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主イエス・キリストは父なる神 2014.9.5

532 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2014/12/03(水) 10:10:03.17 ID:yFh9NO244
2.贖う

真の基督教95(5)
「主は贖罪の行為によって自らを義と為し給うた。」
 世に在し給う間、父なる神に従順であり給い、且つ特に十字架の上に受難し給うたことによって、
功績と義とは、只主にのみ属するということが現今基督教会に語られ、信ぜられている。
然し、十字架上の受難こそ贖罪の業そのものであったと想像されている。然しそれは贖罪の業
ではなく、彼の人間性の栄化であったのである。この事に就いては我々は贖罪に関わる章に語る
であろう。主がそれにより自らを義と為し給うた贖罪の行為とは、彼は霊界で最後の審判を為し、
悪しき者を善き者から即ち山羊を羊から分離し、天界から龍の獣達と一つになっていた者を放逐し、
価値ある者によって新しい天界を、無価値な者によって新しい地獄を形成し、徐々に凡ゆる物を
至る所で秩序に回復し、地上に新しい教会を建設し給うたという事であった。是らの行為こそ、
主が自らを義となし給うた贖罪の業であった。何故なら義は凡ての事柄を神的秩序に従って為し、
如何なる物であれ、秩序から離れ去ったものを再び秩序へ回復することに在るからである。
何故なら神的秩序は義であるから。凡て此の事は、「神の義を凡て成就することは当然なり」
(マタイ3・15)という主の語によって意味され、また旧約聖書の以下の語によって意味
されている「見よ、我ダビデに一つの義しき枝を起す日来らん、彼は王として治め、地に義を
行はむ、その名はエホバ我らの義なり。」(エレミア23・5、6。33・15、16)
「我は義をもって語り、救うに能力あり」(イザヤ63・1)
「彼はダビデの位に坐り、之を審きと義をもて建てん。」(イザヤ9・7)
「シオンは義をもて贖はるべし」(1・27)

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