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【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学

1 :神も仏も名無しさん:2014/08/04(月) 07:20:40.75 ID:bW/Qq6++.net
バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。

※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。

231 :老クリスチャン:2015/12/21(月) 12:25:32.73 ID:aRpS+16Z.net
2000年(主日C年) 12月25日 主の降誕

ヨハ 1:1〜18
私たちの救い主イエス・キリストは、"父の独り子である神"(v.14)です。
この方が肉となって、私たち人間の世界に宿られました。
私たちと同じ人間の姿になって降り、私たちの罪を取り去るために十字架への道を歩まれました。

主の降誕を祝い、今年もこの出来事が私たちすべての人間の上にもたらした大いなる課題を思いましょう。
父なる神はこの独り子イエス・キリストの、地上の生涯と十字架上での死と死人の中からの復活というすべての出来事によって、この世に御自身を示されました。

"あなたは救い主イエス・キリストを受け入れ、信じますか ? " という問いかけへの応答という課題が、それ以来今日に至るまでこの世のすべての人々に対して与えられて来ています。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(v.12)
洗礼の秘跡を受けてミサをささげているすべてのキリスト者も、この大いなる課題に改めて応答することを求められています。
人間を照らす光である命が、救い主イエス・キリストの内にある(vv.4-5)ことを理解しましょう。

「いまだかつて、神を見た者はいない。」(v.18)
しかし洗礼の秘跡によって神の子となった私たちは、父の独り子である救い主イエス・キリストを理解することが出来るのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

232 :老クリスチャン:2015/12/22(火) 16:07:34.75 ID:vnpExSVw.net
2000年(主日C年) 12月25日 主の降誕
イザ 52:7〜10  ヘブ 1:1〜6  ヨハ 1:1〜18

私たち教会は今年も主の降誕を祝っています。
それが赤ん坊のイエスの誕生を連想するだけではなくて、私たちをその死に与からせてくださった十字架のキリスト、更にその復活にも与からせてくださる(ロマ6:4)再臨のキリストを思うときでありますように。

世俗の人々であれキリスト者であれ、日本中の人々が賑やかに主の降誕を祝い終わると、もうその赤ん坊のイエスがその後どうなって行ったかには関心を持つことなく、
続くお正月の祝いの中へとクリスマスの記憶が飲み込まれて消え去って行く ・・・・・ というパターンが、我が国では完全に定着しています。

しかし私たち教会はそうであってはならないのです。
降誕節中に次々と私たちが迎える祝日祭日のミサの重要性を、21世紀の教会は再認識すべきです。
聖家族の祝日(主日)、神の母聖マリアの祭日、主の公現の祭日(主日)、主の洗礼の祝日(主日)は、それぞれ固有のメッセージをもって私たちの降誕節を今年も豊かなものにしてくれるに違いありません。
天に栄光 ! 地に平和 ! ハレルヤ !

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

233 :老クリスチャン:2015/12/23(水) 18:21:40.29 ID:So5i3HL7.net
2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ

ヨハ 1:1〜18
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(v.14)

クリスマスは御子キリストの降誕を祝う教会の祭りですが、それはただの昔話のための記念日というようなものではありません。
降誕の物語りを

234 :老クリスチャン:2015/12/23(水) 18:22:18.82 ID:So5i3HL7.net
2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ

ヨハ 1:1〜18
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(v.14)

クリスマスは御子キリストの降誕を祝う教会の祭りですが、それはただの昔話のための記念日というようなものではありません。
降誕の物語りを "福音として" 聞き、信じて受け入れた人にとっては、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ1:7)という、現在の救いの根拠であります。
確かに 「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロ1:13)

ですから、「初めに言があった」(v.1)という、この "初めに"(エン アルケー)は、自然科学における時間の初めを意味しているのではなくて、私たちが神の御業を理解する出発点を指しています。
それは、マコ1:1の "初め" にも、創1:1の "初めに"(ベレーシース)にも当てはまることです。
私たちキリスト者にとって父・子・聖霊なる神は、先ず人間の歴史というものがあって、その歴史に "ときどき" 介入するだけの神ではないということです。

