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天理教社会学研究所 カインを 糾す。

1 :基本。:2016/09/11(日) 09:16:53.25 ID:YxceBIij+
天理教社会学研究所 カインは、創価学会系の人物で天理教団の財政基盤を批判し洗脳をしていた。
ルーツは大日本皇道立教会
創価学会初代牧口常三郎、二代戸田城聖は構成員で、
その後その門下には大本教の開祖・出口王仁三郎、PL教団開祖・御木徳近がいて、成長の家、実践倫理佼成会、紅卍会がある。
宗教を金儲けとしておこなう彼らとカインを糾すべく当スレをたてる。

204 :天理教H:2019/01/04(金) 00:26:10.54 ID:RgUl2cWNG
基本さんの解釈は、二代真柱は復元の真柱であって、明治22年の刻限の123 123の切りの予言がある。
>>14 の 刻限で諭された内容 123で30年、最初の復元(増野鼓雪の青年会)、次の123で60年。
天理教教義は復元されました。それが天理教教典です。

即ち三十年で復元です。
123の切りが三十年でいくと教祖が扉を開かれて数えで三十年後(1916年)には、
内務省訓令で改められていた朝夕のおつとめが復元(あしきをはらうてが唱えられるようになる)。
それから三十年後(1946年)には、二代真柱が復元の徹底のためにふでさき講義や各地を巡教とそれぞれ復元しています。

どちらも、一、二、三とは百日のさしづで言われて有る三軒三棟の事ではありません。

刻限自体は、決まった理を知らす事情、当時の事の言っているなら、当時の事柄を先でこうしなさいと言う事であり、
何も伏せ込む言葉ではありません。むしろ解るようにしなければ「刻限遅れると皆遅れる。どきはきの道を通らにゃならん。」
となるのです。そして、おさしづを悟り様で甘いものでも辛いと言えば無意味なもの。

205 :天理教H:2019/01/04(金) 00:31:24.56 ID:RgUl2cWNG
>>99
>甘ろとは天啓のことです

違います。
かんろとは、仏教では、スッタニパータでの甘露の原語amataは「不死」という意味もあります。

「本草綱目」という本には、甘露というものは、膏のような露である。また瑞露と言ってめでたい露である。
また、天酒と言って天から下される御酒である。また神様の下さる飲み物、即ち神漿である。
「北史節要」「文徳実録」には、甘露が降ったと書いてあります。大和にも降ったと記録されています。                                            (おかぐらのうた 上田嘉成)

つまり、中華世界古代の伝承で、天から降る甘い液体とサンスクリット語の不死を同一視した漢訳仏典があり、
その後、日本でも空から降ってくる薬と言う認識があったのです。故に教祖は、「かんろ』の意味が解って受け入れられやすい環境で説いたのです。

つとめに天からかんろを降ろすとおっしゃる。肝心要のかんろとおっしゃる。その人によって寿命を違う、
その寿命の継ぎ目の肝心な時に継いでもらうのがかんろである。それで寿命薬である。
神様はかんろをやるとおっしゃる。しかし人の心の澄むまでは、かんろを与えても、出した手が引けぬ(手がしゃちこばって動かなくなる)。
しゃちこばれば恐ろしい神様やというて人は怖がる。それで話をよく聞かして心を澄まし切ってからかんろを与えるとおっしゃる。
                  (みかぐらうた語り艸 桝井孝四郎)

だから、かんろは寿命薬です。
かんろだいが完成したその暁には天から寿命薬であるぢきもつ(かんろ)を授けられ、教祖から各自の心を見定められ渡されるのです。

206 :天理教H:2019/01/04(金) 00:31:58.48 ID:RgUl2cWNG
死は誰にでも、必ず訪れます。そして、人間は誰しも死ぬと解っていても死が間近に迫れば恐怖があります、
それが若ければなおさらです、愛する者を亡くす辛さも持っています。その人間の心の叫びを執着心を捨てる、
極楽や天国に行く、来生や復活に思いをはせる事によって拭うてきた「死」に対する重い課題に対して、

神の心の真実は、
だん/\とせかいぢううをしんぢつに たすけるもよふはかりするぞや (4-36)
そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ (4-37)
またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや (4-38)
115歳定命を超えたその先の寿命を授けるための思いがあるのです。

207 :神も仏も名無しさん:2019/01/04(金) 13:09:14.45 ID:nIXrD742W
児玉健次教諭と、愛媛県伊予市の『濱田屋』の息子が「誰だってイヤだ!」
という意味のことを言ってきたが、
☆凄くモテるS川クンから中学の部活で「お前、かわいいんよ!」とか「こんなかわいい奴がこの世に存在してええん?!」
と言われたり、
☆小学校高学年で3人から好きになられたり、小学校2年生の3学期にモテるK下クンと友達でした。

なのに、「港南中学校にいた松尾多美子」教諭が「誰が相手にするんで!!」だの言い
【伊予高校】にいた【愛媛県松山市在住の冨田徳生】教諭が「誰もが鬱陶しいと思うとらい!!」「百人中百人が!」
と言い、その冨田徳生の
当時の同僚の『橋本(=堀川映子)』や古茂田は偽善者だからキレイごとを言いながら頭では冨田徳生と同じようにバカにしてた。←まともだったころのボクも知らずに!!!!!!!

【高校教師の橋本(=堀川映子】偽善者がバカにしてた【北橋やバカの山中】

☆本当にわかってくれた(無知じゃなかった)のは『戒田育子先生♪』『池田和子先生』『高田恭子先生♪☆』『神野正憲先生☆』♪、、。。
尊敬してたのは『福田尚睦先生☆♪』☆

208 :神も仏も名無しさん:2019/01/04(金) 13:23:44.95 ID:nIXrD742W
http://www.asahi.com/

http://www.tbs.co.jp/

http://www.fujitv.co.jp/

http://www.eat.jp/

209 :神之打分場所M:2019/01/04(金) 14:44:32.54 ID:Oy5R3Hbrv
カインは教理を知らず社会学上、問題提起して本部を改革しようとしています。
それも一つの道理でしよう。
色々書いて下さり参考になります。
今私は出先なので資料もない中ですが書かせて頂きます。
平行線になるだろうと思いますが、
明治二十一年六月二十三日
「かんろだい一つ人間定めてある。何でも一日ある、楽しみある、という事を治めて貰いたい。」
さしづは素直に読むことも大切では無いでしようか。
中に字を差し込むと違った意味になり、我が身勝手の解釈となりやすい。
でもさしづはその時を台にして先の事を言って有ります。意味がわからないように言って有るのです。そして先で分かるように。
高弟の桝井孝四郎が言われてもです。おふでさきのかんろふだいと言うもじは
かんろふたい(甘露婦体)かんろふ大(甘露婦大)かんろふだい(甘露婦台)かんろたい(甘露体)まだ有ると思いますが。
甘露とは天啓の事で婦人の体に天啓が降りる事を伏せ込んで有ります。
天啓で始まった天理教にどうして神様を治め無いのでしようか?
おふでさきにもありますが
このよふをはじめてからにないつとめ  またはじめかけたしかおさめる  と
でも此処に書いておきます。渡邉秀子様 昨年十二月三十一日に安らかに眠りにつかれました。齢九十八歳で今日がお通やです。

210 :天理教H:2019/01/04(金) 20:10:12.40 ID:RgUl2cWNG
>>209
>さしづは素直に読むことも大切では無いでしようか。
>中に字を差し込むと違った意味になり、我が身勝手の解釈となりやすい。

我が身勝手の解釈でなく、史実やおふでさき、おさしづから導き出した解釈です。
後での投稿についての反論は随時載せていきますが、出来れば神之打分場所Mさんの方から人間甘露台が正しい前程としてではなく、
客観的な共通の資料に基づき、根拠を示しながら反論して頂きたい。

>おふでさきのかんろふだいと言うもじは
>かんろふたい(甘露婦体)かんろふ大(甘露婦大)かんろふだい(甘露婦台)かんろたい(甘露体)まだ
>有ると思いますが。
>甘露とは天啓の事で婦人の体に天啓が降りる事を伏せ込んで有ります。

おふでさきの「かんろふたい」の「ふ」は、歴史的仮名遣いで現代仮名遣いに直せば「う」です。
他のおふでさきの語句も歴史的仮名遣いでお書きになっている所があります。
「ふ」を「婦」にする。それこそ我が身勝手な解釈ではありませんか?

