていないのだが、このような場にあっては、
すがた形は見えねど心が極端に穢れているのは直ぐに判る
そうしたオマエの心の品性下劣さを戒めているだけ
なのだよ

903 :神も仏も名無しさん:2021/06/22(火) 14:22:38.08 ID:snzQsZai.net
悟りスレで皆に相手にされなくて過疎スレでセコい憂さ晴らしをしてる似非仏教徒が何を言う? 笑

せめてちゃんと入信して真面目に寺通いぐらいしてからにしてくれよ

904 :神も仏も名無しさん:2021/06/22(火) 17:24:04.89 ID:Xm1TTCfz.net
誰も糞未満でしかないオマエの信仰ごっこにつきあう者などおらんだろ 爆笑
また5ちゃんのホラ吹き糖質や勘違いが集まる三途のスレで遊びたがる輩は
子供か余程の低知能な暇人であるのは言をまたない。
また皆オマエを蔑み、敬遠してるようであったぞ 猛爆 まだ晃君とかのほうが
更生の見込みはある。
しかし真言門徒とは、おそらく5ちゃんに一匹だけいる粘着質のもののことを言っているのではないかな?
また誰もオマエを真言宗を代表するものだとか思っている訳ではないであろうし、真言宗も
そう考え工作を依頼した訳ではあるまい。また真言宗の教義も新義古義さまざまあり、オマエの貧しい
浅略釈が宗門の立場を代弁できているという訳でもない。
にも拘わらず何ゆえ真言宗を代表するかのように虚勢を張るのだ? さあ答えてみよ

905 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 01:11:16.34 ID:5SOnrG4B.net
一箇所で言えば済む事をあちこちに同一駄文で書き散らして 女々しい奴だな

906 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 02:29:16.76 ID:68Xr3IlD.net
女々しい奴とはオマエのことだ 爆笑 また同一の文章に非ず。よく読め。やはり読解力も無いわけか。
>後出しじゃんけん ?? 誰もキチガイ相手にジャンケンなんかせんだろw
何も指摘せずにおけば件の粘着は何時までも同じ過ちを繰り返すということ。
もう教えてやらんぞ

907 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 08:43:25.91 ID:5SOnrG4B.net
ぷっ 笑

真言門徒なんて間違った用語の使い方をする奴が教えてるつもりだったのか? 笑
お前の駄文を一々細部まで読む程暇人じゃねえよ ど馬鹿 笑

心得違いも甚だしい

908 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 09:13:13.80 ID:68Xr3IlD.net
呻吟門徒よ

真言宗とは関係なさそうなので、今後通名を変更する。
オマエの書きっぷりから見ると「オレはプロヤ! 職業でやっとるんや」と主張していることになるが、そう受け取ってほしい
のか? 爆笑

909 :に「:2021/06/23(水) 12:37:44.92 ID:idd75b5K.net
あのペンなの入信しろだとかいってるよ

910 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 15:20:00.51 ID:68Xr3IlD.net
確かに。大乗派閥内のセクト主義的慣習に従わにゃならんとか思いこまされてる連中って、現代の日本いや世界の中で何%だよ?

今後、在家の真言信者的な奴が現れたら
「また可笑しなのが出た!」と警戒されるだけだろうし、ある意味よいフラグをたててくれたとも
いえる。

911 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 16:34:33.22 ID:5SOnrG4B.net
アホクサ 俺は代々信者じゃないから普通の真言信徒とも毛色が違うのは当たり前

入信しろと言ってる訳じゃなくて入信してないのが見え見えだからそう言ったまでだが 今までその件に付いては認否保留だろ?
入信してると言えば細部迄突っ込まれるし してないと言えばやっぱりなと言われるから その無駄に高いプライドが許さないんだろ? 笑

912 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 17:29:20.83 ID:68Xr3IlD.net
 オマエの思ってる”仏教”とは、脳内に詰まった妄想知識に過ぎず、それは本ものでなく、
仏の智慧とも無関係なガラクタで空海の教えも、そのほんの僅かの断片だけを掠めたものに
過ぎないのはこれまでの書き込みから既に判明してる。そうでもないと主張するなら、オマエが
入信したという団体だか派の名称を書け。

913 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 17:32:34.77 ID:5SOnrG4B.net
先に読んだスレに返答しといた

