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阿含宗という宗教264

1 :口下手番長264:2016/03/06(日) 16:03:10.16 ID:Pnw0w37m.net
このスレッドは阿含宗批判が目的です。
霊感商法、霊視商法をするカルト宗教・阿含宗の宗教詐欺を世に知らしめるためのスレッドです。

■阿含宗関連サイト■

考察資料の総合案内「agama考察室」
  http://agama.zouri.jp/
議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
  http://jbbs.shitaraba.net/internet/3419/
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  http://thebbs.fc2.com/ (阿含スレは”桐山氏と阿含宗について”)
テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
  http://agon.konjiki.jp/
過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」
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過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
  http://agama.ehoh.net/kakoindexthebbs.html
阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室)
  http://agon.genin.jp/
退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC 
  http://agama.jounin.jp/

591 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 16:24:46.56 ID:RUOW3Je2.net
椅子とか棒きれとか、何もない部屋へ馬鹿なチンパンジーAと利口なチンパンジーBを入れたとします。そして部屋の天井から紐で結んだバナナを、チンパンジーに届かない所へぶら下げるのです。
2匹のチンパンジーは、バナナを取ろうと懸命にジャンプしますが届きません。
さて、チンパンジーはどうするるか?

この場合、バナナを食べたら旨くて満腹することを、チンパンジーは知っています。このことを知識というわけであるな。
これを知恵とは言わない。

さて、バナナを取る方法を考えて、チンパンジーBが、禅定の修行をして慧を獲た。
どちらか一方のチンパンジーが踏み台になるか、肩車などしてジャンプすればバナナに届くと思いつくわけだな。この思いつく能力を知恵というわけであるな。知識とは違うのであるな。

禅定を修して慧を獲るとは、そういう能力を獲るというわけであるな。
つまり、かしこさを獲て、無常などの法を理解する力を獲得することなのだな、それが禅定を修して慧を獲ることなのだな。
知識を獲ることではない。

592 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 16:36:35.85 ID:I/MFrBrW.net
>>587他宗の悪口を考える・・

ワロタ、アゴン宗しかやったことないので、他宗と言われても(笑)
何度も同じことを言うけれども悪口を言ったことないからね(^o^)
桐山さんの言っていることと現実が全然ちがうことを指摘しているだけだろ。

>他者の救済をするのが最も可。

だから桐山のインチキ、出鱈目を指摘することによって、今現在、にせ阿含
を本当の阿含と騙されている人を救済できれば良いと思いカキコしている。

593 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 16:49:45.13 ID:3TYxI6g3.net
>>588 名前:ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [] 投稿日:2016/04/02(土) 12:44:38.06 ID:Zrz+Ultf [4/4]

>外見だけを比較するならば釈尊の修行は苦行とは言えない。

あなたは釈尊を侮辱している。
釈尊は正覚を得る前にある森の中で修行したことがあるそうな。
その森は「何人でもまだ貪欲を離れないでかの森林に入ったならば身の毛がよだつ」
と言われており、釈尊も恐怖心を抱いていた。
冬は、夜は露天に、昼は森林に住み、夏は、昼は露天に夜は森林に住む。
また墓場では骸骨を寝床にすると、牧童たちが唾を吐きかけ、放尿し、釈尊の両耳に木片を差し入れた。
このように森の修行は非常に恐ろしいものであったと、釈尊は後に回想している。
これが苦行ではないというのか?
毎日パソコン・キーを叩いて口先だけの理屈を捏ねている男にこう言われては、
釈尊も苦笑するしかあるまい。

>弟子に教えた苦行があると言うのなら具体的にどんな苦行なのか指摘してみなさい。
>釈尊が当初他の外道並みの苦行を教えていたが捨てたなんて事実はない。
>最初から荒行苦行は教えていなかった。生活を律する厳しい道は説いても。
外道から指摘されたから中道を教えたのではなく、最初から中道的であったから
>中道と表現したのです。

594 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 16:51:39.71 ID:3TYxI6g3.net


>>586に書いたことは中村博士が書いていることです。
博士は学者だから、ちゃんと根拠となる文献を調べているのですよ。
想像や憶測だけで発言するあなた方とは違うのです。
あなた方の言葉を何の疑いも無く受け入れるのは、教団に恨みを持つ批判側の人間だけです。
他の人は相手にしていない。
その理由はこういうところにあるのです。

>どんな苦行なのか指摘してみなさい。

みなさいとは何だ?
それが人にものを頼む態度か?
だが、ここを訪れた読者に、批判側はいつも勝っているように見せねばならんと必死になっている、
その一途な心に免じて、今回だけは特別に教えてあげよう。
注釈に根拠となる文献が上げられているようなので列挙する。
Cf.Sn..655; Dhp.395; DN.U,p.49G; Sn.284、292 
Sn.はスッタニパータ、Dhp.はダンマパダの略であり、他の略号は分らん。
“『原始仏教の成立』(本選集 第十二巻) 参照” とあるから、知りたければ自分で調べること。

595 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 16:58:47.09 ID:3TYxI6g3.net
>>589
>「中道」を誤解してるんじゃない?

こりゃ傑作だ!!!
あなたは中村博士は中道を誤解しているというのだな。
あなた、どこの大学者さんですか?

>>586にあるのは博士が実際に書いていることですよ。
嘘だと思うなら深山さんに訊いてご覧?

あなた、どこの大学者さんですか?

