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【新潟】河井継之助没後150年、生涯描いた司馬遼太郎の小説「峠」映画化 遺徳しのび、長岡の栄凉寺で法要

173 :名無しさん@1周年:2018/10/09(火) 21:11:55.11 ID:FrtrX8pH0.net
実は河井のスケールは司馬が書いたものより大きい。
会庄同盟、奥羽列藩越同盟結成を裏から支えたのは河井継之助。
河井はスネル兄弟を通じて、会庄同盟、奥羽越列藩同同盟をプロイセンに近づけようとした。
会津と庄内が蝦夷の領土をプロイセンに売却しようとしたが、これはスネル経由で行われたものである。

そもそも、慶喜が寛永寺謹慎を決意した時に、大鳥圭介ら旧幕府陸軍と会津、桑名、長岡、庄内は
奥羽越諸藩を巻き込んで、「第二の王政維新」を計画していたのであり、奥羽独立国構想は河井の策によるもの。
河井が3月末にスネルの汽船で会津、桑名藩士と共に新潟港に到着した時、出迎えた藩士に「戦争は嫌だ。しかし、
戦争せざるを得なくなった。もっと時間があれば新潟港から列強と貿易して富国強兵を行えるのだが」と語ったと言う。

岩村高俊は全く悪くない。河井がわざと挑発して談判決裂させただけ。
スイスをモデルとした武装中立なんて全く嘘で、裏では会津に与する様下越、中越諸藩を婉曲に説得していた。
そして、衝鉾隊を追いかけて高田藩まで来た尾張藩や松代藩など東山道軍に対し、
奥羽列藩同盟が結成されるまでの間、防波堤となって出来る限り時間稼ぎをしていた。

閏四月半ば、大村益次郎は越後口に山縣率いる奇兵隊の増援で一万の大軍を集め、五月には官軍は小干谷まで侵攻したが、
河井は奥羽列藩同盟も無事結成され、新政府と開戦する潮時だろうと決断し、
藩論を一気にまとめ、更に士気を鼓舞する「妙薬」として小干谷談判決裂の茶番劇を行ったのである。

河井が勝敗を度外視していたのは間違いない。そもそも、河井は勘定奉行の家柄から藩主忠恭に認められて
筆頭家老まで出世したんであって、藩主忠恭の意向には逆らえない立場であった。
実際は新政府の計画する廃藩置県や殖産興業に賛同しており、戦死しなければ新政府内で相当な出世したのではなかろうか。

ラストサムライでもなんでもない。明治期こそ本当に活躍できる人材であったのであった。

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