2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

天理教 基本教理 天理教教典

1 :基本。:2014/01/16(木) 02:28:13.77 ID:e/QsDK0l.net
天理教の教理の基本は「天理教教典」に示されている。
だが、真剣に学ぶものは信者の中にも見たことが無い。
それについてのスレを立てて、天理教の基本教理を学ぶに資することを願う。

201 :基本。:2014/02/10(月) 03:53:04.40 ID:8MtdLaNT.net
「だんだん」 理は「神」。 一段一段、 「あしき」(言う言わん) 理は神。
「このよふ」 理は「月日」。 「知りたる者はない」 理は月日。
「けふまても」 理は「をや」 「さねん」  理は「をや」
明確に、二代真柱の教典の内容はそのままお筆先にある事実です。

「置き換えれない」理の説きわけが、ちゃんと真柱例示のお筆先の、
「神・月日・をや」の言葉の変化にはあると、理解しないと、先ず教典を真剣に読まないと、
興味本位の仮説に陥って、人を惑わす教理研究者になってしまうと言う事です。

「悪しき」とは、だんだんの「だん裏守護・だん表守護」の「神の教え」においては、
悪しき、罪、罪業、そういうあしきを諭していた。
だから親神の理を「神」としての理の上で、「あしきの事は更には言わん」。
もう言ってあるから、更には言わないと、こう理を責めておられる。
仏陀やイエスが「最初の段」に説いたことを更に言うのではない」と、
これは、「神としての親神の理」を示されたものである。
古神道の神の祟りや、人間の悪への戒めを説いていた神を知るが、元の神を始めて知ったばかりの人間には、
「初め神」。
寸分の狂いは無い。この場合の神を「月日」「をや」とは、置換不能である。

侮るな真柱を、法隆寺の五重塔を地震から守る心柱の例えるなら、
人間の悟り違いの大揺れを、狂わさぬ真の柱、教理の中心を、しんを示す真柱が、意味もなく3首を例に挙げるわけは無いのだ。
掘ってくればわかっるように、人の心に真を示す柱は、「教団の統率者」ではなく、真理の神の依りしろ柱なのだ。

202 :基本。:2014/02/10(月) 04:23:16.26 ID:8MtdLaNT.net
(昭和10 年))。それぞれ一首ずつ例を挙げておくと、
「だんだんと 神のゆふ事 きいてくれ あしきのことハ さらにゆハんで」(第1号59 首目、・・)、
・・・・・・・・・・・・・・・
これは、九つまでの教え(だん)とこのたびの教え(だん)と、「だん、だんと」神の教えの一段一段の神の言う事を、聞いてくれ。
あしきのこと、悪因縁と罪の事は、もう教えてあって、この度の神は「更に」(追加したり、変更したり、更新したり、改めて言ったり)はしない。

 おやさまは「これまでの教えの言い残しや」と言われていますが、「人間のあしきのこと」は、イエス様御釈迦様、古神道、地獄の閻魔様に、追加は無いと言う事で、
「立教の神」「神でなくては語れない」。お分かりになりましたでしょうか。
「立教に至った」その「成人に応じて」、「神」と親神の理を「神」と示された、
まさに教典本文そのものです。
 「 いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、 親神を神といい」
それは、先にご苦労頂いた「神仏を一段として」神仏を敬えと言う、元の神の、神々しい叫びだと、理解します。

「このよふの 月日の心 しんぢつを しりたるものわ さらにあるまい」(6−9)、
このよふ、これですが、
>>152
[おふでさきの基本]
@ おふでさきは、音と文字の二つで読むを基本とします。
 実例1「このよふハりいでせめたるせかいなり」の「この世ふ」
 「音は、この世」です。「文字はこの世ふ」で、「世ふ」というのは、
「ふ」は火水風の風です。この世元始まりで言えば「夫婦がはじまった世」で、「この世ふ」です。
立教で言えば「天理教が開始された世の始まりの世ふ」となります。
そこで、音では「この世は理で責められた世界」「文字ではこの世の始まりは立教はいらい理で迫られた世界」となります。

