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☆★『幸福の科学』統合スレッドpart811★★

1 :旭=1002:2016/03/31(木) 01:30:47.26 ID:SaokxY2v.net
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701 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:16:19.54 ID:iRN593Vr.net
 しかし、日本の陸軍士官学校・陸軍大学校などでの教育の実態はお粗末な面があったようだ。
 長谷川慶太郎氏は、“丸暗記”による教育システムが、日本軍人の“戦闘指揮能力の低下”と“その他の政治・経済などを学ぶ意欲の喪失”につながったとした。
 日本陸軍教育では、1927年に制定された「統帥綱領」や「戦闘綱要」といった典範類の丸暗記を求められ、西欧の近代軍事科学は学ぶことを許されなかった。
 海軍教育でも、「海軍要務令」を全文丸暗記し、そこに記載された海上戦闘を学ぶことに従事した。
そのため実際の戦場では、「学校の図上演習で学んだのと同じ状況を発見することに努めた」という。
 こうした丸暗記の教育法は、実戦での柔軟な思考を阻害するものだった。
“教科書的暗記”の弊害が実戦における“情報の軽視”として現れたという分析もある。
過去のケースに当てはめることを優先し、目の前の戦況の正確な把握を後回しにした。

 また、教育現場にも問題はあった。
 例えば、どう見ても「防御が有利」であるようなケースを問題として出題し、そこで取るべき作戦を考案させる。
ところがそこで、率直に「防御する」といった具合の答案を書くと低評価であり、「それでも何とか攻撃を敢行する」といった趣旨の答案を書くと高評価であったらしい。
 要は、教官への「ゴマすり答案」によって好成績はつけられたという話だ。

702 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:18:56.98 ID:iRN593Vr.net
 大学校のほうではどうだろうか。
 少将・中将・大将といった将官になるための登竜門だった海軍大学校には、もともとペーパーテストの優秀者の中からさらに、真面目で勤務優良なものが選抜された。
 性格的に、豪傑肌のタイプや個性の強いものは選ばれなかったという。
 これでは、血に飢えたハルぜーのようなタイプの将官は日本にはなかなか登場しない。
求められているのは、忠実な学生たちだったわけだ。
それならば、大学校での教育の中身はさらに重要となる。
 実松譲著『海軍大学教育』に載っている学生授業予定表を読み解くと、海軍大学校でのカリキュラムの七割以上は「兵術」であった。
 これは、陸軍大学校でのカリキュラムにおいても同様、ほぼ七割だ。
 この「兵術(戦略・戦術)」は、技術論やテクニック論といった、“狭い意味での戦術”を扱うものであり、歴史や哲学的なものは軽視されていた。
もちろんそこで倣うテクニックとは、海軍では「艦隊決戦」の場合のものであり、「真珠湾攻撃」以降の、航空機が主力となるような“戦い方”に関しては、ほぼ想定がされていない。

 こうした大学校教育において、陸海軍ともに共通するのは、大きな意味での「戦略」とでも言うべき「戦争指導」の教育が不十分だった点である。
大きな枠組みでの“政治”を含めたところの、戦略眼の教育だ。
“軍人は政治に関わるべからず”的な発想があったのかもしれないが、戦争を理解するには、政治と軍事をともに学ばなければならなかった。
 つまり、作戦計画のプロフェッショナルではあっても、大局を見る目はない、というのが陸海軍大学校で教育されたエリートの実像だった。
 大東亜戦争を振り返ると、なぜか、「政治や外交」よりも、「作戦第一主義」のように見える動きを日本軍はするという指摘をされることも多い。
確かに、シナにおける大陸政策などでは現地軍の行動を政府が追認するような形が目立つ。
これにも、大学校における教育は関係しているだろう。
陸海軍の「大学校」は、当時の軍人の中でも選ばれたものだけが入学できる超エリート機関であったはずだ。
しかし、日下公人氏はこれについて、「大学校」と名づけられた為、将来の司令官・大臣を養成する学校と勘違いされたが、教育内容から見て、本来「陸軍参報学校」と呼ぶべきものだったと述べている。

