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【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」見える化 桜井市、建物跡に目印設置へ 900万円目標、ネットで募金

1 :泥ン ★:2017/12/09(土) 17:13:37.52 ID:CAP_USER9.net
2009年に大型建物跡が発見された際に柱跡に建てられた目印。
今回の丸太のイメージだ=奈良県桜井市の纒向遺跡で2009年11月10日、貝塚太一撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2017/12/08/20171208oog00m010051000p/9.jpg
現在の大型建物跡。それと分かる目印は何もない=奈良県桜井市辻で2017年12月6日、山本和良撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2017/12/08/20171208oog00m010052000p/9.jpg

 女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地の一つとされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡)で、「卑弥呼の宮殿跡」と注目された大型建物跡などの建物遺構について、市は位置が分かるように丸太を設置することを決め、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングによる資金集めを始めた。事業費の4分の3に相当する900万円を目標に、来年2月末まで協力を呼び掛ける。【山本和良】

 纒向遺跡は、3世紀代を中心に営まれた大規模集落遺跡で東西約2キロ、南北約1・5キロの範囲に及ぶ。2009年に見つかった大型建物跡は3世紀前半のものとみられ、同時期のものとして国内最大規模。前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓の説もある。

 周辺は、他にも弥生時代末期〜古墳時代初めの古墳など貴重な史跡が豊富で、年間を通じて考古学ファンら多くの見学者が訪れる。しかし、纒向遺跡を紹介する施設はなく、大型建物跡に至っては埋め戻されている。このため、「様子が分かるようにしてほしい」などと訴える声が盛んに市に寄せられていた。

 そこで市は、今年度中に大型建物跡などの柱の跡に、目印になる杉の丸太(直径15〜32センチ、地表の高さ1メートル)を設置することを決めた。木材は、桜井木材協同組合の協力で無償で提供してもらえるが、全部で65本を設置する費用などに約1200万円が必要。文化財関連の財源確保に頭を悩ませる市は、ネットのふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」を活用することにした。寄付はふるさと納税制度の対象となり、税控除が受けられる。

 協力者には、市纒向学研究センターが発行する機関紙「纒向考古学通信」を3年間送付し、遺跡の調査や保存整備の状況などを随時知らせる。

 市教委総務課は「建物の柱を目に見えるようにすることで、古代史最大の謎解きを体感してもらいたい」としている。

毎日新聞 2017年12月8日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171208/ddl/k29/040/544000c?inb=ra

275 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:02:39.94 ID:Ou7OirN60.net
倭人伝と倭国伝の成立に何百年の開きがあるんだよ。そんなのも知らない奴が邪馬台国九州説をとるんだろうな。

邪馬台国とは卑弥呼が都とするずっと南方の国、倭人伝ではそれだけの話。

しかも七万戸という北部九州より遥かに栄えたような国は九州南には存在した形跡すらない、それで九州説はもう成立しないから。

276 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:03:35.78 ID:ZJirVWdX0.net
九州にあったとしても既に破壊されてそうだなぁ…土人は馬鹿だし

277 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 09:04:36.24 ID:lBZ11qmz0.net
>>275
ちょっとまて 倭国伝をこのスレで最初に持ってきたのは俺
なんでそういう芝居すんの?

278 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 09:05:38.55 ID:lBZ11qmz0.net
>>275
あらー 畿内の元は都だった場所ってみんな畑だったけど??

279 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:05:48.09 ID:f0H1K6ol0.net
魏志倭人伝当時の九州状況


女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国はヤマト盆地、狗奴国はその南の河内&和泉ね。

奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。

九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。

女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。


伊勢尾張、丹波など卑弥呼を擁する畿内の勢力、瀬戸内海を支配を進めていた吉備、九州北部に一大率を置き筑紫を支配下に治めた投馬国などが卑弥呼を共立し手を結んだんだね。

280 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:10:49.87 ID:Ou7OirN60.net
>>273
君が無知なだけだよ、ちなみ最後ヒント。
卑弥呼が都とするのが邪馬台国とあるが、
都には本来最初に生まれた等の意味も含む。

女王が生まれたのか、卑弥呼が生まれたのか
国が成立した等色々とれるけどね。
まぁネタでやるなら九州説の方が楽だろうが
既に位置論なら畿内説以外は成立しないゆ。

281 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:11:56.70 ID:f0H1K6ol0.net
魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
その博多、播磨など瀬戸内海の土器が大量に出ている、4世紀にかけて畿内の土器が大量に出土するようになる。ヤマト政権の支配下にあったのは確実だな。

魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。

奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。

問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。

巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。

不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。

九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。

282 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 09:17:35.69 ID:lBZ11qmz0.net
投馬国って DQNのスサノオの尊が姉への嫌がらせに 
機織の見学をしてるアマテラスの機織小屋に馬の死体を投げ込んで機織女のワカヒルメを殺したという
あれだよね。

283 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 09:19:44.72 ID:lBZ11qmz0.net
>>280
畿内説は証拠を並べずに 煙に巻くことばかり

284 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:20:03.50 ID:l5O/gyYW0.net
東遷説は無い
そもそも都が遷都されるのは国が滅ぶか大厄災かしかない
強国が先祖伝来の土地・都を放棄することはないし
発想も意味もない

285 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 09:20:56.98 ID:lBZ11qmz0.net
>>280

ヒントじゃねーよ あほ

詐欺師ってのはそうやってもって回った言い方で手のうちにカードがある振りをするのさ

286 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:39:04.20 ID:gSmQ/WYh0.net
神武天皇の東征は中国にそっくりな
逸話があるらしいから
そこからとったに違いない

287 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 09:50:52.48 ID:f0H1K6ol0.net
魏志倭人伝当時、九州北部の国々は独立性などない。植民地みたいなものだ。
そんなところに、邪馬台国はない。

288 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 09:56:40.05 ID:lBZ11qmz0.net
大体最近の畿内説はなんだ
古墳が見つかるたびに邪馬台国 卑弥呼の墓宣言するし
馬鹿なのか?

289 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:00:56.05 ID:nOWBAn9x0.net
歴史 は権力者に都合よく創られる

http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/

縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、
自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち
天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。
しかし実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた
侵入者(インベーダー)でした。

ヤマト王朝を建国後、万世一系と称する天皇制の皇統譜(こうとうふ)を
作成し、それを『日本書紀』、すなわちヤマト王朝の自分たちに都合のいい
歴史をつくり上げて、「正史」としたのです。歴史とは必ずしも「本当に
あったこと」の記述ではなく、その時々の権力が自分たちに都合よく創り上
げるものなのです。
 ヤマト王朝すなわち天皇制国家が生まれたことにより、先住民族に対する
抑圧と差別が始まりました。天孫族は、自分たちとは異なるルーツをもつ
人々を「化外(けがい)の民」とし、国家の支配体制から差別し排除しまし
た。

そうした先住民は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自
足の生活を送りました。さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでい
た土地から追い出し、賤民としてあちこちに分散させました。
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と
身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」
(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、
圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、
律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築された
ものなのです。

私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、
未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少な
くないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々
によって成り立っていることも驚くほど知られていません。

290 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:01:32.97 ID:f0H1K6ol0.net
考古学的事実が積み上がってきて、正しい歴史を見直そうという機運だろう。

291 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:06:46.65 ID:XN0b1Cc+0.net
>>244
古代は山辺の道あたりが海岸線というか湖畔だったとか
標高がかなり高い

292 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:07:09.18 ID:MkaK5ng40.net
木材を地元の業者に提供してもらえるなら
杭打ちぐらい市長がやれよ

293 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:09:00.47 ID:f0H1K6ol0.net
>>289
平和的に統一国家になった国は存在しない。

事実は事実として解明することが大事。

そして、日本国成立の犠牲になった人々に敬意を払い、鎮魂し、祈ることが大切。

殺されたり滅ぼされて神になることも沢山ある。偽神を祀るのは論外だが。

294 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:11:07.76 ID:V1CLDa4V0.net
土蜘蛛・・・筑紫の者→筑紫者→チクシモノ→ツクシモノ→→→・・・ツチグモ(宮廷に伝聞で届いた時には筑紫の者が土蜘蛛に)

295 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:12:48.78 ID:4Yg4oY1t0.net
仁徳天皇陵?が4cなんだろ?
掘り返したら?

296 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:13:56.32 ID:jYrD9W3X0.net
邪馬台国は奈良w

297 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:18:08.04 ID:gSmQ/WYh0.net
投馬国は出雲はそれでok?

