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【仏教】悟りを開いた人のスレ220【天空寺】

1 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:15:55.10 ID:wUOQX/LK.net
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。

前スレ【仏教】悟りを開いた人のスレ219【天空寺】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1476255984/l50

●2ちゃん規制で書けない人は下記へどうぞ。
〓〓偽和尚 ◆qH7QdQmFhM管理人によるjbbs避難所〓〓
悟りを開いた人のスレ の避難所
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1348287392/
ご注意
IPアドレスは管理人に筒抜けです。
ID固定です。日が変わってもIDは変わりません。
その他は板のローカルルールを読んでください。
悟ったひとや悟れる人はそんなに心配無いけど書き込んで、
悟れない人達が安心を得られる何かいい方法や、そのほか
色色何でもを書き込みましょう。

2 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:19:50.07 ID:wUOQX/LK.net
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。


 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。

 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

3 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:20:41.28 ID:wUOQX/LK.net
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

4 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:21:42.53 ID:wUOQX/LK.net
更にコピペじゃ。

 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
 「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
 今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
 巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
 「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
 最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。


 続き、さらなる詳細はこちらまで

 ■鬼和尚の仏教勉強会
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5 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:23:56.88 ID:wUOQX/LK.net
人の心は縁起によって起こるのじゃ。

 例えばものを見るという縁によって、それをあれこれと分別する心が起こる。
 分別する心に縁として、それを好む、好まぬという感情が起こる。
 好む、好まぬという心を縁として、執着と嫌悪が起こる。
 執着するものを得られない、又は嫌悪するものから逃れられないという事を縁として、苦が起こる。

 このように縁起によって自らの心を何度も何度も観察するのじゃ。
 すると自らの心を観照する事が出来る。
 自らの心を観照することによって厭離が起きる。
 これが縁起の法じゃ。

6 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:26:37.65 ID:wUOQX/LK.net
わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こったと前に書いたのう。

 観照によってわしの自我は消え去った。そして静寂と安心が起こった。もはや守るペき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。
 そして、智慧が湧いた。
 自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
 わしはその智慧に問うた。
 (ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
 この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
 この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
 そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
 自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。

 空であると観じていると、認識するものが消えた。
 そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
 そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
 言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
 全てが無かった。
 そして無でさえも無かった。

 今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
 わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
 そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。

7 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:28:03.11 ID:wUOQX/LK.net
わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
 この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
 この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。

 そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
 無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
 わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
 わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
 死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
 わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
 世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。 

 わしは長らく坐っていたようじゃ。
 永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。 
 わしは菩薩の誓いを思い出した。
 悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
 わしは定を解き、ここに帰ってきた。
 自我は無くなっていた。 
 人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。
 この辺で良かろう。


 ここにはもはや為すべき事も無く、為す者も無い、最上の境地である事が判った。
 もはや為すべき事も、成すべき者も無い故に、最上であると理解し得たのじゃ。

8 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:29:35.33 ID:wUOQX/LK.net
 今日はちょっと早いが、ある程度修行をした者に与える教えじゃ。
 長く修行しているのに悟りを得られぬ者、心当たりの有る者は聞くが良い。
 未だ数息観をしている者や、ヴィパッサナーを始めたばかりの者は読まないでも良い。将来、修行が止まってしまった時に、参考にするとよい。

 さて、今世間にはわしが教えた物も含めて、さまざまなヴィパッサナーなとのやり方が伝わっておる。しかし、それらのやり方は実はヴィパッサナーではない。
 ヴィパッサナーをしやすくする為の技に過ぎないのじゃ。

 真のヴィパッサナーとは己を観察する事。
 長く修行しても悟りを得られないのは、観察をしているようでいて、実は観察をしていないからなのじゃ。
 観察するのに必要なのは、技ではない。

 勇気なのじゃ。

 己の心を勇気を持って観察する事が、真のヴィパッサナーなのじゃ。
 それが出来なければ永遠に悟りは得られん。

 人間の心は恐ろしい事や不安、嫌悪感、劣等感などがあるとそれらの感情から逃げようとする。逃げて見ないようにしたり、蓋をして忘れ様とさえする。
 それらの逃げが、心を観察する事を困難にしているのじゃ。
 それはもともと生き物に備わった本能じゃ。ゾウリムシでもミジンコでも、炙ってやると逃げていくように、人間も心に苦痛を感じると、それから逃げようとする。
 その動きが心の観察を困難にしているのじゃ。

 この逃避の働きが人の心に深く、深く根付いて行動の全てを支配しておる。
 このように書くと自分の心には逃避などは無いと、思う者もいるじゃろう。それが完全な逃避の姿じゃ。
 自分が逃避している事さえ自分に隠す、完全なる逃避なのじゃ。
 もともと仏門に入る動機が、何らかの恐怖や不安、孤独からの逃避であった場合、悟りを得るのは更に困難になる。
 悟りを得る為には、逃避してきた自分の心を観なければならないのだから。
 そうような者は仏門に入る動機から、掘り起こして観なければならないのじゃ。

 続くのじゃ。

9 :神も仏も名無しさん:2016/10/26(水) 23:30:32.83 ID:wUOQX/LK.net
U
 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に現れるものを全て逃げずに観察する」
 と、自分自身に強く誓うのじゃ。

 そして坐るがいい。
 もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
 そなような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

 この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
 泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
 苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
 そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。

 修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
 何もかも観察するのじゃ。
 いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
 もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
 何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。

 そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、始めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
 そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
 何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
 その時が来るまで観察を続けるのじゃ。

10 :栄進:2016/10/27(木) 04:18:50.42 ID:LzOlaahW.net
>>996

神も仏も名無しさん

2016/10/27(木) 01:50:33.31 ID:Nru403Wd

吽鈷菩薩に質問です。
ユリゲラーのスプーン曲げは超能力ですか?
手品ですか?

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