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☆★『幸福の科学』統合スレッドpart823★★

1 :パコパコ・レオくん:2016/06/29(水) 02:59:25.06 ID:Yjp+fRnL.net
アマミちゃんのお気楽にもほどがある日々
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奄美のアマミちゃんお気楽ブロク@しおみつたま
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【我らの女神・アマミちゅわん】

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幸福の科学/HSガンちゃんとレオのブログ
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【エル・カンターレも大絶賛】

幸福の科学SNS、三人の如来たち!!


ぽん吉のなりすまし被害は多数おり、

ソフィアがあまりにぽん吉と類似性を持つことを指摘する

証言・証拠も多数あるにも関わらず、

ぽん吉からは複数証拠への反証は全く無い。

また当方も当方の周囲も以前からぽん吉が変名やなりすましをしているのを

多数目撃している。

ぽん吉とソフィアの類似性はあまりにひどいもので、

これを他人とするのはお粗末にも程がある。

またここには出ていないが、数年前オリジナルのソフィアのブログに

「ぽん吉が自分のなりすましをしているがどういうつもりなのか」

などと困惑する記述があったことを知らせておきたい。

ぽん吉はいい加減に無駄なあがきを辞めた方が良い。

複数ブロガーを匿名で誹謗中傷するのは気持ち良いかもしれないが、

仏弟子として少しは恥を知ってはどうだろうか。

レオ氏の本記事がアップされてからのぽん吉の反応がすべてをあらわしている。

本当にぽん吉とソフィアが別人ならばいくらでも反証の方法はあるのに

一切することなくひたすらレオ氏を揶揄中傷するばかりである

http://gunleo.seesaa.net/article/438445647.html#comment

*************************
レプオぉぉぉぉぉ!!
気張りやぁぁぁぁww

611 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:10:11.27 ID:QASuBLmM.net
:神も仏も名無しさん:2016/03/27(日) 16:13:38.65 ID:JcwGhOui
 [中巻]は、本来[下巻]として予定していた原稿の前半部に当たる。分冊の予定ならば、数ヶ月間発刊時期を早められたことを、お詫びしておきたい。
 簡単に言うと、第五章の内容は、[獲得した智慧の再認識]だ。第六章では、[愛の歴史]を振り返る。基本的に、その他の章構造は[上巻]と一緒である。
 また、本書では、「検証」のコーナーでのみ、「ですます調」を用いた。現代的な事柄に対し断定口調を用いるのは、やや礼儀に反するかと考えたためだ。
 そして、参考文献の表記は[上巻]よりも厳密にしてある。
 さらに、一部レイアウト等の調整も行っていただいた。
 多くの方の協力に感謝をしながら、真心を込めて本書を送り出そう。

 2015年11月7日
                       大川真輝

目次

『大川隆法の“大東亜戦争”論[中]』発刊に寄せて       1

まえがき      2

第五章 日本軍の失敗とその教訓
通史  @ ミッドウエー海戦     12
    A ガダルカナルの戦い     16
    B サイパン陥落と各地の戦い     18
大川史観 日本敗北の原因    22
人物伝  山口多聞    120
検証    「従軍慰安婦問題」    128 

第六章 大東亜共栄圏の志
大川史観 独立を果たしたアジア諸国    160
人物伝  チャンドラ・ボース    236
人物伝  今村均    248
人物伝  杉原千畝    256
検証  [安倍談話解剖]    272

