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☆ ローマ書を検証する ★

1 :神も仏も名無しさん:2015/04/08(水) 13:32:17.22 ID:5BUWzAVV7
ローマ書を検証し、パウロ教の問題点を明らかにする。
 

37 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/14(火) 10:26:15.50 ID:agveGQ7Ob
 8・9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり・・・
 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
 8.11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊・・・
人に宿る霊は、神なのかキリストなのか。わざと曖昧にしている。
キリストを「神」にする伏線なのかも。→ 9.5参照

 8.14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
 8.17 もし子供であれば、相続人でもあります。
 神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。

贖罪説を信じれば、「神の子」になれ、天国の住人になれるw
パウロが生前のイエスに興味を持たないのは、イエスとは無関係に
贖罪説がひらめいたことを暗示しているのではないだろうか。
かれにとっては贖罪説の方が一大事、
イエスは、神のように祭り上げればいい脇役なのかもしれない。

38 :yoshif . ohth:2015/04/15(水) 09:35:06.36 ID:EKad34n9F
キリストが私たちの罪のために死なれ
葬られ三日目によみがえられたことは
福音書の中にも書かれてあることなので
パウロ独自の宗教というのは無理があるのでは?

39 :yoshif . ohth:2015/04/15(水) 09:37:48.72 ID:EKad34n9F
キリストの十字架は
使徒の働きにも書いてある

40 :yoshif . ohth:2015/04/15(水) 09:38:42.86 ID:EKad34n9F
黙示録にも書いてある

41 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/15(水) 12:54:25.47 ID:AR0QCvS4f
 8.21 被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、
 神の子供たちの栄光に輝く自由に預かれるからです。
人間は言語活動を進化させたからこそ、神を知ることができる。
パウロは言葉の役割を知らない? → パウロは真の神を知らない?
 
 8.26 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、
 言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
これが成立するのは、真の神とつながった場合に限られる。
パウロ教はむしろ逆、悪霊を呼び込みそうw
 
 8.28−30 ・・・ ご計画、前もって、あらかじめ
予定説のようであり → 運命論のようであり → 人の努力を否定?
 8.33−39 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。
 人を義としてくださるのは神なのです。・・・
パウロはもはや、神の代弁者になったつもりでしゃべっている。

42 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/15(水) 13:31:45.63 ID:AR0QCvS4f
 8.38 ・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主
 キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを
 引き離すことはできないのです。
 
 9.2−5 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない
 痛みがあります。・・・肉による同胞のためならば、キリストから
 離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
ここでも正反対の文章を並べるという、パウロの混乱技がある。
 
 9.5 ・・・肉によればキリストも彼らから出られたのです。
 キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神。
 アーメン。
 
パウロの頭の中では、イエスが【神】になっているwww
かれは聖書を研究した学者だが、真の神を知らないのかもしれない。

43 :◆xGHO1E8e7M:2015/04/15(水) 18:49:01.62 ID:AR0QCvS4f
9.6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけでは
 ありません。 9.6−18 ・・・このように、神は
 御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと
 思う者をかたくなにされるのです。
ここでは創世記から引用し、イスラエルの選びが変更されない
ものであるという「予定説」を主張している。
 
 9.19 ・・・「ではなぜ、神はなおも人を責められるの
 だろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか。」
 9.20−29 上記への反論と、再び「予定説」を展開。
 
 9.32 彼らはつまずきの石につまずいたのです 
異邦人 → 召し出だされ、キリスト信仰によって義をえる。
イスラエル人 → 律法を追い求めるが、律法に達しない。
→ 神に選ばれているから、憐れみの器であることは変更なし。

44 :yoshif . ohth:2015/04/16(木) 01:39:47.62 ID:TwryCihHF
>>◆ufXYPj0GAM

あなたの言う「イエス=神ではない」という
前提も崩して論じないとダメ。
あなたの言うことも単なる宗教論にすぎない。

45 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/16(木) 05:29:37.72 ID:d3Bsz79N3
 10.1 兄弟たち、わたしは彼ら(イスラエル)が救われる
 ことを、心から願い、彼らのために心から願っています。
 
ここまでのパウロの歩みを簡単にまとめます。
@ 信仰か律法か 
A 信仰義認宣言
B その無理に気づき、信仰義認に行為義認を混ぜる
C 今までの流れをひっくり返し「予定説」を主張する
  神の選びや計画は変更されない → 信仰も律法も関係ない!
 
 10.4 キリストは律法を終わらせました。信じる者は皆、
 正しい者とされるためです。〜フランシスコ会訳より
 
予定説を主張したのに、さっそく信仰義認を主張しているw
どこまで続くぬかるみぞ。

46 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/16(木) 05:31:35.79 ID:d3Bsz79N3
 10.9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神が
 イエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは
 救われるからです。 10.10 実に、人は心で信じて義と
 され、口で公に言い表して救われるのです。
 
公を強調するのは、教会など、みんなの前で言い表せば、それが
約束になって、簡単には脱け出せないからね。
信仰は本来、神との関係なのに、集団との関係にスリ替えられる。
 
 10.13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」
 10.17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの
 言葉を聴くことによって始まるのです。 
 
こんなことを、創世記やイザヤから引用して主張する。 
しかし信仰は、中身がわからない福袋を買う行為に似ている。

47 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/16(木) 05:32:46.59 ID:d3Bsz79N3
 イスラエルの残りの者
 11.1−2 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられた
 のであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、
 アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は前もって
 知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。
 
神の選びがイスラエルにあることを、創世記などから主張する。
自分が残りの者たちの一人であるとも自負している。
 
 異邦人の救い
 10.11−16 要約 
 ユダヤ人は律法につまずいたが、異邦人は信仰義認で救われる。
 それを知れば、ユダヤ人も目が覚めるかもしれない。
 神の選びはユダヤ人なのだから、異邦人は誇ってはならない。
 11.17−24 オリーブの木 〜 上記内容の喩え

48 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/17(金) 09:39:23.58 ID:vF3+em9Ir
イスラエルの復興
 11.25−26 一部のイスラエル人がかたくなになったのは
 異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが
 救われるということです。
 11.28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがた
 のために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、
 先祖たちのお陰で神に愛されています。
 11.29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

 11.36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
 神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、
 アーメン。 (注、教理の部1.16〜11.36終了)

パウロは予定説で終了する。イスラエルが選ばれているなら、
異邦人はその裏返し、選ばれていないことになるね。

49 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/17(金) 09:43:41.78 ID:vF3+em9Ir
<パウロを形作ったもの>  その一

1 滅び行く同胞への痛みと悲しみ
2 律法学者ガブリエルの下で聖書研究、特に「メシア」研究
3 ダマスコでの回心 〜 復活したイエスを体験する
4 エルサレム神殿で祈祷中脱魂、「第三の天」を見る

50 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/17(金) 09:45:23.26 ID:vF3+em9Ir
 <パウロを形作ったもの> その二

旧約にはメシア預言があり、早くから多くのユダヤ人がメシアに
関する研究をやっていたはずである。パウロの時代は、
研究され尽くし、後はメシアが出現するのを待つばかりだった。

そんなときパウロの前にユダヤ教ナザレ派が現れる。
パウロから見れば、律法を破っているように思われ、かれらを
弾圧する。他方で、パウロの頭は常にメシアを探している。

ナザレ派への弾圧をしようと、パウロがダマスコに近づいたとき、
突然、光に照らされて倒れ、「イエスの声」を聞く。
光で目が見えなくなるが、三日目にアナリアから「按手」を受け、
ようやく目が見えるようになり、かれから「洗礼」も受ける。
これがサウルの回心である。

51 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/18(土) 06:20:01.52 ID:5//7UI8Zp
 <パウロを形作ったもの> その三

この体験で思い浮かぶのは、幻聴という精神疾患である。
直前までパウロは、ナザレ派を大弾圧しようと意気込んでおり、
他方でメシアが出現してほしいという強い思いもあった。
同胞を助けたいという思いと、同胞を殺そうという正反対の思いが
同時にあった。この二つの思いが衝突したような印象を受ける。