211 :天理教H:2019/01/04(金) 23:18:50.53 ID:RgUl2cWNG
>>100
>三尺に六かく  又三十六人とは何でしょうか?
>決して大きさや人数を言われている訳ではなく、雛形としては良いのですが、
>それはあくまでも雛形で有って、伏せこみの言葉でございます。
>36で弥勒です。差し渡し三尺は対辺でも対角でも良し36の言葉が大事な
>ので有ります。つとめ人衆も36人とはならないでしょう。

三尺は三日三夜に宿し込み、三年三月留まった理。六角は人間はじまりの元六台。
36人もつとめ人衆すべてでなく「てをどり」6人6組で36人に当てはまります。
36の言葉が大事でなく3と6が大事なのです。
3は、身につく、三日三夜の宿し込み、三年三月留り、おさづけも三三三、おびや御供も三つ渡されます。
6は、六だいおさまる、6人6組、「六だい一つの理、それより理を始める」、
六台はくにとこたち、をもたり、くにさづち、月よみ、いざなぎ、いざなみのみことです。
実物のかんろだいの形こそ深い意味が込められているのです。

212 :天理教H:2019/01/04(金) 23:21:53.36 ID:RgUl2cWNG
>>102
>楽しまして、たんのう大きい木あるわ。
>>103
>たんのうを木はしません。たんのうするのは人間だけです。

初めに公刊されたおさしづも現在のおさしづ改修版も、「楽しまして、たんのう。大きい木あるわ。」
とたんのうの後ろには句読点があるのでたんのうと大きい木は区切ります。
即ち、普請の段取りをはじめる事により本席を楽しませ満足させなければならないと言う事です。

>大きい木一本では、普請も出来ません。

明治三十九年五月二十ハ日
木と仰せ下さる処、理の木でありますか、又は現場の木でありますかと申し上げ
「一本一本買うて、買おうと思えば大層であるけれど、買うて一寸切ってはつってすれば、十分の木出ける。」

大意
買い足して行こうと思えば大層だけど、大きい木一本を買って切って削っておけば、普請に十分の木が出ける。

そして、それが「一本の木から定約出けたら、一本の木から追々出ける。」先で多くの木を買い入れる事が出来るのです。

213 :天理教H:2019/01/04(金) 23:28:37.03 ID:RgUl2cWNG
>>103
>みかぐらうた五下り目 かうをむすぼやないかいな
             六下り目  ひとつのかうをもみにゃならぬ
>かうとは講では有りません。信者の集まりを指して居るのでなく、買うと言う事です。
>人と人の約束事、条約では無く、人と神との条約で、初代真柱に半ば強引に約束させられたのでしょう。
>みかぐらうたにはっきりと「かう」と書かれて有る事思案して頂きたいのです。
>教祖おやさまは娘であるおはるさんを梶本家へ嫁がせ、孫である新治郎を真柱の真之亮として迎え入れま
>した。これは外孫です。真柱は外から入れるという事を雛形として教えて有ります。

みかぐらうた「買う」とおさしづ「大きい木」、外から真柱を向かい入れた雛形より、外から渡邉秀子氏を迎え入れるという的外れな解釈をしてますが、
現代仮名遣いの「こう」は、歴史的仮名遣いで「かう」であり、もし、「かう」が買うなら歴史的仮名遣いでは「かふ」になります。
だから、「かう」を「こう(講)」と解釈するのが正解です。

教祖伝でも『明治十一年:「講を結べ。」と、お急込み頂いたのは、文久、元治の頃に始まり、早くもその萌しはあったが、
明治十一年四月頃には、秀司を講元とする真明講が結ばれて居た。』とあり、それより前に慶応3年に矢部村講中、七条村講中があったのです。
つまり、教祖のお言葉があり講が出来たのです。そして「結ぶ」は約束ではなく、繋がりなのです。

逸話編にこかんさんの出直しによって教祖の言葉を考え、懺悔して改め、皆が信仰していくために講を結ぶ事(各自の心の動きが勇んで一つになる)
に教祖は大層喜ばれたのです。
そして、真柱を外から入れる事を強調した訳ではなく、心低い母の娘元始まりにいんねんあるお秀の魂をたまへとして、
これまた元始まりにいんねんある教祖に理解があり若い時からこうのうを積んでいた前川の父半七正信の魂を眞之亮、
その二人を夫婦とするため、道具の製造・修理をする鍛冶屋から生屋敷に迎え入れたのです。

そして、六下り目の「かう」は、次の「このたびみえました あふぎのうかゞひこれふしぎ」とあるので「かう」は効能の「効」です。

214 :天理教H:2019/01/04(金) 23:30:54.94 ID:RgUl2cWNG
>>106
>ふでさき九号
>五十五   これをみよたしかに月日ぢきもつの     あたゑしいかりたしかわたする
>六十     そのうゑえひらばちのせてをいたなら     それよりたしかぢきもつをやろ
>六十一   ぢきもつをたれにあたへる事ならば      このよはじめたをやにわたする

五十九 このだいもたん/\/\とつみあけて またそのゆへハ二尺四すんに
このおふでさき一首を抜かしたらいけませんね。

215 :天理教H:2019/01/07(月) 23:03:22.34 ID:6QG6EyUso
まだまだ投稿しようとした文がありますが、もうやめておきます。

>>181
補足として、勘違いするのが、
子が可愛いとか「神というものは、難儀さそう、困らそうという神は出て居んで。」だから、教祖は優しいのではありません。
教祖は這い上がれない子を捨てずに根気よく待つが、我が子を千尋の谷に落とすような育て方をします。
思惑があるので助けるばかりが神ではありません。
教祖伝でも、『刻限々々にお言葉があって、「此処、とめに来るのも出て来るも、皆、親神のする事や。」と。
教祖の御苦労については、「親神が連れて行くのや。」と。』教祖も本席に苦労をさせろと仰せになり、

やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら (1-47)
まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり (1-48)
ほそみちをだん/\こせばをふみちや これがたしかなほんみちである (1-49)
とこれが道です。

道中「紙より薄い物でも、真実積み重ねたら、神が、どんな刃差し向けようがどんな大砲放そうが受けんが、神の自由。これまで説いたる。」
刃を差し向けたその先に真実の積み重ね方によって自由自在の守護があるのです。
しかし、言いかえれば真実の積み重ねが無ければ、神の躊躇はないのです。

一れつハみな/\わがみきをつけよ 月日ゑんりよわさらにないぞや (6-93)

そして、教祖が商売繁盛になると説くよりも「貧乏せ」と仰せになる。
恐ろしいや親神中山みき様。

>>21 基本さんから引用
>地場は独り立ちしてある。。それは信者の献金など一円もいらない。
>悪魔の教え、貧乏せいの天理教は、独り立ちへの道を教え、
>霊元の神の教えPLは、人生は芸術を説き、実は集金ビジネス、野球部は広告塔で、その塔がたおれた。
>神の返し・・いいえ赤衣の悪魔の祟りは、新宗教に降り注ぐ。大教会に降り注ぐ。

216 :神之打分場所M:2019/01/08(火) 22:28:32.01 ID:rHMPuFG5h
>189
>教祖は神の社になってから親神様であり、我が子である人間をたすけたい、成人させ>たいとばかり思う教祖しか存在しません。

教祖は神の社になられてから親神様ですか?教祖は教祖でしょう。
教典に天理王命とじばと教祖はその理一つであると言われますが、それもおかしい。
では教会に祭ってある親神様と教祖をなぜ一つにしませんか。
月次祭で一つ社が無くなればお供え物も少なく出来て、経済的にも助かります。
教祖を親神様と言うのは、中山家を教団の真に持って行く方便なのでは……
明治二十一年一月八日  おさしづ
元聞き分けて貰いたい。
何処其処で誰それという者でない。
ほん何でもない百姓屋の者。
何にも知らん女一人何でもない者や。
それだめの教えを説くと言う処の理を聞き分け。