298 ::2017/12/10(日) 10:18:24.95 ID:YH1EBVH00.net
新規開店した纒向ヤマトの王、オオタラシヒコが
老舗の日向ヤマトと筑紫ヤマトを滅ぼして、
「うちが元祖ヤマト」と宣言したのだ。

ひどい話だよね。

299 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 10:20:39.04 ID:lBZ11qmz0.net
舊唐書  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本 

原文

 日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名
 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
 或云 日本舊小國 併倭國之地



日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。

300 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 10:22:27.14 ID:lBZ11qmz0.net
旧唐書に 日本国と倭国は別種だって書いてあるし

301 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:22:51.13 ID:TUm6c/g30.net
神武東征神話は旧約聖書の記述に近い
約束の地カナンへ旅するヘブライ人の記述に符合
両者とも、東方にある神の与えた地を目指す
古代日本人は、曽富里の東「葦原の国」へ着き
古代ヘブライ人はサハラの東「カナン」に着くのです
「カナン」とは、「CNNE-NAA」の合成語と考えられ「葦原」を意味します

302 :ココ電球 _/ o-ν :2017/12/10(日) 10:23:08.02 ID:lBZ11qmz0.net
日本國は倭國の別種なり。

畿内説はとっくに終わっていた

303 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:31:35.14 ID:n+mW6y3G0.net
なんかここ怖い

304 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:31:41.36 ID:f0H1K6ol0.net
倭国大乱前、ヤマト政権の始まりより前に倭国は存在している。

ヤマト政権は、国譲り即ち倭国討伐でできた政権。
ヤマト政権の中心のある地は、倭国大乱前の倭国の中心畿内だけどね。
ヤマト政権自体が本来は倭国ではないんだな。

ヤマト政権による国を、後に日本と改めたんだろう。

ヤマト政権の始まりは、ヤマト征伐。その中心は伊勢尾張の勢力。
ヤマトの東、日の本。
倭国大乱前の倭国に比べれば、小国だな。

305 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:33:17.77 ID:XN0b1Cc+0.net
>>297
当時の舟だと難所の多い瀬戸内海よりは日本海側の方が楽だったという話はあるな

306 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:39:00.07 ID:mjAXtjv10.net
>>289
蝦夷は平安時代まで頑強に抵抗していたよ
別の国だった

307 ::2017/12/10(日) 10:45:22.89 ID:YH1EBVH00.net
ヤマトは 国のまほろば
たたなづく青垣 山こもれる
ヤマトし うるわし

という歌があるが、どうも字足らずなんだよな。
てなわけで、東京の山手(やまのて)みたいな感じで、
「ヤマノト」「ヤマント」が正しい発音な気がする。

308 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:49:54.53 ID:f0H1K6ol0.net
投馬国は九州北部の不弥国から南に船で20日。
九州南部の国。

日本列島には100ヶ国あると書いてある。
卑弥呼を共立した国は30ヶ国。
周囲敵だらけ。
瀬戸内海や日本海側、琵琶湖周辺や河内などを平定していた根拠はない。

大隅半島から紀伊半島に黒潮に乗りワープしたんだろう。
黒潮の流速を考えたら、
大隅半島から紀伊半島まで約10日でぴったり。

309 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:54:17.13 ID:ZIrGGZmv0.net
>>268
この場合も「自女王國以北」とは伊都国や奴国の北の意味で
「其餘旁國遠絶」とは不弥国さら先の国邑のこと
「其餘旁國遠絶」も女王国の構成する国々
ですから伊都国や奴国の南に国邑がまだ在るってこと。

310 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:55:21.43 ID:mYJbYCZZ0.net
公務員のボーナスから出せよ

311 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:57:16.26 ID:ZIrGGZmv0.net
>>308
超古い九州説ですね
投馬国は帯方郡から南に船で20日と判明してますよ。

312 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 10:57:38.18 ID:gudFGNr20.net
平原遺跡など北部九州の遺跡 : 後漢(25-250年)などの邪馬台国以前の時代の遺物が出土

畿内を中心に全国に散らばる前期前方後円墳 : 魏(220-265年)のわずか40年の期間の年号が記載された三角縁神獣鏡
が複数存在。しかも、その年号は卑弥呼が魏に使いを送った年がピンポイントに記載。
魏志倭人伝には卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとある。

3世紀以前の畿内は銅鐸を埋葬する文化→3世紀から銅鏡、銅剣、勾玉など三種の神器を副葬
する文化に変化

すなわち、3世紀の畿内ではパラダイムシフトが起きている。前方後円墳と三種の神器という墓制に。

313 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:01:30.23 ID:f0H1K6ol0.net
ヤマトの地名。