703 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:23:04.22 ID:iRN593Vr.net
 もちろん、作戦立案や実地計算などで評価される為には、理数系の才能が必要だった。
そのため軍教育にて、文科系の才能が十分に評価されていたのかは分からない。
一例を挙げると、海軍兵学校では、普通学対兵学の点数配分が一対一・二であり、普通学内の配点は、数学940、理化学1380、国・漢・外国語1450だった。
兵学とはこの場合理数系の実学となる為、カリキュラムとしては明らかに理数系秀才へ有利なものだったという。
 ここで挙げたのはほんの氷山の一角に過ぎないが、エリート養成のシステムには、日米で大きな差があったことがうかがえる。

 アメリカと日本の国力の差は、実は、エリート養成の差でもあったのかなと思います。
                            『平和への決断』


 また、アメリカ側は、実戦での“成果判定”をしっかり行っていた。
 例を挙げると、「真珠湾攻撃」の奇襲を受けて、更迭されたキンメルも、平時においては優秀な人材だったという話もある。
彼は「アナポリス始まって以来の秀才」の呼び声高く、ルーズベルト大統領のお気に入りでもあったようだ。
開戦時は、合衆国艦隊司令長官と太平洋艦隊司令長官という要職を兼ねていた。
このキンメルもまた、二ミッツと同じく三十〜五十人といった人を飛び越して中将を経ずに大将に任命された人物だったらしい。
 アメリカはそうした人材であっても、実戦でのミスがハッキリすると、予備役の少将へ降格させ、容赦なく責任を取らせた。
本番での“成果判定”は何よりも大切にされたのだ。

 ここで話に出さねばならないのは、日本軍の南雲忠一中将の問題だ。
 大東亜戦争における日本軍の“局地的失敗”の場所には、いつも南雲がいたと言っても過言ではない。
「真珠湾攻撃」「ミッドウエー海戦」「サイパン陥落」と、何度失敗しても海軍は南雲に重要作戦を任せ続けた。
その中でも特に、「ミッドウエー海戦」でのミスは致命的だった。

 境目になったのはミッドウエー海戦です。
南雲忠一中将を、真珠湾攻撃に続いて再び機動部隊の司令長官に据えたのですが、「この人の指揮に問題があったから負けた」とも言われています。

704 :ファルコン ◆dviUrYQv1gs7 :2016/04/08(金) 00:26:35.38 ID:vAM9faPg.net
>>695
私が職員時代、たかちゃん総裁の離婚願望を知って
どうにか実現させようとプランを練った

当時のプランがこれ

・財産は何十億円 何百億円あろうと とにかくきちんと半分きょう子さんに分与
・きょう子さんに次女の親権を渡す
・きょう子さんは大川姓を名乗って良し
・教団内に福祉部署 もしくは新たな福祉法人を設立し きょう子さんをそこの責任者にする
・宇都宮仏宝館はきょう子さん管轄下にし、福祉部署もしくは福祉法人の拠点とする きょう子さんは主にここで業務
・東京にもきょう子さんと次女の家を確保する
・以上のプランを承諾する替わりに マスコミには証言しない 今後も離婚について公には触れないようにしてもらう
・たかちゃん総裁も再婚は控える(姫君はいて良し)

その後現実に起こった事を考えると 実に丸く収まる調和的な案であることか
マスコミに報道されたら信者減 植福減で損失は20年で1000億円を超えるだろうから、数十億円など安いものだ(実際 それ以上に激減したし)
大川家次女のその後を考えると きょう子さんの下でのんびり過ごせたら、現在のような状況にはならなかったろうな

それにしても何と師匠思いの弟子であったことか(人生の黒歴史)

