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十十十 カトリック244 十十十
- 1 :神も仏も名無しさん:2016/05/24(火) 16:07:55.57 ID:HXyo04FB.net
- カトリックについての交流スレッドです
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前スレ
十十十 カトリック243 十十十 [無断転載禁止]©3ch.net [無断転載禁止]©2ch.net
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- 231 :神も仏も名無しさん:2016/06/24(金) 19:27:18.55 ID:C3sS1aEA.net
- エルサレムのようにバチカンも異教徒の手に落ちる。
- 232 :神も仏も名無しさん:2016/06/24(金) 19:35:41.66 ID:C3sS1aEA.net
- 名誉教皇ベネディクト16世は賢者。現教皇は愚者。
名誉教皇は己を犠牲にして奉仕したが、現教皇は他者への批判ばかり。
- 233 :神も仏も名無しさん:2016/06/24(金) 22:31:30.01 ID:wvuJzPWE.net
- >>232
お前はいったい何者なんだい?
wwwwwwwww
- 234 :神も仏も名無しさん:2016/06/25(土) 01:04:36.30 ID:onHJlC1A.net
- >>233
お前こそいったい何者なんだい?
わわわわわわわわわ
- 235 :神も仏も名無しさん:2016/06/25(土) 01:24:29.85 ID:6bZtIPPc.net
- 母は病気。娘は馬鹿。夫は別居。
娘にはキモ蝿が2匹くっつく。
母は月2回透析。
夫はパチンコ。
- 236 :神も仏も名無しさん:2016/06/25(土) 05:20:32.50 ID:4MYLgT0L.net
- なんだ精神病患者か
- 237 :老クリスチャン:2016/06/25(土) 11:13:55.36 ID:pes9Pc0L.net
- 2007年(主日C年) 7月1日 年間第13主日
王上 19:15〜21 ガラ 5:1,13〜18 ルカ 9:51〜62
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ v.51)
神が計画された "決定的な時" というものがあります。
聖書はイエスの宣教の開始 (マコ 1:15) を、その十字架の死とそれに続く復活と昇天を、そして将来の神の国の到来を、そのような "時" として証言しています。
しかし、私たちが信仰の目で見、信仰の耳で聞くのでないなら、神の "決定的な時" の到来はそれに前後する歴史の流れの中に埋没してしまって、判別不能になります。
イエスの弟子たちはそのとき何かを感じ、かつての預言者エリヤのことを連想したようです(王下 1:9-12)。
さらにルカ福音書は、エリヤがエリシャを自分の後継者としたときの場面をも想起しているようです(ルカ v.61)。
神の "決定的な時" の到来である 「神の国を言い広める」(ルカ v.60) ということが、使徒たちによる宣教の主題であることを、現代のキリスト者はこのテキストから再び聞き取らなければなりません。
なぜなら、教会にとって現代の宣教は、今なお使徒たちの宣教の継続以外ではあり得ないからです。
イエス・キリストは、十字架の死によって私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました(ガラ 3:13)。
私たちは洗礼の秘跡によって律法に対して死んだ者となり、律法から解放されました(ロマ 7:6)。
「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラ v.13) とは、実に神の "決定的な時" の到来への待望に関わる言葉であることを、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
「霊の導きに従って歩む」(ガラ vv.16-18) という聖書の表現が、古来キリスト者の倫理的あるいは道徳的な側面に偏って強調され、"福音の希望"、神の "決定的な時" の到来とは無関係に理解されて来たことを、指摘しなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
- 238 :老クリスチャン:2016/06/25(土) 11:23:35.18 ID:pes9Pc0L.net
- 2010年(主日C年) 6月27日 年間第13主日
王上 19:16b,19-21 ガラ 5:1,13-18 ルカ 9:51〜62
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ v.62)
多くの人々が聖書から、神のことばではなくて、人生の指針や教訓のようなものを読み取って、 ・・・・・ それはしばしば見当外れなものでした ・・・・・ 、しかもそれに固執して "いっぱしの主義や主張" を唱えて来ました。
"キリストに従う"、"キリストに服従する" という主張が、かけ声としては立派に聞こえても、もしその意味内容が不明確であるなら、それは "肉に従って生きる"(ロマ 8:12-13) ことでしかありません。
「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います。」(王上 v.20)
これを、今朝の福音書におけるイエスの命令と矛盾すると考える人は、ただの形式主義者であって、自分は未だ福音を理解していないことに気づくべきです。
"カトリック教会の教え" や "カテキズム" は、信者をキリストの福音へと導くための手段であって、決して "神のことば = キリストの福音" の代替品、あるいは "信仰による義" に代わる救いの手段のようなものではありません。
それを学ぶ信者たちが、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。 ・・・・・ (今は) キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ 2:19-20) と、自らの信仰を宣言出来るようになるためです。
「エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。」(王上 v.19)
この日から、エリヤの霊がエリシャの上にとどまり(王下 2:15)、エリシャはイスラエルのために召された "神の人"(王下 5:8) になったのでした。
私たちも、自分の肉に蒔く者ではなく、霊に蒔く者になりましょう。
そうすれば、時が来て、霊から永遠の命を刈り取ることになります(ガラ 6:8-9)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
- 239 :神も仏も名無しさん:2016/06/25(土) 11:29:08.83 ID:Siw8foTP.net
- 批判と指摘は異なる
- 240 :神も仏も名無しさん:2016/06/25(土) 11:36:50.35 ID:ifFatYKP.net
- 神を信じるも信じないも貴方しだいなのです。
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