記紀でも、いくつも名付けのエピソードがあり、奈良という地名までつけられている。
ヤマトの漢字表記も、倭→大倭→大和など変遷。

ヤマトの地名自体に都合の悪い事実が含まれていて、時の支配層はそのことを隠したかったんだろうね。

都合の悪い事実、倭国大乱前の倭国の存在、国譲り前の倭人の国、倭国の存在しかないだろう。

大阪湾から見て、河内湖の内側にある地→カワチ、河内。

大阪湾から見て、山の外(向こう側)にある地→ヤマト、山外。

ヤマト本来の意味は、名付けの主体が何処にいたかが分かる。

大阪湾、淡路島、イザナギの宮があり、国生みが始まる地。

314 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:02:27.75 ID:f0H1K6ol0.net
>>311
そんなことを言う現在の学者はいない。

315 ::2017/12/10(日) 11:04:13.03 ID:YH1EBVH00.net
>>313
> 大阪湾から見て、山の外(向こう側)にある地→ヤマト、山外。

うーん、それはどうじゃろ。
>>307の歌は、ヤマトの中から周囲の山々を見上げて詠んでるよね。

316 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:05:17.65 ID:AY4SDDpr0.net
>>19
土器の付着物の炭素年代測定は
西暦240-260年代
http://best-times.jp/articles/-/985

卑弥呼の最初の記述は239年

倭国大乱で共立の王を建てるなら
新しい場所だろ

317 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:06:40.17 ID:gudFGNr20.net
三種の神器を副葬する文化は元々北九州が発祥。魏の時代に畿内へ急速に入れ替わった。

この3〜4世紀の間に大国主の国譲り、神武東征、天岩戸伝説などが重層的複合的に組み合わさってると
見てよいでしょう。

そして4、5世紀に今の天皇家が王権の座を手に入れる。それまでは、王権の座は色々変動
していたことでしょう。

318 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:10:08.65 ID:f0H1K6ol0.net
その大阪湾を望む難波津で行われていた天皇即位の儀式の一つである、八十島祭。

天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀であったと言われている。

倭国の王権を正式に引き継ぎましたと明らかにする儀式。
正に国譲りの儀式そのものだな。

319 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:13:53.40 ID:f0H1K6ol0.net
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀。

八十島祭を詠んだ歌が面白い。


後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。

 ○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば      津守経国

 八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。


仁徳天皇の難波津の歌も興味深い。

 ○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば

   淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ          仁徳天皇


難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していたんだね。

320 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:14:35.07 ID:UK8q8yBg0.net
畿内説否定してる人には
その決定打がないのが残念

321 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:15:18.77 ID:l5O/gyYW0.net
卑弥呼の墓がある場所が邪馬台国
古墳探せよ

322 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:16:09.36 ID:UK8q8yBg0.net
>>316
>倭国大乱で共立の王を建てるなら
>新しい場所だろ

何でそうなる?

323 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:18:49.31 ID:UK8q8yBg0.net
>>321
箸墓古墳なんだよ。
でも宮内庁管理下なので発掘不可。

324 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:20:09.27 ID:VgVAEKuv0.net
>>317
古事記神話が3〜4世紀
もう中国とか爛熟していた文明の時代に「国生み」とかか
感慨深いものがあるな

325 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:22:48.55 ID:VgVAEKuv0.net
我々の祖父の兵隊は何のために死んだのだ

326 ::2017/12/10(日) 11:24:18.87 ID:YH1EBVH00.net
>>319
競技かるたの最初に詠まれる
なにわづに 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花

も、仁徳さんの頃の歌だね。
筑紫から攻め上った始祖王 応神帝に始まる河内王朝時代の歌だ。

327 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:26:30.85 ID:VgVAEKuv0.net
天皇陵など全て洗いざらい掘り返せ

328 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:28:08.83 ID:gudFGNr20.net
>>324

大国主の統一の話は銅鐸文化圏のことでしょう。邪馬台国は銅鐸文化圏と北九州三種の神器圏が
重なって生まれた。

329 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:31:58.25 ID:f0H1K6ol0.net
>>326
畿内で九州の勢力が主導権を握ったのは、応神からだな。

