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仏教議論スレッド

1 :神も仏も名無しさん:2016/07/17(日) 20:05:44.01 ID:R2kBW57c.net
仏教に関連するカテゴリ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99

141 :123:2016/11/28(月) 10:15:50.66 ID:OnJA3VlD.net
136.
バカ、無明を否定したものが悟りである。
問題は、どのように否定するか、の問題である。
単純に無、と言っても否定したことにはならない。
その無の先が問題となる。

142 :神も仏も名無しさん:2016/11/28(月) 10:18:01.67 ID:2zAYhSg3.net
否定しなくていいって。作為だそれ。無為でいい。
〇〇の先は〜、って頭の中で先々まで作ってるだろ?
それ止めたらいいだけ。

143 :123:2016/11/28(月) 22:32:44.09 ID:ILhN0yZc.net
141.
無為、か。
それはバカ丸出しである。
そのバカになる修行しているのがバカである。
なんでか。
内容がないからである。
内容があると、分別智だと、非難することになる。

144 :童天:2016/11/28(月) 22:35:55.67 ID:xVpu4ODv.net
何言ってるか分からねえけど、無理しないようにな
馬鹿丸出しに他人から見えても、当人は楽かもよ?
内容がないなら、その中身の心配しなくていいんだよ。

145 :123:2016/11/30(水) 07:14:17.03 ID:AY1Io6aQ.net
無になりきっているバカもいる。
それは考えなくてよいから楽である。
寂滅依楽か。
それは単なる通過点であるよ。
その通過点に、止まっているから、バカ扱いとなる。
そこがゴールではないからである。

146 :神も仏も名無しさん:2016/12/07(水) 02:41:28.04 ID:uuKyOrte.net
>>133
>元々は「我執を離れなさい」という説法で「私が無い(無我)」ではない。 合掌

違うよ
「我執を離れる」とは「私と思ってる拘りを捨てる」って事だよ
拘りを捨てて捉われなければどれを「私」と呼ぶのかな?
元々私なるものなんかどこにも無いんだよ
つまり、我はどこにも存在してないって事
これが分からないから無我が分からんのよ

我とか私とかは結局「思い」が勝手に作って付けてる名称に過ぎないんだよ
名称を付けるその思考を手放したら自分も自己も認識出来ない筈だよ
意識がハッキリしてるから、それに騙され惑わされて「無我」を悟れない訳

所謂我々が思っている「我」とか「私」なる概念は心が心として、思考として起こしてる現象に過ぎない
そういう現象の事を「法(ダンマ)」と言うんだが、その法自体が所謂「自分」と呼んでるその実感の事なんだよ
ただの実感、感想に過ぎないものを「実有」だ存在してるだと拘ってるに過ぎないのさ
そう言うのを法見と言い、法見を起こす人は仏見も起こすから一闡提と言われ

改心出来るまでは絶対悟れないんだよ

147 :神も仏も名無しさん:2016/12/07(水) 03:11:57.26 ID:uuKyOrte.net
>>132
>>己を観察せずにどうして「現象界」なる明後日の方が観察できようか
>>己こそが現象界の全ての始まりだと言うのに、君はどこを向いてんのかな

>無明から始まる十二縁起のことだろう。
>無明を離れれば「現象界で観察されるすべての物は我に非ず(アナッタン)」と観じて我執を手放す。

それで解るなら簡単で良いよね
でもどうして「現象界で観察されるすべての物」と
己の外を対象にしちゃうのかな?
それを「外道」って呼ぶんだけどね
己の対象は己以外に求めちゃダメなんだよ、惑うからね
仏道の学問に「唯識」ってのがあるんだが
端的に言えば「森羅万象は唯、識に依るのみ」となる
識は意識とか認識とか識別とかでも良いけどつまり、認識出来なきゃ有無も問えませんよ
って事
唯識は学派の一つなんだけど、実は仏教全般がこの唯識根底と言っても過言じゃない
所謂、眼耳鼻舌身意が、これらの対境(色声香味触法)を知覚するのは全て識だ
識なる作用=法がちゃんと機能しててくれてないと森羅万象もヘッタクレも無く
そもそもその識も一時起こってるリアルタイムな現象に過ぎない
しかも、実在してない、が、無と言う訳でもない

みたいなw

148 :神も仏も名無しさん:2016/12/09(金) 01:08:25.71 ID:1Nkg7NOB.net
>>147
識(意識)は無常である。無常なるものは苦である。
苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。
まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。

雑阿含経ではこう説いている。
また、同じ雑阿含経の中でこうも説いている。

無明をあますところなく滅することによって行は滅する。
行を滅することによって識は滅する。

そんな無常であり、苦であり、無我である識なるものを法とするのはどうなのであろうか?
無常であり、縁起による現象であることは君も最後に書いてはいるが、その先がないよね。
結局、君も識を法として良いのかどうか迷ってるってことはない?

唯識の阿頼耶識も同様で空であるから自性はない。
なので阿頼耶識も根拠にはならないし法でもない。

もう一つ言えば、最初に上げたブッダの「かくのごとく、正しき智慧を持って観るがよい」というのもおかしいのである。
「正しき智慧」や「観る」ということ自体、無常であり苦であり無我であるから。
「正しき智慧」という思い込みが「無常」であるというのがブッダの教えではなかったのかw

更に言えば、ブッダはスッタニパータの記述によると「『わたくしはこのことを説く』ということがわたくしにはない」と述べている。
「かくのごく、正しき智慧を持って観るがよい」というのは明らかに「このことを説く」に当たっているのだが、
信者に言わせると対機説法なのでこういったダブスタも許されるらしいw

149 :神も仏も名無しさん:2016/12/09(金) 11:49:29.25 ID:sIPARIrX.net
正しき智慧というのは無明がない状態なんだから
無明がない状態で観たまんまだよって話なんじゃないかな

150 :神も仏も名無しさん:2016/12/09(金) 12:08:58.91 ID:sIPARIrX.net
書いてて思ったけど、本当に説明になってないね、これ

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