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十字架☆ヤハウェ・イエス・キリスト・YHWH☆復活65

1 :神も仏も名無しさん:2016/10/07(金) 12:23:06.39 ID:P4feA3Uv.net
神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。

わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの父なる神を賛美しよう。神はキリストにあって、

天上でもろもろの霊の祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえに清く傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって

神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのです。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためです。

わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、
すなわち、罪過のゆるしを受けました。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとを

わたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに
示して下さったのです。 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかなりません。それによって、

神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのです。
わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあって

あらかじめ定められ、神の民として選ばれました。 それは、早くからキリストに望みをおいている
わたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 あなたがたもまた、キリストにあって、

真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、
約束された聖霊の証印をおされたのです。

181 :Christian.dinnerモーニング:2016/10/15(土) 07:52:53.09 ID:VlPXyKGL.net
イエス・キリストの啓示 パウロが記したヘブライ人への手紙

「さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、

ご自分をさして誓って、 「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われました。
このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのです。

いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる
保証となります。 そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、

いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのです。 それは、偽ることのあり得ない
神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきた

わたしたちが、力強い励ましを受けるためです。この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを
安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものです。

その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、
はいられたのです。

182 :Christian.dinnerモーニング:2016/10/15(土) 08:10:35.04 ID:VlPXyKGL.net
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを撃破して帰る
アブラハムを迎えて祝福し、それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのです。

その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王なのです。彼には父がなく、母がなく、
系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのです。

そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのですから、この人がどんなに
すぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるでしょう。さて、レビの子のうちで祭司の務をしている者たちは、

兄弟である民から、同じくアブラハムの子孫であるにもかかわらず、十分の一を取るように、律法によって
命じられています。ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、

約束を受けている者を祝福したのです。 言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのです。
その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けていますが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が、

それを受けています。そこで、十分の一を受けるべきレビでさえも、アブラハムを通じて
十分の一を納めた、と言えます。

なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからです。

183 :Christian.dinnerモーニング:2016/10/15(土) 08:25:41.39 ID:VlPXyKGL.net
もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を
与えられたのですが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、

別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのでしょうか。 祭司制に変更があれば、律法にも必ず
変更があるはずです。 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して

言われているのです。 というのは、わたしたちアドニーがユダ族の中から出られたことは、
明らかですが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていないのです。

そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になります。
彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのです。

それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされています。
このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、

(律法は、何事をも全うし得なかったからです)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを
神に近づかせるのです。 その上に、このことは誓いをもってなされました。

人々は、誓いをしないで祭司とされるのですが、 この人の場合は、次のような誓いをもってされたのです。

184 :Christian.dinnerのみかんデザート:2016/10/15(土) 08:35:42.28 ID:VlPXyKGL.net
すなわち、彼について、こう言われています、「ヤハウェは誓われたが、心を変えることをされなかった。

あなたこそは、永遠に祭司です」。 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのです。
かつ、死ということがあるために、務めを続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられます。

しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務めを持ちつづけておられるのです。 そこでまた、
彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、

いつも救うことができます。このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの
天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたなのです。 彼は、ほかの大祭司のように、

まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はありません。
なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからです。 律法は、弱さを身に負う人間を立てて

大祭司としますが、律法の後にきた誓いの御言葉は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのです。

185 :Christian.dinnerランチ:2016/10/15(土) 11:03:18.96 ID:Cau2mX2b.net
「以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、

人間によらずヤハウェによって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということです。
おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかなりません。

したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならないのです。そこで、もし彼が
地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、

彼は祭司ではあり得なかったでしょう。彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎません。
それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、

「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのです。

ところがキリストは、はるかにすぐれた務めを得られました。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、
さらにまさった契約の仲保者となられたことです。もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、

あとのものが立てられる余地はなかったでしょう。

186 :Christian.dinnerランチ:2016/10/15(土) 11:11:24.09 ID:Cau2mX2b.net
ところが、神は彼らを責めて言われました、

「ヤハウェは言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。

彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、ヤハウェが言われる。
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、とヤハウェが言われる。

すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。

彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、ヤハウェを知れ、と言って教えることはなくなる。
なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。

わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。

神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのです。年を経て古びたものは、
やがて消えていくのです。

187 :Christian.dinnerランチ:2016/10/15(土) 11:21:42.12 ID:Cau2mX2b.net
さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがありました。すなわち、

まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていました。
これが、聖所と呼ばれたのです。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれました。

そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、
芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、

贖罪所をおおっていました。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができません。
これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのですが、

幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる
血をたずさえないで行くことはないのです。 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、

聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示しています。この幕屋というのは
今の時代に対する比喩です。すなわち、供え物やいけにえはささげられますが、儀式にたずさわる者の

良心を全うすることはできません。 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、
改革の時まで課せられている肉の規定にすぎないのです。

188 :Christian.dinnerランチ:2016/10/15(土) 11:31:24.71 ID:Cau2mX2b.net
しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、

さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、
一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのです。

もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、

わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないでしょうか。

それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのです。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過を
あがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかなりません。

いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要です。 遺言は死によってのみその効力を生じ、
遺言者が生きている間は、効力がありません。 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではないのです。

すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、
子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、

そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。
彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけたのです。

こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によって清められたのです。

血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ないからです。

189 :Christian.dinnerの柿デザート:2016/10/15(土) 11:44:51.11 ID:Cau2mX2b.net
このように、天にあるもののひな型は、これらのもので清められる必要がありますが、天にあるものは、

これらより更にすぐれたいけにえで、清められねばならないのです。 ところが、キリストは、
ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために

神のみまえに出て下さいました。 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるのですが、

キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかったのです。
もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったでしょう。

しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れてくださいました。

そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、

罪を負うためではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのです。

190 :よーさん ◆aXOb53Jrsg :2016/10/15(土) 13:32:56.02 ID:q3VMEZyS.net
ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。

Christian.dinnerさん、179さん、みなさん、こんにちは。ハレルヤ 。

「言葉 神 喜ぶ」と夢のなかで。声に出して、賛美することは大切だと思いました。

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