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仏教の「無い」志向は間違いに違いないw【09】

1 :神も仏も名無しさん:2016/09/28(水) 13:48:02.28 ID:B7uTBTQY.net
1 :神も仏も名無しさん:2016/05/08(日) 16:35:09.84 ID:mGNFHB6S
1 :神も仏も名無しさん:2016/03/28(月) 02:04:39.49 ID:Pr+YuIny
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いだ。
「実体がない」などという表現はまさにこの無いの主張の代表的なもので間違いであり、
「実体は分からない」と正しく使うべきである〜w
「ない」と「分からない」では意味は大いに異なる。

精神的苦痛を除くのが仏陀である〜。
精神的苦痛などは元々無いのであり、それに執着しているのが苦痛の原因である。
執着を無くせ〜。 という教えは有難く承ろう〜。

が、しかし精神的苦痛は現代では脳内の病による肉体的苦痛と同義である一面もあり
2500年前と同じように精神-肉体を別に考えるわけにはいかない。
鬱や統合失調症に薬物治療が行われるのは神経伝達系に作用する薬で肉体的に治療をするのであり、
まさに精神は肉体という事になろう。
これを2500年前の仏陀のように単に執着をなくせ〜の一言で済ますのは現代においては誤りである。

さらに仏陀は肉体の苦痛については何ら解決策を述べておらず、まさか肉体的苦痛の苦痛などは無い、
気のせいだ〜と言うわけにもいかずお手上げ状態であり、ただ耐えるより無いのである。

仏陀も下痢に悩まされ体力を削がれ横たわって休むよりなかった〜。
現代においてはその道の専門家の医者にかかり治療を受ければ速やかに回復するだろうw

何でも全部一字一句2500年前の仏陀の教えに従う必要は無い。内道の仏教徒である必要などさらさら無い。
外道で外から自由に取捨選択して自分に合う教えだけを取り込めば十分である。

31 :神も仏も名無しさん:2016/10/03(月) 21:20:15.34 ID:b3uvXKKm.net
しかし親鸞の語り口は大変に魅力的です。
その語り口には聞く人を驚かせ、そして強く納得させるものが有ります。
例えば、
「たとい法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」、
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、
「親鸞は父母の孝養の為とて、一返にても念仏申したる事いまださふらはず」、
「親鸞は弟子の一人も持たずさふらう」、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも、面々の御はからいなり」、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にて有りけり。よくよく案じみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべき事を喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまふなり」
等と、聞く人をぐいぐいと引き込んでしまう魅力に溢れています。

どこかで聞いた語り口だと思いましたら、新約聖書でした。
親鸞の言葉はイエス・キリストの言葉によく似ています。
「阿弥陀仏」を「父」に置き換えれば、親鸞はキリシタンになってしまいます。

イエス・キリストのような話し方をする人に解脱体験の無かろう筈が無いと、私の心はいっぺんに振り出しへ戻ってしまいました。
親鸞に解脱体験が有ったのか、無かったのか、謎です。どなたかご存知有りませんか。
http://blog.goo.ne.jp/anandabhavan/e/f4053d524998c5b59cb964b43692895d

32 :神も仏も名無しさん:2016/10/04(火) 00:32:02.67 ID:Ddv6vv92.net
>>5
一即多多即一は恐らく、諸法無我(この場合は何処にも実体はないの意味)や諸法空相の教えを更に分かりやすく世俗諦で説いた教えな気がする。
説いた人には「更に分かりやすくしよう」という意識はなかったでしょうが、結果的に。


一念三千はこちらの

わかりやすい一念三千(いちねんさんぜん)
http://www.geocities.jp/kokoronoshikumi/hokekyo.3000.wakariyasui.html