このさしづを見ても教祖が親神様とは言えません。
教祖は月日が入った神の社です。
このあかいきものをなんとをもている    なかに月日がこもりいるそや     ふでさき
だから神と一体化しているため、神に聞く事も出来れば、神の言葉を伝える事も
出来ます。
でも私的時間もあります。それが鏡池の事件、夫善兵衛に死を願う事件が代表的なものでしょう。
弥勒様に天啓の事について聞いた事があります。
どの様にして出るのかと。曰く「例えば同じ言葉が何回も出て来る。日々に/\/\/
\と。書けば次の言葉が出て来ます」と言う事です。
私の目の前でさあ/\/\/\と出てきた事もあります。
それともう一つ、教祖が何故百姓だったか。
それは百年祭に女が生まれと書きます。それが弥勒菩薩です。
日本語も神様が人の頭を使って造られたという事です。
教祖も百年先の事言うて置けば見えてくると言われています。

217 :天理教H:2019/01/09(水) 00:35:47.65 ID:1bMVFcXsx
>>216
>教祖は神の社になられてから親神様ですか?教祖は教祖でしょう。

このつとめ十人にんぢうそのなかに もとはじまりのをやがいるなり (6-30)
このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり (6-55)
月日よりそれをみすましあまくだり なにかよろづをしらしたいから (6-56)
にんけんをはじめだしたるこのをやハ そんめゑでいるこれがまことや (8-37)
にんけんをはじめたをやがも一にん どこにあるならたつねいてみよ (8-75)
いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や (12-67)
しかときけくちハ月日がみなかりて 心は月日みなかしている (12-68)

これらのおふでさきを見ればおやが誰なのか解るでしょう。教祖自身が元始りのおやです。
明治二十一年一月八日(陰暦十一月二十五日)の何にも知らん女一人云々のおさしづは、「女の処入り込んで理を弘める処」と月日が教祖に入り込む前の状況を仰せになったのです。教祖が月日の社になってから人間から親神になったのです。
社が二つあるのも真ん中は天理王命の神名を授けた地場に対してのもの、もう一つは教祖です。
鏡池の事件は、差し迫った時に自由自在の守護があるひながたであり、夫善兵衛に死を願う事件は教祖を陥れる捏造でしょう。

教祖を親神だと解らなければ教理は何にも解らない。

218 :天理教H:2019/01/09(水) 06:26:33.36 ID:1bMVFcXsx
その教理ですが、教祖が月日の社になり、それが単なる神の言葉を伝える天啓者になるだけと思えば
言葉で聞き取れる限られた期間である考えに至るのです。
実際には元の理で起こった事がもう一度天保九年十月二十六日に起こり、この世を初めているその道中であるからこそ
教祖は永遠に親神なのです。それが他の天啓者と万全たる違いがあるのです。

いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら (7-35)

219 :神之打分場所M:2019/01/12(土) 12:04:39.35 ID:oy+L6yxj2
歴史的仮名遣い、現代仮名遣いはわかります。
分かった上での話しです。
私が神之打分場所へ行った最初の頃、弥勒様は「ふでさきにやまとのしばのかみがたと
と書いてあります。」と言われました。
その後「お爺さんはしばかりに、お婆さんは川へ洗濯に」と言われ、変な話しをするなーと。
そしてしばについて、長く話されました。
事実後でふでさきを調べたら、しばと書いてあります。
やまとのじばと思ってましたが。しばも歴史的仮名遣いでしょうか。
ふでさきは一言一句間違えはないと聞いております。

句読点の問題。私も分かってて句点を消して分かり易く書いて見ました。
おさしづは伊蔵から出た言葉を、高弟たちが編纂したものです。
その時の伊蔵さんでさえも「分かりません」と答えて有ります。
句読点の使い方で意味も大きく変わります。
私のおさしづ本は教祖八十年祭に出版されたものですが、最初ページの凡例に
「教祖五十年祭に出版したものは読点、即ち  、 のみであったが、今度は句読点即ち
    。と  、とを併用した。」と書いてあります。
即ち編纂時も都合により、変更すると言う事です。

220 :天理教H:2019/01/12(土) 19:58:55.19 ID:oC95yHrgP
>>219
>やまとのじばと思ってましたが。しばも歴史的仮名遣いでしょうか。

おふでさきの文字は、特殊文字が用いられている場合があり、
ぢばの部分で「しバ」とおふでさきにお書きになっているのは、第一号 四だけで、他6首はすべて「ぢば」です。

このところやまとのしバのかみがたと ゆうていれども元ハしろまい (1-4)
この「やまとのしバ」が含まれるおふでさきは、第一号 一 〜 第一号 八までは、みかぐら歌の「よろづよ八首」と同じで、
このところやまとのぢばのかみがたと いうていれどももとしらぬ
に当てはまります。つまり「しバ」は「ぢば」に該当します。

>句読点の問題。私も分かってて句点を消して分かり易く書いて見ました。

他の人間甘露台を説いている方のおさしづで「楽しまして、たんのう大きい木あるわ。」と書かれていたのを見たことがあったので、
同じだと思いましたが、
原典から引用して、間違いは仕方無いですけど、例え句読点であっても一字一句違いないようにするのが正しい引用の仕方でしょう。
そこに意図が入り、形を変える事はしてはならない事だと思います。

おさしづ自体、口述を筆録したもの、実際にはそこに句読点があるかないかは解らないでしょう。
句読点あっての読み方も出てきますが、句読点を無しでその文を続けて読もうとする事も読み手の都合により出てくる事もあり得る事です。
だから、おさしづ本の再編集が決まると「こふき委員会」が結成され、元々のおさしづ全巻を総見直して、編集刊行された。
その原典に倣うのが教義、教理を語る上で最低限必要な事ではないでしょうか。

221 :天理教H:2019/01/12(土) 20:06:35.12 ID:oC95yHrgP
>>220
考察

>>212
明治三十九年五月二十ハ日
しばらくして
大きい木買うて欲しい/\/\/\。大きい木、これ買おうと思て居る。けれど、どうもならん。
一本の木やそこらでは、始まらん、何もならんようではあるけれど、一本の木から定約出けたら、一本の木から追々出ける。
買うて欲しわい/\。買うてくれる者あらせんか。

木と仰せ下さる処、理の木でありますか、又は現場の木でありますかと申し上げ
予て話して居る。もう一度始め掛ける。手斧始めすると言うて、楽しまして、たんのう。大きい木あるわ。
一寸一本買うて、買おうと思えば大層であるけれど、買うて一寸切ってはつってすれば、十分の木出ける。
楽しんで居る。どうでもこうでも、高うても、買う者あらせんか。こちらから銭金掛けてくれとも、出してくれとも、言わせん。
可怪しい事言うと思うやろ/\。すれば、何でも年限追うて来るという。大きい木早う買うて欲しいなあ/\/\。
早う買うて欲しい。買うて貰ろて、大きい木ずうと出来たら、楽しみやで/\/\。
どうでもこうでも、年限遅れても、心の済むように、買お/\なあと、たゞ一声買おうと言う事待って居る/\。

教長より買いますと御答え下さる
買うて見せてくれるか。買うてやるか。そんなら待って居る。よかったなあ/\。さあ/\よかった/\。

もし、「たんのう大きい木」を一括りにして人間だとするなら、割書で理の木か現場の木か尋ねているので、
人間なら理の木だと言う事になり、次のおさしづで、理の木を買うといった事になる。
しかし、実際は初代真柱は、普請の為に現場の木だと理解して木を買っていた。

明らかに悟り違いなのに、翌年の明治四十年三月十三日(陰暦正月二十九日)午前八時三十分の百日のおさしづが始まるまで、
それに対してのおさしづがない。
初代真柱の悟りが正しかったからこそ用材の調達が前もって済んで、神殿普請に関する
明確な指示がある百日のおさしづに繋がるのではないでしょうか。

222 :神之打分場所M:2019/01/13(日) 10:54:51.55 ID:CECHl72B0
みかぐら歌も口述で筆録したもので、教祖が書かれたと言うみかぐら歌は無いと
聞いております。
山澤本とか梅谷本とか数冊を編集したもの。
ぢばで間違いないと思いますが、しばもそれなりの意味があります。