あとがき  308
引用書籍  312

第五章   日本軍の失敗とその教訓

第五章   日本軍の失敗とその教訓

通史   @ ミッドウエー海戦   1941−1942

612 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:11:07.66 ID:QASuBLmM.net
 大東亜戦争の作戦第一段である南方作戦を成功させ、日本軍は開戦より数ヶ月間、東南アジアを破竹の勢いで進撃した。
海軍軍令部は、次の第二段作戦として、東南アジアから南太平洋方面に進出し、[オーストラリアとアメリカ間の海上交通を遮断する]という構想を立てた。
しかし真珠湾攻撃を成功させた連合艦隊司令長官・山本五十六は、ハワイより北西にあるミッドウエー諸島への攻撃を提案した。
この構想も真珠湾と同じ奇襲作戦で、最終的には、ミッドウエー諸島の占領を目標にしていた。
 流れとしては、はじめにミッドウエー島の基地にいる米航空部隊を殲滅する。
そして、そこに米空母機動部隊を誘出し、撃沈を狙うという、[日本の空母機動部隊が陸戦と海戦の両方を行う]高度なものだった。
これには、[索敵が十分に出来ない敵地に日本の空母機動部隊を投入し、艦隊決戦を行うのは危険が大きすぎること]などを理由に、もともと海軍内部からも反対の声が大きかった。
しかし、1942年4月18日には、米空母機動部隊によって日本本土が空襲(ドーリットル空襲)を突如受ける。
驚いた上層部は、方針転換の末、ミッドウエー作戦を承認し、二度と本土空襲がないことを期待した。
山本も大きな責任を感じ、それ以降[関東地方の気象はどうか]と、作戦地域よりも東京の天候、空襲の可能性ばかりを気にしていたという。
同年6月5日、日本の南雲忠一中将を司令長官とする第一航空艦隊は、ミッドウエー基地への第一次攻撃を開始した。
ところが、米軍の航空機のほとんどは、空に退避していた。
そもそもアメリカ側は、暗号解読の結果、日本軍の攻撃予定日と配置を完全に把握していた。
また、米空母機動部隊は、ミッドウエー島近くに待機していた。
もはや奇襲作戦ではなくなっていたというのが、実際のところだったのだ。
 第一次攻撃で十分な戦果を挙げられなかった日本は、基地への第二次攻撃に臨もうとして、航空機の装備を魚雷から陸用爆弾へ転換するが、その途中で、偵察機から敵空母発見の連絡を受ける。
山口多聞少将は“陸用爆弾でもかまわない”と、ただちに出撃することを進言するが、南雲はそれを却下。
魚雷への再度の兵装転換を命じる。
432

613 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:12:05.42 ID:QASuBLmM.net
:神も仏も名無しさん:2016/03/30(水) 06:58:55.07 ID:28uoWWBL
魚雷への再度の兵装転換を命じる。
しかし、その間に日本空母は、米航空部隊の空襲を受ける。
 そして、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」は甲板に爆弾を積んだ戦闘機を並べていたところを爆撃され炎上、その後、沈没した。
残った「飛龍」を山口が率いて、猛烈な反撃を行い、米空母「ヨークタウン」に損害を与えるも、ほどなく「飛龍」も海中に沈んだ。
やがて、戦艦「大和」でミッドウエー島に向かっていた山本が、艦隊全体に撤退の命令を下した。
 空母四隻を失う、日本軍の決定的な敗北であり、これ以後、日本が勝利を手にする可能性は急速に薄れていった。

通史   A ガダルカナルの戦い   1942

 「ミッドウエー海戦」に敗れた日本軍は、アメリカとオーストラリアの連携を遮断するため、オーストラリア付近北東部にあるガダルカナル島に飛行場を建設していた。
しかし、1942年8月、米海兵隊約1万名が上陸し、飛行場を奪われてしまう。
そこから、日本軍の島奪還のための泥沼の戦いは始まった。
 当初、日本軍は、ガダルカナル島には、数千名の米軍しかいないと誤認していたため、ほんの少数の部隊しか送らなかった。
この先遣部隊は、すぐにほぼ全滅状態となった。
日本軍は続けて川口支隊(約五千六百名)や第二師団(約一万七千五百名)などを投入し、戦局を打開しようとするも、戦略上有利な高地を押さえられ、ジャングルを切り開かなければならず、進軍中に遭難することさえあった。
また、米軍が輸送船団への攻撃を繰り返したため、ガダルカナル島に上陸した兵士の食糧や武器・弾薬が不足し、戦いは困難を極めた。
さらに、マラリアも蔓延し、その様子は「餓島」(ガダルカナル島は略して「ガ島」と呼ばれていた)とも称された。
実際にこの戦いの死者の大部分は、戦闘ではなく、飢餓や病気が原因だった。

 こうした流れの中で海軍は、ガ島奪還を支援するためにアメリカと三回に及ぶ大きな海戦を行う。
その第一次ソロモン海戦では勝利し、第二次、第三次ソロモン海戦では米空母「ワスプ」の撃沈や同「エンタープライズ」の大破などの戦果もあったが、肝心のガ島奪還にはつながらなかった。
結局、損害は増える一方で、制海権・制空権も取り戻せず、ガ島の陸軍への補給には失敗した。

614 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:13:20.18 ID:QASuBLmM.net
この海戦以降、ガ島への補給は困難を極め、12月の御前会議では島全体からの撤退が決まる。

