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【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学

1 :神も仏も名無しさん:2014/08/04(月) 07:20:40.75 ID:bW/Qq6++.net
バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。

※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。

181 :神も仏も名無しさん:2015/11/27(金) 09:20:55.77 ID:2ZCNc8wF.net
警察は無料です

信教の自由
故郷納税の支払い先地域の自由

好きは
創価、エホバ、モルモン、北海道

182 :老クリスチャン:2015/11/27(金) 17:10:30.70 ID:y0rf6tJ7.net
【教会の聖暦と聖書日課 -12-】
待降節 : ○ 待降節は二重の特質を持つ。
それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。
○ 待降節は、11月30日、もしくは、それに近い主日の 「前晩の祈り」 に始まり、主の降誕の 「前晩の祈り」 の前に終了する。

年 間 : ○ 固有の特質を備えた諸節を除く、残る期間を、「年間」 という名で呼びます。 この期間とりわけ主日には、キリストの神秘全体を追憶します。
なく、ただ
以上が、カトリック教会の 「典礼暦年に関する一般原則」 から抜粋した主要点です。
たいへんあっさりした解説であって、いわば最低限の基本線だけを記述しているものなのです。
ですから、この典礼暦を生かすも殺すも、それは事実上、現場の司教と司祭の裁量に任されていることになります。

典礼暦は毎年、待降節第一主日から新しい一年が始まります。

183 :老クリスチャン:2015/11/28(土) 16:43:29.85 ID:9dUxdT3o.net
【教会の聖暦と聖書日課 -13-】
第二バチカン公会議で最初に公布された(1963年12月)文書は、典礼憲章でした。
「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である。」(10)
「母なる教会は、すべての信者が、十全に、意識的かつ行動的に典礼祭儀に参加するよう導かれることを切に望んでいる。」(14)

この意図を実際に活かすために、カトリック教会は新しい 「ミサで用いる聖書朗読配分」 を作成して、1969年11月の待降節第一主日から使い始めました。
それは多くの人の協力によって繰り返し検討され、磨き上げられた共同作業の実りであると報告されている見事な聖書日課表であって、その後世界中のルター派や聖公会の教会によっても、部分的な修正がなされただけで採用されるようになりました。

カトリック教会ではこれを正式には 「ミサの朗読配分」 と呼んでいます。

キリスト者にとっては聖書を読み学ぶということは、ミサ典礼(礼拝)に有効に参加するという目的から切り離すことの出来ない行為なのです。
なぜなら、「ミサの祭儀は、全教会にとっても、地方教会にとっても、また信者一人ひとりにとっても、キリスト者の生活全体の中心である」(ミサ総則 1) からです。

信者ではない一般の人が、学問として、教養として、聖書を読んだり研究したりするのとは、その目的が根本的に違うということを ・・・ 善悪の問題としてではなくて ・・・ よく承知しておきましょう。

184 :老クリスチャン:2015/11/30(月) 14:43:06.41 ID:dpaD2zXc.net
【教会の聖暦と聖書日課 -14-】
新しい 「主日のミサの朗読配分」で、待降節の福音朗読は次のようになっています。
第一主日 : 時の終わりにおける主の来臨。
第二と第三主日 : 洗礼者ヨハネ。
第四主日 : 主の降誕の直前の準備となった出来事。

教会の古くからの伝統的日課では、以前は待降節第一主日の福音は マタ21:1-9 が永らく使われていました。
誰もが知っているように、これは福音書の物語りの順序から言えば、受難の主日(枝の主日)に属する箇所です。

歴史の教会は福音書のこの箇所で、キリスト者は福音の終末的使信の 「今」 という性格に直面するのだという、ひときわ神学的な理解を主張して来たのです。
神の民は今や、神の国の王であるメシアの到来を、歓呼して迎えるのです。

「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」 「夜は更け、日は近づいた。」(ロマ13:11f)

典礼暦を終始一貫している福音の終末的使信を、新しい朗読配分では福音書テキストの選択に手を加えたとはいえ、いささかも減ずることはありませんでした。

185 :老クリスチャン:2015/12/01(火) 10:18:26.47 ID:Fh4YJu9j.net
ここ数ヶ月、私が 2ちゃんねる掲示板 に書き込んだいろいろな文章をテーマ別にまとめ直してみました。

軽い読み物として、楽しんでいただければ幸いです。

http://www.kuwaei2000.com/2ch.html

186 :老クリスチャン:2015/12/01(火) 16:41:45.19 ID:Fh4YJu9j.net
【教会の聖暦と聖書日課 -15-】
待降節第二と第三主日の福音朗読は、洗礼者ヨハネに関連しています。

「預言者イザヤの書にこう書いてある ・・・・・ そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(マコ1:2,4)
預言は成就して、メシアの前に道を備える使者が現れました(マラ3:1、イザ40:3)。

「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。  ・・・・・ 斧は既に木の根元に置かれている。」(マタ3:7,9)
来るべき終末の裁きは、「我々の父はアブラハムだ」(マタ1:9)、つまり私は一人前のクリスチャンだというような、ただの肩書きや資格によって免除されたりはしない。

「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ11:5f)
ここでは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙1:8) キリストの、終末的未来の展望が取り上げられています。

洗礼者ヨハネに関する福音のテキストは、実は来るべきメシアとしてのイエスに対する証言に他なりません。
洗礼者ヨハネは、自分よりも優れた方、彼の後から来られる方を指し示しているのです。

187 :123:2015/12/01(火) 17:03:42.82 ID:9lbazJj6.net
186.
洗礼とは何か。
それは神道の、清め、祓いと同じものである。
それは儀礼である。
それは宗教ではない。それは生活習慣病の一種である。

188 :老クリスチャン:2015/12/02(水) 17:45:39.70 ID:3dBgqE8s.net
【教会の聖暦と聖書日課 -16-】
教会の中にある者たちの大部分が、キリストの福音の終末的意義を見失うことは、現代だけでなく過去においても多かったのです。
典礼暦による 「主日のミサの朗読配分 」 は、あたかもそのような風潮に反抗するように、終始一貫して福音の終末的使信によって教会の典礼を支配して来ました。

キリストの神秘の種々の面を取り立てて祝わない週間が、一年に33ないし34週残り、この期間を 「年間」 という名で呼びます。
この年間の最後の主日が 「王であるキリストの祭日」 で、その前の週が第33主日となるように数えるために、聖霊降臨後に来る年間主日が省略される年があります。
その理由は、「年間最後の二つの主日に終末に関する朗読配分を確保するため」 と説明されています。

このように、典礼暦の最後の三主日の朗読配分は、終末と神の国の到来を主題としています。
教会がキリストの福音によって歩んでいるとは、どういうことであるかを思い起こすことは、この期節の恵みなのです。

「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ロマ13:14) とは、このような終末的理解に基づく福音の使信なのです。

189 :家庭菜園人:2015/12/03(木) 07:21:00.17 ID:Xpz+ikj3.net
再び、使徒行伝を読み返してます。

【使徒行伝殺人事件】について考えてみたいと思います。

使徒による第一の殺人…アナニヤ

使徒による第二の殺人…サッピラ
です。
5:11教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。

これについて、皆さんはどう解釈されておられます?

190 :123:2015/12/03(木) 09:56:40.75 ID:qT/FZngT.net
189.
殺人は世俗的事件である。
それは宗教とは関係がない。
それは世俗倫理の問題である。
それは法律の問題である。
それを宗教とは分離して考察すべきである。
だが混同して考えるバカが多い。

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