おさしづは句読点の問題もありますが、御本部は御本部の立場での解釈、異端は異端での解釈でしょうが異端はもっと大きな意味での天理を望んでいます。
「可笑しい事言うと思うやろ/\。すれば、何でも年限追うて来るという。大きい木早う買うて欲しいなあ/\/\。」
何でも年限追うて来るという。ーーー
何が来るか?人間が来る事です。木は歩いて来ません。

当時の高弟たちは、その時を背景としておさしづを解釈しました。それはそれでいいと思いますが、神はその時を台にして先の事を言ってあります。
後々で意味合いが有るおさしづなのです。
自身の事をも含めて書きますが、私の専修科の先輩も教会長でありながら高所からの
飛び降り自殺、専修科の有名な講師の方も夫婦で飛び降り自殺。
天理時報の出直欄に名前が載っただけで、事件にはなっていません。
我が大教会では無理なお供えの取立てはしてないにもかかわらず、プレッシャーはあります。
それは天理教内における仕組みではないでしょうか。
今の天理教を本来の天理に変えなければならないのです。

223 :天理教H:2019/01/13(日) 19:10:49.40 ID:5m3uhtQnw
>>222
今も教内の方でしたか、ハンドルネームが神之打分場所なので、全く今は関係のない方だと思っていました。失礼致しました。

自立できない依存体制とお供え至上主義や教団の説く一部間違った教理により、不幸になった事例がある事に対しては
心が痛み腹立たしさも感じます。
しかし、それを解決するため人間甘露台を置く事が正しいとは思いません。
それは、現在の天理教のトップを替える事で本来の天理に戻そうとするのは、拝み祈祷の延長上にある
神輿を替える事と何ら変わらないのです。
「いちれつすまして かんろだい」先ず、神から一列を澄ますのでなく、一列から澄ます。その事が大事なのではないでしょうか。

みかぐら歌の原本は発見されてないのは知っていますけど、「続ひとことはなし その2」で
標準本と用字の異なる部分を載せられている写本や私刊本は、どれも「ぢば」の部分で「しバ(しば)」と書かれたものはありません。
教組が「し」という文字を何故お書きになったか、教組が大和言葉でお話になられたように、当時の人々には解る事なのか、
それとも五十音順の順番で母音が同じなので「し」が「ぢ」になる順番を現しているのか、私には解りません。

224 :天理教H:2019/01/13(日) 19:12:11.98 ID:5m3uhtQnw
「来る」ですが
コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%A5%E3%82%8B-474513#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
くる【来る】
1 空間的に離れているものが自分のいる方・所へ向かって動く。また、近づく。
 ?こちらに近づいたり着いたりする。接近・到着する。訪れる。「バスがきた」「留守に友人がきた」「霜のこないうちに取り入れを済ませる」
 ?自分が今いる所を、再び、また以前にたずねる。やってくる。「いつかきた町」「また明日きます」
 ?物が届く。「便りがくる」「ようやく注文した本がきた」
 ?鉄道・水道などの設備が通じる。「この町にはまだガスがきていない」
2 時間的に近づく。ある季節・時期・時間になる。
 「春がきた」「時間がきたので終わりにする」「行く年くる年」
3 事態が進んで、ある状態に至る。
 「もはや救いようのないところまできている」「使いづめでがたがくる」「もともと体が弱いところへきて、
   この暑さですっかりまいってしまった」
4 (「…からくる」の形で)
 ?そのことが原因・契機になってある事態が生じる。起因する。「疲労からきた病気」「倒産は経営の不手際からきている」「信念からくる実行力」
 ?由来する。「ギリシャ語からきた言葉」
5 何かによって、ある反応・感覚・感情が起こる。
 「ぴんとくる」「胸にじんとくる温かい言葉」
以下略

と解説はこれだけあります。つまり、1の空間的に離れているものが自分のいる方・所へ向かって動く。
また、近づく。だけではないと言う事、
このおさしづの用い方は、2の時間的に近づく。ある季節・時期・時間になる。との意味です。

「年限追うて来る」は成って来ると同じ意味です。
それは、誰に頼みはしないけど皆が寄り合って出来て来る不思議な普請です。

225 :神之打分場所M:2019/01/19(土) 10:50:35.89 ID:sNwHs3oJ3
>223
>それを解決するため人間甘露台を置く事が正しいとは思いません。

人間甘露台を置くと言う事は天啓者を置くと言う事、南無天理王命を置き、天理を伺い立てて治めると言う事です。
大西愛治郎は天理本部へ「甘露台は人間である」と言う事を訴えて、相手にされず
天理本道を始めました。
元から御本部は異端とは馴染め無いのでしょう。と言うより、最初から異端と思うのでしょう。
おふでさき八号
にんけんをはじめたをやがもう一にん   どこにあるならたつねいてみよ     七十一
と言われるように教祖は助造事件の針ヶ別所村や水屋敷事件の飯田岩治郎宅へも足を
運ばれています。これがひながたではないでしょうか。たつねいてみよです。
決して天理教の為の天理王命でなく、この世助ける為に天下った天理王命です。
増野鼓雪でさえも、天理に天啓者が居なくなれば、天理教は衰退するだろうと言われてます。

226 :天理教H:2019/01/20(日) 19:11:39.70 ID:0H1UZjc+1
>>225
>天理を伺い立てて治めると言う事です。

たすけでもをかみきとふでいくてなし うかがいたてゝいくでなけれど (3-45)
教祖は、はっきりと伺い立てていくではないと仰っています。
教組が助造事件で足を運ばれたのも親がもう一人何処にあるか訪ねたのではなく、元の理非を明らかにしたひながたであります。
教祖御在世時、飯田岩治郎宅に足をお運びになりましたが飯田宅だけではありません。
水屋敷事件時は教祖は現身を隠されていらっしゃらなくて本席は足を運んでいません。

異端が出るのも内の掃除であり、その水屋敷事件が起こったのも本部がおさしづを用いない(聞き分け出来ない)背景があっての事情、
明治三十年六月三日安堵村飯田岩治郎事情願(事情は神様下がると言うに付将来治め方に付願)にて、
その神意は、飯田岩治郎の事云々でなく、上田ナライトの事、明治二十七年七月、上田ナライトは気の間違いのようになったので、
明治二十七年七月二十八日に「心休ますよう」とおさしづを仰ぎ、実家に帰っていたのを呼び戻しなさいと仰っているのです。
だから、両事件とも八号 七十五のおふでさきを言いえたわけでないのです。

227 :天理教H:2019/01/20(日) 19:14:25.78 ID:0H1UZjc+1
天理教の為の天理王命でないは、賛同します。天理王命が天理教の発展の為なら小さくならざるを得ない。

増野鼓雪先生がそのような事を言っていたのは知りませんでした。真意は解りませんが、
ぢばに天啓者が居なくなれば、皆がぢば中心でなく教会中心となり、天理教は衰退すると言いたかったのではないでしょうか?

史実では、
天理教の教勢100年
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3647/OYS000106.pdf
本席が出直しされ、一派独立してから教勢は大きく伸びています。
不幸な歴史があり、それから数十年後衰退が始まったが、それこそ天理教の発展の為の天理王命と捉えるから小さくなります。
明らかに世の中は、教組が仰った寝ておぢばに帰れる、人が空を飛ぶ、針金がもの言った通りになり、
女松男松の隔てない世界、平等の世界、長寿に向かっています。
天理教の衰退、いやいや世界が発展している素晴らしい事ではありませんか。

228 :天理教H:2019/01/20(日) 19:20:21.82 ID:0H1UZjc+1
大西愛治郎が何故人間甘露台を説いたのかは、自らの身体の異変がきっかけとなり、根拠を求めて原典を研究した。
当時としては、おふでさきも昭和3年に注釈付きが公刊されるまで、実際教祖から直々に教えを受けた人達が会議を重ねた注釈がない私刊本であり、
それぞれ独自の解釈が出回っていた時代である。
大西は、布教に成果があがらずに悶々としていた時におさしづ全巻(私刊本)を手に入れたので、おさしづ研究が主となり、
しかも個人で各史実を調べられる訳ではないので、おさしづに書かれた文言だけで判断した。
それが結果的におふでさきと共に史実を無視した形となった。そして、肝心の「一つの理」が悟れなかった事が誤解の大きな原因だったのでしょう。

