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【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」見える化 桜井市、建物跡に目印設置へ 900万円目標、ネットで募金

1 :泥ン ★:2017/12/09(土) 17:13:37.52 ID:CAP_USER9.net
2009年に大型建物跡が発見された際に柱跡に建てられた目印。
今回の丸太のイメージだ=奈良県桜井市の纒向遺跡で2009年11月10日、貝塚太一撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2017/12/08/20171208oog00m010051000p/9.jpg
現在の大型建物跡。それと分かる目印は何もない=奈良県桜井市辻で2017年12月6日、山本和良撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2017/12/08/20171208oog00m010052000p/9.jpg

 女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地の一つとされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡)で、「卑弥呼の宮殿跡」と注目された大型建物跡などの建物遺構について、市は位置が分かるように丸太を設置することを決め、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングによる資金集めを始めた。事業費の4分の3に相当する900万円を目標に、来年2月末まで協力を呼び掛ける。【山本和良】

 纒向遺跡は、3世紀代を中心に営まれた大規模集落遺跡で東西約2キロ、南北約1・5キロの範囲に及ぶ。2009年に見つかった大型建物跡は3世紀前半のものとみられ、同時期のものとして国内最大規模。前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓の説もある。

 周辺は、他にも弥生時代末期〜古墳時代初めの古墳など貴重な史跡が豊富で、年間を通じて考古学ファンら多くの見学者が訪れる。しかし、纒向遺跡を紹介する施設はなく、大型建物跡に至っては埋め戻されている。このため、「様子が分かるようにしてほしい」などと訴える声が盛んに市に寄せられていた。

 そこで市は、今年度中に大型建物跡などの柱の跡に、目印になる杉の丸太(直径15〜32センチ、地表の高さ1メートル)を設置することを決めた。木材は、桜井木材協同組合の協力で無償で提供してもらえるが、全部で65本を設置する費用などに約1200万円が必要。文化財関連の財源確保に頭を悩ませる市は、ネットのふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」を活用することにした。寄付はふるさと納税制度の対象となり、税控除が受けられる。

 協力者には、市纒向学研究センターが発行する機関紙「纒向考古学通信」を3年間送付し、遺跡の調査や保存整備の状況などを随時知らせる。

 市教委総務課は「建物の柱を目に見えるようにすることで、古代史最大の謎解きを体感してもらいたい」としている。

毎日新聞 2017年12月8日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171208/ddl/k29/040/544000c?inb=ra

334 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:53:01.16 ID:BF1MQtwg0.net
>>269
記紀の神代は高天原神話、出雲神話、日向神話からなる
天皇家に直接つながる日向神話に南方海洋民族の説話が取り入れられていることから下記の説が成り立つ
そして高天原神話は大和朝廷の成立した畿内とは別の場所で語られていた神話だと想像する
つまり九州北部だね

ということでコピペ

日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う

続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり

木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ

おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる

よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる

なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話

高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925)   智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜)  日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂)

335 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:57:11.26 ID:f0H1K6ol0.net
九州北部は九州南部の投馬国と吉備に征伐されたんだよ。
神武さんは九州北部の伊都国を征伐し支配下に置くことで、伊都国やニニギの血統や神話を奪ったんだな。
伊勢や、新しい出雲の勢力が倭国大乱前の倭国の事績を奪ったのと同じ。

時代を経て、九州南部が征伐対象にされるのは皮肉な話。

336 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:00:58.42 ID:UsBL0QiL0.net
公園にするほどの価値は無く
埋め戻されてこのままでは宅地工場用地の運命
まあ跡地の碑ぐらい建ててもばちはあたらない
騒いだ割にはたいしたことない発掘地だった

337 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:02:22.57 ID:UsBL0QiL0.net
ファンドを寄付が何かと勘違いする人が増えてるな
こんなの事業じゃない
日本の倉独活ファンドは歪んでる

338 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:09:25.56 ID:kpc/hGau0.net
>>311
その通りである

339 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:25:37.83 ID:ZIrGGZmv0.net
>>336
そうですね、記録さえ残しておけばいい程度の遺跡。

340 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:28:01.01 ID:ZIrGGZmv0.net
>>321
そうとも限らないな
都から遠く離れた場所に埋葬される場合もある。

341 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:28:07.60 ID:26xu1p370.net
文献史学じゃ九州、考古学じゃ畿内みたいな色分けされてるけど、後者は考古学でも相当に怪しいと思うけどねw
でも畿内で決定だとか、九州説は妄想だとか大口叩かないのであれば古代史盛り上げる意味で頑張ったらいいわw

342 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:32:23.66 ID:l5O/gyYW0.net
都から遠く離れた場所に埋葬される場合もある。て詭弁もいいとこ
遠征している訳でもなく他国に墓を造営することもない
卑弥呼は死ぬまで女王だったから墓がある場所が邪馬台国なの!
詭弁屁理屈、可能性とか説得力なさすぎでしょ