705 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:27:34.89 ID:iRN593Vr.net
 当時の軍部は官僚主義に陥り、「士官学校の卒業年次」という年功序列で人事を決めていたので、必ずしも能力主義にはなっていませんでした。
「もし、人選において、違った選択をしていたら、ミッドウエー海戦に負けていなかったのではないか」とも言われています。
 当時の海軍力は日本のほうがアメリカよりも上だったので、司令長官の能力が上だったら、日本は、この戦いに勝てた可能性があります。
もし、日本が勝っていたら、世界史の流れは大きく変わっていたはずです。
                            『国家の気概』

 「ミッドウエー海戦」の敗北原因と見られるのは、指揮官・南雲の優柔不断さである。
 そもそもミッドウエー海戦までは、アメリカは太平洋における戦いでは防戦一方だった。
ヨーロッパ戦線に労力の多くをつぎ込まねばならなかったからだ、
 この海戦には、日本軍が「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の空母四隻を参加させていたのに対し、アメリカは「ヨークタウン」「エンタープライズ」「ホーネット」の三隻であり、
「ヨークタウン」に関しては、珊瑚海海戦で重傷をおった後の、いわば“病み上がり状態”であった。
つまり、戦力的にも日本側に分があったはずの戦いである。
 ミッドウエー島とは、ハワイ諸島から約千海里、東京から約二千海里離れた孤島であったが、開戦よりずっとアメリカは兵力増強を続けていた。
役割としては太平洋方面の哨戒基地であり、ハワイよりもう一つ前線にある重要地だった。
 そもそも「ミッドウエー海戦」では、日本軍の作戦目的は二つ存在した。
 一つは、ミッドウエー島にある米航空基地の制圧にある。
ミッドウエーの位置に航空基地があると、日本軍の太平洋方面作戦は、かなりの束縛を受けるからだ(実際、真珠湾攻撃の際にも、ミッドウエー破壊のための小隊は存在していた)。
 ちなみに、同じ理由で、日本軍は、ミッドウエーやハワイよりも北にあるアリューシャン列島(アッツ島、キスカ島を含む)も同時に攻略している。
そもそも、少し欲張りだ。

706 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:30:03.51 ID:iRN593Vr.net
 そしてもう一つの目的は、真珠湾で取り逃がした空母艦隊の撃滅にあった。
ミッドウエーを攻略すれば、必ず米太平洋艦隊は反撃に来るはずだから、そこでおびき出した空母を撃破するという、強気な作戦だった。
綿密な作戦を立て、満を辞して広島湾を出撃した日本海軍の様相としては、まず空母四隻を基幹とした南雲部隊が第一機動部隊として先陣を切る。
その後にミッドウエー攻略部隊などの第二艦隊が続き、しんがりに山本五十六対象率いる戦艦「大和」「長門」「陸奥」を要する主力部隊が控える(未だ、日本軍は戦艦を主力としていた)というものだった。
もっとも、洋上の孤島攻略戦において、しんがりも何もないように思うが、この山本主力部隊は“全戦闘の支援”が任務だった。

 そうして計画通りにまずミッドウエー島への空襲を始めると、敵迎撃隊と空中戦になるも、そこに空母の姿はなかった。
戦果は不十分と見た第一次攻撃隊の指揮官から、「第二次攻撃の要あり」との意見具申が入る。
その時第二次攻撃隊は、敵空母艦隊発見に備えて攻撃機は魚雷を装備していた。
しかし南雲は、ミッドウエー基地第二次空襲ため、魚雷から陸用爆弾への転装を命じた。
 「長官、もう一度、基地をやりますか・・・」
 「敵の空母はまだか?」
 「まだ発見されません」
 「よし、もう一度、島をやろう」
 「艦攻は雷装を爆装に換え!」

 ところが転装中に今度は、哨戒飛行中だった「利根」四号機より、「的らしきものを十隻発見する」との電報を受ける。
巡洋艦五隻、駆逐艦五隻だった。艦船が十隻ということは、間違いなくそこに空母も存在している。
間髪いれず、「空母も発見」の情報が入る。