御子の受肉は、私たちキリスト者と教会にとっての、現在の救いと将来の神の国の約束を理解する、唯一の出発点なのです。
「万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(v.3)とは、そういう意味です。
「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の(国の)栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ5:2)

クリスマスの福音は、人間の悲惨や困窮という緊急事態に際して、"ときどき" 恵み深い助けを提供する "優しいイエスさま" の話、などではないのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

235 :老クリスチャン:2015/12/24(木) 17:03:57.88 ID:R0GBnbT0.net
2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ

ヘブ 1:1〜6
「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(v.2)

私たちが福音を聞いている

236 :老クリスチャン:2015/12/24(木) 17:04:27.18 ID:R0GBnbT0.net
2009年(主日C年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ

ヘブ 1:1〜6
「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(v.2)

私たちが福音を聞いている "今" という時は、この "終わりの時代" の "今" なのです。
福音が正しく説教されるとき、そこにはキリストがその救いをもって臨んでくださいます。
この方は "ただ一度" 永遠の贖いを成し遂げて(9:12)、神の右の座に着いておられる救い主です(v.3)。

私たちが御子の降誕を祝うとき、この御子がすでに成し遂げられた罪の赦しを信じ、そしてまた、なお実現せず将来栄光のうちに現れる 「天に蓄えられている希望」(コロ1:5)に向かって目を開くという、"今" の終末的性格が強調されなければなりません。

かつてスエーデンのルーテル教会監督であった A.Nygren はその牧会書簡の中で、「この "今" に対する終末論的強調があまりにも長い間教会の説教において極めて微弱でありました」 と述べました。
それから既に60年ほどになりますが、教会の状況は少しも変わっていないように見えます。
司祭の説教においてだけでなく、信徒各自が自ら聖書を学ぶ場合にも、聖書のテキストはその福音の終末的な使信の "今" という性質を大切にして取り扱われなければなりません。

残念なことに、聖書の解説を装って、今の時代の悲惨や困窮に対して介入してくれる、"この終わりの時代" には何の関係もない "都合の良い神さまの話" を語る人が多いのです。
そのような輩は "キリストの十字架に敵対して歩んでいる" "この世のことしか考えていない"(フィリ3:18-19)人たちです。

・・・・・ 以下、本文参照。
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237 :老クリスチャン:2015/12/25(金) 13:47:02.76 ID:eQu8CfhV.net
2003年(主日C年) 12月28日 聖家族

Iヨハ 3:1-2,21-24

聖家族の祝日の集会祈願は、「恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました」 という言葉で始まっています。
恐らくこの 「模範」 という表現から、通常は聖家族をキリスト者の家庭の手本として理解することが行われて来たのではないでしょうか。
これに類似する聖書解釈は、他の多くの個所についても従来行われて来ているものです。
しかしこの日の集会祈願は、それに続けて直ちに目を将来の神の国に向け、「あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように」 と祈ります。
聖家族の模範は、将来の神の国の家族を指し示す教会の希望の姿として、この集会祈願では理解されているのです。

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。 しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。 なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(v.2)

私たちキリスト者が 「神の子」 であるのは、約束の形で言われているのであって、それは復活の日に初めて完成するのです(ロマ8:23参照)。
私たちは人でありますが、その日には 「御子に似た者」 「キリストの兄弟」(ロマ8:29、ヘブ2:11-12参照) となるのです。
教会はキリストの祭壇を囲んでミサをささげている(互いに愛し合う)共同体であり、神の国の家族となるように聖霊がこれを一つに結んでくださいます。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

238 :老クリスチャン:2015/12/26(土) 11:56:53.45 ID:ropXTOOf.net
2012年(主日C年) 12月30日 聖家族

Iヨハ 3:1-2,21-24
「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(v.23)