343 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:08:51.72 ID:Ou7OirN60.net
>>333
弥生中期から後期には既に奈良盆地南部にかけて大規模な弥生集落が点在してる時点で
新興なんて有り得ないね。
葛城地方は鏡の出土も早い時期なんだしな。
高天原とは普通に葛城から高野山にかけての話。

344 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:13:53.07 ID:rk5uaxKE0.net
>>242
ダックか?^^
何遍も聞いてるうちそんな気がしてきたわ

じゃが邪馬壹たるイヨちゃんのみやこは別のところや(そこはあくまでも伊都

345 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:17:13.08 ID:eSpYgWYJ0.net
旅程記事の密度の違いから、郡使が北部九州で留まって、邪馬台国や投馬国に行ってないのは誰の目にも明らか
なのに郡使は女王に会い、墓を見たと書いてある
これらが嘘ではないとすれば、奴国を中心とするであろう女王国と、女王国とは関係のない邪馬台国
の記事が混同された結果であることは高校生にでも理解できる

346 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:18:43.08 ID:rk5uaxKE0.net
>>316
理系のひとがams結果の統計に二つのピークあるゆーてんのに文系のひとが謎のまとめ文かいたやつやな?^^

347 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:21:17.48 ID:rk5uaxKE0.net
>>341
ほんまや(さんせー(いずもキビあわもありそーやよ

348 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:21:37.79 ID:f0H1K6ol0.net
>>343
邪馬台国はヤマト国だが、葛城が高天原みたいなヤマト至上主義はダメだな。


伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。

伊勢遺跡は、高天原のモチーフの有力候補だろう。

349 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:24:25.26 ID:BF1MQtwg0.net
>>343
だが纒向遺跡が>>19にあるように4世紀のものであるならクニの形成は遅れたと見るべきでは
記紀が神武天皇から何代かはムラの長レベルのことしか書いていないのとも一致するし

350 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:34:19.52 ID:kpc/hGau0.net
箸墓は300年前後だろ

351 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:34:32.84 ID:6wncV1XF0.net
中国の史料による豊臣秀吉と織田信長関連の記録
これ読んで魏志倭人伝の信ぴょう性を考察されたし

日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ
山城州の頭目、信長がこれになっていた。
ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。
何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い
薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。
信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、「木下人」と名づけた。
後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。
参謀に阿奇支なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。
にわかに信長は部下明智に殺される所となり
秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。
信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の衆をことごとく収めたのが万暦十四年である。

352 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:38:41.35 ID:kpc/hGau0.net
葛城は高天原とか、鴨厨かな

353 ::2017/12/10(日) 13:46:13.61 ID:YH1EBVH00.net
>>351
だいたい合ってるw

>>343とか
わはは。
実は最近、安彦良和の「ヤマトタケル」を読んだのだ。

354 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:53:50.36 ID:YO9qYNZi0.net
安彦のヤマトタケルなんてトンデモ本だぞw
資料にしてる文献は30年以上昔のものだし。

最新の考古学ニュース位は念頭に話をしろよ。
弥生中期の時点で葛城地方一帯が、水田だった
事もわかってきたんだしな。

355 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:57:10.40 ID:6wncV1XF0.net
>>353
正解率は6~7割くらいやね
細部はデタラメだが大まかな流れは大体あってる
しかし秀吉が光秀の前に戦ってた阿奇支って何だろう
史実なら毛利だが毛利は滅びてないし、
罪を犯したって書き方と音の響きから荒木村重の事かなとも思われるが

356 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:57:12.57 ID:YO9qYNZi0.net
>>348
私の見解では伊勢遺跡が卑弥呼擁立が決められたという説。
その後対瀬戸内対策で巻向に宮を移転したという流れだね。
背後には丹山もあるからな。

357 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:59:37.22 ID:sL45QlqT0.net
氏族社会の強盗略奪殺しあいをよくも神々の歴史にしたもんだ

358 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:02:34.99 ID:b70rMmfD0.net
女性が王になったら治めれたなんてのは小国だから可能なんだよ

邪馬台国は九州の小国、近畿の大和朝廷は大きいから当時の感覚では女性の王では他の豪族が従わないだろう

359 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:05:13.89 ID:YO9qYNZi0.net
七万戸は小国ではないんだけどね。
推測願望だけで論を組んでも矛盾を解決出来ないから。