203 :基本。:2014/02/10(月) 04:31:02.78 ID:8MtdLaNT.net
「このよふ」これには、親神の理は「月日」です。
「神」であっても、「をや」であっても、「このよふ」には、ぴたりと会いません。
置換は不能です。
田尾正英さんは良い人です。が、教典をちゃんと読まないのは「偽信者」か「なったと思い込み信者」です。
どうか教典を真剣に、二代真柱の応法レトリックに騙されないように、よんでから、
おfでさき用語の研究に、散財しつつお励み下さいと、祈念します。

「けふまてもをやのさねんと ゆうものわ 一寸の事でわ ないとをもゑよ」(14−32)。
これは「をや」を、「神にも月日にも」置換不能です。

「をや」だから「さねん」、澄んでいます。「ざねん」ではないのです。
「神月日では」、「ざねん」「ざんねん」があるかもしれないが、
おやさまは「さねん」。
みき姉さんの心を知る真柱さまの、深い配慮の書物、天理教教典を一人でも多くの方に、それが基本です。

204 :基本。:2014/02/10(月) 11:22:05.58 ID:8MtdLaNT.net
二代真柱の説かれた「神・月日・親」の解説は、きちんと、基本となるおふでさき3首を明示してあります。
>>209
(昭和10 年))。それぞれ一首ずつ例を挙げておくと、
「だんだんと 神のゆふ事 きいてくれ あしきのことハ さらにゆハんで」(第1号59 首目、・・)、
「このよふの 月日の心 しんぢつを しりたるものわ さらにあるまい」(6−9)、
「けふまてもをやのさねんと ゆうものわ 一寸の事でわ ないとをもゑよ」(14−32)。

二代真柱は、探偵の立場で見たら「怪人二十面相」です。
どんな仕掛けがしてあるのか、一筋縄でいく相手では無いのです。
絶対に相手を論破できる仕掛けが、全てに施してある。

さりげに3首例として示されたお歌、敵は応法レトリックの使い手怪人二代真柱。
教典に書かれた、いかにもひっかかりそうな「優しいもの言い」。

『このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教え ると共に、
いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、
初め、 親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に 応じ、言葉をかえて仕込まれた。』

 この文章そのものがとてつもない罠なのであると、気が付かないと、いけない。
 さすがに教会本部は、用心深く、言葉尻に気をつけている。天理教ホームページ 【親神天理王命】
http://www.tenrikyo.or.jp/followers/?page_id=31
「おふでさき」では、親神様自らの呼び名を、「神」「月日」「をや」とだんだんに変えながらご教示くださっています。
・・が、
本質的には、×です。
「成人に応じて」と言う教典の言葉に誘導されて、「神」「月日」「をや」が成人の順序にリンクしていると、勝手に思い込むと、
罠に落ちます。

教典の「

205 :基本。:2014/02/10(月) 11:26:05.12 ID:8MtdLaNT.net
http://www.honjima.com/HP/KYOUGO/kyougo1_a/oyagami.html
天理教本島大教会には、「教語」の解説、「親神様」に、「神月日をや」の解説があります。
「教祖は、親神様のことを人々によく分からせるため、「神」「月日」「をや」と、三つの段階を踏まえて教えられた。」
・・「三つの段階」は×。外れです。間違いです。
「まず、人間を含め、この世のすべてを創造された「元の神」であり、創造以来変わることなく守護されている「実の神」であると。」
・・「創造」という言葉が、少しあいまいな使われ方です。×に近い黒△です。
次に、一刻の休みもなくすべてのものに光と恵みを与える「月日」こそ、天における親神様の姿であると。
・・月日とは天地でもあり、「月日とは地におけるおやさま」でありを明示していないので×。間違い。

さらに、もっと身近な、何事でも打ち明けてすがることのできる「親」であると。
・・「をや」と「親」の違いをきちんと示していないので×。
  このよふのしんぢつのをや月日なり
  なにかよろづのしゆこするぞや         六 102
「をや」は打ち明けてすがる「親でもあり」「月日である」。