こういう現象があるのかどうかわからないが、死んだイエスの霊が
パウロに語りかけたと解せなくもない。

いずれにしろ、パウロにはショックだったろうが、
内心の葛藤が一挙に解決してしまう出来事でもあったわけだ。
メシアが見つかり、ナザレ派への弾圧も回避できるから。

52 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/18(土) 06:22:30.51 ID:5//7UI8Zp
 <パウロを形作ったもの> その四

ナザレ派アナリアの「按手」で目が見えるようになるが、
これは被害者から赦されてホッとしたからであり、このことは
パウロの体験がきわめて心理的なものであることを暗示している。

結論として、パウロの体験は何だったのだろうか?
霊と言葉を交わす以上、少なくても聖霊体験ではない。
神は話さないし、聖霊も話さない。
そういうことだから、パウロには聖霊体験がないことになる。

パウロが聞いたのは、(聖書が言うように)死んだイエスの声か、
自分の声を他人の声のように聞いたかの、どちらかだろう。

53 :◆ufXYPj0GAM:2015/04/18(土) 06:25:23.58 ID:5//7UI8Zp
<パウロを形作ったもの> その五
使22.17−18 ・・・神殿で祈っていたときに、
脱魂状態になり、主を見ました。

この体験は、釈迦や空海も体験した霊魂体験に他ならない。
それも、呪文を唱えていた空海のケースに似ている。

どういうことかと言えば、パウロは、イエス体験と霊魂体験をした
ことになる。パウロがイエスを神のように思うのは、
聖霊体験ではなく、イエス体験と霊魂体験のセットだからである。

パウロが言っている聖霊体験にはイエスが密接に関係している。
それはパウロ自身がそうだったからに他ならない。
つまり、パウロには聖霊体験がない! → おもしろい結論が出てきたw
イエス体験+霊魂体験、これがパウロ教である。

54 :神も仏も名無しさん:2015/04/26(日) 07:02:15.58 ID:FeLGXOBAy
あげ

55 :神も仏も名無しさん:2015/04/29(水) 12:36:01.51 ID:pbBNj2Z18
>>53
なんと!!
(´・ω・)ノθ゙゙ ヴイィィィィン
      ∧ ∧ 
〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)    
 UU ̄ ̄ U U  

56 :神も仏も名無しさん:2015/06/29(月) 11:11:19.54 ID:LNxJ4aBxv
あげ

57 :神も仏も名無しさん:2015/07/25(土) 23:02:53.74 ID:IY1VDGrT5
あげ

58 :神も仏も名無しさん:2015/09/03(木) 20:38:35.02 ID:DYj8S3NRO
あげ

59 :神も仏も名無しさん:2015/09/28(月) 12:40:14.70 ID:WoAo7uDrN
あげ

60 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 08:46:23.39 ID:ahCSkixMQ
誰も来ないなあ (TT)

61 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 22:29:11.71 ID:/gYCucrG7
誰か来てほしいなw

62 :小牧 瑞夫(こまき みつお):2016/04/22(金) 04:41:15.34
https://www.youtube.com/watch?v=u_voluujwRA

63 :神も仏も名無しさん:2016/04/24(日) 07:10:59.71 ID:N7hmT7jOJ
>>52-53 <パウロを形づくったもの> その四、その五は、
性急だったかもしれない。
残念だが、パウロが何を体験したかの資料があまりに乏し過ぎる。

パウロは自分の神秘体験を宝石のように思い、
人に話すことで、それを失うことを恐れたのかもしれない。
体験を話しても体験は失われないのに、なぜだろう?
ここに、彼のロゴス信仰やら利己主義やらが漂っているような。

64 :神も仏も名無しさん:2016/04/24(日) 07:34:24.01 ID:N7hmT7jOJ
たとえば禁煙を心に誓っても、
それを人に話してしまうと挫折する可能性が高くなる。
誰にも話さず、心にしまい込んでおくと逆に、
その誓いを実現しようという心的エネルギーが高まって行く。
それと似たようなものがあるのかもしれない。
 
ロゴス信仰は言霊信仰と重なっている。
言葉 = 体験 なのである。
この信仰の背後には、自己愛や利己主義があるのかもしれない。
 
秘すれば花・・・
肝心なことを話さなければ、人は何だろうかと興味を抱き続ける。
話してしまえば、それでわかったような気にさせてしまう。
体験は体験しないとわからないのに。

65 :神も仏も名無しさん:2016/10/02(日) 12:18:44.01 ID:twvV8xhME
良スレあげ

66 :神も仏も名無しさん:2017/02/18(土) 04:01:21.08 ID:CddK/OQ5X


67 :神も仏も名無しさん:2017/02/27(月) 22:17:06.06 ID:ni6OJ1NQt
パウロを批判的に検証すれば、大きな成果がありそうな予感がする。
しかし、なかなか難しいテーマではある。

68 :神も仏も名無しさん:2017/03/21(火) 07:27:37.93 ID:Xnubg3E4D
キリスト教はパウロの妄想だったのだろう。
感応精神病の一種でもある。

69 :神も仏も名無しさん:2017/04/06(木) 18:19:25.63 ID:PeQXN88wB
使徒言行録19:24

パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、
お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」

70 :神も仏も名無しさん:2017/04/17(月) 18:26:05.50 ID:5LEkS9ZZH
キリスト教の成立過程を確認しよう

@ まずユダヤ教の聖書、タナハ(旧約)が存在する
A AD30年、イエスの死
B AD50〜65年、パウロの登場と布教 〜 パウロの手紙
C 福音書の成立
 マルコ(65年)、ルカ(80〜85年)、マタイ(85〜90年
 ヨハネ(90〜100年)
D その他
 使徒言行録(85年)、黙示録(1C末)

71 :神も仏も名無しさん:2017/04/17(月) 18:50:50.28 ID:5LEkS9ZZH
これを見れば、パウロは福音書、使徒言行録、黙示録が成立する前の
人間だったことがわかる。ということは、
パウロが主張する「贖罪説」は、パウロの作り話だということになる。
彼以前に、贖罪説を語った人間は一人もいないからである。

パウロの手紙がパウロのすべてであり、
福音書も使徒言行録も黙示録も無視してかまわないだろう。
そうすれば、後に残るものは「贖罪説」だけになる。
そしてこれがキリスト教の本質なのである。

72 :神も仏も名無しさん:2017/04/17(月) 19:04:20.27 ID:5LEkS9ZZH
イエスの十字架で、人類の原罪が贖えたのか否か。

これがキリスト教の真偽を決める。

もちろん偽である。彼の死の前後で人間の生活は、

なーんにも変化しなかったのだから。

むしろ悪くなったw

73 :神も仏も名無しさん:2017/04/18(火) 06:28:25.96 ID:5MDU/iyeY
パウロの贖罪説は、イザヤ書52章から54章あたりを中心に
イメージされたのだろう。イザヤ書にオリジナルがある。
キリスト教ではそれを預言だったと言い訳する。

しかし、神が全知全能であることを考えれば、贖罪説が矛盾している
ことはすぐにわかるはずだ。神は自分の代理人を置かなくても、
自分ひとりで人類の苦悩や不幸を除去できるからである。
イエス・キリストをまったく必要としない。

74 :神も仏も名無しさん:2017/04/18(火) 06:48:51.04 ID:5MDU/iyeY
そんなパウロの作り話が、なぜヨーロッパを席巻できたのか。
その理由は、ローマ帝国でキリスト教が国教化されたことにある。

313年、キリスト教信仰を公認するミラノ勅令
325年、ニケーア公会議(アタナシウス派が正統、アリウス派追放)
 
これ以降、キリスト教以外の信仰が迫害され弾圧された。
ヨーロッパ人はキリスト教以外の信仰が許されなかったのである。
その悪影響は時代を超え、現代に到るまで連綿と継続している。

75 :神も仏も名無しさん:2017/04/18(火) 07:19:09.36 ID:5MDU/iyeY
周囲の人間がすべてキリスト教に影響されているなら、
そこで生まれ育った人間は自然に、キリスト教に親しむことになる。
強制にしろ、いったんキリスト教社会ができあがれば、
前の世代から後の世代へ、親から子へとキリスト教は受け継がれる。
仏教など、ほかの宗教が入り込む余地はほとんどない。
 
キリスト教が問題なのは、
その聖典である聖書自体が、嘘と真理の混ぜ物だという点にある。
自分の都合がいいように拾い読みし、様々に解釈できるのだ。
そこで矛盾した内容もあるが、学ぶべき真理も数多くあり、
聖書を捨てるわけにはいかないと考える。
 
しかし、聖書を捨てるわけにはいかないと思った時点で、
その人はキリスト教から離れられなくなる。
 
聖書はなまぬるい本なのだ!