私たちキリスト者にとって、「互いに愛し合う」 という一致と結束は、"キリストの祭壇を囲んでのこと" であります。
初代教会と教父たちの伝承は "キリストが祭壇である" と宣言していると、ピエール・ジュネルは書きました(ミサきのうきょうp.78-79)。
キリストの祭壇を囲んで共にミサをささげている教会は、キリストの福音を共有している共同体なのです。
ミサにおいては、キリスト御自身が御言葉を語り、信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えてくださいます。

ところが私たちの経験から言うと、毎主日のミサはそれほど明確には "キリストの福音を共有している" という実感に乏しく、聖書朗読台が "神のことばの食卓の富を豊かに与える" 役割を本当に果たしているか、疑問に感じることの方が多いのです。

しかし、私たちはこの現状を否定したり、それに目をつむる必要はありません。
なぜなら、そのような混沌と闇(創1:2)のただ中でこそ、神の御業は人間のあらゆる不信仰や罪の現実にもかかわらず、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る」(I コリ15:57)日に向かって、進められているからです(黙6:2, 19:11-16, 22:12-13)。
どんなに不完全であっても、"それでもここに教会がある、それでもここにミサがある" ことは、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐(ロマ2:4)によることなのです。
私たちは、"目に見えるものによらず、信仰によって歩む"(IIコリ5:7)ことを学ぼうではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

239 :老クリスチャン:2015/12/28(月) 17:10:18.24 ID:ucL0UHMp.net
2004年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア

ガラ 4:4〜7
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(v.4)

御子の誕生の出来事は、神の救済史の時が満ちて起こりました。 それは歴史の上の現実であって、それに続く教会の時へと進み、やがて完成する約束の神の国への待望の出発点であります。

主イエスのガリラヤにおける宣教は、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15) という呼びかけで始められました。
主の復活の後に誕生した教会への使徒の呼びかけは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(IIコリ6:2) でありました。
使徒パウロはローマの教会に宛てて書いた手紙の中で、次のように述べています。
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。 あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。 今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ロマ13:11)

私たちの救い主イエスは、一人の女マリアを通して 「肉となって来られ」(I ヨハ4:2) ました。 それは肉の人である私たちを罪の支配から贖い出して、神の子としてくださるためでした。
今や洗礼の秘蹟によって救われたキリスト者は、罪の奴隷ではなくて、神の国の相続人でありますから、神の国の王であるキリストが再臨されるのを、頭を上げて待ち望んでいます。
そのような会衆の中に、使徒たちおよび聖マリアも共にいる ・・・・・ 、それが私たちの教会共同体です。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

240 :老クリスチャン:2015/12/29(火) 15:27:15.96 ID:J2bD/SWQ.net
2007年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア

民 6:22〜27  ガラ 4:4〜7  ルカ 2:16〜21
「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(ルカ 2:16)

イエスの誕生において、神から与えられたしるしを "確かに見た" ということが、ルカ2章の主題であります。
「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」 は、"しるし" でありました(2:12)。
神が復活させて 「主とし、またメシアとなさった」(使2:36)イエスが、確かに誕生された "しるし" を、福音書は証言しているのです(2:11)。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ 4:4-5)

聖書の使信の主題は御子イエスであって、マリアではありません。 処女マリアの見事な従順と決断ではなくて、キリストのへりくだり(フィリ2:6-11参照)であります。
マリアは "神の子の母になる最高の役割と尊厳を授けられた"(教会憲章53)幸いな者でありました(ルカ1:48)。
しかし、このことは、"唯一の仲介者であるキリストの尊厳と効力から何ものをも取り去らず、また何ものをも付加しないという意味に解釈されなければならない"(教会憲章62)のです。
"教会はこのような従属的なマリアの役割をためらわず宣言し、絶えずこれを経験し、なおこの母の保護に支えられて、仲介者・救い主にいっそう親密に一致するよう、これを信者の心に勧める。"(同)。

信者一人一人が自ら聖書に親しむことによって、公会議の諸教父たちが伝える福音を正しく理解出来るようになることが、切に求めれます。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

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