しかし、この事柄も教祖がさせた事であり、この大西愛治郎のおふでさき、おさしづの曲解から不敬事件となり、
警察当局が熱心に教義の研究を始めて本部の方へ解釈の問い合わせがあり、
その事柄が注釈付きおふでさきの公刊、おさしづの年次を追って公刊となる旬が訪れたのです。

229 :神も仏も名無しさん:2019/01/20(日) 19:29:33.47 ID:xu37yNdHf
どこに有る?
現に今無いではないか
有るんならとっくにヤっとる

230 :神も仏も名無しさん:2019/01/20(日) 19:41:21.34 ID:xu37yNdHf
「見えます」ってのはね
脳の病気で幻覚が見える人に失礼なの
とんないのとんないの

231 :神之打分場所M:2019/01/26(土) 12:24:01.50 ID:80yyKCjb8
>おふでさき八号
にんけんをはじめたをやがもう一にん   どこにあるならたつねいてみよ     七十一

七十一→七十五で間違えてました。
当時の時代背景を参考に説明して頂き、ありがとうございます。
上のふでさきに類したさしづを書いて見ます。

明治三十一年十月十九日  身上さしづ
親という、もう一人の親という理は大切。
さあ/\順序話すによってよう聞き分けねばならん。
さあ/\親という二代なる子というを前々から一つどうやこうや楽しんで居る、
よいか、一日なりとも休息場へ出て楽しますがよい。
二代一つの理と初め順序の理を夫々、皆々の中こうと治まる。

私は専修科卒業でもありますが、その当時ふでさきを全文墨書で書かされました。
その中にふでさき第六号ー八
このよふをはじめてからにないつとめ    またはじめかけたしかをさめる
とあるふでさきを書いた時 電気が身体の中を走るのを覚え、聞いた事も、見た事も無い思いに晒されておふでさき注釈で確認しましたが、納得出来ませんでした。
神之打分場所へ行って色々納得出来たわけです。
何も論破しようとは思って居ません。事実を語っているだけでぢばを中心とした
天理を、元の神実の神で有る南無天理王命を治めこの世に現したいだけです。

232 :神之打分場所M:2019/01/26(土) 12:47:12.50 ID:80yyKCjb8
平成二年九月十二日  さしづ
この道は又始め掛けたるもう一度
手斧の始めをすると言うて聞かし来て、紋型無き所より始め掛けたる道
教祖中山みきも道のひな形、神の道婦具や。
神が仕込んで使うてきたる。何するも神のする事。神思惑の台を世に出す為に、先に道を歩かせたるぞ。
なればこそ、ひな形道理に見えて来た。
これが確かな参り所。
又始め掛けたる手斧の二せんの道や、一つの印を打ったる神の道
何も知らずに道を通りて到るよに思い居るのは理が違う。
今の時旬、神を世に出す時節到来
この事の分からんようで何ぼ信心致し居るように思えても神の思惑とは一寸違うぞ
なむ天理王命を甘露台と立て上げのふしんや
立て上げて道の宝とせにゃ成らん
天理の宝とせにゃならん
末代までも栄え行く道の宝や治めにゃ成らん
治めなくして宝と言えん。言えるようにと心するなり。

233 :天理教H:2019/01/28(月) 20:40:47.32 ID:i83QjiwFZ
>>231
人が救われるのは、天理教だけでなく、他の宗教でもある事なので、その人が救われればどの様な宗教でもいいと思っています。
また離れるのも一つの方法だと思っています。そこにこだわるほど天理王命は小さい神ではないと思っています。
逆に下手にこだわって自らを責め終わらせるよりか良いと思います。知らなくて結構だと言う事もあるでしょう。

しかし、問題なのは永遠に変わらない元を他に拵える事、教祖から「人の心の理から、どんな神もできるのやで」
とお聞かせてもらっています。その人の言葉を信じるか信じないかは各自の自由だと思いますが、
それを元として人に説く事は私は違うと言いたいのです。
私自身の悟りも間違っている所があるかもしれません。でも元だけは間違わない様にしたいと思っています。
人間を始めた親は、中山みき様以外は、どこにも居ないのです。そしてそのお方は今もぢばにお姿が見えないけど
存命で働いていらっしゃるのです。

そのぢばに据えるのはかんろだい、天理教としては、真柱を芯とする事です。

234 :天理教H:2019/01/28(月) 20:51:36.06 ID:i83QjiwFZ
このよふをはじめてからにないつとめ またはじめかけたしかをさめる (6-8)


「またはじめかけ」の「また」は再び初める。初める「つとめ」、それは、10億年前にこの世人間を創造した事と
天保九年十月から「かんろだいのつとめ」とに分けてます。
この世の始まりを無視して、天保九年十月からの道をつとめではないと言う事です。

明治三十一年十月十九日のおさしづですが、個人の身上伺いであるので、事情をすべて知りえた訳ではないので
少ない情報から推測すると、割書で桝井きく七十四才身上願と書いてます。
桝井きくは、桝井伊三郎の母、伊三郎は、おさしづを悟る第一人者、きくは、八十八歳まで生きてます。
これらの事より、このおさしづを伺っての悟りは間違いがなかったでしょう。

あくまで自説ですが、
「親という、もう一人の親という理は大切。」この親は教祖を指し示し、そして、もう一人の親と仰った訳でなく、
親は、桝井きく、そしてもう一人の親は、桝井伊三郎の父。親思いの桝井伊三郎に対してのお諭です。
「親という、二代なる子という」これは、桝井伊三郎の父が桝井伊三郎の長男「安松」として生まれ変わり、
「二代一つの理と初め順序の理」は、二代「安松」は、桝井伊三郎の父と一つの理(同じ)であり、
それは、桝井家は、桝井伊三郎の父の喘息の身上から母が参って初まったのが順序だったのです。
「ほんにそうやという親大切なる理である。」そのように納得すれば親が大切になり、それが順序の台の順序の理となり、
親であった「安松」をこれからも楽しませなさいと仰せになっているのです。

桝井伊三郎は、教祖から言われてから家で叱ることはしなかったが、理に厳しい人だったので、
子供に対しては厳しく叱らなくてもいいのだろうかの迷いがあったのかもしれません。
そして心得として、このような「二代一つの勤め方」は、一代での勤め方と変わりないと仰ったのでしょう。

235 :天理教H:2019/01/28(月) 20:58:14.37 ID:i83QjiwFZ
それと桝井きくさんが初めておぢばで教祖にお会いになった時に、
教祖は、「待っていた、待っていた。」
と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。
それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、 詣り信心をしておりました。」と、申し上げると、
教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。 おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに。」と、
仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や。」と、
何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。
             (教祖伝逸話篇 一〇 えらい遠廻わりをして)

おぢばには、すべての神様がおいでになる事と教祖は本当の親と強い感激に打たれた桝井きくさんの姿があったのです。

236 :神之打分場所M:2019/02/03(日) 13:52:40.66 ID:OOOqRM+i4
>>233
人間を始めた親は、中山みき様以外は、どこにも居ないのです。そしてそのお方は今もぢばにお姿が見えないけど
存命で働いていらっしゃるのです。


人間を始めた親が中山みき、教祖ですか。
それは違いますねー
おさしづにも有るように、

明治二十一年一月八日
「なんでもない百姓家の者、何にも知らん女一人、
何でもない者や、それだめの教えを説くという処の理を聞き分け。
何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ」

明治二十年十二月六日
「何でもない百姓家の出、女一人十三歳の年より入り込み、誠々々天然自然の道付くという処も聞いて居るであろう。」
どちらも女に入り込むとあります。
月日の社所以であります。本当のこと、納得がいくようにこの天理を知りたいのです。
確かに教祖は子供の頃から人並み優れたものをお持ちでした。
教祖伝には十二、三歳の頃には浄土和讃を覚えられたと書いてあります。
やはりその魂はありました。
神が入り込み月日の社として天理を説かれました。
教えたのは神であり南無天理王命です。
キリストでさえもゴルゴダの丘で「天に在します我らの父よ……」と、キリストの上の神に言葉を発しています。それと同じ事で教祖は神の社であり現人神であり
人間を始めた親ではありません。
その当時の神の代理を務められた人であり、ひながたであられました。