通史   B サイパン陥落と各地の玉砕   1943−1944

 ガダルカナル島撤退の後、山本五十六司令長官は、南太平洋の島々にある前線基地の将兵へ激励を行った。
しかしその移動中、日本軍の暗号を解読し、経路と予定時刻を把握していた米軍に航空機ごと撃墜された。
そして徐々に、アメリカはソロモン諸島やニューギニアへ攻め込んでいった。
日本軍も必死の玉砕をしてまで抵抗するも、やがて、日本軍の戦略要地だったラバウルを包囲するように米軍による島嶼の攻略は進む。
日本海軍は1944年2月にラバウル基地を放棄し、撤退を決めた(なお、今村均大将率いる陸軍の守備隊は、終戦までラバウルを守り抜いた)。
次にアメリカは、マリアナ諸島への侵攻を開始する。
 日本は、1943年9月の御前会議で絶対国防圏(本土攻撃を受けないために防衛することが必要不可欠な範囲)を設定し、その中核であるサイパン島にも守備隊を置くことを決める、
直接、日本本土を空襲することが可能となる、サイパン島をはじめとしたマリアナ諸島は重要視されていた。

 1944年6月中旬、マリアナ諸島に侵攻する米軍に対し、戦力の少ない日本連合艦隊は、米航空部隊の行動圏外から攻撃を仕掛け、反撃される前に帰還する「アウトレンジ作戦」を行った。
しかし、日本の航空部隊は米軍のレーダーに捕捉され、その多くが撃墜された。
艦隊も潜水艦や爆撃機の攻撃をうけ、空母三隻が沈没した(マリアナ沖海戦)。
 マリアナ諸島へは、中国大陸に駐屯していた陸軍部隊を守備隊として派遣した。
しかし、サイパン島では十分な陣地を築くことが出来ず、水際で敵軍を殲滅する作戦を重視したため、米軍の上陸前の空爆や艦砲射撃によって、無駄に兵力を減らした。
6月15日には、米海兵隊がサイパン島に上陸した。
島中央部では、地形を利用したゲリラ戦法により米軍を苦しめるも、7月7日、ついに守備隊は万歳突撃を行い玉砕した。
これにより、絶対国防圏は破られ、米軍航空機による日本本土への爆撃が可能となった。
なお、サイパン玉砕 の際、民間人がアメリカの捕虜になることを恐れて海に飛び降りる事例が発生し、そこはバンザイクリフと呼ばれた。

615 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:15:48.37 ID:QASuBLmM.net
:神も仏も名無しさん:2016/03/30(水) 07:11:38.15 ID:28uoWWBL
 サイパン玉砕以前にも、ソロモン諸島や、アリューシャン列島のアッツ島など、連合軍にそれなりに損害を与えた戦闘はあった。
いずれも、地形を利用して陣地を築き、空や海から来る圧倒的な量の砲爆撃に耐えて抗戦したものだった。
グアム島、テニアン等などでも、事前の備えを調え、アメリカの上陸部隊を苦しめたが、結局は玉砕する結果となった。
 また、フィリピン方面でも敗北が続く。
大本営は、マレーの虎・山下奉文陸軍大将を呼び寄せ、ルソン島での決戦を計画したが、1944年10月、マッカーサーがレイテ島に上陸すると、決戦場を同島へと作戦変更。
山下は反対するも却下され、レイテ島での決戦を強いられた。
結果、多大な損害を出して撤退することとなった。
こうした戦略ミスもあり、勝機を失った。
連合艦隊も残る戦力を投入し、陸軍支援のため、米軍とレイテ沖で海戦を行うが、戦艦「武蔵」をはじめ、多数の戦艦が沈没し、敗北した。
このレイテ沖海戦が連合艦隊の最後の海戦となり、この時点で大東亜戦争の勝敗は決したと言える。

616 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:16:37.44 ID:QASuBLmM.net
歴史の真実   大川史観   日本敗北の原因

 [中間]の冒頭から心苦しく思いながらも、本章は余り景気のよい章ではない。
いかに“大儀”の正しさを語ったところで、戦の結果として日本は負けた。
それは否定することの出来ない事実である。
そこから目を背けてしまっては、次なる成長はない。
 実は、大川隆法総裁が「大東亜戦争」の話を用いられるのは、その半数以上が「失敗の研究」という側面からだ。

 戦争に関しては、「なぜ、あるものは勝ち、あるものは負けたのか」という点を、もっと分析する必要があるのではないかと思います。
                      『奇跡の法』

 薄々お気づきだとは思うが、各章史観の長短は、大川隆法総裁が著作の中で、“言及された箇所”の分量と比例する。
本章が長めとなるのは、その指摘の数が多いからだ。
 さて、一般的に日本軍敗北の原因としては、「精神主義」のみを重視したことがよく語られる。
 日本で最初に出来た「大兵団運用のための教令」に、「統帥綱領」がある。
これは、方面軍司令官と軍司令官のために、統帥に関する要領を示したものとされる。
要は、将軍のための教科書だ。
 具体的には、日本の参報本部の智慧を結集し、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の教訓を取り入れ、「兵学的にはいろいろな方法があるが、日本軍はこの方法で戦う」という方針を示したものだった。
(大橋武夫著『統帥綱領入門』PHP文庫 173頁
 その中には次のような記述が見られる。(傍線は筆者)