というサイトに分かりやすく載っているようですが、これで分かりやすいんですから分かりにくい難解な教えなのかもしれません(笑)
(少なくとも私レベルでは)
取りあえず、十界互具というのは天台の教えでそれに本末究竟等(これも法華経というよりも鳩摩羅什のドグマですが)を当てはめてしまう所には論理の飛躍があるような…。
でも、それはそれで天台の智リ大師が悟った内容なのでしょうから受け入れる受け入れないはともかく尊重はすべきでしょうね。

本末究竟等は、本来は?如是相から如是報までの九如是、つまり因縁によって起きる現象は一つの道理によって貫かれていて、
その道理が無相とか空相とか言われる諸法実相ということになるのでしょう。

33 :神も仏も名無しさん:2016/10/04(火) 00:40:05.27 ID:Ddv6vv92.net
>>31
歎異抄での親鸞の語り口は己の弱さを認めつつも阿弥陀仏への信念で貫かれていてとても惹かれるものがありますね。
ちなみに私自身は親鸞は偉大なる破戒僧だと思っています。
本当は非僧非俗ですから破戒僧というのとも違うのですがw

イエスの語り口との共通点、上手くは言えませんがどちらも本当に弱い心にスッと入っていく言葉を使うな、という感じかな?
共通点は確かにありますね。

34 :神も仏も名無しさん:2016/10/04(火) 05:45:24.02 ID:WHEwUJmj.net
まことも自己満足のネット検索だけではなく
オレのように実践して修行しなさい

35 :神も仏も名無しさん:2016/10/05(水) 11:07:03.02 ID:cD1LBIoO.net
世間の道理とは、高いところから低いところに水は流れ落ちる。
しかし、仏道修行者は、その流れに逆らい、流れをさかのぼると言われる。
鯉の滝登りと言うものだな。

どうして仏道修行がそのようなものなのか?
真実が、空相なものだからだ。
真実には、高いところ低いところ、水が流れ落ちる、というもので、それに拘束されているのが凡夫
なのが、真実には、そういう凡夫を拘束するものはない。真実を理解したものは、
低いところから高いところに水を流すのである。

時間は過去から未来に流れると考えているのが凡夫であるが、聖者は、それはなく、
未来から過去に流れを変えるのだ。
過去未来はないので、凡夫が過去に起こした悪業は、未来に必ず、聖者により、
清算される。悪業、善業は、その結果を免れるものはいないのである。
その悪業善業から解放される教えが仏教だ。

36 :神も仏も名無しさん:2016/10/05(水) 13:42:24.36 ID:SUDJMva0.net
>ジャイナ教では、罪は物質となってその人の身体に付着する、
>という教えがなかったか?
 
中村元訳『ブッダのことば』註241
汚れた(なまぐさい)物を受けてはならぬ、ということをジャイナ教でも
教えている。それは恐らく施食として受けてはならぬという意味であろう。
ただ「汚れた」という語の意味をジャイナ教では物理的生理的な意味に解して
いたのに、仏教ではそれを精神的な意味に解したのである。
 
ジャイナ教の特色は、裸形派や、不殺生(アヒンサー)の徹底ぶりにある。
断食して餓死するのが理想的なんだとか。

37 :神も仏も名無しさん:2016/10/06(木) 07:53:51.26 ID:FUKphp/V.net
まことは、ツイコナイダまで、公案も知らなかったからな!

38 :神も仏も名無しさん:2016/10/06(木) 07:54:57.27 ID:jtaRhNEh.net
確かに
たかが公案の話しているだけなのに、さも大袈裟に
書くところが図星だよなあ

39 :123:2016/10/06(木) 08:52:13.73 ID:brFNQsSM.net
悟りは大疑問に対する答えである。
その大疑問を公案という形態に矮小化しているのがバカ禪師どもである。

40 :神も仏も名無しさん:2016/10/06(木) 11:14:48.74 ID:6o7HJY9O.net
>>32
>一念三千はこちらの

一念三千の法門などと、もったいぶっていっているが、そんなもの、”寝言”。

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