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【ダボハゼ禅】坐禅と見性、別館【まったり】七
- 1 :ほうれん草のゴマあえ:2014/11/03(月) 09:13:13.87 ID:SknChdqK.net
- たとえば、風が吹いているような日に、
うら山をボンヤリ眺めてると
杉の葉がざわざわと揺れ動いて、
人の顔、鬼の顔、鶏天丼の大盛りだったり、
むかし一時間だけ試乗したスズキ・カタナが走ってたりするわけ・・。
- 331 :龍陽君:2016/11/01(火) 00:58:53.47 ID:fFpsNsJS.net
- 大悟の状態、つまり悟入の状態と、悟後の状態にいささか注意をされたい。
大悟の状態は悟後の状態ではなく、悟後の状態は大悟の状態ではない。
これは説明上必然の帰結と言えよう。
大悟の状態は大悟の体認の状態であり、正面から言えば、一大自覚のときであり、
すなわち自分みずからが真如と化成した精神的状態である。
もちろんその奥底には、自覚覚他、覚行究満と、向上さらに向上の一路
すなわち向下却来の消息に向かって自在の妙術を所々現することのできる
行解一枚の精神的状態が存している。
- 332 :龍陽君:2016/11/01(火) 00:59:38.14 ID:fFpsNsJS.net
- そして悟後の状態は、精神的に言えば、大の状態つまり大悟の体認の状態である。
これはその心的状態が現に現れたので、つまり燃えるような暖かな噴出泉から湧き出て、
向上であれ向下であれ、社会国家の上、重々無尽に流路される、実行的方面である。
いわゆる心的状態が身的状態となった身心一如、修証不二となったところである。
換言すれば、この場合は前者の心的状態の損するところ行的状態
すなわち身的状態は一つの希望に止まっているにすぎなかったのに反して、
心的状態のあるところ、身的状態は伴い、
身的状態のあるところ心的状態両者伴って、不即不離である。
- 333 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:00:21.00 ID:fFpsNsJS.net
- つまり前者は、体を認めた状態、後者は用であって、
体の存するところ必ず用の伴うつまりこれが真の大悟である。
ここまで進みこんでこそ、禅の大悟、証道である。
こういう人を大悟底の人、超関脱落底に安んじて茶を飲んで、飯を食って、
仕事をして、休んで、日々夜々、活発々地、七通八達、滞りなく、
実践躬行して自己の光明を蓋天蓋地とならしめる人である。
倫理的に言うなれば、人格を完成し、本務遂行の人である。
いわゆる坐禅の効を奏した人で社会国家の上で活動する大偉人である。
- 334 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:00:58.44 ID:fFpsNsJS.net
- しかしながら、功を奏したとはいえ、この境界になれば、運任無作、益々進み、益々修しては行じ、
行じては修し、大修行をさらに大修行してやまず。
無限無究に不退転勇猛精進するのである。
この意味において禅は迷たる俗諦門の上から精神を錬磨し、品性を陶冶するすべであり、
人格を養成する法であって究極には大悟の人となるのであるが、
禅本来の悟の上たる真諦門から言えば、何の効果もなく、何の功徳もなく、何の目的もなく、
専一弁道、向上不退転の実行にあるのである。
- 335 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:01:41.91 ID:fFpsNsJS.net
- すなわち「行の招くところは証なり。自家の実蔵、外より来らず。
証のこれ使ふところのものは行なり。心地の蹤跡豈に廻転すべけんや。
然り而して若し、証眼を廻らして行地を顧みば一翳の眼に当るなし。
将さに見んとすれば白雲万里。若し行足を挙して証階に擬せば一塵の足を受くる無し。
将さに蹈まんとすれば、天地懸かに隔る是に於て退歩せば仏地を勃跳す」と。
参禅の士は、この意をよく味わうべきである。
いや、前来説き去り説き来れるところを実践躬行する底の人であらねばならないのだ。
- 336 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:02:27.80 ID:fFpsNsJS.net
- さて坐禅の仕方であるが、端坐の方法にも二種類ある。
一つは結跏趺坐、もう一つは結跏趺坐があるのは知っているだろう。
どちらの坐をするにしても、端座するときはおもむろに静室、静処に入って
用意した拈香を焚いてこの坐法をやってみたまえ。
そこでこの端坐のときは必ず坐物と坐蒲を敷かねばならない。
用心記には「坐褥は須く厚く敷くべし。打坐安楽なり」とある。
普勧坐禅儀には「尋常坐処には厚く坐物を敷き上に蒲団を用ふ」と。
- 337 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:03:09.77 ID:fFpsNsJS.net
- 道元禅師は布のようなものを一枚敷いて、その上に蒲団を用いるように丁寧にお示しになっている。
また長蘆賾禅師の坐禅儀にも厚く坐物を敷くことが教えられている。
そしてその上に用いる坐蒲は、どんなものであるかと言えば、形は四角ではなくて円形である。
これについては本光和尚は、日本の讃岐円座の形であると言っている。
なので趺坐のとき蒲団をもちいることは仏の在世からのことで茅団あるいは草団と言って蒲に限らないけれど、
それを用いてきたのである。
大般若巻一には「爾時世尊獅子座の上に於て、自ら尼師壇を敷く」とある。
- 338 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:04:08.77 ID:fFpsNsJS.net
- また、釈迦譜の巻の三、因果経には、
「菩薩即ち自ら思惟す。過去の諸仏何を以つて座となして無上道を成ぜしや即ち自ら知る、
草を以つて座と為ることを。釈提桓因化して凡人と為り、浄輭草を執る。
菩薩問ふて言く、汝が名は何等ぞ。答ふ吉祥と名くと。菩薩之を聞て、心大に歓喜して、我不吉を破りて以つて吉祥と成さん。
菩薩又言く、汝が手中の草、これを得べきやいなや、是に於て吉祥即ち草を授け以つて菩薩に与ふ。
因つて発願して言く、菩薩道を成せば願くば先づ我を度せよ。
菩薩受け已つて敷いて以つて座となす。而して草上に於て結跏趺坐す」とある。
- 339 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:04:53.45 ID:fFpsNsJS.net
- 密部の方広儀軌などには、行人は茅団の上で吉祥坐をなすべしとあり、
また烏渋瑟摩儀軌の中巻には、草団ということがあります。
元帥儀軌にも菖蒲席に坐するとあります。
このようにありますので、まあ禅家ばかりではありませんが、
とくに禅学者はみんなこれを敷いたので、用心記には特にこのことが示してある。
「昔人金剛座に坐し磐石の上に坐する蹤跡有りと雖も、亦坐物せずと云ふことなし」と。
- 340 :龍陽君:2016/11/01(火) 01:05:46.91 ID:fFpsNsJS.net
- だから端坐のときには必ず坐蒲を用いるべきである。
もっともインドも中国もほとんどは土間や敷き瓦で畳がありませんから、
さらに厚く敷く必要があるのだが、日本のように畳があっても厚く敷いて
その上に坐蒲を用いるのが衛生的にもよろしいと思う。
古来、この坐蒲をつくるのには初めは茅や蒲を入れたものであったらしい。
坐蒲団は多くはバンヤとか白鳥の毛が入ったものがあるが、
これも昔から用いてきたものだったらしい。
何はともあれ、坐蒲なら今ではバンヤや白鳥の毛のものがあるとすれば高級品であろう。
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