237 :神之打分場所M:2019/02/03(日) 15:11:21.37 ID:OOOqRM+i4
>>233
そのぢばに据えるのはかんろだい、天理教としては、真柱を芯とする事です。

かんろだいを据えるのは石ですか。花崗岩の切石で造るのが本来の目的ですか?
世界一列の心澄ませてから据えますか?
天理の中でさえも澄んで無いのに、世界一列澄ますのは何時になることでしょう。
いつまでも夢の話しでしょうか?
又、どうして真柱様はその存命と言われる教祖殿のお社から落ちて怪我までされたのでしょうか。

明治三十一年七月十四日 夜
どういう話しから伝えるなら、裏は鍛冶屋表は大工、聞き分けば神の守護、
十二下りの止めは大工、これさえ聞き分けたら、苦労したいと言うても出けんが神の
守護、働き分かりたか。

この裏は鍛冶屋表大工というのは、表裏一体と言いまして、ひながたとして鍛冶屋は
梶本家で真之亮(真柱)大工は飯降伊蔵(本席、人足社、天啓者)、この一体を
言われています。
真柱と天啓者の一体です。
当時、信仰としては本席が、天理教の運営としては真柱が中心となって二本路線で
進んできました。
でも天理の中心は神であり天啓者で無ければなりません。そしてぢばとは神の
ふるさとであり昔から言う所の高天原であります。
それを教えるが為、神はぢばを教えました。
神が戻ったあかつきに、子供である我々が「おかえりなさい」と言うのです。
神を中心とするふしんそれがかんろうだいふしんであり、ふしんを行う神を大工にと
例えて教えて有ります。

238 :天理教H:2019/02/03(日) 23:13:52.06 ID:eKigWemnH
>>236
月日のやしろ
「やしろ」は社で、一般的に神が鎮まりいます所を意味する。したがって、「月日のやしろ」とは、
何よりもまず、親神の所在を表現したものと言える。親神が直接この人間世界に顕現され、
人間救済の意志と、それを実現する道を啓示された事実は、「教祖を通して」、ないしは「教祖において」であった。
                                                   (改訂 天理教辞典)
この事によって、誠に、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知ることが出来る。
にんけんをはじめだしたるこのをやハ そんめゑでいるこれがまことや (8-37)
教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親です。

それが解らない人に以下のおふでさきがあるのです。
いまゝでハをなじにんけんなるよふに をもているからなにもハからん (7-55)
これからハなにをゆうにもなす事も にんけんなるとさらにをもうな (7-56)

239 :天理教H:2019/02/03(日) 23:18:50.52 ID:eKigWemnH
同じ質問を繰り返されてますが、その時の背景を述べておきます。
明治二十一年一月八日(陰暦十一月二十五日)のおさしづは、多少学問の素養などもあった頭の良い松村吉太郎先生に
対するおさしづです。だから、その信仰の道すがらを自分の理知によって判断しようとした事に対して
「何にも知らん女一人」「何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし」のお言葉があり、「元五十年前より始まった。」
その道が「この道は、智恵学問の道やない」と仰せになっているのです。
つまり、このお言葉で教祖は人間だと強調された訳ではないのです。

明治二十年十二月六日「女一人十三才の年より入り込み」のおさしづは、文化七年九月十五日、
振袖姿で駕籠に乗り、五荷の荷を持って、庄屋敷村の中山家の人となられた。時に、教祖十三歳であった。
この事を仰っているのです。

そして、イエス・キリストと中山みきが同じだと言われますが、
キリスト教自体、イエスをキリストと言う呼び名に油を注がれた者=神の子という意味が含まれ、
それ故にユダヤ教やイスラム教はキリストと呼ぶ事を否定していますが、父なる神のひとり子として、
この世に生まれた人間である。つまり、人となった神でもあると説かれています。
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、
権威ある者としてお教えになったからである。(マタイによる福音書 第7章)」
イエスは、自分が神であるように振舞い律法の教えを覆しています。そして、一方で律法を守りなさいと仰っています。
条件付きで人々を神の子とイエスは認めていますが、明らかに自ずから神の子(神)と仰り、
信徒も神の子(救世主)だと思っています。神の子だから刑に処せられ、人間が原罪から救われたのでしょう。

中山みきは、自ら神の子だと仰らずに人間は神の子供だと説きます。
明らかに違いがあるのにイエス・キリストと中山みきが同じだと言う根拠をキリスト教の教えから(聖書等)
でもいいので教えてもらいたい。

240 :天理教H:2019/02/03(日) 23:27:06.79 ID:eKigWemnH
>>237
>かんろだいを据えるのは石ですか。花崗岩の切石で造るのが本来の目的ですか?
>世界一列の心澄ませてから据えますか?
>天理の中でさえも澄んで無いのに、世界一列澄ますのは何時になることでしょう。

明治三十一年七月十四日 夜昨朝本席御身上御願い申し上げば、夜深に尋ね出よとの仰せに付願
「かんろうだいも、世界分からんから取り払われた。あれでもう仕舞やと言うた日もあった。
世界どんな事あっても、付け掛けた道は、付けずに置かん。かんろだいはいつの事と思う。
つとめ一条の台にも勤めて居るやろ。皆、話して居るやろ。なれど、何やら彼やら分からん。
どうでもこうでも、かんろだい積み建てる/\。」
親神様がかんろだいをどうでもこうでも積み建てると宣言してらっしゃるではないですか。

>どうして真柱様はその存命と言われる教祖殿のお社から落ちて怪我までされたのでしょうか。

一昨年の夏にかんろだいが倒れ、それから約一年後に真柱様が怪我、それを内だけの問題と見るのか。

日本の異常気象
https://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/longfcst/extreme_japan/index.html
平成30年(2018年)の異常気象の多さ
日本での災害
2017年7月5日から6日 九州北部豪雨
2018年6月18日 大阪府北部地震
2018年6月28日から7月8日 西日本中心の集中豪雨
2018年9月 25年ぶりに「非常に強い」勢力の台風第21号で近畿地方を中心に大きな被害を出した。
2018年9月6日 北海道胆振東部地震

世界各地で最高気温を記録した7月
https://tocana.jp/2018/09/post_18020_entry.html
内も外も隔てなくそれぞれが考えなければならないと言う事です。

241 :天理教H:2019/02/03(日) 23:28:13.05 ID:eKigWemnH
>真柱と天啓者の一体です。

大工は飯降伊蔵本人を指す場合が多いが大工=天啓者でなく、大工は、心の普請、世界の普請をする者です。
十二下り目 三ッ みなせかいからだん/\と きたるだいくににほいかけ
と大工は一人だけでなく複数の人間を必要としています。
真柱様が一人だけ居ても普請は出来ない。そこで大工や棟梁や用木が必要となって来るわけです。

242 :神之打分場所M:2019/02/10(日) 15:13:39.13 ID:w8o16zsdY
真柱様の怪我や身情、かんろうだいの倒壊を地震や異常気象にもってくるのは
少しひねりすぎでしょう。
真柱様もある程度の年齢でも有り、各大教会等へ出向かれて祝宴を催されれば、糖尿や通風にもなりやすいでしょう。
かんろうだいの問題でも、関わった大教会は数千万円のお供えをされたとか。
明治二十四年二月十七日   おさしづ
「かんろだいの雛形破損に付き、木にて新調仕りますや、又は修復致して宜しう御座りますや願い」
さあ/\つくらいにして置くがよい、つくらいでよいで。
さあ/\つくらいにして置くがよい、つくらいでよいで。

このように言われています。こんなもの元へ戻すだけで良いのに数千万円。これが今の
天理教です。そのお金の裏には相当な苦労をしてる人もいるのです。これが今の教団です。末端教会は何時も御用御用で昔の銭形平次ですよ。
地震も昨年は数カ所起きました。沢山の被害者が出られ亡くなられたました。
外国でも大きな地震があってます。
此れはプレートの問題で予測出来る事、出来ない事。
でも最近多くなっていると感じるのは私だけじゃないと思います。
これに対して天理教は、かんろだい倒壊が報せであるならば、それに対して対処出来るのですか?
ただ報せは報せで、待つだけですか?
今度の東京オリンピックを、ある占い師は(東北大地震を当てた人)無いと言われています。それから行くなら我々も皆さま方も気を引き締めて掛から無ければなりません。
天理教を信仰してれば助かると言う保証はどこにも有りませんから。

