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【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学

1 :神も仏も名無しさん:2014/08/04(月) 07:20:40.75 ID:bW/Qq6++.net
バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。

※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。

41 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/24(日) 17:36:44.12 ID:tZTZcS58.net
<ドストエフスキーの最後の長篇『カラマーゾフの兄弟』(1879〜1880)には
、貴族の家庭カラマーゾフ家の退化の
歴史と人民からはなれたインテリゲンツィアの思想的混迷が描かれている。

下男スメルジャコフのうちにドストエフスキーはブルジョワ的諸関係が支配する世界でのもっとも完全な精神的・
肉体的退化のいまわしい諸特徴を明確に描き出した。スメルジャコフは自分のシニカルな意識のうちにイワン・カラマーゾフの利己主義的な「哲学」を
反映して、「賢い人間には」すべてが
許されているという確信に到達する。

イワンの形象において作家はふたたび
、あたかも唯物論と無神論が個性からあらゆる道徳的な支えをうばい、個性
を精神的破綻と犯罪に導くかのごとき、超反動的な思想を表現しようとつとめた。
しかし実際にはイワン・カラマーゾフはラスコーリニコフと同じく、個人主義的な、無政府主義的な理解のせまい環の外へはでていない。
ドストエフスキー自身の理想の担い手であるのは、
修道院で育てられたカラマーゾフの末
弟のアリョーシャと彼の精神的指導者
であり社会における正教教会の支配的
役割について夢想しているゾシマ長老
である。

42 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/25(月) 09:36:59.34 ID:tDp2pZmK.net
しかし、ゾシマは聖人ではない。ロシア正教の伝承では、聖人は死後、腐らずにミイラになる。しかし、死後、ゾシマからはひどい腐敗臭が漂う。
イワンの、神を信じない「賢い人間」には「すべては許されている」という思想はドストエフスキーの内面世界の一部を表現している。
ドストエフスキーの内面において、革命的な無神論者であるイワンと正教へ全面的に帰依するアリョーシャの二人が特段の矛盾を感じないまま併存しているのである。
イワンの思想を体現したのがカラマーゾフ家の使用人スメルジャコフだ。
スメルジャコフは、「すべては許されている」という思想に基づいて、イワン、アリョーシャらの父で(スメルジャコフの父である可能性も示唆されている)、人格破綻者のフョードル・カラマーゾフを殺害し、カネを奪った。

殺人を犯した事実を告白したスメルジャコフとイワンの間でこんなやりとりがなされた。
<「以前には、これぐらいの金をもってモスクワか、もっと言えば、どこか外国で生活がはじめられたら、などと思ったこともございます。そんな夢を抱いておりました。
それもこれも、《すべては許されている 》と考えたからです(中略)これはあなたが本気で教えてくださったことですよ。ですから、ぼくもそんなふうな考えにたどり着いたんです」
「自分の頭でたどり着いたんだろう?」イワンがにやりと顔をゆがめた。
「あなたの導きによってです」>

(ドストエフスキー[ 亀山 郁夫訳 ] 『カラマーゾフの兄弟4』光文社古典新訳文庫
2007年、p344)

明らかにドストエフスキーは自身の心の中で、「すべては許されている!」と叫んでいる。しかし、それを吐露してしまうと今度は修羅場から生きて帰ることが出来ないと、確信していた。
だからこそ、文学作品の中で、「著者の思想の敵対者という偽装
」をしながら、「すべては許されている」という革命思想をイワンやスメルジャコフに語らせたのだ。

43 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/25(月) 13:10:25.60 ID:VD8J/DBI.net
33〜42のまとめ

「すべては許されている」(スメルジャコフ)

※作家は危険な思想について語るとき、あたかもそれが自分に敵対する
思想であるかのごとき偽装をすることがある。

(佐藤優『修羅場の極意』中公新書ラクレより)

44 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/02(火) 18:32:18.95 ID:k9gwYWuB.net
ダニエル書 2:31-36《ダニエルによるネブカデネザルの見た夢の解き明かし》(口語訳)
※《 》はmarginalによります。
以下引用
...王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。
その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。
その《像の頭は純金》、《胸と両腕とは銀》、《腹と、ももとは青銅》、 《すねは鉄》、《足の一部は鉄、一部は粘土です》。
あなたが見ておられたとき、《一つの石が人手によらずに切り出されて》、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。
ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。 これがその夢です。
今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。
王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、 また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。
あなたはあの金の頭です。 あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。 第四の国は鉄のように強いでしょう。
鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。
しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。...(以下略、引用終了) 続く

