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【ハンギョレ】朝鮮半島最大の墓である日本式前方後円墳が埋められた理由は? 当局はコロナ防疫と説明 [みの★]

1 :みの ★:2021/03/22(月) 18:31:52.09 ID:ZHaShzAT9.net
※統一まであと29年

[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念

 朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始めについに開かれた。考古学者らは5〜6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。

 この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、去年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5〜6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。

 調査団は、後面の封土を掘り、墓の内部に通じる細い通路(羨道)に入り、内側を観察した。調査の結果、床に細長い板石を置き、上側に砕いた石(割石)を整然と積み壁面を作る、古代九州の石室墓特有の構造であることが明確だった。天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。

 出土品はほとんどが盗掘されていたが、墓の被葬者を明らかにする手がかりとなる遺物が相当数収集された。墓の内部への入口で発見されたふた付きの皿(蓋杯)10点が代表的だ。一部の蓋杯の中にはイシモチなどの魚の骨や肉類など祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と、チョ・グヌ研究院長は説明した。墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べた。

…続きはソースで。
https://news.yahoo.co.jp/articles/931f0cc72421cffb8101ea75be09622a6c9bf2fd
2021年3月22日 9時9分

710 :ニューノーマルの名無しさん:2021/03/24(水) 23:08:10.42 ID:HXejUJwg0.net
【歴史】「新羅から連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来人の祖先に」
朝鮮半島からの渡来人の存在示す遺構、奈良・御所の南郷
柳原遺跡

ヤマト王権を支えた中央豪族として名を残す葛城氏。5世紀ごろ
の王権のあり方を考える上で非常に重要な存在だ。
日本書紀は、その祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)について
朝鮮半島との関わりが深い人物として描いている。
神功皇后5年、襲津彦は朝鮮半島への一時帰国を望む新羅の
人質を引率したが、対馬でだまされ、逃がしてしまった。襲津彦
は怒って新羅の城を落とし、連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来
人の祖先になった--。書紀はこう説明する。


●弘仁新羅の乱 (朝鮮渡来の難民部落の騒乱)

弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に
移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱
を起こし、日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧でき
なかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、
全員が降服した。

かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に
口分田まで与えて帰化を認め寛大に遇して恩を与え
たが朝鮮渡来の流民たちは恩を仇で返し博多など
に土着して本国と違法な交易を目論み、それを見透
かされ東国に移されたことを逆恨みした。

この乱以降、 北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、 群馬を中心に関東各地、 東北にも少数住ま
わせる事になった。

711 :ニューノーマルの名無しさん:2021/03/24(水) 23:10:26.04 ID:NyB8OaQG0.net
●長江文明が日本人のルーツ
不安定な大陸情勢の影響下で長江文明からいくつもの集団に
分かれて各地へ移動し、現在の諸族となる

その1つが台湾、沖縄をつたい九州へ辿り着き、
稲作の高い生産性のお陰で大いに発展し、九州王朝となる
海流に乗りそのまま佐賀周辺に辿り着いた者もあった

九州王朝はいくつもの諸族(ムラ)からなるが
指導的な立場にあったのが女王国である


●中華帝国の発展と北方騎馬民族との戦い

黄河文明の騎馬民族はやがて殷、周の中華帝国として中原を支配
その北方には胡(エビス)、匈奴(キョウド)、鮮卑(センピ)などがいて
中華帝国を度々脅かし、その時々の中華帝国と戦争を繰り返し、
さらには北方騎馬民族どうしでも争っていた

そうした戦争にやぶれた難民が朝鮮半島で支配階級となり
扶余や穢人を隷属化し朝鮮半島人として成立していった

北方騎馬民族は現代の歴史学や考古学で言われるとおり
日本に直接的にたどり着くことはなかった

鮮卑(センピ)は凶悪な民族で朝鮮半島人を隷属化した
そしてその後のモンゴル人による半島全体から済州島までの民族蹂躙である

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