温暖化の問題、此れは今すぐになったのではなく、数十年前から言われてました。
所謂人災で、文化文明の発達と共に人間が引き起こしたもの、真柱とは関係ないのです
地球全体で考え無ければなりません。又、我々はそう言う中に生かされているのです。
子供や孫の世代に良い世界をバトンタッチしなければならないのです。
悪いことは悪い、良い事は良いとして
すみません、ちょっと意見がそれました。

243 :神之打分場所M:2019/02/16(土) 12:14:05.51 ID:gJaaMWeWV
昭和六十年八月十二日   午後零時二十七分     おさしづ
さあ/\十分働くは心の理に有る
心一つの理と言うが、どれ程大切なるか誰も分からん。
今日の日のさしづと言うは何処から発して居るか。
皆 神の言葉と言う。人間の言うが言葉や更にない。
これまでの道、さあ/\どんな理も出したであろう。
この道と言うは長らくの間通り来て、神一條の道にするまで、ひながた道具も使うて来た。
これも皆一列のためとも言う。先に成りたら真の神の現れて来る日まで長らえさすには
時旬来るまでは、如何なる手段もいといなく、みな/\道具ひながた、これも神で有ればなれこそ、どんな苦労もいといなく続かせて来た。
これも道の為と思えばこそや
早々と心に治めくれたなら道も早くに建つなれど、神の言う事誠やと思うて聞く者
数少なくてずいぶん遅れて来てしもた。
このまゝで天理の道は続く事無し。
先を案じて居たる神。
天の理一つを建て上げな道はこのまゝ枯れて行く。
それも何故、根の元一つが分からずに我が身だけをば栄えさす。
そんな心の持ち方で なんで栄えて良いものか。
根が栄えなば枝葉はそれより先に枯れて行く。
これが天理や理の当然や。それ故に早く悟りを開くなり。
こんな大事な時旬や。今がそれなる時で有る。
天理教徒一列に早く知らせてくれる様、神が頼みや心せよ。
時遅れたら天理失う。これが誠になると言う。

244 :天理教H:2019/02/17(日) 07:40:44.94 ID:CwkQtAK7X
>>242
>真柱様の怪我や身情、かんろうだいの倒壊を地震や異常気象にもってくるのは
>少しひねりすぎでしょう。

しんぢつに神の心のせきこみわ しんのはしらをはやくいれたい (3-8)
親神が心から急きこんでいるのは、一日も早く中心を定めたいという事である。
本教では、おつとめの時はかんろだいをさし、人の時にはこの道の中心になられる方をさし、
心の時には中心思想を言う(註釈)。
先ず、真柱様とかんろだいは、切り離せない関係があり、
そして、真柱様の身上は、個人の間違いより鏡やしきでの間違いを現したもの、それが世界に映る関係でもあり、
そして、またぢばも世界の理が映る関係です。

明治三十年二月一日
「ぢばも鏡なら、世上も鏡、世上の理も映れば、ぢばの曇りも皆映る。」
だからこそ、それぞれが考えなければならないと言う事です。

245 :天理教H:2019/02/17(日) 07:44:48.02 ID:CwkQtAK7X
>真柱様もある程度の年齢でも有り、各大教会等へ出向かれて祝宴を催されれば、糖尿や通風にもなりやすいでしょう。

病気になるのは、生活習慣だけが原因でしょうか。それなら、生活習慣を改善したらいいだけであって、
教祖も食生活や適度な運動を心掛けよと仰ったのでしょうか?
まして、それならたすけづとめやおさづけも要らないでしょう。

このよふにやまいとゆうてないほどに みのうちさハりみなしやんせよ (2-23)
親神様はこの世に病はない、身の内障り皆思案せよと仰ってます。

ぢばで起こる事を世界なみの判断をするなら、かんろだいを石造りにして倒れにくくして、
真柱様の身上も老齢や個人の健康管理の問題だと片付ければ、
>>237
>どうして真柱様はその存命と言われる教祖殿のお社から落ちて怪我までされたのでしょうか。
事柄に対して教祖存命の問題提起する事自体矛盾しています。

まさか屋敷内は教祖存命なら不慮の事故、身上が起こらないと考えてらっしゃるのでしょうか?
教祖御在世時や本席様の時に数々の身上のお諭、事情のお諭と沢山あるでしょう。
おさしづをよく引用されるなら、その中で本席様の時に伺った人の立場による違いによっておさしづが違う事も分かるでしょう。

246 :天理教H:2019/02/17(日) 07:47:27.90 ID:CwkQtAK7X
明治二十四年二月十七日のおさしづを引用してますが、人間甘露台を説かれる立場としては
「つくらい(繕う)」は、むしろ不都合な文言ではないでしょうか?

>これに対して天理教は、かんろだい倒壊が報せであるならば、それに対して対処出来るのですか?

神からの返しはすぐに出る事ではなく、知らせがあってからは、防ぐ事は出来ないのです。
むしろ、先で起こる事に対しての心構えであり、起こった事柄に対して思案をしなければならない。
そして、屋敷内の事は心を入れ替えなければ事柄によって「我が身思案」や「道の中の反対」は掃除される対象です。

>天理教を信仰してれば助かると言う保証はどこにも有りませんから。

教祖は信仰してれば助かると一言も仰ってないでしょう。そこに心と行為が伴い、
釈迦やイエス・キリストも信仰だけしていれば助かると説いてないでしょう。
神之打分場所は自らが本部に治まり信仰してれば助かると説いていらっしゃるのですか?

247 :天理教H:2019/02/17(日) 07:49:51.01 ID:CwkQtAK7X
異常気象を引き起こす地球の温暖化は、人間の産業活動に伴って排出された二酸化炭素・
メタンなどの温室効果ガスが主因となって引き起こされているとされていますが、
その中で二酸化炭素が最も影響が大きいとされています。原因は、非効率的なエネルギー政策、
それ故に各国の京都議定書の批准が進められ、議定が2005年から発効されている。
それは、効率的なエネルギー政策や植林で改善される。

教祖は物を大切にする事を教えられ、本席も将来を考えて物を大切にしています。
それが経済発展を優先させ神からの守護である物を蔑ろにしてきた結果ではないでしょうか。

そして、おふでさきで、
月日よりたん/\心つくしきり そのゆへなるのにんけんである (6-88)
それしらす今のところハ高山ハ みなはびかりてまゝにしている (6-89)
この月日大一これがさんねんな どんなかやしをするやしれんで (6-90)
このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく (6-91)
人間は一列兄弟でありながら、経済発展の為に下の人間を好き勝手に使っている高山に対して意見があると言う事です。

248 :天理教H:2019/02/17(日) 07:52:09.13 ID:CwkQtAK7X
このところ元なるぢばの事ならば はぢまりだしをしらん事なし (7-4)
上たるゑこのしんぢつをはや/\と しらしてやろと月日をもゑど (7-5)
上たるハそれをしらすにめへ/\の わがみしやんをばかりをもをて (7-6)
月日にハたん/\みへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので (7-7)
月日よりそのみちはやくしらそふと をもてしんバいしているとこそ (7-8)
にんけんのわが子をもうもをなぢ事 こわきあふなきみちをあんぢる (7-9)
それしらすみな一れハめへ/\に みなうゝかりとくらしいるなり (7-10)
その上に対して我が身思案ばかりして通っているから恐ろしい道筋があるのです。

たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ (3-40)
このよふのぢいと天とハぢつのをや それよりでけたにんけんである (10-54)
人間は、天地抱き合わせの親神様の懐住居をさせて頂き、日夜親神様の御守護を頂いて暮らしているのである(註釈)。
だから、天災は親神様と関係なくもなくて、そして、その親神様はぢばにいらっしゃるのです。

宇宙は親神様の身体や人間の身体は親神様のかりものと学んでいるのにもかかわらずに解釈として、
親神様と別々に考える方がどれほどいらっしゃるか、道を離れての解釈は自由であってもいいのですが、
天理を名乗るからには、真理が書かれているおふでさきで思案しなければならないのではないでしょうか。

249 :神之打分場所M:2019/03/03(日) 13:46:56.13 ID:9/f6u/Dxn
明治二十四年二月十七日のおさしづを引用してますが、人間甘露台を説かれる立場としては
>「つくらい(繕う)」は、むしろ不都合な文言ではないでしょうか?