こういうことを、きちんと説明できない本島大教会の「教語」解説を、
読まされている信者さんは、詐欺に会っている様なものですね。

「根を掘らないで、表面の言葉を読む」と、応法レトリックに引っかかります。

206 :基本。:2014/02/10(月) 12:01:23.63 ID:8MtdLaNT.net
「神」「月日」「をや」は、元はじまり以来の人類史の、「成人に応じて」と、根の側から思案すべきです。
「神」については、
>>2 :基本。:2014/01/16(木) 02:29:10.48 ID:e/QsDK0l「1」
http://www.geocities.jp/washimisu82/kyoten01.htm
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。
みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
・・・ つまり、「親神としての中山みきが、教祖としてのみきの口を通して仰せになった」と、読み取れます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように解説いたしました。
初め「神」と説いた時には、教典本文『初め、 親神を神といい』の時には、成人段階では「神として拝させる」という約束の年限です。
修験者の市兵衛さんは、「神として拝」しています。
このひながた同様に、
天理教の初期の信者さんは、神様参り仏様参りはみなさんしていた方々で、「神として説く」のは、成人に応じたスタイルです。
それで「元の神」「実の神」「天の将軍」と、説き、おびやの神として、たすけを開始されたわけです。

おやさまに信者が出来始めると、おびやかみと認識されて、ところがありきたりの神、つまり宗教家業の同業者に妨害されて、
@おふでさき執筆以前では「天理王」と「天理」との言葉を開始した。
「天理」とは、おふでさき執筆以前では「古語」である。
古語では「てんり」は「てんとう」と同じと、古語辞書にある。
http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%82%8A
てん−り 【天理】名詞 「てんたう@」に同じ。
http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%86
てん−たう 【天道】名詞@天地自然の道理。天の道。「天理」とも。
A天帝。天地自然を支配する神。
B太陽。おてんとうさま。「てんと」とも。◆「てんだう」とも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相手は東京帝国大学で宗教学を習得した「怪人二代真柱」。
「てんり」「てんとう」なんか軽い常識です。

207 :基本。:2014/02/10(月) 13:57:33.05 ID:8MtdLaNT.net
>>206 
Aおふでさき執筆中は、神・月日・をや と成人に応じ順序で記された。
@おふでさき執筆前はどうであったかと言うと、
「立教」は「神」 つまり元の神実の神。
「種まき開始」種市さん、「天理王」 つまり「天理・天道。おひさま」 天然自然の理。
「おつとめの開始」 「ふうふをこしらえきたるでな 」天理王命。天理王命。
こうでした。

@においては、月日とは「天理・天道」、この頃辻忠作先生に「この道は天然自然」と、諭しています。
【天然自然】逸話篇17 教祖は、
「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や。」
と、慶応二、三年頃、いつもお話しになっていた。
【理の歌】逸話篇18 ・・
「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖は、それをごらんになっていたが、

「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。

つまり、「月日」「天理」は、「理」としての神、天然自然としての神を示したいます。
「をや」は、「つとめの理」として説かれています。

神・月日・をやの順序は、神・天理・つとめ の順序で、きちんと合致しています。

208 :基本。:2014/02/11(火) 05:08:23.30 ID:QBjE6XTE.net
天理教教典が、実は神秘心霊の書物であると言う事は、天理教の信者がなかなか考え及ばないところであります。
それは、しんばしらが「法隆寺の心柱」「伊勢神宮の心柱」を九つまでの教えの台としていて、これまでの言い残しとしての「だめの教え」であるという事を、
教えのままに素直に認められない、そばの者たち、高弟たちの心得違いが問題であったわけです。
「しんばしらのしんのすけ」とは、地位や権威を指し示す「しん」ではなく、神秘心霊の「しん」であるのに、
「真柱職を権威権限として位置づけた心得違い」は、今も続いています。