707 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:32:10.15 ID:iRN593Vr.net
 そこで南雲は、第二次攻撃隊に再度、魚雷装備への転装を命じた。
 空母「飛龍」を指揮していた山口多聞少将からは、「陸用爆弾装備で構わないから、ただちに発艦すべきだ」との意見が届いていた。
しかし南雲は転装を続けた。教科書どおりでない意思決定は出来ないのだ。
その間、戦闘機を伴わない旧型の雷撃機の襲撃を受けるも、空中戦にてすべて撃墜した。
 しかしあと「五分間」で転装が完了して全機が発艦出来るという時になって、空に広がる厚い雲の間よりやってきた急降下爆撃機ドーントレスの急襲が直撃してしまう。
どうやら、旧型の雷撃機は囮の役割を果たしていたようだった。
 その爆弾は、甲板に並んでいた爆撃機の魚雷などを誘爆させ、空母は瞬く間に火の海となった。
誘爆は、まるで数十個の爆弾が命中したような効果を引き起こす。
せめて爆撃機さえ空中に発艦させていれば、誘発による火災が起きることもなく、空母は沈んでいなかったかもしれない。
本来ならば大型空母は、急降下爆撃程度で沈むような代物ではなかったらしい。
ほんの一瞬の間に空母「赤城」「加賀」「蒼龍」は大破。
生き残ったのは山口の「飛龍」だけとなった。
そしてその「飛龍」は孤軍奮闘し、敵空母「ヨークタウン」に大損害を与えるも、反撃はそこまで。
 こうして、日本海軍の「関が原の戦い」に当たる「ミッドウエー海戦」は惨敗に終わった。
指揮官の本の一瞬の判断さえ違えば、結果は大きく変わっていたかもしれない、悔しい敗北だった(最も、「運命の五分間」については諸説ある)

708 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:35:08.09 ID:iRN593Vr.net
 さらに、「ミッドウエー作戦」の敗戦後に南雲が任されたサイパンもまた、戦略的には「絶対国防圏」を死守する為には最重要地であった。
しかし南雲は、もはやサイパンを枕に討ち死にを覚悟していた為か、大した要塞建設もせず、ただ米軍の来襲を、テニスをして待っていたという話だ。
にわかには信じがたいが、まったくのテニス初心者だった南雲は、サイパンにいた同郷のテニス少女に「おじさんもテニスに入れてくれ」と言って特訓を受けた結果、
それなりに上達し、土日の海軍のテニス大会では少女とダブルスを組み、前衛を務めてやんやの喝采を浴びていたというような話すらある。
 ちなみに、もしもサイパンにおいて硫黄島のような陣地を構築していたなら、アメリカは攻略に手間取り、その損害しだいでは講和条件を提示していた可能性すらあったと言われている。
汚名返上の機会であったのに、それを自ら放棄したのだ。

 そもそも人間としての南雲にはまず、勇気が欠けていた。
「真珠湾攻撃」直前にも、参報長にも次のような弱気な発言をしたという記録が残っている。

 「僕はエライことを引き受けてしまった。僕がもう少し気を強くしてキッパリ断ればよかったと思うが、一体出るには出たが上手くいくかしら」
 と、南雲長官が私に小声で言われる。(中略)
 「大丈夫ですよ、必ず上手くいきますよ」
 「君は楽天家だね。うらやましいよ」
            草鹿龍之介著『連合艦隊の栄光と終焉』(行政通信社)46頁

 そんな南雲が真珠湾にて「第三次攻撃」を行わなかったのは、自明の理だったとも言える。
「ミッドウエー海戦」でも、彼の優柔不断さによって、日本の空母四席は壊滅へ追い込まれたといってよい。
 しかし、疑問点は「ミッドウエー海戦」での致命的ミスの後も、軍上層部が“南雲に汚名返上の機会を与えよう”と、彼を第一線で戦わせ続けたことだ。
せめて予備役に編入させるなど、考えはしなかったのだろうか。

709 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:37:26.55 ID:iRN593Vr.net
 海戦後の山本による処分は温情にすぎ、実に甘かったことが、連合艦隊参報長だった宇垣纏の記録として残っている。