>これに対して天理教は、かんろだい倒壊が報せであるならば、それに対して対処出来るのですか?

おさしづは前回にも書いて有りますが、当時の場に対して答えても有りますが、その事を台にして、先の事を言って有るのです。
このおさしづは明らかに現場のひながたかんろうだいの破損の事のみ答えて有ります。
それは文章の中で悟ることが出来る事です。
かんろうだいも、ひながたかんろうだいと、人間かんろうだいと有ると言う事ですが
天理本部はひながたかんろうだいから何も前進してして居ません。
一列澄ましてかんろうだいで、世界を澄ませてからかんろうだいですか?
何時になる事でしょう!
石でつくることが本来なら、もう道は百年過ぎてるわけですから、ひながたで無く
本来のかんろうだいを据えるよう、御本部へ依頼して下さい。
そうすれば教理と信仰が一体化して、現在下向きの天理教も少し喝が入るのではないでしょうか。
どうせ数千万円かけての模様がえなら、そちらの方が実が有ったのではないですか。

250 :神之打分場所M:2019/03/17(日) 10:58:18.05 ID:grsCHUmqE
昭和六十四年一月五日   午後三時三十三分
さあ/\因縁事情理にかなわん。
理と言うは神より外に更に無し。
誰にても神の理 しりに敷きつめて、何故神にかなうまい。
よう聞き取りて思案せよ。
神の名わなむ天理王命なり。
何がため天理の道、神之打分場所まで継がせたるか、時旬以って神が人間(にんけん)
姿を現わす教え、前々のふでさきさしづみかぐらの歌にしっかり伏せ込んだ証拠確かに残したる。
その中もう一度さらい直すも道のため。
天理教徒一列良く調べるも義務の一つや。
この神はあしきな事は言わんでな、言うたる通りの道付けて皆に見せるも神の義務なればこそ あくどい程も諭す神。
誰の心も同じよに一つに揃えて神のさしづにしたがい行くよう。
この道は神の思惑深く有る。
古いもの古い理埋もれたるというは、よう聞かな分からん。
めん/\が我が身勝手の心を出して我が身よかれの道歩く。
そんな事では天理と言えん。
正しい天理を通るには、神のさしづのまゝなるぞ。
諭した通りの道通れ。
さもなくば何ぼ天理通りましたと言うたとて正しい天理は通りて居らん。
何時の日も神は見ている見えている。
しっかりせねばならぬ事ぞや。
人の心の真実をこけに致して何とする。
そんな事やで良い事おこらん。
今に見ていよ見える不思議や成らぬ内より言うて置くぞや。
これが見えたら神と思えよ。
神の言う事千に一つも違う事無し。

251 :神之打分場所M:2019/04/13(土) 11:16:01.32 ID:gZHTpT70X
昭和五十三年九月八日 午前七時三十五分    おさしづ
さあ/\正月二十六日というて三十日と日をきりて送るも神の心からとてと、のこしおいたるこれなるさしづも、よう聞き分けよ。
神の思惑と言うは その時ならば見えてくるなって来る。
これみな神ののこした、さしづ通りや。
それまでに
二二の二の五つに話しかけ    よろずいんねんみなとききかす
と 歌を出しその通りになって来たであろう。
古き魂因縁あるからその通りよろづいさいを歌で説き諭しいるであろう。
神のさしづというは前々より見えぬ先より説きおいて、神の定めたる時旬ならば必ず
そのようになって来る、それで神が一度いうておいた事みなその通り見えてくる、
なって来る。
一列が目の前になって来た理を目に見てしかと得心するがよい。
神のさしづというものは、何一つとしてうそはない。
うその事なぞいうてはおらん。
その通り見えて来たであろう なって来たであろう。
神たるが昭和五十一年三月十五日より歌を出し、天理の道のようだい教えつゝ一列の心
の澄むように、といてさとしている程に、神の言う事分からぬとあるなら、真実の心を持って尋ねでよ。
天の理を受けたる親がしっかりと、といてさとする又尋ねくるなり。
これ天の言葉やしかときくなり。

一寸はなし正月三十日とひをきりて   をくるも神の心からとて<1ー39>
二二の二の五つにはなしかけ   よろついんねんみなとききかす<3ー47>

明治二十二年三月十日
さあ/\正月二十六日と筆に付けて置いて始め掛けた理を見よ。
さあ/\又正月二十六日よりやしろの扉を開き世界ろくじに踏み均しに出て始め掛けた
理を……

252 :神之打分場所M:2019/04/27(土) 09:01:36.54 ID:Xks0DxUjK
昭和六十四年一月四日   午前十時二十九分
さあ/\諭しと言うは何ぼうでもする、なれど聞き分け無いのが神の残念。
さあ/\たった一つの天の理と言うは、こらどう言うもの、これをしっかり思案して見よ。
誰もが天理通りました、通りて居ると言うて居るが、たった一つの天の理分かろうとせず、又その道に出ようともせず、天理しっかり通りましたと言えはせぬぞや。
天理とは、めん/\一人々々の行い通り言うた通りに、なって来るのが天理なるぞや。
誰にても我が身勝手なふるまいばかり。
口からはき出す言葉とて、すきすっぽうな事ばかり、我が身よかれを言いよるなれど、
言うた通りが我が身に返る。
この事も前々よりに教えてある。
人の心と言うものは誠に以てうたがひ深いものなるぞと説いて残した言の葉どうり、
素直になれぬ者ばかり。
たった一つの天の理と言うわ、何を指して言うべきや。なむ天理王命なるぞや。
今度は神は表に現れた、神之打分場所に住居(すまい)して居る。
鎮座まします。これこそ古元(こもと)と言う。
甘露台と言うわなむ天理王命に付けた位や、良く思え。
現し身一つを目に見せて、よろづいさいを説く神や仏なるぞや。
頭(かしら)一つになむととなえ天理王命と神名呼ばすもこのためや。
なむ天理王命とは二神一体成り申し一人の人間姿で現れて、天理の為に働きをする。
これこそ今までハ天理の道に無い人間(にんけん)をこしらえた現れ出るのハ今始めなり。
誰にても分からぬ事が有るならば早く尋ねて神名呼び出せ。
ここが古元であるを教える。
必ずと尋ね来る日を待ちて居る祖社(そや)。
素直になるのが身の為なるぞ。これも一言説いて置くぞや。

253 :神之打分場所M:2019/07/14(日) 09:22:04.69 ID:z+q7Ygzta
昭和五十四年五月十日午前零時四十五分      おさしづ
さあ/\/\だん/\事情一つに取って思案せ
神と言うは難儀さそうと思うたことは一度も無いで。
これからと言うはよう聞かにゃ分からん。
道と言う、さしづと言う、道にさしづないげなと世上に聞こえたらなんとする。
そんな事でこの道通れると思うか。
世の中そんな甘いものでは更に無い。
嘘は嘘だけ直ぐに剥がれる。嘘に美味いものなぞ有りやせん。
道と言うはさしづ通りのこの道や。
神のさしづどうりに通りて見よ。
かならずほんになあと言う日が有る。
なって来てこそ天理やで。
どれ程人間心はびかれどそんな事したとて何もならゃせん
なんぼ神にはむかえど、はむかえばはむかうだけの理が現わろる。
真実誠の心で神にそうたなら、どんな時でも通れるなれど、添えぬとあらばぜひも無い
神の自由用も受けられぬ。
そうなったら何とする。
道は後になっても立つなれど、人間は神のかしものや
命は神がかして有る。
心次第で引き取りもする。
そのようになってしもては生きられまい。
たれがどのよに言うたとて思うようには成りやせん。
神の力がともなわな何も出来る事なぞ一つもないで。
これから先と言うものは一列その目で見るが良い。
かならず今に分かる日、来るとさとする。

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