76 :神も仏も名無しさん:2017/04/23(日) 12:29:57.02 ID:ko0YFf33N
聖書はウソと真理の混ぜ物である

あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかで
あってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを
口から吐き出そうとしている。黙3:15-16

77 :神も仏も名無しさん:2017/05/09(火) 20:06:06.38 ID:xtqIgGRis
なまぬるい ・・・ 妥協。正反対の物を、足して2で割ることをいう。
中道 ・・・ 霊主体従。霊と身体との間に、主従という緊張関係がある。

78 :神も仏も名無しさん:2017/05/11(木) 20:53:07.25 ID:V84dRzV4E
★ 洗礼の、真の意味とは何か ★
 
洗礼という言葉は、旧約になく、新約になってから登場する。
では、キリスト教の専売特許なのかと言えばそうでもない。
当時から、エッセネ派、西方ミトラ教、マンダ教などの洗礼教団が
中東地域に存在し、洗礼の儀式を行っていたという。
 
何も中東地域に限らない。インドでは紀元前のはるか昔から、
ガンジス河などで沐浴が行われていた。古事記にも、
イザナギが死のケガレを洗い流すために川で禊をしたとある。
 
こういった古くからの習慣や伝統を背景に、
洗礼は、キリスト教の秘蹟として採用されるに至ったのであろう。

79 :神も仏も名無しさん:2017/05/11(木) 22:27:25.31 ID:V84dRzV4E
さて、この洗礼の意味を、新約に探そうとするとやっかいである。
イエス自身が、洗礼のヨハネから洗礼を受けているからだ。
 
洗礼のヨハネは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を
宣べ伝えている(ルカ3:3)。そのヨハネからイエスが洗礼を受けた
ということは、イエスは罪人であり罪があったということになり、
イエスは神の子というキリスト教の大前提が崩壊してしまう。
 
そのためか、洗礼に関する聖書の記述は混乱してわかりにくい。
そこで聖書を離れ、私的な体験からアプローチしよう。

80 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 06:08:31.62 ID:yzSLM8/R/
シンプルに考えよう。
 
わたしたちは、身体が汚れたり疲れたりすれば風呂に入る。
風呂がなければ川で水浴びをする。寒ければ暖かい風呂に入り、
暑ければ水風呂に入ることもあるだろう。
 
これが身体だけでなく、心や精神の問題にも役に立つ。
心や精神が疲れたり、重く沈んだり、汚れたと感じる時に風呂に入り、
川で水浴びをしたりすれば、しばしの安らぎを得ることができる。
そうなることを実際に体験して知っている。
 
そのため、心や精神の問題で深く悩むと、自然に、無意識に、
風呂に浸かり、川で水浴びをする。
そうすることによって、心や精神が軽くなり、癒されるからである。
これが洗礼と名づけられる以前からある、洗礼の効果である。

81 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 06:56:32.23 ID:yzSLM8/R/
ということは、キリスト教のように、洗礼を儀式化する必要はない
ことになる。人間は心や精神の問題で追い詰められると、
無意識に風呂や川を求め、それに浸かろうとする。そしてこの方が
自然であり、必然性があるがゆえに、キリスト教の洗礼にまさる、
真の洗礼とも言うべきものではないだろうか。

82 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 08:07:21.00 ID:yzSLM8/R/
わたしは30歳のころ、聖霊体験をしている。その体験の前になるが、
無意識に、毎日のように水風呂に浸かっていた。水風呂だったのは、
カネがなく、猛暑なのに電気代節約でクーラーを使わなかったからでは
あるが。。。でもそれによって、ほんのわずかな安らぎを得ることが
できた。いまではこれが、わたしの洗礼体験だったと思っている。
 
その体験から言えば、洗礼とは、罪や穢れの意識が熟し始めた時、
その意識が苦しくて、それを洗い流そうとする身体的な行為だと定義
できるかもしれない。罪や穢れの意識は精神的な問題だから、
身体的に解決することはできないはずである。だからそれは、精神的な
問題の身体化であって、精神病の一種に分類されるかもしれない。
 
それにも関わらず、多くの人間が風呂や川で罪や穢れを洗い流そう
とし、ほんのわずかだが実際に精神的な効果も得られる。
こんなところが、洗礼の効果と限界になるだろう。

83 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 09:40:53.41 ID:yzSLM8/R/
現代では、精神と身体の相互依存関係は一般に認められている。
それゆえ、洗礼が精神病の一種として分類される、というのは、少し
言い過ぎだったかもしれない。しかし、日常生活に支障が出るように
なれば病的だと言わざるを得ないだろう。
たとえば、何回も繰り返し手を洗う強迫神経症のようなものである。

84 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 10:28:03.65 ID:yzSLM8/R/
★ 洗礼体験と聖霊体験の違い ★
 
洗礼体験は、無意識にせよ、罪の意識が身体化することを言う。
罪の意識とは、自分の心や精神が汚れている、自分は罪深い存在だ
というぼんやりした思いである。それは、心が沈む、心が重い、
何となくゆううつだ、などという気分から始まり、それが深まれば、
自分の罪深さに圧倒され、生きる勇気さえ失ってしまう。
 
これに対して聖霊体験は、神との出会いであり、「罪の赦し」であり、
生命エネルギーの復活である。洗礼体験と聖霊体験とは真逆であり、
体験の順序も必ず、洗礼体験から聖霊体験へと展開して行く。

85 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 10:33:49.24 ID:yzSLM8/R/
洗礼体験 → 罪の意識 → 聖霊体験 → 罪の赦し
これが、罪の意識から、罪の赦しまでの一連の流れになる。
 
イエスも例外ではない。
キリスト教が主張しているように、イエスが無原罪なら、
洗礼体験も聖霊体験も必要なくなってしまう。
 
しかし福音書には、イエスの洗礼体験と聖霊体験の記述がある。
そういう記述がある以上、イエスは人間だったことになる。
福音書自体が、イエスが人間だったことを証明しているわけである。

86 :神も仏も名無しさん:2017/05/12(金) 11:05:43.50 ID:yzSLM8/R/
キリスト教は三位一体を説くから、
全能なる神と、イエスと、聖霊とはまったく同じ尊格である。
そうでなければ三神教になってしまう。
 
ということは、全能なる神も洗礼を受けることで罪を意識、
罪を悔い改めて聖霊を受けなければならない。
そんな神は全能でもなく何でもない。
それに、聖霊こそが全能なる神の上に位置することになる。
 
キリスト教は、人間を神にするから論理が破綻してしまう。
こんなデタラメ宗教を強制された西欧人はほんとうに気の毒である。

87 :神も仏も名無しさん:2017/05/13(土) 10:45:36.52 ID:Djl+P3Xij
★ パウロの贖罪説は作り話だ ★
 
パウロは贖罪説を主張するが、イエスの十字架によって、人類の原罪が
赦されたという証拠を何ひとつ示していない。それどころか、十字架の
前後で世の中は何ひとつ変わっていないではないか。
 
