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十十十 カトリック244 十十十
- 1 :神も仏も名無しさん:2016/05/24(火) 16:07:55.57 ID:HXyo04FB.net
- カトリックについての交流スレッドです
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前スレ
十十十 カトリック243 十十十 [無断転載禁止]©3ch.net [無断転載禁止]©2ch.net
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- 2 :神も仏も名無しさん:2016/05/24(火) 16:08:31.79 ID:HXyo04FB.net
- これでよろしいでしょうか?
- 3 :神も仏も名無しさん:2016/05/25(水) 04:43:28.50 ID:dfFjS59v.net
- アメリカのカトリック聖職者は精神世界を二つに区分し、
一方には聖書に啓示された教義をそのままに置いて、議論の余地なくこれに服するが、
政治の真理はもう一つの世界にあるとし、ここでは神はこれを人間の自由な探求に委ねたと考える。
アメリカの聖職者は市民的自由を全面的に支持し、信教の自由を認めぬ人々をさえそれから除外しない。
しかしながら聖職者が特定の政治体制に支持を与えることはない。彼らは注意深く政治問題の局外に立ち、
党派的関係に巻き込まれない。だから合衆国では、宗教が法律や個々の政治的意見に影響を及ぼすとは言えない。
誰もが、この国における宗教の平穏な支配の主要な原因を、宗教と国家との完全な分離に帰した。
私は、アメリカ滞在中、この点で考えを異にする人間には、聖職者と平信徒とを問わず、
ただの一人も出会ったことがないと言って憚らない。
聖職者自身の考えを調べてみると、この人々の多くは自発的に権力から遠ざかっているようであり、
その外に立つことに一種の職業的矜持をもつように見えるのに気がついた。
彼らは野心と不誠実に対しては、それがどんな政治的意見を装おうとも、口を極めて非難した。
だが、彼らの話をよく聞いてみると、人が真面目に信じるものであれば、
政治的見解を理由に神の前で罪とされることはありえず、政治において過ちを犯しても、
家の建て方や畝のつけ方を間違えるのと同じく、なんら罪ではないと言うのであった。
彼らはすべての党派から注意深く距離をとり、個人のあらゆる利害を傾けて、党派との接触を断っていた。
トクヴィル 『アメリカのデモクラシー』
- 4 :神も仏も名無しさん:2016/05/25(水) 04:45:59.75 ID:dfFjS59v.net
- 宗教があらゆる不幸を隔てなく慰める感情にのみ支えられる限り、
それは人類の心を引きつけうる。宗教が現世の恨みつらみと混じり合うと、
愛というより利益で結びついた宗教の同盟者を守るだけのものになってしまうことがある。
そしてしばしば、宗教をなお愛しながら宗教の同盟者と激しく戦う人々を、
敵に回さねばならなくなる。宗教が為政者の物的なカを分かちもてば、
必ずや為政者のかきたてる憎しみの一部をも身に引き受けねばなるまい。
アメリカの聖職者は他の誰よりも前にこの真理を認識し、行動をこれに一致させた。
彼らは、政治的権力を得ようと思うならば、宗教的影響力を放棄しなければならぬことを理解し、
政治の有為転変を共にするよりは、その支持を失う方を選んだのである。
ヨーロッパの不信仰者は、キリスト教徒を宗教上の敵というより、政治的な敵として追及している。
彼らは誤った信仰という以上に、一党派の意見としてキリスト教を憎むのである。
聖職者の中に権力の友を見てこれを退けるのであって、神の代理人を拒むのではない。
トクヴィル 『アメリカのデモクラシー』
- 5 :神も仏も名無しさん:2016/05/27(金) 12:34:33.11 ID:/DmS/eW4.net
- >>1
ありがとうございます
告知しておきます
- 6 :老クリスチャン:2016/05/27(金) 12:37:30.92 ID:RI3qPphX.net
- 2001年(主日C年) 6月17日 キリストの聖体
創 14:18〜20 Iコリ 11:23〜26 ルカ 9:11〜17
復活節が終わって年間に入ると、その二番目の主日は "キリストの聖体の祭日" です。
受難と復活を通して新約の大祭司となられたキリストの聖体の奉献が、主日ごとの私たちのミサで再現されて、会衆一同がこれに与かって一つに結ばれることは、教会の存立の根拠であります。
「この神の民は、その起源において聖であるが、感謝の祭儀に意識的、行動的、効果的に参加することによって、聖性の中に成長し続ける。」(ミサ典礼書の総則 前文 5)
Iコリ 使徒パウロはここで、伝承から受け継いだ主の晩餐の制定のことばを叙述しています。
「主から受けた」 とは、他の使徒たちとは別に、復活のイエスから直接パウロが聞いた彼独自のものという意味ではありません。
そうではなくて、教会にこのような伝承を受け継がせてくださり、またこれからも受け継がせて行ってくださる方が主御自身であることを、パウロは語っているのです。
その叙述を締めくくっているのが、この言葉です。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Iコリ v.26)
「主の死を告げ知らせる」 とは、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ロマ 4:25 )、
「もし、イエスを死者に中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロマ 8:11)
という信仰を宣言する (告白する) ことになるという意味です。
ミサに参加する会衆一同は、感謝の祭儀の中で御子の奉献に一つに結ばれて自らをささげます。
「教会がキリストの死と復活の記念を行うとき、救いの力がわたしたちのうちに働きます。」(レオ秘跡書)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
- 7 :老クリスチャン:2016/05/27(金) 12:38:15.23 ID:RI3qPphX.net
- 2004年(主日C年) 6月13日 キリストの聖体
創 14:18〜20 Iコリ 11:23〜26 ルカ 9:11〜17