596 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 17:11:26.42 ID:RPMGqip7.net
>>595

先ず、釈尊の説法をしっかり聞くべきですね。
学者の文献はその次です。

<如来所説>
南伝 相応部経典 56ー11

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、バーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住処・鹿野苑)にましました。
そこで、世尊は五人の比丘に告げて仰せられた。
「比丘たちよ、出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとは何であろうか。
愛着に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所業である。聖にあらず、役に立たないことである。
また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけであって、聖にあらず、役に立たないことである。
比丘たちよ、如来は、この二つを捨てて、中道を悟った。それは、眼を開き、智を生じ、寂静、証智、等覚、
涅槃にいたらしめる。
比丘たちよ、では、如来が、眼を開き、智を生じ、寂静、証智、等覚、涅槃にいたらしめる中道を悟った
というのは、どのようなことであろうか。
それは、聖なる八つの道のことである。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
比丘たちよ、これが如来が悟りえたところの中道であって、これが、眼を開き、智を生じ、寂静、証智、等覚、
涅槃にいたらしめるのである。
さて、ところで、比丘たちよ、苦の聖諦とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。
死は苦である。歎き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みは苦である。怨憎するものに遇うは苦である。
愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するもは
すべて苦である。

597 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 17:12:50.36 ID:RPMGqip7.net
>>596(続く)
さて、とこで、比丘たちよ、苦の生起の聖諦とはこうである。いわく、迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを
伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。すなわち、欲の渇愛、有の渇愛、無有の渇愛がそれである。
さて、とこで、比丘たちよ、苦の滅尽の聖諦とはこうである。いわく、その渇愛を余すところなく離れ滅して、
捨て切り、振りきり、解脱して、執着なきにいたるのである。
さて、とこで、比丘たちよ、苦の滅尽にいたる道の聖諦とはこうである。いわく、聖なる八支の道である。
すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。(以下省略)
  増谷文雄「阿含経典2」(ちくま書房 学芸文庫)P283〜P288

598 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 17:26:35.19 ID:RPMGqip7.net
>>597(続く)
石飛道子先生の訳も載せておきましょう。

如来所説(『サンユッタ・ニカーヤ』56.11)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html

599 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 17:54:31.09 ID:3TYxI6g3.net
>>596>>597、>>>598
四種の真理(四諦)の説はかなり後世のものですよ。

「サールナートの説法と四種の真理とが結びつけれれて考えられたのは、かなり後世のことであると言わねばならない。
詩句(ガーター)の中にも、サールナートの説法と四種の真理・八正道・中道と結びつけたものは一つも存在しない」
((『ゴータマ・ブッダー釈尊の生涯ー 中村元選集/第11巻』 春秋社、239頁)

★★★中道の観念は後世の仏教が言い出した★★★

>>458 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/03/29(火) 21:23:58.46 ID:lhqqfzXY
>釈尊は解脱前は、誰もまねできないほどの激しい苦行をしたが、解脱できなかった。
>むしろ、苦行を捨てることで解脱したのです。

>>590 :神も仏も名無しさん:2016/04/02(土) 16:05:57.64 ID:RPMGqip7
>だから、釈尊は苦行を捨てたと言うよりも解脱には無益だと覚ったのです。
>どれだけ苦行をしても解脱に役立たない。



「もちろん経典の最古層においては、未だ諸宗教の実行する苦行に対する意識的反撥は現れていない。
ところが他の諸宗教すなわちジャイナ教、アージーヴィカ教などは、この点をついて、仏教徒は怠けていると言ったので、
仏教徒は自己の態度を擁護し主張する必要が起こった。そこで「中道」が意識的に説かれるようになり、
釈尊が修行中に苦行をすてたという伝説が発展させられたのであろう。
だから釈尊のさとりを中道と結びつけてはっきり説くようになったのも、やはり後世のことであろう。
そうして、この中道の観念は、後世の仏教では非常に重要なものとなった。」
((『ゴータマ・ブッダー釈尊の生涯ー 中村元選集/第11巻』 春秋社、190頁)

釈尊が解脱を捨てたということ自体が伝説だったのだから、>>458>>590も真っ赤な嘘です。

外道さんたち、これで理解できましたか?

600 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/04/02(土) 18:13:54.41 ID:Zrz+Ultf.net
>>593 神も仏も名無しさん sage 2016/04/02(土) 16:49:45.13 ID:3TYxI6g3
>>外見だけを比較するならば釈尊の修行は苦行とは言えない。

>あなたは釈尊を侮辱している。

まずはここから反論しましょう。
私は
>釈尊自身誰よりも厳しい苦行荒行をしたが、それでも煩悩はなくならないから

と書いたように、この釈尊の修行とは釈尊自身の修行ではなく弟子に課した修行です。
だから
外見だけを比較するならば釈尊の弟子に課した修行は苦行とは言えない。

と言い換えねばなりませんね。
弟子に課した戒律などは庶民に比べれば厳しいものです。
何しろ1日1食で午後は水以外摂取してはならないのですから。
しかし釈尊が苦行中スジャータの乳粥を食しただけで、「ゴータマは堕落した」と
苦行仲間から言われたくらいだから、苦行者の苦行と釈尊が弟子に課した戒律生活とは
比較にならない。
土台発想が異なる。1日1食は食欲ですら生きていくのに必要最小限にするというもので、 身体を傷めつける
苦行とは発想が異なるが、やはりそれなりの辛さには耐えねばならない。
滝行なんて荒行に過ぎなかったが、冬の朝冷たい水で顔を洗う辛さに耐えることは
自分の怠け心を克服するためにも有効とは、ここの部分だけは桐山さんの発言に賛成なわけです。
怠惰怠慢は煩悩ですからね。釈尊もそういう節制には厳しい。いたずらな苦行など課さなくても。

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