キリスト教によれば、エデンの園で暮していたアダムとエバが、
神が禁じる善悪の実を取って食べたことで原罪が生じる。〜創世記3章
食べなければ永遠に生きられたのに、それを食べた罪によって人類は
やがて死ぬべき運命に定めらる。これが原罪神話である。
 
パウロはこれに対して、十字架の三日後に、イエスが復活したこと
をもって、神による罪の赦しがあったのだと力説する。イエスは神から
赦された初穂なのであり、他の人間もイエスに続けというわけである。
キリスト教は、この話を信じれば救われると主張している。

88 :神も仏も名無しさん:2017/05/13(土) 11:07:31.43 ID:Djl+P3Xij
この主張は、詭弁家パウロの詭弁である。
この物質世界を生きているからこそ死が問題になるのに、
死後の世界には死が存在しない、という問題のすり替えをしている。
 
あの世が実際にあるのかどうか。
あの世に、霊として復活するのか、身体を持って復活するのか。
(福音書においては、この世の身体を持って復活する)
あの世に復活することが、この世の救いになるのか否か、などなど。
 
こういった議論をすべて省略している。
そもそもパウロは、あの世のことを知っていたのだろうか。
 
生前のイエスに会ったこともないパウロが、
イエスの声を聞いたと言って回心する件が使徒言行録にあるが、
なぜその声がイエスの声だとわかったのだろうか。

89 :神も仏も名無しさん:2017/05/13(土) 21:21:20.81 ID:Djl+P3Xij
死者の復活は、古くから世界各地で語られている。
従って、イエスの霊は、死者の霊から復活した初穂ではないことになる。
かりにそうであるならば、キリスト教は成立しない。

@ パウロの所属したファリサイ派自体が、イエスの復活以前から、
復活も天使も霊も認めている。使徒23:6−8
A 旧約には、口寄せを行ったり、それを禁止する記事がある。
B 新約の中にも、霊界や死者の霊の存在を暗示する話が登場する。
C 古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされた。
D プラトンは、霊魂不滅説を前提に、イデア(永遠の真理)を説いた。
E ヴェーダ聖典では、肉体は滅びるが、霊魂は不滅だとされる。
F 古事記には、イザナギの霊界訪問や、神功皇后による口寄せがある。
G 現代であれば、シルバーバーチ霊の霊界通信が有名である。

90 :神も仏も名無しさん:2017/05/13(土) 22:37:47.10 ID:Djl+P3Xij
モーセやエリヤのように、イエスが復活する以前に復活した人がいたら、
キリスト教は完全に崩壊するだろう・・・

また、イエスと無関係に聖霊体験をし、罪の赦しを得た人が一人でも
いたら、キリスト教は完全に崩壊するだろう・・・

また、教会で洗礼を受けたのに、聖霊による罪の赦しを得られない人が
一人でもいたら、キリスト教は完全に崩壊するだろう・・・

なーんてことには絶対にならないだろう・・・
もともと聖書は、真実と作り話と混乱と矛盾をまぶしてあるから、
いくらでも言い逃れができてしまう。(^−^)w

91 :神も仏も名無しさん:2017/05/14(日) 07:32:23.80 ID:HjrTrPgcm
以上を要約すれば下記のようになるだろう。
  
古くからの伝承・・・人間は死後、全員が霊界に復活する
イエスの十字架・・・十字架の前後で何ひとつ変わっていない
 
パウロの作り話・・・イエスの贖罪で、人間は天国に復活できる
キリスト教成立・・・パウロの教えが信者の免罪符になる
 
地理上の発見前・・・白人同士、キリスト教徒同士の殺し合い
****発見後・・・有色人種を奴隷化、大虐殺、ホロコースト
 
結論・・・ペテン師かキチガイ

92 :神も仏も名無しさん:2017/05/16(火) 20:34:34.35 ID:UjnUBMcp6
★ クリスチャン ★
洗礼を受けると、クリスチャンを自称できる (^−^)
 
某サイトによれば、そのメリット・デメリットは・・・
@ クリスチャンネームがもらえる 〜 カトと聖公会ぐらい
A 月々の献金義務が生じる 〜 多い所だと年収の1割
B 教会の奉仕活動(掃除など)が生じる
C 転居の時は、転入・転出の手続きが必要である
 
非クリから見れば、デメリットばかり・・・
それでも洗礼を受けるのは、すっかり洗脳されてしまったから。
キリスト教徒は、疑似餌で釣られる魚みたいかも。TT

93 :神も仏も名無しさん:2017/05/17(水) 08:38:02.02 ID:+fCPdB1I+
一ペト3:21 〜 (ノアの洪水から洗礼の意味を語る)
この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活に
よってあなたがたをも救うのです。洗礼は肉の汚れを取り除くことでは
なくて、神に正しい良心を願い求めることです。
 
☆ こういった文章にいちいち反論することはやっかいである。
なぜならウソと真実との混ぜ物だからである。
要するに彼らは、洗礼と聖霊の違いを全く理解できていない。
 
@ ノアの洪水が洗礼の予表であるという考えは間違っている。
A それは精神の汚れを取り除こうとする代償行為である。
B 復活や良心は洗礼ではなく、聖霊体験によって得られる。

94 :神も仏も名無しさん:2017/05/17(水) 08:58:15.29 ID:+fCPdB1I+
使徒10:47−48 〜(異邦人が異言を話し、神を賛美している)
そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、
水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と
言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受ける
ようにと、その人たちに命じた。
 
☆ これも話が混乱し、矛盾している。
@ 洗礼→聖霊が順序なのに、聖霊→洗礼に話が転倒している。
A すでに聖霊を受けた人に、洗礼もイエス・キリストも不用なのに。
B ペトロには聖霊体験がなく、聖霊について何もわかっていない。
C 使徒言行録を書いたルカもわかっていないことになる。

95 :神も仏も名無しさん:2017/05/17(水) 09:34:46.36 ID:+fCPdB1I+
コロサイ2:12−13 〜 (これはパウロの話) 
・・・洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストを死者の中から
復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、
神はキリストと共に生かしてくださったのです。
神は、わたしたちの一切の罪を赦し・・・
 ↑ 
☆ パウロも洗礼と聖霊を混同している。
パウロと行動を共にしていたルカに聖霊体験がなかったように、
パウロにも聖霊体験がなかったことがわかる。
 
☆ 詭弁家パウロの罪は、イエスの復活は死後の話なのに、
信者に対しては、洗礼を受けさせすれば、復活が生前に生じるかの
ように誤解させるところにある。生前に洗礼を受けても、
この世の人間はやがて全員が死ぬ運命にある。

96 :神も仏も名無しさん:2017/05/17(水) 09:59:35.16 ID:+fCPdB1I+
ローマ書6:4 〜(キリスト教の復活はあの世の話)
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる
者になりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から
復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
 
ローマ書6:5 〜(信者は神の子キリストになる?)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかる
ならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
 
☆ イエスは神の子であって、神とイエスと聖霊が三位一体ならば、
イエスを信じてイエスと一体になる信者は? 神とも一体になる。
つまり人間も神になることができる。
 
☆ パウロはこんな話をしていることになる。はっきり言っておくが、
パウロは神を冒涜するペテン師でありキチガイだ。(^−^)w

97 :神も仏も名無しさん:2017/06/04(日) 20:25:33.05 ID:+TRm1oy43
★ 予定説のウソ ★

ローマ書5:12ー13 〜(創造の時代、神は全知全能ではなかった)
このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって
死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を
犯したからです。

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなけれ
ば、罪は罪と認められないわけです。
---------------------------------
ここでは道徳的な罪と法律的な罪の違いが問題になるが、神はアダムの道徳的
な罪に対して死罪を宣告する。律法がなければ罪にならない、という
パウロの意味不明な主張を無視した、厳しい判決を下している。

