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【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学

1 :神も仏も名無しさん:2014/08/04(月) 07:20:40.75 ID:bW/Qq6++.net
バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、
基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。

※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。

11 :神も仏も名無しさん:2014/08/10(日) 09:58:48.18 ID:BCoESUIC.net
クリスチャンいや、キリスト教は、人間(の知性)を信用しません(アンチヒューマニズム)。ですから、学識や科学技術に対しても究極的な信頼を寄せません。
また、人生は苦しいものであると考えています。キリスト教は人間を苦しみから解放すること(イエスキリストの贖によって)を目的とします。

この意味で、キリスト教は「救済宗教」なのです。だから一見「救いや啓示に、「神学」などというものは全く意味がない」と、全てとは言いませんが、多くのクリスチャンは思っているような気がします。

12 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/11(月) 14:58:08.12 ID:EtiMKTC6.net
こんにちは。

ところで、神学に於ける「キリスト論」は2つの問いを発します。「過去のイエスを問題にするのか」、それとも「今ここに現臨するイエスを問題にするのか」、という問いです。

しかし両者は必ずしも相互排他的である必要はなく、今日宣教されているイエスは、あの当時にパレスチナで生き、ピラトのもとで十字架につけられたお方にほかならないのだし、またその逆のことも同じく言えるのだから。

けれども、私たちが、「イエスは誰であるか」について、また「イエスは私たちにとって何を意味するか」についての現在の宣教を、
その時起こったことから理解しようとするのか、それとも逆に、その当時に起こった事柄については第二義的に語り、今日ここに宣教がそのことについて語る事柄の光においてのみ語ろうとするかによって、根本的な差異が生じてきます。
結局、キリスト論は、イエス御自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ[宣教内容]から着手しなければならないのか、ということが問題になってくるでしょう。

13 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/11(月) 15:08:57.45 ID:EtiMKTC6.net
あるいは、1世紀のイエスという男の生涯を基調にして議論を組み立てるキリスト論があります。
イエスがどのような人物であったかについて、「実証的」に確定する「史的イエスの研究」は、実は19世紀末にイエスという男がいたともいなかったともいえないという袋小路に陥ってしまったというのが一昔前までの定説でした。
最近では、米国系の神学では再び史的イエスの探究が始まっています。その影響が日本の神学界に及んでいます。(僕個人としては、なんと、徒労なことか!と思ってしまいます)

14 :神も仏も名無しさん:2014/08/13(水) 09:29:11.06 ID:EjeQ+sWY.net
>>13
保守を兼ねて書き込み
何故徒労と思うのですか?
検証の結果 聖書の正当性を表す史実が見つかるとは考えないのですか?
科学的 論理的に考察には所詮耐えられない
のだから疑わず迷わず 疑問を持たず信仰するのがいいと言われるのですか?

上記を仮に正だとすると
神学とは 探求すること 有る意味学問じゃないんですか?
都合の悪そうなところに目を背けるのは神学的なのですか?


と 意見を書いておきます


それはそうとマージナルさん
実在論のスレにもたまに来てください
そして 西洋史やキリスト教知識が学者並みの知識を有する多元主義者さん(今はこぶちゃ美味しいさん) と神学論争を戦わせてください

15 :神も仏も名無しさん:2014/08/14(木) 22:56:21.92 ID:JlRQZQ9w.net
保守ーー!

16 :神も仏も名無しさん:2014/08/16(土) 08:10:11.06 ID:YGurbyPi.net
保守ー

17 :神も仏も名無しさん:2014/08/16(土) 16:45:19.98 ID:nTQyxfLw.net
イエスは言われた。”人間に食べられる獅子は幸いである。そうすれば獅子は
    人間になる。しかし、獅子に喰われる人間は禍いである。そうすれば、人間は
    獅子になる”。

トマス福音書7からの引用だが、これは非常に深い。

18 :神も仏も名無しさん:2014/08/16(土) 20:09:52.04 ID:YGurbyPi.net
>>17
どう言う意味ですか?

19 :marginal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/18(月) 13:08:03.15 ID:6quvipwv.net
キルケゴールからはじまりハイデガーに至る実存主義と、神学との対話により得られたものは一体なんだったのでしょう。

神学者ブルトマンはハイデガーの「本来的実存」と「非本来的実存」を用いながら、聖書を解釈しています。
つまり、不信仰で贖われていない実存は非本来的実存で、その様な個人は道徳的行為や物質的富裕によって実存を確保しようとし、自力の自己充足によって自己正当化を試みます。
このような実存のあり方は聖書的には「罪」です。
一方、聖書の提示するもう一つの実存、「本来的実存」 は、 自分で作り出したあらゆる安全を放棄し、自己充足の幻想を諦め、神に信頼するというあり方です。

しかし、キリスト者とて当然ヒューマンな世俗に関わりながら生きているのだから、完全な「本来的実存」は無理です。そのためにキリスト者の実存は常に二重化されています。
「義といのち(霊)」に生きる=「本来的実存」と
「罪とこの世(肉)」に生きる=「非本来的実存」との二重化です。
これは、パウロのローマ書7章に於ける内在する罪の問題としてはっきりと指摘されています。
霊と肉という枠組みは、グノーシス主義にも顕著です。
霊はpneuma、肉はsarks、もう一つ魂はpsycheです。
霊は完全な善の、肉は完全な悪の、魂は善悪混在の領域です。
救済の手立ては「霊知」を得ることにより与えられます。

20 :marjinal man ◆cYCBFz/ph2 :2014/08/18(月) 22:25:02.67 ID:CUwrg6EZ.net
むしろ、(キリスト教の異端としての)グノーシス主義の方が、現代日本人には理解しやすいのかも
知れません。なぜなら、端的にグノーシスは「悪の問題」をクリアしているからです。
グノーシスの側から見た場合、三つの敵がいます。
初期ユダヤ教と初期キリスト教、そしてヘレニズム期のギリシア哲学(特にストア派)です。
世界観の規模からいって、グノーシスはこれら全てを包摂してしまいます。

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