応神も2世紀末ヤマト征伐から続く、ヤマト政権と同じ流れだ。
それ以前に血の交流も進んでいるし、同じ政権内の争いだな。
畿内にも、応神派と忍熊王子派がいたしね。

国譲りとは大分年代が違うな。

330 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:32:08.58 ID:gudFGNr20.net
北九州三種の神器圏は後漢とのつながりで日本国内の権威を手に入れていたが、邪馬台国は魏との
つながりで国内の権威を手に入れていた。

後漢文化圏=北九州、魏文化圏=邪馬台国ともいえる。

331 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:38:37.65 ID:f0H1K6ol0.net
八十島祭と関連の深い生國魂神社。
石山本願寺ができる前は、大阪城の地にあり境内に古墳もあったらしい。
かつてはすぐ北に淀川の本流があり、大阪一の要衝の地。

その生國魂神社の謂れ、神武東征の折、生島神と足島神を鎮魂!したのが始まりらしい。殺されたのかな。
クナの王に仕えていた官だったのか。

国譲り、倭国討伐にまつわる話かな。

332 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:40:34.14 ID:f0H1K6ol0.net
>>330
魏志倭人伝当時既に、九州北部は邪馬台国に都を置く初期ヤマト政権の支配下。

333 ::2017/12/10(日) 11:47:02.20 ID:YH1EBVH00.net
>>332
纏向ヤマトは崇神さんあたりが始めた新興国家。
ぶっちゃけ筑紫ヤマト日向ヤマトのバチもん。
だから孫の景行さんが証拠隠滅のために元祖を滅ぼしたのだ。うんうん。

334 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:53:01.16 ID:BF1MQtwg0.net
>>269
記紀の神代は高天原神話、出雲神話、日向神話からなる
天皇家に直接つながる日向神話に南方海洋民族の説話が取り入れられていることから下記の説が成り立つ
そして高天原神話は大和朝廷の成立した畿内とは別の場所で語られていた神話だと想像する
つまり九州北部だね

ということでコピペ

日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う

続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり

木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ

おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる

よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる

なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話

高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925)   智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜)  日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂)

335 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 11:57:11.26 ID:f0H1K6ol0.net
九州北部は九州南部の投馬国と吉備に征伐されたんだよ。
神武さんは九州北部の伊都国を征伐し支配下に置くことで、伊都国やニニギの血統や神話を奪ったんだな。
伊勢や、新しい出雲の勢力が倭国大乱前の倭国の事績を奪ったのと同じ。

時代を経て、九州南部が征伐対象にされるのは皮肉な話。

336 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:00:58.42 ID:UsBL0QiL0.net
公園にするほどの価値は無く
埋め戻されてこのままでは宅地工場用地の運命
まあ跡地の碑ぐらい建ててもばちはあたらない
騒いだ割にはたいしたことない発掘地だった

337 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:02:22.57 ID:UsBL0QiL0.net
ファンドを寄付が何かと勘違いする人が増えてるな
こんなの事業じゃない
日本の倉独活ファンドは歪んでる

338 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:09:25.56 ID:kpc/hGau0.net
>>311
その通りである

339 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:25:37.83 ID:ZIrGGZmv0.net
>>336
そうですね、記録さえ残しておけばいい程度の遺跡。

340 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:28:01.01 ID:ZIrGGZmv0.net
>>321
そうとも限らないな
都から遠く離れた場所に埋葬される場合もある。

341 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:28:07.60 ID:26xu1p370.net
文献史学じゃ九州、考古学じゃ畿内みたいな色分けされてるけど、後者は考古学でも相当に怪しいと思うけどねw
でも畿内で決定だとか、九州説は妄想だとか大口叩かないのであれば古代史盛り上げる意味で頑張ったらいいわw

342 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 12:32:23.66 ID:l5O/gyYW0.net
都から遠く離れた場所に埋葬される場合もある。て詭弁もいいとこ
遠征している訳でもなく他国に墓を造営することもない
卑弥呼は死ぬまで女王だったから墓がある場所が邪馬台国なの!
詭弁屁理屈、可能性とか説得力なさすぎでしょ

343 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:08:51.72 ID:Ou7OirN60.net
>>333
弥生中期から後期には既に奈良盆地南部にかけて大規模な弥生集落が点在してる時点で
新興なんて有り得ないね。
葛城地方は鏡の出土も早い時期なんだしな。
高天原とは普通に葛城から高野山にかけての話。

344 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:13:53.07 ID:rk5uaxKE0.net
>>242
ダックか?^^
何遍も聞いてるうちそんな気がしてきたわ

