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天理教 基本教理 天理教教典

1 :基本。:2014/01/16(木) 02:28:13.77 ID:e/QsDK0l.net
天理教の教理の基本は「天理教教典」に示されている。
だが、真剣に学ぶものは信者の中にも見たことが無い。
それについてのスレを立てて、天理教の基本教理を学ぶに資することを願う。

2 :基本。:2014/01/16(木) 02:29:10.48 ID:e/QsDK0l.net
「1」
http://www.geocities.jp/washimisu82/kyoten01.htm
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。
みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退した
が、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、
一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。
//////////////////////////////
口に出したのはみき、口に出させたのは親神。
先ずこの問題が、きちんと示されています。

「親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。」
中山みきは実は正体は親神その人です。
つまり、「親神としての中山みきが、教祖としてのみきの口を通して仰せになった」と、読み取れます。

3 :基本。:2014/01/16(木) 02:32:41.78 ID:e/QsDK0l.net
天理教教祖伝にはこう書かれています。
天保九年:
 かくて、天保九年十月二十三日、夜四ッ刻(午後十時)、秀司の足痛に加えて、善兵衞は眼、みきは腰と三人揃うての悩みとなった。
この日は、庄屋敷村の亥の子で、たま/\市兵衞も親族に当る乾家へ来て居た。呼ぶと、早速来てくれ、これはたゞ事ではない、寄加持をしましょう。
とて、用意万端調え、夜明けを待って、いつも加持台になるそよを迎えにやったが、生憎と不在であった。
やむなく、みきに御弊を持たせ、一心こめての祈祷最中に、「みきを神のやしろに貰い受けたい。」
との、啓示となったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長滝村の市兵衛というのは、大峰山12先達の一人と言われた高名な行者である。
http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/publication/bulletin1_10.pdf
民俗宗教における柱の信仰と儀礼
宮家 準(國學院大學神道文化学部教授)によれば、
みきは長男が足の病になったので、当山正大先達内山永久寺の配下の山伏
市兵衛に祈祷を依頼した。けれどもその時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が
不在だった。そこでみきが依り坐となった。すると何時もの神霊とは全くちがう「元の神、実の神」
(現在は親神天理王命と称している)が憑依してみきを神のやしろとして貰いたいとの神託があった。
・・・・・・・・・・・・・・・
とあります。

4 :基本。:2014/01/16(木) 02:36:57.03 ID:e/QsDK0l.net
Weblio辞書 によれば、
依り代、依代、憑り代、憑代(よりしろ)とは、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体などを指すほか、神域を指すこともある。
・・・・・・・・・・
このように、修験道(円の行者を開祖とする)が、この時なそうとしていたことは「災因を明らかにする」為の、神おろしであった。
どんな神が降りたのかを尋ねたら、「我は元の神・・」との答えであったわけです。

寄せ加持は前年に九回行われていますが、元の神は降りていません。
教祖伝にはこんな文章があります。

5 :基本。:2014/01/16(木) 02:49:34.94 ID:e/QsDK0l.net
天保八年:
 天保八年十月二十六日のこと、十七歳の長男秀司は、母親みきに伴われて麦蒔の畑仕事に出た折、急に左足に痛みを覚え、駒ざらえを杖にして辛うじて家に辿りついた。
早速、医者に診せた処、薄荷薬などを用いて手当ての限りを尽してくれたが、一向に痛みは治まらない。そこで、人の勧めるまゝに、近在に聞えた修験者、長滝村の市兵衞に使者を出したが、あいにく市兵衞は仁興村へ行って不在であった。
 越えて二十八日、再び使者をたてた。市兵衞は事の由を聞いた上、早速、百燈明を上げて詫びてくれた。
使者が帰った頃には治まって居た。が、翌日になると又痛み出したので、又もや使者を出して祈祷して貰うと、一旦は痛みは治まるものゝ、次の日になると又痛み出し、使者を出して祈祷して貰うと、治まった。
こうして三度祈祷が繰り返されて、一応治まったが、二十日程経つと又々痛み出した。
 心配の余り、善兵衞自ら市兵衞を訪れ、折入って相談した処、そういう事ならば、一層の事、お宅で寄加持をするが宜しかろう。との事であったので、一旦家へ帰り家人とも相談の上、その意見に従う事にした。
市兵衞は、勾田村のそよを雇い、幣二本を持たせて台とし、近所の誰彼にも集まって貰い、護摩を焚き寄加持をした処、痛みは治まった。
半年程経つと痛み出したので、寄加持をして貰うと、治まる。暫くすると又痛むという工合に、一年の間に九度も繰り返した。
寄加持の時には、ただ近所の人々に集まって貰う丈ではなく、一々酒飯を振舞い、又供養のため近在の人々に施米した。
一回の費用は凡そ四百目かゝり、軽い経費ではなかったが、可愛い伜を救けたいとの親心から、善兵衞は少しもその費えを厭わなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑ ここには、九つまでの宗教の教えの基本があります。
酒飯を振る舞い施米する 施米とは、困窮者や托鉢僧などに米を施すこと
古神道・修験道 布施、これを九度踏んでから、立教に至ったと言う事です。