98 :神も仏も名無しさん:2017/06/04(日) 21:05:51.45 ID:+TRm1oy43
ローマ書11:28−29 〜(パウロは神が全知全能だと主張する)
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対して
いますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
----------------------------------------------
神が全知全能なら、アダムによる原罪自体が発生しない。
アダムに約束を破られた以上、神が全知全能でないことは明らかである。
それなのに、神の全知全能を前提に、イスラエル人への賜物と招きは、
取り消されないと言っても無理がある。

99 :神も仏も名無しさん:2017/06/05(月) 19:29:59.34 ID:tDU6O0FxX
神は全能である → 予定説にならざるを得ない
神は全能ではない → 予定説が成立しない
 
旧約の傑作、ヨブ記はどうなのか。
神はサタンに、神に対するヨブの信仰を試す許可を与える。
そこでサタンはヨブの運命に介入した。
ーーー このあたりはエデンの園を思わせる。
さて三人の友人は、因果応報を理由に悔い改めをヨブにすすめる。
納得できないヨブは、自分と友人との争いを神に訴えた。
ーーー 途中経過は省略するが、最終的に次のような結論になる。
神は、自分の罪に気づき、それを悔い改めたヨブを祝福し、
因果応報でヨブを責めた三人の友人に対して怒る。42:7
ーーー したがって、ヨブ記は予定説を認めていない。
ヨブの自由意志を認め、予定説を認めないのであれば、神は全能では
ないことになる。エデンの園と同じ立場である。

100 :神も仏も名無しさん:2017/06/05(月) 20:00:54.26 ID:tDU6O0FxX
ヨブ記42:2には、「あなたは全能であり、
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」ともある。
しかし直後の42:3では、「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」と続いている。
 
これをどう読むかだが、ヨブの、神は全能者という発言を、
神自身が否定している言い方である。
ヨブ記の作者は、神の正体を知っていたのかもしれない。
 
サタンという霊的存在を認め、
サタンとレビヤタンを同一視していることも注目したい。
聖霊体験と竜神体験をしているような気がする。

101 :神も仏も名無しさん:2017/06/05(月) 20:47:58.99 ID:tDU6O0FxX
この地上は全能なる神が創造したと聖書は言っているが、
あまりにも多くの不幸と悲しみで覆われている。
神が全能なら善なる神ではなく、悪なる神としか思えない。
  
もうひとつの可能性は、全能なる神という設定が誤りであり、
全能ではなかったということである。神が全能でなければ、不幸も
悲しみもピッタリ説明がつく。喜びも幸福も説明がつく。
 
<神は命そのものである> 
神は命であり、人間は命と物質が合体したものである。
そうであるなら、神は全能でもなく全知でもないことになる。
こう定義した方が自然科学的に言っても合理的だろう。
この場合はもちろん、予定説は成立しない。
聖書の全能なる神は存在しない。
ゆえに、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は成立しない。

102 :神も仏も名無しさん:2017/06/13(火) 17:46:00.71 ID:G6YlLkgME
★ 異言は聖霊ではなく悪霊の賜物である ★

使徒2:4 すると一同は聖霊に満たされ、W霊Wが語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話しだした。

一コリ12:9−11 ある人にはその同じW霊Wによって信仰、ある人には
この唯一のW霊Wによって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人
には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の「異言」を
語る力、ある人には「異言」を解釈する力が与えられています。これらすべて
のことは、同じ唯一のW霊Wの働きであって、W霊Wは望むままに、
それを一人一人に分け与えてくださるのです。

☆ パウロもルカも、「異言」を聖霊の働きだと頭から決め込んでいる。
しかし、場違いな「異言」は、周囲に不気味な印象を与えるだけであり、悪霊
の影響を感じさせないだろうか。「異言」を聖霊の働きにしてしまうのは、
この二人に聖霊体験がないからに他ならない。

103 :神も仏も名無しさん:2017/06/13(火) 18:20:20.67 ID:G6YlLkgME
ひとつ場所で、それぞれが自分勝手に祈り出したら、
それは間違いなく悪霊のいたずらだよ。
キリスト教徒は、どうしてこんな簡単な理屈がわからないのかな。
すっかり洗脳されているからだろう。
 
炎のような舌(使2:3)もそうだが、こんなものを聖霊降臨とか
言ってるキリスト教徒をユダヤ人は心底軽蔑していると思う。

104 :神も仏も名無しさん:2017/06/17(土) 17:32:16.22 ID:cuPEBbqyC
★ パウロが嘆いたユダヤ教の律法主義 ★

タナハ(旧約聖書)に記された律法は全部で613に及ぶという。
義務(〜しなければいけない)が248、禁忌(〜してはならない)が365
あり、政治から生活全般にいたるまで、細かな取り決めが記されている。
この煩雑な律法を守れない人々が罪人になる。

パウロは、「律法によっては罪の自覚しか生じない」(ロマ3:20)と、
律法の義に代わる「信仰による義」を説いている。
しかしこれは、パウロの詐欺か誤りであって、律法の目的は「罪の自覚」を
生じさせること自体を目的としている。

ユダヤ教はそもそも、@罪を自覚させ、Aそれがどんな罪なのかを考えさせ、
Bそれを悔い改めさせ、C神との出会いを可能にするために構築され、
Dその達成者を輩出することに成功した宗教なのである。

105 :神も仏も名無しさん:2017/07/19(水) 21:00:12.87 ID:8vPgHJr1y
★ 洗礼の意味 ★

洗礼は、罪の意識が生じた時、その精神的な重荷を軽くするために行う、
身体的な代償行為のひとつである。その背景には、身体的な汚れを洗い流す
入浴や川浴びやシャワーなどとの連想がある。それによって罪の意識が
洗い流され、罪の意識が軽くなったような気がするのである。

つまり、精神的な問題を、身体的な問題へとすり替えることである。
話をすり替えただけだから、罪の意識が解決したわけではない。
罪の原因は解決されずに放置されている。

それゆえ、洗礼を受けたから罪はすでに赦された、という主張は成立しない。
身体的な汚れを落とす行為をシンボリックに真似ただけである。
洗礼のレヴェルは、罪の自覚が生じただけである。
聖霊体験とは天地ぐらいの違いがある。

106 :神も仏も名無しさん:2017/07/19(水) 21:32:04.82 ID:8vPgHJr1y
洗礼すれば聖霊体験ができるかのように言うのは、
キリスト教の大ウソである。その狙いは、信者が見守る中で洗礼させ、
教会の中に囲い込もうとすることにある。集団の心理的な圧力で、
簡単には教会から抜け出せないようにするのである。
 
イエスは聖霊と火で洗礼するという。マタ3:11
火というのは火のような試練のことである。その試練を通過した者が
聖霊を受けることになる。イエスは伝道中、水の洗礼をしなかった。
これだけで洗礼と聖霊の区別を知るだろう。
 
罪の意識 → 洗礼 → 火の試練 → 聖霊体験へと進行する。
信じて洗礼しても聖霊体験はできない。火の試練の後である。
キリスト教のデタラメに気づいてほしいものである。

107 :神も仏も名無しさん:2017/07/20(木) 17:40:39.27 ID:9yWo2hbcF
洗礼の意味は・・・求道者にならんとする決意表明である。
・ 本人は自分の罪をぼんやりだが意識している
・ そして何らかの真理があることを何となく意識している
・ しかし、何が真理かを未だ知らない状態である
 
教会が洗礼を儀式化している理由は、衆人環視の中で決意表明させ、
・ 教会組織に信者を拘束、信者を逃がさない目的がある
・ その方が求道にとってプラスなのかと言えば、マイナスだろう
・ なぜなら真理自体は、教会にも組織にもないからである
・ そういったことに無知な大衆が悪徳教会のターゲットである
 