 最近の物質的進歩は著大なるをもって、みだりにその威力を軽視すべからずといえども、勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること、古来変わるところなし。
ましてわが国軍にありては、寡少の兵数、不足の資材をもってなおよく前記各般の要求を充足せしむべき場合僅少ならざるをもって、特に然り。

            大橋武夫著『統帥綱領』(建はく社)356頁

617 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:18:37.47 ID:QASuBLmM.net
:神も仏も名無しさん:2016/04/07(木) 14:37:03.63 ID:ypo30vMt
 確かに、日本軍は“物質的進歩”よりも、“精神的要素”を重視する旨、強く述べられている。
孫引きにはなってしまうが、この「統帥綱領」の“精神主義”には、「野戦軍レベルの考え方が高等統帥に参与する軍人の頭を拘束して、これを相似的に拡大したものが、あたかも軍事戦略であるかの如き錯覚を与えてしまった」
(岡崎久彦著『戦略的思考とは何か』中公新書87頁)との指摘もある。
 さらに、日米の物量の差、補給能力の差は、いまさら語るまでもない。
戦史研究家の三野正洋氏によると、当時のアメリカと日本の国力の差は、
「人口は二倍、国土面積は十五倍、国民総生産GNP十二倍、一人当たりの所得十八倍、
石油生産量(輸入を含む)三十二倍、船舶の建造量七倍、自動車の製造数五十三倍」などとなっており、
総合した国力の差としては、十〜五十倍程度であったとする研究結果が示されている。
        (三野正洋著『[図解]日本軍の小失敗の研究』ワック 7頁)
 1940年のアメリカのGNPは約千億ドル、日本は約九十二億ドルで、比率では十・九倍の差があった。
1941年には、その格差は十二・七倍へと開いていた。
         (森本忠夫著『魔性の歴史』光人社NF文庫385頁)
今で言うと、アメリカを相手にブラジルやスペインが戦いを仕掛けたようなものだという声もある。
ただし、日清戦争・日露戦争の際もGNPの差は大きく、それが有効な規準となるわけではない。
 だいたい、この「精神主義」と「物量の差」によって、日本は敗れたとされるのが一般的だ。
 必ずしも、それは間違っているわけではない。
ただし、“それだけではない”とするのが大川隆法総裁の立場である。
 上手にまとめられるかは分からないが、大川隆法総裁の視点をいくつかに分けて紹介したい。

618 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:19:38.31 ID:QASuBLmM.net
@ 戦略思想の問題

奇襲戦法ばかりを学ぶ

まず日本軍失敗の第一として大川隆法総裁が挙げられるのが、「戦略思想」の問題だ。
特に、「奇襲戦法ばかりを学んだ」という側面。
確かに、日本軍人の大戦回顧録を読むと、所属する対の作戦行動を、もはや歴史的物語の範疇に入る「鵯越」や「桶狭間」にたとえている場合がほとんどであることに驚かされる。

「鵯越の逆落とし」とは、“源平の合戦”のクライマックスの一つの「一の谷の戦い」における故事である。
源義経は、源氏の側に登場した軍事的天才の一人であり、常人の思いもよらないような奇策を得意とした。
 「平家物語」などの次のようなシーンを覚えている方も多いだろう。
 現在では神戸市須磨区に当たる「一の谷」という、山が海に迫っているような地形で源平の衝突が起きたことがあった。
源氏側は、義経が指揮を執っていた。
 平家は陣を山の下の「一の谷」に張っており、地形の裏に当たる山の側面はまったく警戒をしていなかった。
しかしその山に至るまでには、鵯越という山路があった。
 鵯越は、人も馬も通れないようなひどい道だと聞いた義経が、現地の人へ「その道を鹿は通れるのか」と問いかける。
そして、「冬場には鹿は道を通れる」と聞いた義経は、「鹿がいける道を馬が通れないはずがない」とし、難路を進むことを決意する。
 やがて平家の陣の裏側に、精鋭七十騎を引き連れた義経が登場し、断崖絶壁を馬に乗って駆け下りる「逆落とし」を敢行する。
山の下に陣を張っていた平家軍は、山の上から奇襲を受け、陣に火をつけられた。
実際は数十騎の奇襲だったにもかかわらず、大群が襲ってきたと勘違いした平家軍は散り散りになって逃げていったとされる。