45 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/02(火) 18:40:35.26 ID:k9gwYWuB.net
これは、当時の4つの世界帝国を表していると言われています。
第一の獣獅子=金の頭=バビロン
第二の獣熊=銀の腕と胸=メディア・ペルシャ
第三の獣豹=青銅の腹ともも=ギリシャ
第四の獣=鉄の足=ローマ
鉄の指=復興ローマ
人手によらずに切り出された石=神の国

一〜四までの、広く言えば、《バビロン文明》の後に全地に満ちる《神の国》が訪れる、と。
因みにギリシャのアレキサンダー大王は《豹の如く》あっという間に地中海統一を果たし、メディア・ペルシャ帝国を滅ぼしましたし、
四世紀末にキリスト教がローマの国教となり、ローマ帝国の文化の源流であるバビロン発祥のものもをすべて排斥しました。
これは聖書がヒューマニズムの象徴バビロン(さらに遡ればアダムとエバ)を糾弾していたからです。
そこで科学や演劇などの文化さえも、おおよそ聖書的でない(=ヒューマニズム)とされたものは全て封印したのです。
もし、教会による「文明の抑制」がなかったなら、今より早く、近代文明が起こっていたかもしれません。
人知を越えた神の御業としかいいようがありません。

46 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/03(水) 15:52:25.53 ID:uxicM8jg.net
ところで、話かわって、プロテスタント神学では、教会は「見える教会」と「見えない教会」に分かれています。地上にあるのは「見える教会」です。
しかし、本当の信者と悪魔の使いのような信者との違いはわかりません。世界の終わりに人々が裁かれる「最後の審判」のときに、「見えない教会」のメンバーが明らかになるのです。
神学的には「教会以外に救いなし」という言葉がよく出てきますが、ここでいう「教会」は、人間が認識できない「見えない教会」を指しています。
プロテスタントの視点からは、ローマ教皇をトップにする地上の「見える教会」に救いの根拠はないのです。これはカトリックとプロテスタントの決定的な相違です。

47 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/03(水) 16:16:50.15 ID:uxicM8jg.net
福田恆存は、和魂洋才の限界を自覚的に「文明の利器を輸入して基督教は断る」という日本文明の皮相的態度を見抜いておりました。
さらに遡れば、既に、内村鑑三はより、徹底的でした。
『日本国と基督教』(大正14年8月)より。
「今日の日本文明に何となく不完全にして不徹底なる所の在るは、是が為であると思ひます。
即ち、西洋文明を採用して其の根本の精神なる基督教を信じないからであります。」

さらに、『基督教と西洋文明』(昭和2年11月)より。
「西洋文明に深入りすればする程、基督教を信ずるのが困難になる。...(中略)...徹底的に西洋文明を実行せんと欲して、真面目に基督教を信ずるのは不可能である。」
と。

48 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/05(金) 08:55:35.73 ID:UbYOROug.net
『内村鑑三』(富岡幸一郎著)より。

「全キリスト教を空無に帰する」(『反キリスト者』)ことで十字架にかけられしキリストを発見するニーチェ。
キリスト教世界にキリストを導入するというキルケゴール。人間の神についての思想ではなく神の人間についての思想によって、キリスト教社会共同体を破壊したカール・バルト。
そして、誰かがキリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、自分は真理よりもキリストとともにあることを望むと語ったドストエフスキー。
彼らはその思想の根本にいずれも「キリストなる岩」を持っていたと言ってもいい。 続く

49 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/05(金) 10:12:28.35 ID:UbYOROug.net
続き
『余は如何にして基督信徒となりし乎』(内村鑑三)より

キリスト教を正しく評価するにあたり、なによりもたいせつなことは、純粋で単純なキリスト教と、神学教授らによって修飾され教義化されたキリスト教との間に、はっきりとした区別をつけることである。
公正な現代人ならば、キリスト教そのものを悪しざまに言うことはないと信ずる。
手に触れる懐疑的な著作をことごとく読破したのち、私は次のような結論に達した。
ナザレのイエスは、彼の名で呼ばれる人々に対してあれほど激しい攻撃が加えられたにもかかわらず、結局、一指も触れられずに残ったのである。
続く

50 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/09/05(金) 16:34:03.01 ID:gjA7tkNG.net
続き
もしキリスト教が今私の信じているようなものであるならば、キリスト教はヒマラヤ山そのもののように確固不動である。
キリスト教を攻撃する者は、自分自身を不利におとしいれるのである。
岩に向かって突撃する愚か者はいない。たしかに、ある人々は、これこそキリスト教と想像するところのものに向かって突撃する。
だが、それは実際はキリスト教ではなくて、その上に建てられた上部構造である。
それは信仰のない信者たちが建てたもので、キリストなる岩は、それ自体では時の磨滅や攪乱に抵抗しえないと考えた彼らが、
神殿、大会堂、教会、教義、三十九個信条などという、燃えやすい構造物をその上にかぶせたのである。
(続く

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