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【新潟】河井継之助没後150年、生涯描いた司馬遼太郎の小説「峠」映画化 遺徳しのび、長岡の栄凉寺で法要

330 :名無しさん@1周年:2018/10/09(火) 23:39:36.38 ID:vWQBoi2G0.net
河井継之助の考えは武装中立だったと言われる。
しかし、長岡藩は鳥羽伏見で旧幕府側として参加したのであって、朝廷から見ればいわば準朝敵みたいなものだ。
その長岡藩が鳥羽伏見後、欧米の武器商人から盛んに銃を買って武装に努めている。
このような長岡藩の動きを朝廷は疑いの目で見ていた。
官軍が長岡にやってきたとき、河井は嘆願書を出し、長岡藩は中立で朝廷に盾突くつもりなど無い、奥羽の諸藩との仲介をします、そのように言ったという。
これは通用するはずの無い理屈だった。
なぜなら官軍は鎮撫しにやってきたのであって、官軍に従わなければ朝敵なのであり、中立などあり得ない。
河井は薩長と徳川氏の争い、徳川氏側にたつ東北諸藩という認識だったかもしれないが、
徳川慶喜が罪を認めて謹慎蟄居しているわけで、もうとっくに勝負あったなのだ。
河井が認めたくなくても薩長は官軍なのである。
従わなければ討たれるだけだ。
それに鳥羽伏見で旧幕府側で戦った長岡藩が朝廷に逆らうつもりは無い、中立ですなどと言うなら根回しが必要だった。
いきなり小地谷でやってきた官軍に嘆願書を出しても受け入れられるはずがない。
河井は外国武器商人から武器を仕入れ武装強化に励むばかりで、朝廷や官軍に対して根回しをした形跡がない。
これでは小地谷で嘆願を突っぱねられても仕方がない。
もちろん河井はそういうことを分かっていたに違いない。
あれほど頭脳明晰な人がそんなことを分からなかったはずがない。
河井は最初から戦争をするつもりだったのだ。
武装中立などは藩内にたいする建前で、河井は戦争をするつもりだったのである。

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