914 :神も仏も名無しさん:2021/06/23(水) 17:41:41.86 ID:68Xr3IlD.net
よし、よく自白した。

こんど上のものらに「ネットでこうした不審な情報を垂れ流して

人々にメイワクをかけてる連中がいるんだが、オタクはそういうのやれって指導してんの?」と

聞いとくよ

915 :神も仏も名無しさん:2021/06/24(木) 00:52:06.08 ID:tlAFPugS.net
金剛峯寺は元は青巌寺等(ともう一寺)といって、豊臣秀次が自刃した間があったのだね

916 :神も仏も名無しさん:2021/06/24(木) 17:39:21.19 ID:iC1edQCS.net
総本山からは何の指導も受けてないが400万信者の一々を把握出来る訳がない
内容に間違いが有ればお達し程度は有るだろうがな

917 :神も仏も名無しさん:2021/06/24(木) 18:31:14.74 ID:tlAFPugS.net
低級なのは誰からも相手にしてもらえまい。ただの患者に過ぎぬからだ
なんでもテメエのことを他人が批判してるとか訝るのは被害妄想
関係妄想といい、ビョーキの症状だな。或いは、明確に何か
やましいことがあるのだろう

918 :神も仏も名無しさん:2021/06/24(木) 18:32:47.51 ID:tlAFPugS.net
今日からは不特定の閲覧者向けモードに復帰してますよ

919 :神も仏も名無しさん:2021/06/25(金) 02:25:54.84 ID:LJZ+mXDO.net
【重要】南伝経典を読むこと自体が悪いわけでは勿論無い。

ブッダゴーサ独自の見解や

テーラワーダ過激派等に汚染された輩に影響される点が

問題なのである。

920 :神も仏も名無しさん:2021/06/26(土) 03:03:33.96 ID:5wifQ0Kc.net
スリランカのスマナサーラは2007年に「般若心経は間違い」とかいう本を出しています。
それを読めば正体がわかります。

>空海も注釈し論書を出した般若心経の批判は空海への疑いにも繋がる。

弘法も筆の誤りと謳われるように日本で比べるべくもない天才が般若心経を肯定しているのに、
どこの誰だか分からないお坊さんの言葉を信じるとはコメ欄も含めて本当に日本人なのかと思ってしまう。
聖地である金剛峯寺でも信者が般若心経を唱えていたので密教から見ても聖典扱いなのは間違いない。
末法も末法の我らの時代にあれこれ論ずるのは、私からすると甚だおかしな話で昔の人がそれこそ神なる世界から感応して下ろし残っているものを批判するのは畏れ多いこと。
物質的には進歩したかも知れないが精神世界、こと見えぬものでは昔の時代を生きた人の方がよほど先進的である。

迷信だなんだと先人を馬鹿にすることこそ間違いなのだと聖典や宗教を学ぶ者にとっては常識ではないのか。
補い合いこそすれ、そこから引かれるものは決してない。あれは間違いこれは間違いと論じてしまえることは学びが足りない証拠でもある。

921 :神も仏も名無しさん:2021/06/27(日) 00:56:07.35 ID:ZjrAeLo/.net
>文化的な差異に対する許容性の無さが様々なテロを生み出している中で、
宗教者でありながら、また宗教者であるからこそ、この人のような狭量なもの言いはいかがなものかと思われる。
絶対的な見方を否定する仏教の中にあって、絶対的な正否を主張する過ちをまた持ち込もうとすることの無いよう念ずる。

>2007年11月20日に日本でレビュー済み
はっきりいって、日本人に対して失礼な一冊。平安時代から親しまれてきた般若心経を全否定している。
鼻につくのが、「自分の見解が絶対正しい」という態度。これはキリスト教やイスラム教の原理主義者たちと同じ態度である。
釈迦の言葉が絶対の真理だと、いったい誰が決めたのか。
それに、スマナサーラ氏の解釈は、釈尊が亡くなって数百年後に成立した「アビダルマ仏教」によっているのであって、
釈尊の教えそのままとは言えない。
特に無常を刹那滅論で説明するのはいかがなものか。刹那滅論は釈尊は説かなかったと思うのだが。

