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大乗仏教と原始仏典の関係について語ろう!!!!!

1 :神も仏も名無しさん:2016/03/09(水) 12:13:40.18 ID:bzfbpph0.net
上座部仏教から言わせると、大乗仏教は仏教じゃないと意見もあるが。

501 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 00:11:08.77 ID:tPvT6rJ5.net
抑制して悟りや解脱に至るのに、苦の生存の繰り返し(輪廻)を前提する必要はない。
心の平安を得るのに、苦主楽従よりも人生苦を強調し、生存の苦しみの繰り返しによって脅迫しなくても、心の平安や幸福を追求(することに執着)することで解脱の目標は達成できるのではないか。

特に輪廻思想は、生物学的常識である「個体維持と種の存続」や、「地上のすべての生命の存続」という生命の目的を否定的に捉え、
死を頂点とする人生苦を過大に評価し、在家の生活と人生の楽しみを軽んじて、消極的否定的また厭世的に生きる方法を勧めている。
このような小乗的思想は、人生を積極的肯定的に捉え、労働や社会参加に否定的となり、後世に見られる在家中心の大乗運動を推進することにもなったのである。

生物科学的に見ると、人は生存し続けねばならないし、またその場合に幸福であり続けなければならない。
にもかかわらず、輪廻的な苦の生存を克服するという文化的背景の中で、人生苦の制止・消滅のためには、
生存の素因である執着(生命活動)そのものを滅却することが、彼岸に到り苦の生存を繰り返さない道であるということが真理(法)とされたのである。
そして、釈尊の限界を超え、在家の衆生にも彼岸への道を保障するために、「菩薩という救済者」が必要とされ、大乗の思想が形成されたのである。

心の平安と持続的幸福の実現は、人間存在と人間心理の解明、そして幸福追求の意志と努力があれば可能である。
現代の心理学的知識によって、解脱に至る新たな知恵と方法がある。
その方法を見出すために、釈尊のアイデアが科学的に再構成され生かされるというのが「仏教の現代化」の意義である。
釈尊のアイデアは、輪廻思想に由来する彼岸への道でなく、この現世、この地上の生活においてこそ実現されなければならないのではないだろうか。

502 :だから大乗はウンコw:2016/03/24(木) 00:25:53.41 ID:50W7OZwA.net
↑ こんなところでハッスルしてんな〜宗教マニアw 震災のボランティアでもすればいいのになw

503 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 01:41:24.60 ID:XO5MPolQ.net
>>501
仏教のことを何も知らないのに、よくもそこまで自分勝手に仏教のことを
論じられるものだな。
「悟り」 だ 「解脱」 だ 「輪廻」 だなどと言ってみても、その内容など何も
君は解っていないだろう。
自分で勝手に意味を想像して書いていて、空しくならないのかい?

504 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 03:36:13.33 ID:90nv/Lux.net
「867世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起こる」は正しい。しかし、「<快><不快>と称するものに依って、欲望が起こる。」のではない。
(引用文は中村元訳『スッタニパータ』から)


釈尊の生命観の誤りの根本は、<無明>によって認識と欲望が起こり、生命の生起と老死の苦しみがあるという考え(十二縁起説)である。
真実は、逆に、生命を維持しその欲望を充足させるために認識があり、その認識の結果として<無明>や<明知>という言語的知識が成立する。

そして<快><不快>も、縁起説では欲望の原因となっているが、逆に、欲望を充足する過程的基準として<快><不快>の感情が反応として起こり、それが新たな認識や行動の原因となるのである。
従って、「新たな認識や行動」は、新たな欲望を生み出すけれども、その根本原因はあくまで起動因としての欲望であって、<快><不快>は大脳中枢における反応なのである。
つまり、欲望と快・不快の関係は、欲望が原因となって快を求め不快を避ける認識とその結果としての行動を導くのである。
たとえば、食欲が起こり食事が美味しければ(快)、さらに美味しいものをとの欲望が起こり、美味しくなくても(不快)、次回は美味しいものをとの欲望が起こるのである(ともに欲望に執着する)。