 八時過来る者、足に小負傷の参報長草鹿少将、大石先任参報、源田航空参報及び副官なり何れも黒服にて相当憔悴の兆しあり。
相見ての第一言は「何と申してよいかいうべき言葉なし、申訳無し」尤もの次第なり。
長官公室に下りて参報長先任参報より報告を聴く。
参報長「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身にあらざるも、只復讐の一念に駈られて生還せる次第なれば、どうか復讐できるよう取計っていただきたく」長官簡単に「承知した」と力強く答えられる。
                     宇垣纏著『戦藻録』(原書房)147頁

 おそらく、南雲に対しても同じような対応だったろう。
 失敗の責任を問うことなく、「仇討ちをしたい」という申し出に、「承知した」と山本はすぐに快諾した。
これでは、失敗原因を見つめる“カイゼン”は行われない。
 山本は、現代のような人気投票をしたなら、九割以上の票を集めたような人物だったろうと言われている。
圧倒的な部下からの信頼を集める、日本的リーダーであった。
 しかし、その「情」が“甘さ”という側面で出るのは良くないだろう。

 南雲とは対照的に、「ミッドウエー作戦」で一人気を吐いたのが、山口多聞だ。
「人物伝」でも描くが、あのネルソンに匹敵するほど勇敢な軍人だった。
山口を、当時の海軍で“超一流の人材”だったと評価する声は高い。

 (山口多聞が)もしトップだったら、あるいは勝てたのではないかとも言われていますけど、士官学校の卒業年次が後だったために上げなかった。
能力主義人事をやらなかったことを悔やまれております。
                         法話『危機に立つ経営』

710 :神も仏も名無しさん:2016/04/08(金) 00:40:08.78 ID:iRN593Vr.net
 ところがその山口は、年功序列的に言えば、“適齢”が来ていなかった。
 海軍兵学校の卒業年次としては、山本が海兵三十二期、南雲は三十六期、山口は四十期だった。
単純計算で、山口が南雲のポジションを引き継ぐのに四年、山本より引き継ぐのには8年待つ必要があったという。
 大東亜戦争においては、日本軍の実践指揮官を担ったクラスの高級将校が、年を取りすぎていたため、勇気が足りなかったのではないかという論も存在する。
歴史的に見ても、戦いにおける天才性などは、年若くして出てくるものだ。
 下の世代に優秀な人材が存在したにもかかわらず、使いこなせなかった日本軍は、強く惜しまれる。

 下の年次の人のほうが優秀だったとしても、上の年次の人が引退するか、死ぬかしない限りは、上に上がれないような状況であったのです。
 ところが、アメリカのほうでは、(中略)わずか四年ぐらいの戦争期間中に、卒業年次や卒業時の席次などにとらわれず、能力のある人をどんどん引き上げて“ごぼう抜き”で出世させ、指揮官に採用しているのです。
 そのように、日米には、人材登用力の差があったということです。
                               『平和への決断』

 もっとも、南雲だけの問題ではない。
山本の「自身は前線へ赴こうとしない姿勢」もまた、【項羽】の「霊言」で叱られている。

 項羽 例えば、先の大戦で、(日本は)ハワイ真珠湾奇襲攻撃をやったけれども、山本五十六連合艦隊司令長官は、なぜ広島にいたんだ?
やっぱり、私には、こういうところが疑問に残る。
広島にいて報告を聞いてただけだな。(中略)
 こんなのを見ると、もし、“項羽的な性格”であったら、この山本五十六的なことはありえないね。
大きな海戦であったら、自ら突っ込んでいってるはずなので、そうであったら、勝ち筋はそうとうあったと思う。
                  『項羽と劉邦の霊言 項羽編−勇気とは何か』

 本項では、戦前の軍人教育の不備を描いたが、注意していただきたいのは、あくまでこれは陸海軍における「エリート教育」の問題点であって、日米における国民全体の教育の質を対比しているものではないことだ。

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