360 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:10:54.19 ID:PAVnUUwk0.net
○     代々男王 → 争い → 「共立」卑弥呼 →
卑弥呼の死 → 男王 → 争い → 「復立」卑彌呼宗女
「共立」 を繰り返した(復立)。
だから崇神 モモソ姫   共立   垂仁 豊鍬入姫命  復立
○ 斎王  ←「王」 伊勢神宮 斎王 「共立」卑弥呼 「復立」卑彌呼宗女
女性 宗女 巫女 独身 現今上陛下の姉
初代 夜麻登登母母曽毘売  (やまととももそひめ)ヒミコ  崇神
2代目 豊鋤入姫   (とよすきいりひめ)トヨ 崇神・垂仁
3代目 倭姫     (やまとひめ)   垂仁・景行
五百野   (いおの) 景行
伊和志真  (いわしま) 仲哀
稚足姫   (わかたらしひめ)雄略
荳角     (ささげ) 継体
磐隈     (いわくま)欽明
莵道     (うじ) 敏達
邪馬台(ヤマト)国の時代から1800年以上万世一系。
天皇斎王の共立復立を繰り返してきた歴史。
女系天皇ではなく卑弥呼モモソ姫と同じ斎王になりなさい

361 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:26:41.45 ID:31gbBs5q0.net
>>15
壊疽は気やメリや

362 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:29:47.91 ID:IPwJyf0b0.net
当時中国と交流があった国が奈良県にあるはずないのに
こんなもん信じる奴がいるんだなw

363 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:30:42.08 ID:JLdhdueA0.net
魏志倭人伝では「邪馬壹國」と記されてるのを「邪馬臺國(邪馬台国すなわちヤマト)」説を採用
もう初っ端の出だしからしておかしい

邪馬臺國 これなら偶然に日本にヤマトの音の地があったので此処じゃろとなった
ではないかと?

364 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:32:29.63 ID:l5O/gyYW0.net
宮内庁が古墳調査の許可を出せば解明される

365 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:32:30.30 ID:I/6qKFtj0.net
>>363
隋書編纂者はおかしいと言いたいのかな?

366 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:35:30.22 ID:PAVnUUwk0.net
「孁」という難しい漢字について、岩波文庫本の校注に、「『孁』は、巫女(みこ)の意で用いた文字であろう。靈(れい)の巫を
女に改め、孁とすることによって女巫であることを、書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと思われる」とある。 そうであれば、
@「孁」という語は『書紀』の造語で、A「(日)孁」の意味するところは「(ヒ)ミコ」である、ということになる。 さて、大日
孁貴をどう読むか。実は、それは『書紀』自身がその割注で「於保比屢灯\武智(おほひるめのむち)」と訓じている。その場合、
「日」は、「比」あるいは夜の反対語としての「比屢(ひる)」のどちらにも読みうるが、「孁」は「屢(るめ)」とも「(め)」
とも読めないので、『書紀』がなぜ「日孁」と書いて「比屢刀vと訓じたのかという謎が浮上する。 すなわち「日孁」の中に
「(め)」と読める部分がどこにもなく、「孁」という文字を上下に分離して始めてその脚「女」が「(め)」と読めるのである。 
 これは、「孁」という字を冠と脚に分解せよという『書紀』からの暗号と思われる。それを証するかのように、『書紀』は念に
は念を入れて、「孁」の音(読み)は「力」と「丁」の反(かえし)、すなわち「Lei」(=れい)であるとわざわざ注している。
(注 反とは反切(はんせつ)の法則(難しい漢字の音を他の簡単な漢字二字を借りて示す標音法)で、具体的に「孁」に適用すると、それは「力=Liki」の頭子音(L)と「丁=
Tei」の頭子音以外の部分(ei)を合体した、「Lei」、すなわち「れい」となる) これは、この造語「孁」の元字が「靈」(霊はこの字の新字体)であることを意味する。
先の校注はそれを気付いた上での校注か否かは知るよしもないが、「靈の巫を女に改め、孁とす
ることによって女巫であることを示した」とする見解はまさに正鵠を射たものと言ってよかろう。
 すると『書紀』は、大日孁貴四文字を表向きは「於保比屢灯\武智」と訓じてはいるが、「孁
の読みに注(力丁の反)を入れることによって、この四文字がヒミコであること、そしてその別名をア
マテラスとすることによって、ここに、ヒミコをアマテラスに仮託したことを見事に宣言しているのである。

367 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:38:52.85 ID:JLdhdueA0.net
魏志倭人伝の「邪馬壹國」は臺を壹と写し間違えたという説
後の記録が逆に写し間違えた可能性も無きにしも非ず

368 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:39:43.79 ID:f0H1K6ol0.net
纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。

纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。

魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。

一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。

卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。

369 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:42:04.75 ID:f0H1K6ol0.net
《宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ》

370 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:42:32.22 ID:I/6qKFtj0.net
>>358
調停者というものが存在した場合は別だな。魏書の記述では卑弥呼は連合内の調停者の可能性がある。
調停者は王ではないが、違う政治文化を持つ部外者からは王に見えることがあるのは事例が存在している。

ポウハタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3
ポウハタン酋長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%85%8B%E9%95%B7
ポカホンタス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%AB%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B9

371 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:45:18.12 ID:6wncV1XF0.net
>>362
その奈良から三国時代の年号が書かれた銅鏡が多数出土してるから
奈良大和地方と中国の外交関係が邪馬台国時代既にあったとする説があるわけ

372 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:49:35.97 ID:f0H1K6ol0.net
巫女など女性の祭祀者は、
祭祀で民を纏め、教化し、忠実な兵とするのが、本来の役割なんじゃないかな。

卑弥呼もぴたりと当てはまる。
魏志倭人伝に、【鬼道にて衆を惑わす】とあるしね。
纒向の集落としての特徴とも合致する。

纒向は鋤の出土が多く、水路などインフラの整備、墳墓作りなどの土木作業が行われていたと考えられる。
兵となる民の労働として、行われていたんだろうね。

373 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:52:51.56 ID:IPwJyf0b0.net
>>371
そんなん飛鳥時代の国変遷で運び込まれたに決まってんじゃん

374 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:55:36.41 ID:JLdhdueA0.net
卑弥呼=日巫女・火巫女 称号というか職名だよな?
卑弥呼の名前がわかればなあ 簡単に解決すると思うんだが

375 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:56:38.23 ID:I/6qKFtj0.net
そもそも、卑弥呼は倭の女王と書かれているのに邪馬台国の女王だと勘違いしているのが多いな。
倭の諸国にはそれぞれ「官」がいると記述されている。
各国の「官」の呼称から後の古墳時代の「キミ」に相当する首長であることがわかる。
そして、邪馬台国にも「官」が存在している。女王はあくまでも「女王之所都」とだけある。

376 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:57:06.92 ID:do/9Et6V0.net
魏志倭人伝には、卑弥呼と、その取巻きの人々の顔と体とに入れ墨がされていたと書いてあります。

入れ墨は、中華から見ると蛮族が行うことです。

つまり、卑弥呼と、その関係者は、弥生系ではなく縄文系なのです。

弥生系が土着化して、入れ墨を入れていた可能性もあります。

身体への入れ墨は、海洋民族がサメよけに入れる行為です。

顔への入れ墨は、林や山中などで、獣と遭遇した際の為に入れているものです。

卑弥呼のように、顔と身体に入れているのは、いわゆる蛮族のメインストリームではありません。

377 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:00:05.74 ID:eSpYgWYJ0.net
>>373
四世紀の古墳から出ているので、それはありえない
飛鳥時代は6末〜8世紀初のこと

378 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:02:48.52 ID:f0H1K6ol0.net
>>376
魏志倭人伝だからな。

主に倭人の風習について書かれている。

379 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:05:48.81 ID:pOY8C2t50.net
学生ですが勉強すればするほど九州説の勝ちですよね

380 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:07:16.51 ID:I/6qKFtj0.net
>>376
古墳時代の埴輪や土面には刺青が描写されている。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/relics/art/details/img/2032-14.jpg
http://file.umena.blog.shinobi.jp/f89fe4c1.jpeg
http://blog-imgs-98.fc2.com/m/i/n/minekazeya/201611011315504fbs.jpg
畿内型鯨面埴輪
https://rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140524%2F42%2F4968892%2F11%2F602x456x8a7bc8e8fba2bd5204bbc5bb.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg
これは奈良県の唐古・鍵遺跡から出土した土面。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/kaz_15_2.jpg

381 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:09:49.57 ID:52ePKsi10.net
地名でわかる邪馬台国。
氷見がひみこのヒント。

382 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:11:52.67 ID:uyFP9GsY0.net
>>1
スマホのカメラ向けたら見えるようにしたらいい

383 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:12:45.38 ID:l5O/gyYW0.net
私にも畿内説が正しいと思う
九州説は妄想やロマンの範疇を出ない。
肝心の遺跡や古墳が無い
場所も具体的に明示できない以上なんの説得力もない
大事なのは物証
まず卑弥呼の古墳と思われる墓が無い以上話にならない

384 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:35:49.70 ID:SZmbq4WTO.net
傀儡でしかない卑弥呼は古墳なんて作ってないからな

385 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 15:38:51.14 ID:lBZ11qmz0.net
畿内説の手法

根拠を一切出さない
突然勝利宣言

386 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 15:39:40.46 ID:lBZ11qmz0.net
>>384
ど素人どっかいけ

387 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:40:39.56 ID:b2GJEwNC0.net
朝鮮人の出入り口だったわけか。瓜奈良漬け発祥の地。