505 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 03:52:33.51 ID:90nv/Lux.net
「870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。」(『スッタニパータ』)

さらに、上記の引用文は、欲望と関係づけ、快を求め不快を避けるように接触(感受)しているという場合は正しい。
しかし縁起説としては、「感官」があって「接触」が起こり、物質的存在を「感受」することになっているので、物的存在(環境)と生命主体(欲望)との「相互関係(縁起)」が捨象されてしまう。
つまり、多様な環境の中で、生命は個体維持のために、不断に感官による接触をしているのに、「感官による接触が存在しない」ことはあり得ないからである。おそらく釈尊は、「感覚と感情の制御」を指摘されたいのであろうが、現代科学はこの制御を心理分析とカウンセリング、教育と自己省察等々によって可能とするのであろう。
また環境との接触の中で、特に不快な事象を感受しなければ、自覚しなくとも<快>の状態であることはいうまでもない。 

世界の現象や人間の心(欲望・感情・言語)を、関係性(縁起)として捉えることは正しいが、古代インドの釈尊が捉えた具体的関係性になると「輪廻思想」や「十二縁起説」のように、現代の科学的知見からその誤りを認め克服せざるを得ないのである。

   *<十二縁起説>とは 無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死

506 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 03:57:06.16 ID:50W7OZwA.net
釈迦は 平易な文言で大衆に説いたらしいね。w

507 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 04:07:44.00 ID:90nv/Lux.net
@ 釈尊の涅槃と心の平安、迷いと執着からの「解脱」は、生と老衰の苦を乗り越えることがなくても、また彼岸(死)に至らなくても現世において実現可能である。
従って、人生を「一切皆苦」と想定する必要はない(苦の中道化)。

A 人生は、個人(自己)としては一回性のものであるが、生命、家族、人類等としては過去から未来につながり、地球的広がりをもっている。
また一回性の人生も「一切皆苦」ではなく、「苦主楽従」(または「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」)なので、苦を克服し楽を追求する(「越苦至楽」)ことによって、心の平安と幸福のうちに充実した生存を終えることができる。

B 生命は、快を求め不快(苦)を避ける活動によって、個体を維持(欲望・執着)する。
人間は言語的活動によって理知的精神的快楽(心の平安・持続的幸福・解脱)を得ることができる。(言語的活動には八正道や涅槃的直観の制御を含む。)

C 「解脱や悟り」は、「持続的幸福・心の平安」の獲得を意味し、それは人間存在の正しい知識、物質的生存のための生産労働、契約と信頼にもとづく社会的連帯を条件として実現可能である。
反対に、大乗の空観に見られるような「否定(という分別)」による無分別知や直観は中道とはいえず、在家(社会)的生存を肯定的に理解することのない非社会的主観的知識と実践は、持続的幸福をもたらさない(大乗仏教は御利益仏教、葬式仏教に堕落する)。

D 釈尊は、「解脱や悟り」を得るために、生存・欲望への執着を断つことを求めたが、歴史的社会的文化的制約から、自らが「解脱や悟りに執着」していることを認識しなかった。
そのため「人生苦の縁起」や「苦からの解脱や悟り」について種々の解釈を許すことになった。
仏教の現代的再生のためには、生命言語説にもとづく認識論の確立(真理や幸福とは何か)からはじめる必要がある。

508 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 04:22:10.59 ID:XO5MPolQ.net
>>504-505 >>507
そんな妄想を書いて何になるの?
先ず、<無明>が何なのかを学びましょうね。

509 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 08:28:45.43 ID:lf+tg86u.net
画面が黒くなるような長文レスは他所からのコピペであることが多いと思い、
単語ではなく、特徴的な一文を以てググってみるとやっぱり出てきた。
グーグル先生、いつもありがとうございます。

>>501>>504-505>>507
人間存在研究 > 生命言語理論による仏教の現代化−幸福な未来社会のために−
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html

510 :神も仏も名無しさん:2016/03/24(木) 10:30:00.88 ID:iY9bvGA5.net
>>508
何で六入の因が名色なんですか?

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