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【ダボハゼ禅】坐禅と見性、別館【まったり】七

1 :ほうれん草のゴマあえ:2014/11/03(月) 09:13:13.87 ID:SknChdqK.net
たとえば、風が吹いているような日に、

うら山をボンヤリ眺めてると

杉の葉がざわざわと揺れ動いて、

人の顔、鬼の顔、鶏天丼の大盛りだったり、

むかし一時間だけ試乗したスズキ・カタナが走ってたりするわけ・・。

381 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:07:53.46 ID:Rl3g219P.net
 
半跏趺坐とは智見の剣と慈情の玉と両方とも必要だが、

多くの場合に仏教は慈情救世を重んじてやむをえない場合に智剣を弄するのだということを表したものだ。

なお、また身を正身端坐すれば身業(不殺生、不偸盗、不邪淫)舌、

上の顎に掛ければ口業(不悪口、不両舌、不妄語)心を非思慮に安ずれば

意業(不嫉、不瞋恙、不愚痴)の十善道は知らず知らずそなわる形を表したものでありますから、

その外形をなす時には、必ず内容の道理を心に深く、思い浮かべて、坐しておらぬ、

平生にも坐した時と同様に行われるように修するのである。

382 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:09:00.92 ID:Rl3g219P.net
 
道元禅師は「身の結跏趺坐すべし。心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。(三昧王三昧巻)」

といっておられる。それ故に、形式が非常に尊貴なので、

その形式を規則通りに行うところに自ずから形式以上の威儀も現れるのである。

その様子をちょっと述べるなら、三昧王三昧の巻には、

「驀然として盡界を超越して、仏祖の屋裡に太尊貴生なるは結跏趺坐なり。

外道魔党の頂を蹈翻して、仏祖の堂奥に箇中の人なることは結跏趺坐なり。

仏祖の極を超越するは、只この一法なり。」と。

383 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:09:44.56 ID:Rl3g219P.net
 
ここのところの消息がいわゆる禅家趺坐の真面目であるのだから、

参禅の士は時として、半跏趺坐するも、

この面目の中にあって三昧王三昧ならば昔にならって、仏祖屋裡に太尊貴生たるを得て、

外道魔軍の鼻孔を穿つことができるのであります。

以上述べたところで、正身端坐法の身体の構え方だけはよいのであります。

384 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:10:37.19 ID:Rl3g219P.net
 
換言すれば、調身法の形に現れた方面はこれだけだ。それからどうするかというと、

道元禅師はこのように示された。

「微息微かに通じ身相既に調べて欠気一息し、左右揺身して、兀々として坐定して箇の不思量底を思量す。

不思量底如何んが思量せん。非思量これ坐禅の要術なり。」と。

これで端坐法つまりは坐禅法の全体を示しておられるのであります。

要するに、この文意の正当が身心の上に実現したならば、いわゆる坐禅の要はこれでおわりでありまして、

いわゆる凡てであります。

この文意は調息致心法でありますから、いつか述べることにしましょう。

385 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:11:22.79 ID:Rl3g219P.net
 
さて、お次は調息について論述いたす。

この禅をいうものを学ぶ上においては、息を調えることははなはだ大切なことである。

息の不調は諸種の発病の基因をなすものである。

このことは、天台小止観などにも説かれていることだが、殊に禅門では大切なことなのである。

螢山禅師は「坐禅のとき身或は熱するが如く、或は寒するが如く、或は澀へるが如く、

或は滑かなるが如く、或は堅きが如く、或は柔なるが如く、或は重きが如く、或は軽きが如く、

或は驚覚するが如きは、皆息の調はざるなり。」という。

386 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:11:58.70 ID:Rl3g219P.net
 
又、不能語などにも「身体の或は熱し或は寒するが如き等を皆禅中の発病であって、

皆息の調はざるに基因する」といわれる。

ここで身を調える上では是非ともこの息を調えるということが甚だ大切なのであります。

かようにこの出息入息の呼吸というものは、人の思想に影響するもので、

今どんな息づかいをしてもその人の思想は変化しないかというと、

決してそうではないのだ。

387 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:12:40.65 ID:Rl3g219P.net
 
あなたが何かに狼狽しているとか、あるいは緊急に外へ行く時に来客があるとかで、

急ぐような場合には必ず呼吸が喘いで、せかせかしている。

然るにこれに対してちゃんとこれはこれ、あれはあれ、と裁りもりがついていれば

その思想の平安であるのと同時に呼吸も従っており、

平安であり決してせかせかしないようになるものである。

388 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:13:06.30 ID:Rl3g219P.net
 
これは実験上確かな事実である。

この観点からつまりは、息を調えるところ身調い、同時に思想整うものである。

しからば、この身心調御の禅の要術としては甚だ必要にして、

書くことのできないものであるということ忘れてはならん。

389 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:14:18.30 ID:Rl3g219P.net
 
調息の仕方は天台小止観などを見ればなかなか詳しく説いてある。

すなわち調息法に四種の相あり。一に風、二に喘、三に気、四に息、と。

一に風相というのは坐するとき鼻中の息の出入に声のするのをいうとあるから、

音のする場合をいうのであります。

二、喘相とは息に声(音)はしないが出入結滞して通じないのをいうことですから、

ぐずぐずした場合をいうのであります。

三、気相というのは音もしない、不通でもないが、出入の息が細やかでないことをいうのである。

390 :龍陽君:2016/11/08(火) 01:14:54.41 ID:Rl3g219P.net
 
次に息相とはこれは音もしない、つまってもいない、

また気が荒くもなく、出入の息が綿々として息をしているように、

またしていないようでもあるかという仕方であります。

つまりは、前の三相はみんな不調の相を明かしたもので、

第四の息相が調相を示したものである。

なお他に三法といって、一種の調息法があるけれど、

ややこしくなるので端折ります。

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