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【日本史】『豊臣秀頼の実の父親』という説も…大坂の陣の“A級戦犯”大野治長は無能な家臣だったのか [ボラえもん★]

1 :ボラえもん ★:2021/05/12(水) 22:20:51.12 ID:rFGwAPFe9.net
 コロナ禍において、大阪のあるホテルでは、大阪城が見える部屋をテレワーク用に準備しているという。
大坂の陣で豊臣方は敗北したが、敗因は無能な家臣・大野治長にあったという。それは事実なのか。

※以下、「大阪」は前近代における表記の「大坂」で統一。

■大野治長などのこと
 大野治長は生年が不詳、通称を修理亮といった。
治長の母は大蔵卿局であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の乳母でもあった。慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の際には、徳川家康のもとを訪れていた女性でもある。

 こうした関係から、治長は秀吉の馬廻として仕えたといわれている。
当時は1万石を領し、従五位下・侍従に叙任されていた。

 治房は治長の弟であるが、生年不詳で経歴もあまりわかっていない。
豊臣秀頼に仕えたのはたしかであり、知行として1300石を与えられていたという。なお、治長には治房のほかに、治胤、治純という弟がいた。

 秀吉の死後、治長は秀頼に仕えて、警護二番衆の隊長となる。
しかし、慶長4年(1599)9月、大坂城内で浅野長政、土方雄久らと徳川家康暗殺を企て、未遂に終わった。

 この容疑で治長は捕らえられ、下野国結城(茨城県結城市)に追放されたのである。
この時点で、治長の将来は断たれたかのように見えた。

 翌年、石田三成らが挙兵すると、治長は家康から赦免され、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に属して軍功を挙げた。
合戦後は再び豊臣家に仕え、秀頼を補佐するようになり、重臣の1人に数えられた。

 慶長19年(1614)に起こった方広寺鐘銘事件によって、片桐且元が大坂城を退去すると、治長は織田有楽長益とともに、
豊臣家の中心的人物として秀頼を支えることになった。相前後して豊臣家を守るべく、治長は難しい政局運営を担うことになる。

■治長にまつわる悪評
 ところで、治長には、後世にわたって悪評がつきまとった。
たとえば、大坂の陣に際して、治長は真田信繁ら牢人衆らの意見を取り入れず、徳川方を叩く好機を何度も逃したというものである。

 それゆえ牢人衆は徳川家を打ち負かすチャンスを失ったので、何度も地団駄を踏んだという。
こうして治長は、豊臣家が敗北したA級戦犯に仕立て上げられた印象が強い。

 それだけではない。治長と淀殿との間には、絶えずスキャンダルが噂された。
たとえば、慶長4年(1599)の段階において、治長は淀殿と密通していることが風聞となっている(『萩藩閥閲録』)。

 同趣旨の話は、姜の『看羊録』や『多聞院日記』にも記されており、相当な話題になっていたことがわかる。 
また、江戸時代に成立した『明良洪範』には、秀頼が治長と淀殿との間に誕生した子であると書かれている。

 それらの記述は治長と淀殿との密通の根拠となり、後世に秀頼が秀吉の実子ではなかったと広まるようになった。
秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も疑問視する向きがある。

■一変した評価
 ところが、現在、治長の評価は一変しているのではないだろうか。治長は豊臣家存続のために腐心しており、徳川家との講和にも尽力した。

 当時、京都所司代を務めた板倉勝重は、自らの書状の中で、治長が不屈の精神によって事を図り、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかったと記している。
悪事と記されているものの、それは徳川方から見たものであり、豊臣方からすれば、そうでないことはたしかである。

(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210501-00235647/

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