388 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:43:56.01 ID:do/9Et6V0.net
384名無しさん@1周年2017/12/10(日) 15:35:49.70ID:SZmbq4WTO
傀儡でしかない卑弥呼は古墳なんて作ってないからな
↑↑
卑弥呼が、いわゆる中華系ならば、顔と身体の両方に入れ墨を入れておりません。
明確に"土着系"なのです。

389 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:48:18.42 ID:do/9Et6V0.net
入れ墨は、今では痛くないように墨入れしておりますが、

当時の入れ墨、墨を入れるのは、とても痛いことですよ。つまり、冗談で入れ墨は出来ません。

明確な風習があり、卑弥呼や周りの人々は入れ墨を行っていたのです。

390 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:51:27.83 ID:do/9Et6V0.net
つまり、卑弥呼や、取巻きの連中は、"ドシン"なのです。

391 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 15:52:07.07 ID:do/9Et6V0.net
土人、ドジン

392 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 15:54:33.01 ID:lBZ11qmz0.net
「卑弥呼以って死す。大いに冢を作ること径百余歩、葬に殉ずる者奴婢百余人なり」

393 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 15:56:07.87 ID:lBZ11qmz0.net
こんな基礎的な文献にも眼を通さずに乱入してきてんの?

394 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:01:31.85 ID:b2GJEwNC0.net
博多弁=ハングル語がルーツ
関西弁=中国語がルーツ

395 ::2017/12/10(日) 16:02:35.44 ID:YH1EBVH00.net
つか、魏志倭人伝によると「男子は」刺青をしてるって話じゃなかったけか?

396 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:09:07.74 ID:bXg1jGQ+0.net
南水行10日、入れ墨。
沖縄、徳之島には、入れ墨文化ある。
この辺じゃないの?自生馬もいる。

397 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:29:11.98 ID:nzM3WVYG0.net
刺青してるから南方系ってむちゃくちゃな論理なんだよなあ
ずっと後代でも海人部や宍人部なんかが刺青してるわけで

398 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:30:34.13 ID:zZ30U3WU0.net
>>380
こういうのも後で学者が作って埋め直した可能性があるんだよな

399 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:32:06.75 ID:do/9Et6V0.net
『魏志倭人伝』中には、「男子皆黥面文身」

400 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:37:05.55 ID:CzFBjr+Q0.net
>>271
倭国に火を噴く山ありがなぜ、九州説の根拠になるの?
邪馬台国に火を噴く山ありなら畿内説はありえないけど

401 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:38:44.98 ID:gSmQ/WYh0.net
入れ墨は、もともと中国の倭人(呉や越の人)の風習
朝鮮半島を経由して日本に移住してきた
よって渡来人系

402 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:44:18.92 ID:gSmQ/WYh0.net
倭人の勢力や文化が及んでいる範囲は全て倭国
そこに秦氏はまた違う文化を持ち込んだ

403 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 16:47:17.11 ID:6wncV1XF0.net
明史見りゃわかるけど、中国の史料を間に受けたら馬鹿みるぞ
相当いい加減な代物だから、大枠しかあてにならん
刺青の話だって話半分よ。秀吉が薩摩出身って話と同じレベルでない保証は無いからな

404 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:04:10.53 ID:LBrwl6Z10.net
>>371
その銅鏡は国産だったのでその妄想は終了しました
畿内説ってのはとっくの昔に論破された妄想にいつまでもすがりついてるだけの話なんだよね
>>19ではっきりしたように箸墓もホケノ山も4世紀で卑弥呼とは無関係
もう畿内には邪馬台国らしき遺跡すら残されていないのが現在の研究ですよ

405 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:07:04.29 ID:6wncV1XF0.net
>>404
九州説派が国産だ国産だと言い張ってるだけで
整合性の取れる根拠が提示されたことはいまだかつて一度もないんだが

406 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:12:15.71 ID:dSka4foa0.net
>>405
三角縁神獣鏡は中国では出土しません
国産鏡以外にはありえません

407 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:13:40.46 ID:7uFZ0dcG0.net
今のチャイニーズを見れば分かる。
到底、歴史を正確に記述出来るとは思えない。
自己に都合のいい歴史観を、テキトーにはめ込んだだけの事だ。
相手にしてはいけない。

408 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:16:19.46 ID:c3JW+5uH0.net
>>405
もうとっくに国産だと判明した鏡に未だに縋ってるのかよwww
>>404の指摘通り過ぎて笑えるwwww

409 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:18:06.34 ID:jifk11py0.net
距離も合わない
方角も合わない
風俗も合わない
魏志の記述に合う遺構もない
それらしい副葬品も出土しない

まあこれで畿内だと思ってるやつは普通に知障だろ

410 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:18:41.99 ID:gSmQ/WYh0.net
鏡が国産だろうと中国産だろうと
今も神社の本殿にあることを考えると
重要な品物だったことに変わりない
しかも、国産とすれば銅鐸の線描画と
比べるとものすごい進歩だ