洗礼を受けずに、求道者にならんと決意することは可能である。
そしてその方がむしろ、真理に到達する近道である。

108 :神も仏も名無しさん:2017/07/20(木) 18:19:05.50 ID:9yWo2hbcF
キリスト教の洗礼は「人間の罪」との関係で登場する。
そのことは、マタイ3:6「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を
受けた。」という記述からも明らかだろう。
ところで「人間の罪」とは何だろうか。これを明らかにしないから、
洗礼、幼児洗礼、聖餐、聖霊などの意味がわからなくなる。
 
A 神は地上を目指している
・ 洗礼や幼児洗礼などの合理的な説明ができる。
 
B 逆に、神が天上を目指していたらどうか
・ 神は天上にじっとしていればいい。論理的に破綻している。
・ この場合は、洗礼や幼児洗礼の合理的な説明ができない。

109 :神も仏も名無しさん:2017/07/20(木) 18:51:19.33 ID:9yWo2hbcF
従って、Aのケースを検討するだけでいい。
ではこの場合の「罪」とは何か。
 
神は地上を目指してるのだから、赤子や幼い子供に罪はない。
子供もたちが聖人君子のようであり、周囲の利益ばかり思っていたら
育たない。子供たちは自分中心でいいのである。
ーーーということは、幼児洗礼は誤りだということになる。
 
これに対して大人たちは、体力をつけ、世間的知恵をつけ、
性的にも成熟するから、子供のように自分中心では危険なのである。
罪の意識は15歳前後の思春期と共にやってくる。
これこそは神の配剤とも言うべきものであり、
これが神探しのスタートになる。
罪の正体は自分中心である。
ーーー悪魔とは、大人になっても自分中心な人間をいう。

110 :神も仏も名無しさん:2017/07/21(金) 15:40:12.67 ID:WDx2ZqsFD
洗礼者ヨハネは、悔い改めへ導く洗礼を授けた。
これに対してイエスは、火のような試練で聖霊体験へと導こうとする。
それが山上の説教(マタイ5〜7章)である。
 
その核心は、マタイ5:3−10の「幸い」だろう。
ここには、「こんな人は・・・幸いである」と定型化された八項目が
箇条書きに列挙されている。もちろん直接的には、そういった人々への
慰めと励ましである。しかしこれらは、すでに試練を受けてボロボロ
に傷ついている人々への慰めと励ましなのである。
 
「こんな人は・・・」と定型化されたタイプの人は、弱肉強食の世間に
あって必然的に火のような試練に遭わざるを得ない。
イエスの話は、そこから逃げろではなく、そこで傷ついた人々を慰め
励ますだけである。その試練の先に「幸い」があると。
ーーーこれがイエスの教える「火のような試練」である。

111 :神も仏も名無しさん:2017/07/21(金) 16:28:31.97 ID:WDx2ZqsFD
山上の説教についての補足
 
@ マタイ5:11は、イエスの話かどうか疑問なので除外する。
「わたしのためにののしられ、迫害され・・・るとき、あなたがたは
 幸いである。」 かりにそう言ったとすれば、自分が神であるかの
 ような気負いに満ちていたことになる。それはないだろう。
 イエスはむしろ逆で、繰り返し謙虚さを説いている。
 マタイ18:1−3、19:13−15、20:26−27
 
A マタイ5:3「心の貧しい人々は・・・」
 日本語では「心の貧しい人」に良いイメージはない。
 ここから、自分の貧弱な心を誇る信者も出てくる始末である。
 霊的に貧しい人と言い換えても似たようなものだ。
 キリスト教ではわざと、「心の同義語」として霊とか霊魂を使う。
 しかし、イエスが説教の最初で「心の貧しい人々は〜〜」などと
 言うはずがない。えっ、何言ってるんだ、と言うことになる。 

112 :神も仏も名無しさん:2017/07/21(金) 17:02:07.86 ID:WDx2ZqsFD
山上の説教についての補足
 
B マタイ5:3「心の貧しい人々は・・・」
 この個所の対象は、誰にも愛されずに虚しい日々を送っている人々
 のことではないだろうか。かりにそうだとすれば、
 イエスが真っ先に取り上げてもおかしくない人々だとも思われる。
 誰からも愛されないということは、愛に飢えていることであり、
 この人たちこそ、愛(神」を探し求めるべき人々なのである。
 
 そういう意味なら、それをどう表現したらいいだろうか。
 たとえばこれ → 「神を探し求める人々は、幸いである」(^−^)

113 :神も仏も名無しさん:2017/07/23(日) 20:15:25.52 ID:X25Sdy8An
★ 良い木はよい実をつける ★ マタイ12:33−37

パウロが発明したキリスト教は、誕生してからすでに二千年が経過した。
その歴史的功罪を見れば、キリスト教の真偽は十分に判定できる。

キリスト教の信者は、異端者への迫害、魔女裁判、エルサレムへの十字軍、
新旧キリスト教の宗教戦争、黒人の奴隷化、アジアの植民地化、
南北アメリカやオーストラリアでの原住民大虐殺を忘れてはならない。

キリスト教は、ひたすら悪い実をつけ続けた悪い木なのである。
それを知りながらキリスト教を信仰し続けるのは罪である。
これがイエスの教えではないか。

114 :長澤翔 中野区の珍獣:2017/07/23(日) 20:43:38.12 ID:TR2KQsa1D
長澤翔 ソフトン 切断厨 マルチ商法 窃盗 偽計業務妨害 歩きタバコ ポジ種 書類送検
長澤翔 PS2 テロ実行犯 偽装離婚 実行犯 臓器売買 未成年喫煙 真犯人 パワプロ
長澤翔 テロ予告 革マル 土下座 暴行罪 違法 偽札 元公安 ゲイ
長澤翔 盗撮 通貨偽造罪 著作権侵害 銃刀法違反 FF エボン教徒 資金洗浄 朝鮮人
長澤翔 起訴 水素爆弾 レイプ 食糞 架空請求 ヤクザ 遊戯王 逮捕歴
http://i.imgur.com/iAxLvZS.jpg

115 :神も仏も名無しさん:2017/07/27(木) 19:19:17.32 ID:TZWU5cXiG
★ パンとブドウ酒のミサ or 聖餐 ★

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。」 ルカ22:15
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたの
ために流される、わたしの血による新しい契約である。」 ルカ22:16

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、
あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠の命を得、わたしはその人を復活させる。」 ヨハネ6:53−54

パウロの注意 一コリ 11:27−28
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者
は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

116 :神も仏も名無しさん:2017/07/27(木) 20:15:31.12 ID:TZWU5cXiG
ミサに関した記述を列挙すれば、ミサの意味が読み取れないだろうか。
それは、罪を洗い流そうとする「洗礼」や呪いの藁人形と同じなのであり、
古代社会に流行した類感呪術の一種であると言える。

それらを素直に読めば、行為義認ではなく信仰義認の立場になっている。
信仰義認を説くパウロが言いそうな話ではないか。
水の洗礼を受けてミサや聖餐に参加していれば、永遠の命が得られると
信じ込んでいるクリスチャンは本当にオメデタイ。TT

永遠の命を得るのはそんなに簡単ではない。
マタイ18:16−26 金持ちの青年を繰り返し読んでほしい。
ーーー金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。

117 :神も仏も名無しさん:2017/07/29(土) 18:09:48.57 ID:GgP6wlfvE
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、
あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠の命を得、わたしはその人を復活させる。」 ヨハネ6:53−54
・・・・・・・・・・
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞くと言った。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:60

☆ ここをストレートに解釈すれば「人肉食」のススメである。
これがミサ or 聖餐、パンとブドウ酒に注ぎ込められた意味ではなかろうか。
こんな話、聞いていられるかと、怒った弟子たちの反応は正常である。

人肉食を肯定するような者はケダモノである。
かりにイエスであっても、そんなことは決して許されないだろう。
そんなことを本当に言ったのだろうか?

