2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学

1 :神も仏も名無しさん:2014/08/04(月) 07:20:40.75 ID:bW/Qq6++.net
バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。

※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。

281 :老クリスチャン:2016/01/30(土) 17:28:24.00 ID:DSxocp6k.net
2004年(主日C年) 2月1日 年間第4主日

Iコリ 12:31〜13:13
神の国を受け継ぐキリストの体としての教会について述べた後、使徒パウロはコリントの教会の人々に、賜物としての愛を祈り求めなさいと勧めました。

使徒パウロがここで言っているのは、キリストの体である教会を造り上げて行く愛のことです。
ヨハネ福音書が 「互いに愛し合いなさい」 と言うとき、それは共にミサをささげる共同体としての教会の一致と団結のことを指しているのと同じです。

ですからそれは、洗礼によって私たちをキリストの体とならせてくださった十字架の福音への愛であり、神の国の希望と固く結びついています。
そしてこの愛は、霊的な賜物としての愛であって、信じる人々に上から与えられるものなのです。
「愛は決して滅びない」(v.8) のは、それがキリストの愛に起源しているからです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Iヨハ4:10-11)

私たちは "ありがたい良いお話" ではなくて、"神の秘められた計画"(I コリ2:1) としてのキリストの福音を聞き取るように、今朝もここに招かれていることを感謝しましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

282 :老クリスチャン:2016/02/02(火) 15:20:17.61 ID:rcBX9vw+.net
来年 2017年は、宗教改革 500周年を迎えます。
ルーテル教会とローマ・カトリック教会とは、この年を共同で記念しようとしています。

かつての宗教改革を、共同でエキュメニカルな視点から想起することは、重要ではありますが、また困難なことでもあります。
ですから、両教会に属している信者だけでなく、その他の教派の信者も共に、この問題に関心を持ってほしいと思います。

現在皆さんは、両教会のこのようなエキュメニカルな努力について、どの程度ご存じでしょうか。
ご意見をお聞かせください。

283 :老クリスチャン:2016/02/03(水) 17:26:06.80 ID:LyXfALZO.net
昨年の2月に、「争いから交わりへ」 という書籍の日本語訳が、教文館から出版されました。
これは、「一致に関するルーテル = ローマ・カトリック委員会」 が、2013年に発表した共同文書です。

これは決して法的拘束力を伴う協定のようなものではなくて、両教会間で永く続けられて来た神学的な対話の実りであります。
もうお読みになった方も多いと思いますが、もし未だでしたら、是非一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。

どのような文書でも、それを理解し咀嚼するにはある程度の素養が必要です。
カトリック信者であるなら、少なくとも 「カトリック教会のカテキズム」 には明るいことが期待されます。
プロテスタントの方でしたら、宗教改革以来のいろいろな 「信仰告白」 や 「信仰問答」 のどれかに通じているぐらいの予備知識が、望ましいと思います。

284 :神も仏も名無しさん:2016/02/03(水) 21:42:16.95 ID:BldjfA4y.net
>>283
今、読んでます。
昨年、委員会の中の鈴木牧師の熱い講演を聞き
来たる2017年を楽しみにしています。
単なる歩み寄りではないのが意外ですね。

285 :老クリスチャン:2016/02/04(木) 18:03:53.01 ID:A4+EjbvK.net
2004年(主日C年) 2月8日 年間第5主日

イザ 6:1〜8  ルカ 5:1〜11
シモン・ペトロが使徒たち一同の中で第一の者として、福音の世界宣教のために召されたということを伝えようと、ルカはここで意図しているように思われます。
その伝承の中で恐らく v.8 は、私たちが注目すべき最も重要な部分であります。

「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、"主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです" と言った。」(v.8)

最初 "先生" と呼んでいたイエスが、ここでは "主よ" と呼ばれています。
彼はこのとき "ナザレのイエス" ではなくて "神の子イエス・キリスト" に出会ったのだというペトロの感激的体験を、ルカ福音書は大切に考えました。
神顕現に伴うペトロの畏れが見事に描写されています。

聖なる神との出会いにおける人間の畏怖は、あらゆる宗教に共通する要素であると、かつて R.オットー は論じました (「聖なるもの」/岩波文庫)。
イエスがシモンに言われた 「恐れることはない ( = 恐れるな ! )」(v.10) は、この神顕現における定型句として聖書の各所で語られています (創 15:1、イザ 41:10、ルカ 1:30, 2:10、マタ 28:5他)。