411 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:19:03.71 ID:6wncV1XF0.net
>>406
中近世の永楽通宝が日本では大量に出土するのに中国からは見つからないケースもある
で、日本で偽造されたものがメインとか輸出用に中国で特注されたとか色々言われた
最近中国でも見つかって、日本での偽造品のみって説は否定されたがな

銅鏡なんかより鋳造量が桁違いに多い(億枚単位)銅銭でこんな状況なんだから
中国側で出土例が少ないってのは根拠として弱いな

412 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:22:20.98 ID:gSmQ/WYh0.net
曜変天目茶碗も中国産なのは確かなのに
日本でしか見つかっていないんだよね
なぜなんだろう

413 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:25:08.26 ID:7RcCaFZV0.net
>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)

一周が5千里余りの島だってんだから、九州島内以外にはあり得んだろ
畿内説とか頭おかしいとしか

しかも「參問倭地」とあるのでこれは邪馬台国のみの記述ではなく、倭地(倭国)全体の話である
つまり当時の中国の認識する倭国は九州島のみ
本州なんて倭国とさえ思われてなかった

414 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:29:00.95 ID:gudFGNr20.net
>>406

中国では出土しています。しかし、魏はわずか40年程度の王朝で遺物などは滅多に出てきません。

三角縁神獣鏡:中国訪問メモ(2015年11月23〜27日)
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kagami.html

午前、王趁意氏の自宅アパート(公務員宿舎)を訪問。奥様と友人(鏡研究の仲間)合計3人が出迎え。
王氏自宅で昼食し、終日を三角縁神獣鏡とその他古鏡の撮影や意見交換などで費やす。
洛陽出土とされる三角縁神獣鏡を実見し写真を撮る。西川先生が実測、直径約18.3cm。重量を測る(約680g)。
また、形状も調べた。間違いなく三角縁神獣鏡である(【吾作】で始まる三角縁四神四獣鏡)。
この鏡は王趁意氏の個人所有で現在も自宅に保管している。

画像
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/im/washi1-5-13.jpg
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/im/washi2.jpg

415 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:33:30.60 ID:ODxWO5gE0.net
未だに三角縁神獣鏡が頼みの綱とか近畿パー笑かすなw

https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
>2.1. 中国からは全く出土していない
>三角縁神獣鏡は、日本国内では600枚以上見つかっているが、中国では全く出土しない。また、三角縁神獣鏡の径は22cmもあり、
>後漢・三国時代の鏡よりもはるかに大きい。だから、王仲殊(おうちゅうしゅ)や徐苹芳(じょへいほう)といった中国の考古学者たちは、
>三角縁神獣鏡は魏が作った鏡ではないと主張している。

>2.2. 枚数が合わない
>現在、三角縁神獣鏡の数は600枚以上にのぼっているが、これは、銅鏡百枚を贈ったとする『魏志倭人伝』の記述と矛盾する。

>2.3. 記年が間違っている鏡がある
>ところが記年銘鏡にも怪しげなものがある。「景初四年」という実在しない記年が入った鏡が、京都府福知山市の古墳から出土している。
>景初は三年で終わりで、翌年は正始元年でなければならない。
>これに対して、畿内説支持者は、三角縁神獣鏡は、魏で作られたものではなく、魏の皇帝が職人を遣わして、倭人の好みに合わせて
>倭で独自の鏡を作らせたとする特鋳品説を唱え、倭に来ていた職人は、元号が変わったことに気が付かずに、「景初四年」という
>記年を入れてしまったのだろうと推測する。
>なるほど、この特鋳品説ならば、三角縁神獣鏡が、中国では全く出土しない理由をも説明することができる。
>魏の皇帝が職人を遣わすというのは、ありそうにない話だが、百歩譲って三角縁神獣鏡が特鋳品であると認めても、
>さらに次のような問題がある。
>
>2.4. 三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている
>中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。
>そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。
>
>問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである。魏の皇帝が呉様式の鏡を倭に下賜することは、現代の譬えで言えば、
>中国の北京政府が、李登輝台湾総統の肖像が刻まれた日中友好記念硬貨を日本に贈るようなもので、
>おおよそありえない国辱的行為である。

416 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:33:46.03 ID:6wncV1XF0.net
中国で作られたものなのに日本でしか見つからないなんてーのは珍しくも何ともないわけよね
大陸と日本での価値に差があれば日本にほとんど全部輸出されてしまうし
仮に大陸に残ってても価値を認められなければ溶かして再利用されたり棄てられたりする
結果、日本にしか残らないなんてのは珍しくもなんともない