118 :神も仏も名無しさん:2017/07/29(土) 18:57:10.35 ID:GgP6wlfvE
イエスは、弟子たちがこのことについて呟いているのに気づいて言われた。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。・・・」ヨハネ6:61

☆ 人肉食のススメなど、まともな人間なら誰も受け入れないだろう。
そんなものを受け入れるのは頭の混乱したキチガイだけだ。
イエスは人の心が読めるのに、人肉食については急に読めなくなっている。
なぜだろう。それは、まずミサ or 聖餐ありきだからに他ならない。

要するに、イエスが死んでから70年前後が経過して成立した、ヨハネ福音書
の大部分は作り話であるということなのだろう。このヨハネは、イエスの弟子
のヨハネではなく、ヨハネの手紙を書いた長老ヨハネではないだろうか。
この長老ヨハネが黙示録を書いた可能性は十分にある。

119 :神も仏も名無しさん:2017/07/29(土) 19:57:38.11 ID:GgP6wlfvE
>>118 訂正 
○ この長老ヨハネが黙示録を書いた可能性も十分にある。
 
洗礼の意味 ・・・ 自分の罪を意識したことへの記念であり、
同時に組織脱落を防ぐための、仲間同士の環視、血判状でもある。
 
パンとブドウ酒のミサ or 聖餐 ・・・ 聖霊体験の戯画化であり、
週ごとに再確認される仲間同志の血判状でもある。
冷静に考えれば、本人の自由意志を拘束する洗脳、催眠術でしかない。

120 :神も仏も名無しさん:2017/08/01(火) 18:59:36.31 ID:1H4Gy6dGq
★ パウロの思考回路はどうなっているのか ★
このスレの始めで扱ったローマ書3:7−8によって再度検証しよう。

 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、
 神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねば
 ならないのでしょう。(→ 裁かれるべきではない) 3:7

なぜこんな発想をするのか。それはパウロの頭の中に、イエスの十字架で、
人類の罪が赦されたという強烈な思い込みがあるからではないか。
赦しの効果が人類に一斉に働く以上、パウロの偽りの罪も当然赦されるし、
むしろ罪が重いほど、神の義、神の栄光、神の寛容さを明らかにする。
逆に言えば、罪が重ければ重いほど、神に愛されるわけである。

121 :神も仏も名無しさん:2017/08/01(火) 19:39:43.05 ID:1H4Gy6dGq
 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言える
 のではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々が
 いますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。3:8

もちろんパウロは悪を勧めない。しかし、神の恩恵は罪が重い者ほど大きい
ことになる。これでは善行に努める者は納得しないだろう。
パウロの考えは、親鸞の「善人往生す。いわんや悪人をや。」に酷似する。
そして親鸞もパウロと同様に悪人誇りを戒めている。

これらと似たものに天台本覚思想がある。
人間の自性は本来清浄だから修行不要とし、煩悩即菩提を主張した。
本覚思想は邪道として衰退したが、考え方としては共通している。
パウロも親鸞も、本覚思想に落ちていく危うさを感じている。

122 :神も仏も名無しさん:2017/08/01(火) 20:39:26.32 ID:1H4Gy6dGq
パウロと親鸞の根本的な誤りは、人間一人ひとりの善悪は千差万別なのに、
それを無視してすべての人間を同列に並べたところにある。

 正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、神を探し求める者もない。ローマ書3:10−11
これが極端であり、よりよく生きようする思いや努力を全否定している。
神がいるとしたら、人間の思いや努力を無視するはずがない。
その人の生き方に応じて裁く神の方が、よっぽど公平ではないだろうか。

誠実に生きた貧乏人と、嘘をつき泥棒をして人を殺した金持ちと、
どちらも同じように救われる? そうはいかないだろう。
神は決して正義を曲げることはない。

神と富 マタイ6:24
金持ちの青年 マタイ19:16−24

123 :神も仏も名無しさん:2017/08/02(水) 19:16:21.74 ID:3zCSQHjln
>>121の訂正 ○ 善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや
 
親鸞(1173〜1263、90歳没)は孤児になり、9歳で得度、
20年間比叡山で修行するが、【自力修行に限界】を感じて下山、
法然から【他力信仰】の教えを受けた。
六角堂では百日参篭、95日目に六角夢告を受ける。〜 女犯偈
1207年34歳で新潟県上越市に配流される。僧籍喪失→非僧非俗。
配流後は主として東国で布教した。恵信尼との間に4男3女。
 
親鸞の人生を思えば、折れそうになった気持ちはよくわかる。
しかし誤りは誤りだ。阿弥陀仏も48誓願もまったくの作り話であり、
大人たちのお伽噺としか言いようがない代物である。
 
阿弥陀信仰は、人間イエスを神に祭り上げたパウロ教よりはまし?
かりに違いがあったとしても五十歩百歩だろう。
というか、パウロ教の影響下に阿弥陀信仰が成立した可能性もある。

124 :神も仏も名無しさん:2017/08/02(水) 19:47:10.24 ID:3zCSQHjln
それにしても浄土教やパウロ教の他力信仰は間違っている。
なぜかと言えば、間違ったままの自分を肯定してしまうからだね。
 
たいがいの人間は30歳ごろに転機を迎えるのかもしれない。
そこで諦めるとパウロや親鸞のような他力信仰になる。
諦めないで、自分の壁を突破したのが釈尊やイエスなんだろうね。
要するに人生は、「自分との闘い」なんだよね。
 
他力信仰でも、現在はスピリチュアリズムという選択肢がある。
それによれば、霊界では高級霊が低級霊を導くために活躍している
という。高級霊は霊界の阿弥陀仏のような存在なんですね。
イエスも高級霊として活躍してるらしいから、パウロ教徒も安心して
パウロ教を捨てることができる。どちらも早く目覚めてほしい。

125 :神も仏も名無しさん:2017/08/02(水) 20:13:34.30 ID:3zCSQHjln
日本の仏教、すなわち大乗仏教は、末法思想に影響されながら
展開した。釈尊の教えは、時代と共に正法・像法・末法と劣化し、
今は末法だから誰も悟れないと諦めるのが鎌倉仏教だった。
そこに法然も親鸞も日蓮も道元も生きていた。彼らは、
 
悟れない、神を知ることはできない・・・という前提を生きていた。
だから悟れないし、神を知ることもできない。彼らは、
世の終わりがやって来るという終末思想に脅えながら生きていた。
 
その意味で、大乗仏教はキリスト教の終末思想に通底している。
そこにオウム真理教とハルマゲドンのつながりがある。
意外にも、大乗仏教とキリスト教の関係は密接なのかもしれない。

126 :神も仏も名無しさん:2017/08/03(木) 18:15:50.92 ID:CWKOlr19/
終末思想と末法思想
 
ネットで検索すると両者は異なるという見解もある。が、こういった
考えが生まれて来る原因を考えれば、どちらも同じだとも言える。
仏教やキリスト教がそうであるように、
宗教は基本、真理としての愛と法を説こうとするものである。
 
では逆に、憎み合い不法を競い合い、争い出したらどうなるのか。
勝つために科学技術が総動員されるから、現代においては人類破滅の
大惨事につながるだろう。いつの時代も、その時の技術に応じた破局が
必ずやって来る。そういう予測は少し考えればすぐにできる。
 
それをイメージした者が、その危機感を持って表現したものが、
終末思想であり、末法思想ではないだろうか。

127 :神も仏も名無しさん:2017/08/03(木) 18:50:42.88 ID:CWKOlr19/
仏教の末法思想は受動的だからまだ許される。しかしキリスト教は、
終末を積極的に実現しようとするから不気味である。
キリスト教徒は見事に洗脳され、狂っているとしか言いようがない。
 
 黙示録22:20
 以上すべてを証しする方が、言われる。
「然り、わたしはすぐに来る。」
 アーメン、主イエスよ、来てください。
 
黙示録の22:18−21は、それまでの記述と格調が異なり、
教会関係者による後の加筆だろうと推測できる。

128 :神も仏も名無しさん:2017/08/04(金) 17:55:35.86 ID:WQMpcQ/m8
ここでは黙示録への深入りをやめ、
終末思想と末法思想にそれなりの結論を書いて置きたい。
 