 日本軍が戦争中に勉強していた兵法は、義経の「鵯越の逆落とし」をはじめとする奇襲攻撃、すなわち電撃戦で勝つようなことばかりでした。
 信長の「桶狭間の奇襲」もそうです。
本当は、十倍の敵に勝てるはずがないのですが、雨が降ったため、今川軍が休んで弁当を食べているところへ奇襲をかけて勝ったわけです。

619 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:20:22.03 ID:QASuBLmM.net
:神も仏も名無しさん:2016/04/07(木) 14:48:21.46 ID:ypo30vMt
 日本軍は、そのような過去の事例ばかりをテキストで勉強していました。
「本来ならば勝てない戦いに、たまたま勝った」という戦いの事例を集めて一生懸命に学んでいたので、「正攻法で戦って勝つ」という戦い方についての教育が甘かったのです。
                   『平和への決断』

 ちなみに、珍しかったのは地形的奇襲だけではなかった。
この義経の「大将が先頭に立ち、敵軍へ突っ込む」という戦法は、関東武者の反感を買ったとも言われる。
なぜかといえば、お互いの名のり合いの上での“一騎打ち”で挙げた首により戦功が決まっていた当時の常識から見ると、斬新にすぎたからだという。
 義経の戦い自体は、従来の教科書的戦法を打ち破る“創造的”なものであった。
 しかしそれを、七百年後の日本人は、教科書的に暗記していたのだ。
七百年間、いったい何をしていたのだろうか。
そもそも、軍事的天才のひらめきは、その環境や戦況に応じて繰り出されるものである。
ケーススタデイの教科書的暗記がどこまで効果的であったかは、分からない。

 次の「桶狭間の戦い」は、あまりにも有名だ。
 それは、戦国時代が本格的に始まった頃の話。
足利将軍の統治に陰りが見られ、次の天下をめぐる戦乱の時代がやってきていた。
各地に群雄割拠した戦国大名の中で、最も有力だったのが、足利家との血縁もある遠江・駿河の今川義元だった。
 満を持して天下への野望をあらわにした義元は、四万とも五万とも称する大軍を率いて、悠々と京へ攻め上った。
織田家の治める小国・尾張は、今にも踏みつぶされる寸前だった。
しかし、東海道を行軍する際は、どうしても大軍は長蛇の列となる。
そこに目をつけたのが織田信長だった。

620 :きゅうみん:2016/07/20(水) 22:21:13.78 ID:QASuBLmM.net
:神も仏も名無しさん:2016/04/07(木) 14:51:13.97 ID:ypo30vMt
 義元進軍の中、なかなか動きを見せようとしない信長。
 家臣たちが「このままでは、うちの殿ももうおしまいか」と思っていたその時、外から戻ってきた部下がとある情報を信長に耳打ちした。
 その瞬間、信長は不意に立ち上がり、「敦盛」の舞いを踊り始める。
 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」
 そうして、「ほら貝をふけ、甲冑をよこせ」と言いながら、立ったまま食事をし、鎧を着て馬に乗り飛び出した。
その速さについていけた従者は五人足らずで、熱田神宮まで三里の道を駆けた。
 到着した熱田神宮で戦勝祈願をすると、鎧がなる音が聞こえたとし、部下を鼓舞する。
 「この信長が願文を納めたところ、祠堂の奥で金革の音が聞こえた。破邪顕正のわが心を、熱田の武神は喜納された証拠だぞ。戦は誓ってわが勝利じゃ。疑うな。疑う奴は叩き切る!」
 追いついてきた部下は、ようやくに千名程度に達していた。
 そして、桶狭間まで敵の目につきにくい道を選んで、猛スピードで駆けた。
 その頃義元は、桶狭間で人馬に休息を与えていたところだった。
 やがて午後二時頃、三百騎ばかりに囲まれていた義元の下へ斬り込み、急襲を行った。
 結果、義元は首を討ち取られて、それ以降信長は、天下取り競争へ名乗りを上げていくこととなった。

 このようなことが日本の歴史において過去にあったために、旧日本軍も、兵法で、そういうものばかり勉強していました。
そして、いつも「小が大を倒す」ということばかり考えて、奇襲作戦をずいぶん行ったのですが、長期戦になれば、やはり、戦力の大きいほうが勝ちます。
 したがって、兵法だけでは勝てないのです。
「実際に、技術力や戦力、食糧などに差があると、最終的には負けるものだ」と思わなければいけません。最終的には、戦力そのものがなければ勝てないのです。
                        『希望の法』

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