「肉の巻きようで」と、お言葉があります。
霊肉二元論を説くキリスト教会ならば、一発で、「真柱・霊的存在」「側近たち・肉的存在」と理解したでしょう。
「宮の聖地を説く神道、古神道ならば、真柱・聖、側近たち・俗」をそのままに認めたでしょう。
が、天理教の高弟たちは、「真柱機関説」と構築し、教壇統括と言う俗の中心に据えたから、
「聖なる真柱の神秘の天理教典」が、聖書だと読み取れない。
「こふき」だと悟れない、心の闇路にさまよっているわけです。

209 :基本。:2014/02/11(火) 05:45:16.87 ID:QBjE6XTE.net
「世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。 」
>>79-80
この教典本文が「末法の世」を指摘してある事は、仏教として思案したら素直に読み取れるわけで、
天理教徒は山名系天理神学深谷の天理教学に汚染されて、天理教から神秘心霊的要素を排除し九つまでの教えを馬鹿にしさげすむと言う愚を拡散し、
濁りの水となり「心の闇路にさまよう・天理教団」になっていて、神からの返しである事は言うまでも無い。
@おふでさき執筆以前では、山中忠七さんがその代表人物で、「神名天輪王」信心を実行した。
その時の異端が、針ヶ別所の助造さんである。
山中忠七には「中山みき・親神」信仰は無い。「天輪王」が中山みきに入りこんだと言う信仰だったから、
「心どうりに神に言わされて」「天輪王信仰」を実行していた。
散財は、実行していなくて、災害にあって財産に重大なダメージを受けている逸話編のある人物だ。

天理教祖が「みろく菩薩である」という信仰の事だが、
山中忠七が「「転輪聖王」信仰に影響されていたと見るのは誤りでは無いだろう。
対して針ヶ別所の助造は、「弥勒信仰の影響下にあったと、」みなすべき自白をしている。
それは「本地垂迹説」を唱えたと言う事である。

今語っているのは、@おふでさき執筆以前において、「神」として教えられた教えは「神・転輪王」と誤解されていた。
そこで「天理」と、「神」→「天理」と推移して言った事実の確認である。

210 :基本。:2014/02/11(火) 06:50:22.10 ID:QBjE6XTE.net
>>207
> 神・月日・をやの順序は、神・天理・つとめ の順序で、きちんと合致しています。
>>209
> 天理教祖が「みろく菩薩である」という信仰の事だが、
> 山中忠七が「「転輪聖王」信仰に影響されていたと見るのは誤りでは無いだろう。
> 対して針ヶ別所の助造は、「弥勒信仰の影響下にあったと、」みなすべき自白をしている。
> それは「本地垂迹説」を唱えたと言う事である。
教祖伝本文にはこうあります。
「眼病を救けられ、初めの間は熱心に参詣して来たが、やがて、お屋敷へ帰るのをぷっつりとやめて了ったばかりではなく、針ケ別所村が本地で、庄屋敷村は垂迹である。と、言い出した。」
これについては、山名系の解説では、「地場対針ヶ別所」の本地争いとして、身内の本家争いのように語られることが多いが、宗教論争として本地とは「仏」「垂迹」とは「神」であるという宗教常識に照らして判断しないと、内容を読み間違うことになる。
末法の世を救済する弥勒と転輪聖王の関係の宗教常識を確かめておこう。
http://azumino.digi2.jp/miroku.htm
弥勒信仰について
弥勒菩薩は・・遠い未来、この世に下生して、釈迦の救済から漏れた人々を救う役割を持っている。
・・この弥勒の下生の際には条件として輪廻転生をしている転輪聖王がいなければならない。
理想的な世界を実現するためには
まず転輪聖王という理想的な王権を持った人物が現れ
それと同時に弥勒が下生し、精神界においても理想的な世界が広がるのである。
・・
こうした弥勒信仰の始まりは聖徳太子から始まっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「元の神、実の神である」との信仰は山中忠七には無い。

総レス数 576
525 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★