417 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:36:38.11 ID:eKyFBroY0.net
東日本から奈良への流民が多かったのが わかったんだよ
東から、持ち込んで生活に使用した土器が大量に見つかってるそうだね
ヤマトは 地方豪族の結集
マジぇマジぇタイプ

418 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:37:04.10 ID:ODxWO5gE0.net
未だに三角縁神獣鏡が頼みの綱とか近畿パー笑かすなw

https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
>2.5. 銘文に疑わしい点がある
>魏王朝特鋳説は鏡の銘文からも否定される。詩や銘は韻文であり、韻を踏むのが原則であるが、三角縁神獣鏡には、
>魏ではすでに韻を踏まなくなった字を韻字として用いたり、韻文をつくるつもりすらない拙劣な銘文が見られる。
>森博達は次のように言っている。
>
>そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として文学史上高く評価されている。
>詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような
>詩文隆盛の時代である。
>
>そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。
>「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。 それゆえに鄭重に
>汝に良き物を賜与するのである」
>
>この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。
>魏の詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。
>「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。
>親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。
>三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
>
>これに対する考古学からの説得力ある反論はまだ出ていないそうである。

>2.6. 三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する
>卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。
>畿内説支持者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。
>安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。
>この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。
>つまりこの鏡は四〜五世紀の作品であるということである。

419 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:40:57.81 ID:eKyFBroY0.net
>>100
え〜! マジで!?
じゃあ、中国内陸部と、翡翠で貿易してた。とかゆう例の仮説は ウソなのか?
北九州産の石で交流してたのか?
???

420 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:43:04.40 ID:zbZ/lJzC0.net
>>404
箸墓は3世紀だよ
土器についた土が分析されている

421 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:43:53.52 ID:eSpYgWYJ0.net
>>404
纏向は何人もの技師が掘っていて、そのうちの「自説に都合のよい」たった一人の
調査技師の意見のみを取り上げて、勝手に権威づけて終了はさすがにいかがなも
のかとは思うが、いずれにしても三〜四世紀は畿内や吉備が優勢であって、卑弥
呼が奴国にいたとすれば、征服される直前の風前の灯火だったに違いない

422 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:45:21.35 ID:j4xu+TwV0.net
ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中の大和古墳群)を発掘調査していた奈良県橿原考古学研究所 大和古墳群調査委員会(樋口隆康委員長 岡林孝作発掘主任)は、
古墳の築造年代を3世紀中葉の最古の前方後円墳であると発表した。

423 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:47:01.26 ID:l5O/gyYW0.net
卑弥呼の墓を探せ❗

424 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:47:27.43 ID:I/6qKFtj0.net
>>197
>さらに 白村江の戦争中なのに 遣唐使おくってるとか 

ダウト。
唐による百済侵攻が660年。その前年に倭は唐に使節を送っている。また、同時期に阿部比羅夫による蝦夷遠征が
行われている。
その後唐が高句麗征討に向かうと百済の残存勢力から救援要請があり、662年に阿部比羅夫を征新羅将軍として派遣。
翌年663年10月に白村江の戦いがあり倭は唐に敗れる。
665年に唐使の劉徳高が戦後処理の使節として来倭し、それを送り返す遣唐使が派遣された。

425 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:48:28.59 ID:j4xu+TwV0.net
ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中)発掘調査により明らかになった主な事項(新聞報道の抜粋)
古墳の構造は石で囲った木槨(一部ヒノキ材)の中に長大なくりぬき式木棺(コウヤマキ材)を据えた前例のない三重構造で、
墳丘墓と前方後円墳の双方の要素をもつ構造。棺内中央部に水銀朱の塊がある。

二重口縁壺(庄内式土器)20ケ以上が石囲いの内側から等間隔で配置(埴輪か?)
画文帯神獣鏡1面(「吾作明竟」から始まる計56文字の吉祥銘文入りの「同向式」)
内行花文鏡1面の破片2点
画文帯神獣鏡2面の破片数点
銅鏃(やじり)60点
素環頭太刀
鉄剣・鉄鏃・鉄農具など鉄製品130点以上

426 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:50:09.58 ID:eKyFBroY0.net
日本の権威主義は、てんでダメだねえ 役に立たない
外国人からも 古墳を 墓 墓 言うな!と笑われてるぐらいだから、アホなのかも

427 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 17:57:07.16 ID:37TbM8+P0.net
>>409
魏志倭人伝はここで詳しく読まれてるが畿内説でぴったりくる
ぎゃくに九州説だとおかしくなる

http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_2.htm

428 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 18:00:31.05 ID:I/6qKFtj0.net
>>345
それでは「女王之所都」とは本来どういう形で記述されていたのか復元してくれないか?