しかし、私たちが今朝の福音書朗読で更に注目しなければならないもう一つの重要な事柄は、"罪の告白" がそこで同時に起こっているという事実です。
そしてこの関連で、私たちは旧約の朗読であるイザヤ書のテキストにも目を向けます。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

286 :老クリスチャン:2016/02/05(金) 18:33:00.21 ID:+NfkdDIi.net
2007年(主日C年) 2月4日 年間第5主日

Iコリ 15:1〜11
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもの (使徒的伝承) です。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、・・・・・ 」(vv.3-4)

この "最も大切な" 福音を、現代の教会は再発見しなければなりません。
それは使徒たちが伝えたもので、その使徒的伝承を今も支えておられるのは、天上のキリスト御自身だからです(マタ 28:20)。

過去半世紀間の神学校も、一般大学と同じように、間違った平等主義、アンチ・エリート主義の風潮や反体制主義的な気風に強く影響されて、教会が受け継いで来た使徒的・伝統的使信を過剰に軽視して来ました。
そのため、カトリックの司祭も、プロテスタントの牧師も、本格的な聖書の学びからはなはだしく遠ざかってしまったというのが実状です。

聖書は、"そこから神のことばを聞く" ものではなくて、そこから "自分たちの主張に都合の良い材料を得る" 資料集と考えられて来ました。
聖書の本来のメッセージ、使徒たちの宣教した福音などについて何の基礎知識もない司祭や牧師が、現代的感覚とか貧しい人々の側に立つなどと称して喋りまくり、ジャーナリズムやインターネット上での実りのない議論を繰り広げて来たのです。

今朝の朗読配分を通して私たちに、「最も大切なこと」 と語りかけてくださっているのは、天上のキリストであり、この方がまた祭壇でパンと杯のうちに臨在されることを、私たちは恐れをもって感謝しようではありませんか。
罪の赦しは、人間の行いによってではなく、ただキリストの恵みにより、信仰によって教会に与えられているのですから

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

287 :老クリスチャン:2016/02/06(土) 18:47:18.30 ID:VkYpUR+d.net
2013年(主日C年) 2月10日 年間第5主日

ルカ 5:1〜11
「イエスは、 ・・・・・ 腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、・・・・・ 」(vv.3-4)

神の言葉を聞こうとして押し寄せて来る群衆がおり (v.1)、神の国の福音を告げ知らせる (4:43) イエスがおられるという場面がこのテキストの前半であり、それに続いて漁師の仕事における現実的な課題への取り組みが後半では語られているように見えます。
突発的な豊漁も、商品の過剰在庫による資金繰りの困難も、町の一零細企業にとっては死活問題であることを、私たちはよ知っています。

「舟は沈みそうになった。」(v.7)  しかし、教会はそのような現実的な課題に対して、どんな助けを与えてくれるのだろうか。
この "聖書の学び" は、そのような期待に応えることは出来ません。
なぜならその第一の関心事は "神のことば" であって、それに対する人間の唯一の答えは、「主よ、 ・・・・・ わたしは罪深い者なのです」(v.8) だけだからです。

しかし、そのように教会で聖書が読まれ、また語られることのいかに少ないことでしょう。
教会であまりにも日常的に使われる "キリストを証しする" "福音を宣べ伝える" という言葉が、ただの空虚な掛け声でしかないことを知りつつ、不真面目に "信者ぶっている" 人たちのなんと多いことでしょうか。

イエスの語られる "神の国の福音" を、群衆と共に、また使徒たちと共に、聞き、理解し、受け入れ、信じる者だけが、ペトロと共に "罪を告白し" "罪の赦しを体験して" イエスに従う (v.11)、
すなわちキリスト者としての人生の旅を始めることになるのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

288 :神も仏も名無しさん:2016/02/06(土) 20:24:57.94 ID:0KpUqIoJ.net
くだらんコピペはやめなさい

289 :神も仏も名無しさん:2016/02/06(土) 23:38:37.51 ID:nCtUXf44.net
オカルトコピペ、某小さな氏より超マシ。

290 :老クリスチャン:2016/02/09(火) 18:27:59.22 ID:jL4g1fRu.net
>>284 >今、読んでます。

その後、いかがですか ? 是非、感想やご意見をお聞かせください。

現代のカトリック教会について何かを語ろうとするなら、第二バチカン公会議についての理解が必須であることは、自明の事実です。 この公会議を貫く特徴の一つに、エキュメニズムがあります。
ご存じない方が多いと思いますので、少し情報を提供させていただきます。

総レス数 654
518 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★