この本を読んで浮かんできたのは、「不寛容」という言葉。
自分も初期仏典を読んだが、釈尊というのは非常に温厚な人である。相手に合わせて説法できる人である。
間違っても相手の大事な文化を皮肉っぽく否定してきたりはしないと思う。

922 :神も仏も名無しさん:2021/06/27(日) 11:33:45.75 ID:PCq/OuhL.net
スマナサーラは確かに問題だが それは経典の内容とは関係ない ブッダゴーサにしても既に東南アジア一帯に広がっていた全ての経典を改竄する事は不可能
要はスリランカのオリジナル部分だけを省いて読めば済む話

923 :神も仏も名無しさん:2021/06/28(月) 02:45:11.94 ID:oeROAg/J.net
>小乗仏教が駄目な訳
2014年9月5日に日本でレビュー済み
著者は「現象に実体はない」という入り口は知っていても、
こだわらないことを徹底した心経の中心テーマはまったく読めていない。
心経が言外に不可知論を退けているという重要な要素も読めていない。

要するに、文言に難癖を付けているだけである。文言をいくら難詰しても
日本仏教行き詰まりの根本原因は見えていない。著者もその日本で
同じく宗教活動(商売)している身で根本的批判をできる訳がない。

ドグマでしかない小乗的な階層論をやおら持ち出したりして文章が臭い。
積極面は「呪文の否定」ということくらいしかない。

追記:
教団階層制(ヒエラルヒー)の最上階に胡坐をかいている
人に上から目線のお説教は垂れ流せても、
衆生済度の仏教が解る訳がないのです。

924 :神も仏も名無しさん:2021/06/29(火) 05:20:00.30 ID:2GLu8VH7.net
シャットダウンを一回毎の生における死
PCやそこに表れる情報を 輪廻する先々の客舎と観じるなら
解脱とは、パソコンを使うのをやめて、もっと大事な修行をする事で開ける世界に当たる
のでしょうね

925 :神も仏も名無しさん:2021/07/01(木) 00:25:44.02 ID:/TNCllNC.net
スリランカ分別説部に汚染されてる輩こそ魔の眷属なり

926 :神も仏も名無しさん:2021/07/01(木) 20:58:48.27 ID:/TNCllNC.net
心経に関する本だけじゃなく
あの長老が書いたものは全部ヘン。
テユウカ、そもそも多くの人の目に触れるに価するレベルじゃない
感じがする

927 :神も仏も名無しさん:2021/07/01(木) 21:03:46.60 ID:/TNCllNC.net
このスレで途中、スマナサラの動画が貼ってあったりするが
いかに初心者向けとはいえ、全く話にならないお粗末
劣悪極まりない代物で、ただ日本で商売するニセモノを見分けるための
サンプルにしかなりませんな

928 :神も仏も名無しさん:2021/07/02(金) 05:56:40.73 ID:VF2bcVov.net
>>926

まったく
その通りです


929 :神も仏も名無しさん:2021/07/02(金) 05:57:52.01 ID:VF2bcVov.net
「とらわれ」の病、強迫性障害 
というのがある。仏の教えはジャイナ教とは違う。
意味の無い戒律への妄執も又、否定されるべきもの
であります。

930 :神も仏も名無しさん:2021/07/02(金) 07:16:36.89 ID:VF2bcVov.net
仏の慈悲や衆生の救いを忘れた盲説など
そもそも仏教とは何の関係もない。
恐らく、それこそが「小乗」と蔑まれる
所以です。

931 :神も仏も名無しさん:2021/07/03(土) 08:38:05.57 ID:DROmngW3.net
苫米地某も「般若心経は間違っている」と断言してるが、
そんなのの言う与太話に洗脳されるバカに仏教を語る資格など無い。
心経が間違ってるのじゃなく、そいつのお脳にあるらしき腐った解釈自体
が誤りなのだ。

932 :神も仏も名無しさん:2021/07/04(日) 02:22:01.72 ID:E4p1ozLS.net
ダライラマから見てもテーラワダは格下    >そんなのどの宗派でもお互いさまだろう
ダライ・ラマ14世の動画見てみればテーラワーダのことを明らかに格下のものとして発言してるし、ネルケの90分以上あるマインドフルネスの講義動画の終盤でもテーラワーダのスタンスに不満を言ってる
大乗の系譜は中観に則ってるわけだから仕方ない話

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