429 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 18:05:20.97 ID:TSqIMp350.net
金印が出ない限り決着は無理

430 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 18:06:04.08 ID:UK8q8yBg0.net
>>412
最近シナでも見つかったよ
http://nazo108.sblo.jp/s/article/114620213.html

431 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 18:06:21.10 ID:RIgfdiqV0.net
桜井市には山田寺跡があるじゃない
邪馬台国よりもよっぽどロマンがある

432 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 18:10:34.17 ID:ODxWO5gE0.net
>>420
それはゴッドハンドでしかない

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm
> 箸墓の年代に関する歴博の矛盾点
>
> 項目2の発表のレジュメに次のように記述してある。
> 「定型化した最古の前方後円墳である箸墓古墳の布留0式に付着する炭化物などを測定したところ、1800BP年頃に集中する結果を得た。
> (中略)日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線と照合すると、箸墓古墳の布留0式は3世紀中頃と考えるのが
> 合理的である。」
>
> しかし、掲載図の日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線を拡大して目盛り線を引いてみると、
> 1800C14BP年は較正曲線と4カ所で交わり、3世紀中頃〜4世紀中頃にしか絞れない。
> 歴博が3世紀中頃の1ポイントに絞るのはまったく根拠がない(下図)。
> http://yamatai.cside.com/katudou/image/270-2.gif
>
> 項目3の発表で、歴博準教授の藤尾慎一郎氏は次のように述べる。
> 「日本産樹木の炭素14年代は、BC2世紀以降については未だデータも少なくそのグラフも上下に暴れる不安定な状態である。
>
> つまり、BC2世紀以降については、未だ実用の段階ではなく、現時点では、炭素14AMS法で箸墓の年代を推定することは
> できないことを意味している。
>
> 歴博は、いっぽうでは較正曲線が未完成なので、弥生終末期〜古墳時代開始期も実年代を決められる状況ではないことを
> 認めていながら、片方においては、まさにその較正曲線を根拠にして古墳時代開始期の箸墓古墳の年代発表をするという
> 矛盾した行為を行ったのである。
>
> これらの点について、歴博との質疑応答で質問した。しかし、歴博からいろいろ説明された内容は、質問に正面から答える形のものではなく、
> 納得できる回答ではなかった。
>
> ■ 箸墓古墳の年代についての安本先生のコメント
>
> 歴博の研究者は、240年から350年までの幅を持った値しか推定できないデータなのに、3世紀中頃というピンポイントで
> 決めてしまい、それを新聞発表した。
>
> 歴博の発表は、箸墓古墳が3世紀中ごろの卑弥呼の墓という前提条件をもって行われた。研究自体は科学的方法を用いているが、
> 発表はまったく科学的ではない。自分たちの先入観の確認のためにデータを都合良く利用しているだけだ。
>
> 畿内説の学者は、新聞発表に持ち込めば成功と考えている人が多い。新聞発表では証明したことにならないので、
> 証明は別に行なわねばならない。
>
> 世間一般の人は国立機関の歴博ともあろうものが、いい加減な発表をするはずがないと思う。
> しかし、実体はそうではなく、かなりいかがわしい発表をしている。
>
> 前々回に講演して頂いた韓国慶尚大学招聘教授の新井宏氏も歴博の発表について次のように述べている。
> 今回の問題だけでなく、弥生中期や、弥生前期の板付Ua期の位置づけに関しても、歴博の発表に自己矛盾が数多くあり、
> 歴博の論理性について、強い疑義を抱いている。
>
> ここに言う自己矛盾とは、歴博の発表した前提条件や資料からは、歴博の主張する結論は得られないという
> 極めて単純なことであり、考古学上の議論とは無関係な論理的な問題である。
>
> 土器付着炭化物と、炭化米やくるみの炭素14年代を比較すると、土器付着炭化物のほうが、炭素14の年代が古く出ることも
> 注意が必要。これは、西田茂氏が江別市対雁2遺跡の例として土器付着炭化物では600年も古く出ると問題提起したものであるが、
> まだ、明快な解決に至っていない。

> 旧石器捏造事件の時と同じように、研究費を配分する人と、研究費を使用する人たちが同じグループに入っている。
> 旧石器捏造事件では、研究費を配分する人があらかじめ自分の説を持っていて、自分の説を支持するところへ
> どんどんお金をつぎ込むということをやった。研究者は配分者の説に沿うように成果を出さないと研究費がもらえなくなるので、
> ますます捏造が拡大し、とんでもないことになった経緯がある。
>
> 歴博の研究は、これとほとんど同じ構造になっている。

433 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 18:14:32.40 ID:j4xu+TwV0.net
堺の港から箸墓古墳までの直線距離は約36km

地図で見てもわかる通り、堺から上へ登っていくと簡単に橿原市方面(箸墓)方面に行ける。
https://www.google.co.jp/maps/@34.561741,135.252033,45582a,35y,90h,35.9t/data=!3m1!1e3

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