「しかし、イエスは言われた。"あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。"」(ルカ v.13)
言うまでもなくここで 「あなたがた」 とは使徒たちのことであり、この務めがキリストから使徒たちに委ねられたことを説明するために、この言葉が共観福音書すべてに保存されています。
ヨハネ福音書にも殆ど同じ形で収録されているこの物語りが、初代教会において感謝の祭儀と切り離して解釈されたことはありませんでした。
そして代々の教会は、使徒継承によって、この務めが使徒たちの後継者である司教と、司教に従属する司祭に受け継がれたと理解することによって、その時代の感謝の祭儀をささげて来ました。
ですから、ミサ典礼書の総則の中の次の記述は、福音書のこの命令の現代における適切な説明であると言うことが出来ます。
「最後の晩餐において、キリストは過越のいけにえと会食とを制定されたが、
主御自身が行い、そして御自分の記念として行うよう弟子たちに託されたのと同一のことを、司祭が主キリストの代理として行うことにより、十字架のいけにえが教会においてたえず現存するものとなる。」(暫 72 = 現 48)
「すべての人が食べて満腹した。 そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」(ルカ v.17)
小教区のミサは、その特定の共同体ごとの個別の行為ではなくて、全世界のすべての教会と共にあり、普遍の教会の一つの枝としての行為であることを思い起こすことは、大切なことです(同 暫 113 = 現 75)。
聖体の秘義は、これに与るすべてのキリスト者の一致のしるし、愛のきずなでありますから、歴史の教会はこれを大切なものと考え、その規制を使徒座の権威の中に置いて来ました。
ミサ典礼書はこのような背景を持ったものでありますから、誰も、たとえ司祭であっても、任意に変更したり修正することは許されていません(典礼憲章 22)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
- 8 :神も仏も名無しさん:2016/05/28(土) 06:55:38.97 ID:MZJWWXCN.net
- 同性愛は、正常とか異常な行為というようなものでは
ありません。
それぞれ人は、自分の好みと自然の性向に合った性生活を送るべきです。
母胎内での性の分化は、妊娠後期の段階で始まりす。ですから、男らしい男性、女性的な男性、男性的な女性、女らしい女性、およびそれらの中間色の様々な発現があっても、それらはすべて遺伝的なものであって、
同性愛であることを責めるのは、人間が人間であることを責めたり、猫が猫であることを責めるのとおなじく、愚かなことです。
それに、動物にも多くの同性愛があり、田舎へ行くと、犬や牛や鳥の同性愛を見ることも稀ではありません。
その犬や雌鶏の 同 性 愛 が自 然 であ る の と 同 じ よ う に 、 人 間 の 同 性 愛 も 自 然 な こ と な の です 。
むしろ、他人に対して、自分と同じような性生活を持つように強制することを虐げる人たちのやっていることです。
人種差別主義者や伝統主義者、あるいは軍国主義者についても、同じことが一般的に言えます。
同性愛を攻撃することは、一種の人種差別です。同性愛を攻撃する人たちは、 一般に貧しい性生活を送っており、他人が自分たちとは違った性生活を送っていて、開花している様子に耐えられないのです。
バチカンの搾取者が同性愛を断罪し、女性が司祭になることを拒否するとき、 どうしてローマ・カトリックの信者であり続けられるでしょうか。
ここに人種 差別と性差別の 2 つの証拠があるのです。
- 9 :老クリスチャン:2016/05/28(土) 11:46:35.70 ID:E1cARxpk.net
- こちらが 「新スレ (真スレ)」 だと、理解することにします。
- 10 :老クリスチャン:2016/05/28(土) 11:47:34.00 ID:E1cARxpk.net
- 2007年(主日C年) 6月10日 キリストの聖体
創 14:18〜20 Iコリ 11:23〜26 ルカ 9:11〜17
「イエスは言われた。"あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。"」(ルカ v.13)
使徒たちとは、イエス・キリストの死と復活による福音、神の国の福音の、証人また宣教者として、主御自身によって遣わされた人々でありました。
原始教会の初期のミサで、使徒たちは救われた人々に御聖体を授け、神の国の福音を告げ知らせました。
そして間もなく各地の教会には、新約聖書で "長老" とか "監督" と呼ばれている人々が任命されて、使徒たちの務めを受け継いで初代教会を形成して行きました。
教会の宣教は、主が使徒たちに委ねられた宣教の継続であることを、よく理解する必要があります。
歴史の教会の、各時代の司教たちは、使徒たちの後継者であって、決して自らが先代に代わって使徒になった訳ではありませんでした。
原始教会の使徒たちは、「至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(ルカ 9:6) のですが、それは彼らを通して働く復活の主御自身の御業であったという理解が、ルカ v.11 には表現されています。
「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」(ルカ 9:1) は、使徒たちの時代に特徴的なものであって、それは使徒の後継者たちには受け継がれませんでした。
しかし、福音の宣教、すなわち神の国を宣べ伝えることは歴史の教会に受け継がれて、今日に至りました。
教会は、キリストの祭壇を囲んで共にミサをささげる民の群であって、ミサの祭儀はキリスト者の生活全体の中心であります。
私たちキリスト者の生活のすべては、ミサに結ばれ、ミサから流れ出、ミサに向かって秩序づけられています(ミサ典礼書の総則 1)。
それはキリストの死と復活の記念であって、感謝の典礼 (その中心はいけにえの奉献と拝領) は ことばの典礼 (その中心は聖書の朗読と説教) と固く結びついています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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