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絶対他力の浄土真宗の教義では人を救えないのでは??

1 :神も仏も名無しさん:2016/10/11(火) 11:44:15.38 ID:14hLROl+.net
まだ、浄土宗の方が人を救うことが出来る。多少は自力の部分があってもいいと思う。どうしても、困った時は本能的に祈ろうとするだろ。
浄土真宗の教義では、救えないって。

611 :神も仏も名無しさん:2016/11/12(土) 22:12:41.20 ID:vQAbLn80.net
完徳の山の図に、信仰の道すなわち他力信仰が、不完全な霊の道
だと明示されている。カトリックの聖者が、どんな信仰であっても、
それは不完全な霊の道だと認識していたことに感銘を受ける。
釈尊も「信仰をやめよ」と言っている。
 
なぜ他力信仰はダメなんだろうか?

612 :神も仏も名無しさん:2016/11/12(土) 22:20:32.15 ID:pumqZHCg.net
カトリックの主流はそこでいう「他力信仰」ですよ
他力信仰であっても何かをきっかけに
自他のない心に進むこともありえますので
一概に否定する必要もないと思いますが

613 :神も仏も名無しさん:2016/11/12(土) 22:49:23.43 ID:vQAbLn80.net
要するに信仰とは、釈尊やイエスやムハンマドなどの言葉を真実だと
思い込むわけだ。ここでいったい何が起こるのか。
 
<信仰の長所>
@ プラシーボ効果としての精神的安らぎが得られるだろう。
A 自分で判断する煩わしさから逃れることができる。
B 集会に参加すれば信仰の友ができる。
<信仰の短所>
@ 言葉はウソをつくのに、教祖盲信になってしまう。 
A それは理性の放棄である。
B 最大の短所は、聖霊体験を失い、甘露体験を失うことだろう。
ーーー すなわち、神を知る機会を失ってしまう。
ーーー なぜなら、言葉を信仰した時点で救われたと思ってしまうから。
ーーー つまり、自分から救いを放棄するのに等しいのだ!

614 :基地にゃん♪:2016/11/12(土) 23:17:26.46 ID:p2y5LmdF.net
生き地獄の亡者が救われる

訳が無いにゃん♪苦しめる

為の生き地獄にゃん♪

南無南無(´・人・`)

615 :神も仏も名無しさん:2016/11/12(土) 23:20:08.55 ID:vQAbLn80.net
自力が聖霊体験・甘露体験には欠かせない。自力を貫いたあげく、
精神的に破綻しそうになっても、自分の悪さに気づくまで絶対に逃げない。
なぜならその時には、もうそれ以外の選択肢がないのだから。
 
そして自分の悪さに気づく。さらには、自分の悪さに気づくだけでなく、
その悪さを自分で断罪する → これが真の悔い改めだ!
そうすると、自分の悪さを断罪した自分は、正義の側に立つではないか。
次の瞬間、聖霊とか甘露とか言われるものが、頭の中に落ちてくる。
これが命そのものであり、永遠であり、叡智であり、神だ。
 
他力だとこれが体験できない。だから自力でないとダメなんだね。
発狂しそうになるような道だが、成功すれば一瞬で癒される。
そして人格も一瞬で変わる。こんなすごい体験を捨てるわけにはいかない。
その時はきっと生きていてよかったと思うよ。

616 :神も仏も名無しさん:2016/11/12(土) 23:38:07.89 ID:vQAbLn80.net
時がたって整理したから、スラスラ事が運んだように書いている。
でもね、発狂寸前、青息吐息でやっと山頂にたどり着いたよ。
でも一瞬で回復 ← これが神の力だ、すごい。
その頃は水に酔うぐらいだった。水に酔うこともあるんだね。

617 :神も仏も名無しさん:2016/11/13(日) 00:33:03.08 ID:VqCG42QF.net
金屑眼中の翳か、古人のお示しは有難い。

生んで育てて頂いた親もおろうに、困った時に見知らぬ方から助けて
頂いた事もあろうに。古人のお示しから得たものもあろうに。

そうしたよそ様から頂いた恩を忘れて自力とか、俺は恥ずかしくて言えないな。

618 :神も仏も名無しさん:2016/11/13(日) 07:46:24.58 ID:DJqxKbTj.net
人との出会いと神との出会いは次元がまるで違う。
 
自分を破壊した先に神がいる。
  
信仰は自分を破壊するのではなく、
 
中途半端に救ってしまうからダメなのだ。
 

619 :神も仏も名無しさん:2016/11/13(日) 08:23:30.78 ID:DJqxKbTj.net
自分というものを壊さないと神に会えない。
でも人は、自分が壊れそうになると信仰へと逃げて行く。
だから神に出会えないのだ。
 
壊れそうになってもぎりぎりまで耐えに耐え、
最後は自分で自分を壊してしまう。
自分を断罪し、自分の正義を虚空に打ち上げる。
自分に勝つ。ーーーそして神が訪れる。
これが狭い道、自力だ。

620 :神も仏も名無しさん:2016/11/13(日) 10:16:55.77 ID:DJqxKbTj.net
十字架のヨハネは、人間が歩んで行く三つの道を示している。
@ 不完全な霊の道・・・他力、信仰、あらゆる宗教
A 完徳の狭い道・・・自力、狭き門
B 間違った霊の道・・・広い道、世俗社会での成功、滅びの道
 
大多数の人間は、世俗での成功を夢見て、Bの滅びの道を選ぶ。
ヨハネはなぜBを選ばなかったのか。それは生い立ちを知ればわかる。
ヨハネ出生後、ほどなく父が病死、生活に困窮した母は9歳のヨハネを
孤児院に預けてしまう。ヨハネはその後、苦労を重ねに重ね、
25歳頃にカルメル会の修道士になっている。
世俗での成功を目指す以前に、彼の心には大きな穴がぽっかり開いていて、
それを解決することの方が優先した。
【ヨハネは愛を求め、愛を探していたのだ】
彼はカルメル会の修道士になり、@の信仰の道も歩んでいる。
しかし、周囲の修道士と対立して信仰にも失望する。
こうして運命的に、Aの狭き門を歩むことになる。← ここ重要!

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