釈尊やイエスが、神や霊魂に出会って究極の体験をする。← 自力
そして、その体験に基づいた教えを人々に説く。← 布教
人々はその教えを信じることで救われれたような気持になる。← 他力
ここでもう、宗教としての堕落が始まる。← 精神の退化
これを何世代も繰り返せば必ず破局がやって来る。← 終末・末世
 
では、そうならないためにどうすればよいのか。
次から次へと、釈尊やイエスのような人間を輩出する以外にない。
そんなことは不可能だ、などと言っている時間的余裕はない。
神や霊魂に出会う方法は明らかにされている。← 自力オンリー
後は実行するのみだにゃ。(^−^)v

129 :神も仏も名無しさん:2017/08/05(土) 20:07:55.68 ID:aYRSzDmHc
★ ヨハネの黙示録 ★
 
結論から言えば、この書は単なる預言の書ではない。
信仰義認の行き過ぎを「行い=行為義認」によって牽制しようという
目的の下に書かれている。だから、信仰義認を前提とした行為義認
であることを最初に理解しなければならない。
 
黙示録は預言書だが、預言は神が全知全能であってこそ成立する。
人間に自由意志があって、神の預言を左右できては成立しない。
たとえば、旧約のヨナ書などはその典型である。
 
それにも関わらず黙示録が、行い=行為義認を取り上げるのは、
ローマ帝国による迫害によって、多くの教会が退廃的な状態へと
追い込まれたからではないだろうか。信仰義認の悪人誇り、
他力本願の本願誇りが目につくようになったわけだ。

130 :神も仏も名無しさん:2017/08/05(土) 20:50:51.63 ID:aYRSzDmHc
☆ 一元論、全知全能、光、信仰義認、選民思想と差別思想、予定説、
預言、黙示思想など → これらの言葉は同じ系統に属している。
☆ 二元論、命と物質、行為義認、自由意志 → 同じ系統になる。
ーーーーーー
どれかひとつが出てくれば、どんな立場なのかがすぐにわかる。
論理的にそうならざるを得ないということね。
ただ、黙示録は「行い」が頻繁に出て来るが一元論の系統に含まれる。
その土台は、神の一元論、三位一体、信仰義認、予定説である。 

131 :神も仏も名無しさん:2017/08/05(土) 21:28:01.74 ID:aYRSzDmHc
神とイエスを区別する文章がある一方で、イエスを神にしている
文章もある。いったいどっちなのかと読者を悩ませる。
神なのかイエスなのかを明確にしないのが洗脳テクなんだろうね。
 
神である主、今おられ、かっておられ、やがて来られる方、全能者が
こう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」1:8
  
見よ、わたし(イエス)はすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、
それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガで
ある。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。
22:12−13

132 :神も仏も名無しさん:2017/08/06(日) 13:32:34.94 ID:Xs8Zf/KNS
ヨハネの黙示録は、パウロの「贖罪説」に基づいている。
 長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って
 来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。7:14
 
これで黙示録は、キリスト教と矛盾しないことがわかった。
@ 黙示録の行為義認は、信仰義認の行き過ぎを戒めているだけ。 
A パウロの贖罪説に基づいている。7:14 → 信仰義認   
B 三位一体 → 神とイエスを同一視 1:8、22:12−13
C その神は全知全能 → 予定説や選民思想につながる。
D 神の刻印を押されたイスラエルの子ら 7:1−8

133 :神も仏も名無しさん:2017/08/06(日) 18:48:40.17 ID:Xs8Zf/KNS
パウロの贖罪説については、その誤りを繰り返し指摘した。
「真理の考察をしないか?」「キリスト教のやめ方」スレをどうぞ。
同じスレで、天使であるサタンの考察もすでに終わっている。
 
要するに贖罪説はパウロの作り話なんだね。
また、サタンと言われている天使には、物質欲に汚れた人間を神界に
近づけない使命があり、人間にはこれが悪魔的に思えるのだろう。
しかし実際には、悪魔的な行為を働くのは人間だけだね。
人間は天使にも悪魔にもなれるのだ。(^−^)
 
神の全知全能も、アダムとエバで聖書の最初から破綻する。
ノアの洪水(創6〜9)なんか、黙示録さながらの人類滅亡だった。
神が全知全能なら、人間が堕落することなんかありえないのに。
それに神は、もう二度と人類を滅ぼさないと約束している。
ならば、再び終末がやって来るという黙示録の話は大ウソになる。 

134 :神も仏も名無しさん:2017/08/07(月) 19:21:48.92 ID:UnoqdFsBG
★ ヨハネの黙示録 ★ 〜 その2「悔い改め」という大ウソ
 
マタイ3:2には「悔い改めよ。天の国は近づいた。」とある。
マルコ1:15には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて
福音を信じなさい。」とある。→ 時がすでに満ちている???
 
では黙示録には何と書かれているのか。
13:8 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書
にその名を記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。
21:27(新天新地に入れるのは)→ 小羊の命の書に名が書いて
ある者だけが入れる。→ 最初から救われる者は決まっている!!!
 
だったら、「悔い改め」は無意味ということになるよね。
黙示録を書いたヨハネは詭弁を弄していると言はざるを得ない。
パウロも嘘つきだが、長老ヨハネも嘘つきとはがっかりw
信仰義認とは予定説を意味するんだね。

135 :神も仏も名無しさん:2017/08/07(月) 19:52:56.47 ID:UnoqdFsBG
長老ヨハネは、ヨハネの手紙を書いた人である。
また、その用語や思想などから、ヨハネ福音書やヨハネの黙示録の
作者だろうとも言われている。
  
しかし、イエスの弟子だった使徒ヨハネとは違うと思う。
ペトロを除き、イエスの弟子はほとんど歴史の闇に消えて行ったが、
使徒ヨハネもその一人だったのではないだろうか。
 
なぜそうなのか。パウロの妄想に同意できなかった使徒たちは、
キリスト教の歴史から抹殺されたんだね。
今のキリスト教は、イエスの教えではなく、パウロ教なんだね。

136 :神も仏も名無しさん:2017/08/07(月) 21:34:41.08 ID:UnoqdFsBG
ヨハネ福音書が好きなキリスト教徒は多い。名前がヨハネだから、
進んで使徒ヨハネだとカン違いしたいのかもしれない
ルターもヨハネ福音書とパウロの手紙が好きだったらしい。
 
ヨハネ福音書には、イエスの長〜い説教が繰り返され、それが信者の
気持ちを和ませ、酔わせるのではないだろうか。
しかし冷静に考えれば、原稿や演説ならともかく、日常会話のレベルで
そんなに長〜い説教をすることなど絶対にありえない。
イエスを知っていた使徒ヨハネなら書くはずのない内容である。
  
それに、救われる人間と救われない人間が天地創造の時から
「命の書」によって決まっているとしたら、イエスの長〜い説教を
聞いても無意味ではないか。命がけでイエスに従った使徒ヨハネが、
そんな単純なことに気がつかないはずがない。
ーー 悔い改めを離れては、山上の説教も無意味である。
ーー この「悔い改め」に人間の「自由意志」がある。

137 :神も仏も名無しさん:2017/08/08(火) 18:47:55.12 ID:za3VNc17z
本当に「命の書」があるとすれば ・・・ 
終わりの日に、救われるか否かはすでに決定しているわけだから、
悔い改めしようがしまいが関係ない。「命の書」を語りながら、
同時に「悔い改め」を語ることは矛盾である。
 
「命の書」が真実なら「悔い改め」が無意味でありウソになる。
「命の書」が作り話でウソなら「黙示録」がウソなのであり、
 救われるためには「悔い改め」が欠かせない。
 
命の書は黙示録のオリジナルではない。下記文書にも登場する。
ダニエル書12:1−2 ・・・ 黙示録はこれを踏まえている。
パウロの真筆とされるフィリピ4:2−3
ルカ10:20

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