6 :基本。:2014/01/16(木) 03:14:02.28 ID:e/QsDK0l.net
「みきを神の社に貰い受けたい」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/221817/m0u/
やしろとは、《「屋(や)代(しろ)」の意。「代(しろ)」は神を祭るために地を清めた場所
・・・・・・・・・・・
行者の市兵衛さんは「よりしろ」にみきの体を用いたのですから、一時的に「代・しろ」の状態であった。
それを、みきの本質本体である親神が、「やしろ」にしたいと、貰い受けたいと、言い出したと理解するのが、実情に即した理解です。
憑代(よりしろ)は忘我の状態でありますから、やしろになるということは、忘我の状態のままでいることを意味します。
憑代(よりしろ)から正気に戻った後のみきを「やしろに貰い受けたい」と告げた。
告げられた中山家の側にとっては、神おろしという非日常が日常化するわけですから、とても簡単に受け入れられない、そういう事情が見えます。

社と言う言葉を、神の住まいと短絡的に読んでしまうのは、当時最高レベルの修験道の行者。その神おろしの「よりしろ」よりも、
もっと、清らかな聖地のようなみき、と言う、大きな前提が見えなくなってしまいます。
お住まいではなく、神事を行う聖地としてのみきの肉体と言う前提で、理解します。

7 :基本。:2014/01/16(木) 03:36:08.28 ID:e/QsDK0l.net
>>2
> 「親神としての中山みきが、教祖としてのみきの口を通して仰せになった」
ここには、魂としてのみきと肉体としてのみきの問題があります。
魂としてのみきは親神です。
しかし肉体としてのみきの問題は、たとえば修験道の行者を想起すれば分かりますが、滝に打たれて身を清めます。
断食もします。よりしろになる女性においても、身を清めをします。
「よりしろ」は神おろしの一瞬の時ですが、「やしろ」は四六時中の問題であり永遠の問題ですから、みきがみきと言う女が神の社になる上では、
「魂のみき・親神」は、「肉体のみき・教祖」を清らかな物としてきれいに貰い受けなければならなかった。
そう理解します。

8 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 10:51:52.48 ID:XD8vPAM6.net
中山みほより中山忍のほうが好きだな。

9 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 13:46:11.50 ID:0h1AeeRf.net
25: >張り手</b>(東日本)<b> [] 2014/01/14(火) 21:11:51.76 ID:KoSEq+410
■高麗棒子(ぱんず)の悪行
・当時の中国人が描いた漫画 「日本の軍旗を振り回す朝鮮人が中国人を殺す!」
 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/b9/da24789b053cecd3ddec0850f288890f.jpg

・中国人 謝永光著 『日本軍は香港で何をしたか』
 (朝鮮人は)一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
 民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
 当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。

・仏誌Paris Match元特派員 アルフレッド・スムラー著 『ニッポンは誤解されている』
 別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは、
 このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。

・ある医師の述懐 『キヤンガン、山下将軍降伏の地』
 フィリピン人「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。
 赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」

・韓国人 崔基鎬の述懐 「韓国人は日本人以上の日本人だった」(大意)
 当時、戦争ニュースは映画館で放映されており、韓国人は日本軍の活躍に狂喜していた。(拍手と万歳の嵐)
 しかし、日本で映画館に行くと、熱狂する人など殆どおらず、冷静にニュースを見ていた。

・オーストラリア人 ケニス・ハリスン著 『あっぱれ日本兵』
 彼ら(朝鮮人)は(日本人に比べ)大型で、顔は平たく、知性に劣り、日本人が与えた屈辱を我々に転嫁した。
 どんなに試みても、我々は彼らと本当の付きあいは確立できず、体罰となると、日本兵よりも彼らをはるかに恐れた。

・『ミャンマーの人々はビルマの竪琴をどう観たか』
 ミャンマー人「日本人兵より朝鮮人兵の方がきつかった」

10 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 13:47:01.15 ID:0h1AeeRf.net
反日妄想カルト民族がコロリするまで、天理教の衰退は止まらないのではないだろうか。

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