じゃが邪馬壹たるイヨちゃんのみやこは別のところや(そこはあくまでも伊都

345 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:17:13.08 ID:eSpYgWYJ0.net
旅程記事の密度の違いから、郡使が北部九州で留まって、邪馬台国や投馬国に行ってないのは誰の目にも明らか
なのに郡使は女王に会い、墓を見たと書いてある
これらが嘘ではないとすれば、奴国を中心とするであろう女王国と、女王国とは関係のない邪馬台国
の記事が混同された結果であることは高校生にでも理解できる

346 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:18:43.08 ID:rk5uaxKE0.net
>>316
理系のひとがams結果の統計に二つのピークあるゆーてんのに文系のひとが謎のまとめ文かいたやつやな?^^

347 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:21:17.48 ID:rk5uaxKE0.net
>>341
ほんまや(さんせー(いずもキビあわもありそーやよ

348 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:21:37.79 ID:f0H1K6ol0.net
>>343
邪馬台国はヤマト国だが、葛城が高天原みたいなヤマト至上主義はダメだな。


伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。

伊勢遺跡は、高天原のモチーフの有力候補だろう。

349 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:24:25.26 ID:BF1MQtwg0.net
>>343
だが纒向遺跡が>>19にあるように4世紀のものであるならクニの形成は遅れたと見るべきでは
記紀が神武天皇から何代かはムラの長レベルのことしか書いていないのとも一致するし

350 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:34:19.52 ID:kpc/hGau0.net
箸墓は300年前後だろ

351 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:34:32.84 ID:6wncV1XF0.net
中国の史料による豊臣秀吉と織田信長関連の記録
これ読んで魏志倭人伝の信ぴょう性を考察されたし

日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ
山城州の頭目、信長がこれになっていた。
ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。
何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い
薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。
信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、「木下人」と名づけた。
後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。
参謀に阿奇支なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。
にわかに信長は部下明智に殺される所となり
秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。
信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の衆をことごとく収めたのが万暦十四年である。

352 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:38:41.35 ID:kpc/hGau0.net
葛城は高天原とか、鴨厨かな

353 ::2017/12/10(日) 13:46:13.61 ID:YH1EBVH00.net
>>351
だいたい合ってるw

>>343とか
わはは。
実は最近、安彦良和の「ヤマトタケル」を読んだのだ。

354 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:53:50.36 ID:YO9qYNZi0.net
安彦のヤマトタケルなんてトンデモ本だぞw
資料にしてる文献は30年以上昔のものだし。

最新の考古学ニュース位は念頭に話をしろよ。
弥生中期の時点で葛城地方一帯が、水田だった
事もわかってきたんだしな。

355 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:57:10.40 ID:6wncV1XF0.net
>>353
正解率は6~7割くらいやね
細部はデタラメだが大まかな流れは大体あってる
しかし秀吉が光秀の前に戦ってた阿奇支って何だろう
史実なら毛利だが毛利は滅びてないし、
罪を犯したって書き方と音の響きから荒木村重の事かなとも思われるが

356 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:57:12.57 ID:YO9qYNZi0.net
>>348
私の見解では伊勢遺跡が卑弥呼擁立が決められたという説。
その後対瀬戸内対策で巻向に宮を移転したという流れだね。
背後には丹山もあるからな。

357 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 13:59:37.22 ID:sL45QlqT0.net
氏族社会の強盗略奪殺しあいをよくも神々の歴史にしたもんだ

358 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:02:34.99 ID:b70rMmfD0.net
女性が王になったら治めれたなんてのは小国だから可能なんだよ

邪馬台国は九州の小国、近畿の大和朝廷は大きいから当時の感覚では女性の王では他の豪族が従わないだろう

359 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:05:13.89 ID:YO9qYNZi0.net
七万戸は小国ではないんだけどね。
推測願望だけで論を組んでも矛盾を解決出来ないから。

360 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:10:54.19 ID:PAVnUUwk0.net
○     代々男王 → 争い → 「共立」卑弥呼 →
卑弥呼の死 → 男王 → 争い → 「復立」卑彌呼宗女
「共立」 を繰り返した(復立)。
だから崇神 モモソ姫   共立   垂仁 豊鍬入姫命  復立
○ 斎王  ←「王」 伊勢神宮 斎王 「共立」卑弥呼 「復立」卑彌呼宗女
女性 宗女 巫女 独身 現今上陛下の姉
初代 夜麻登登母母曽毘売  (やまととももそひめ)ヒミコ  崇神
2代目 豊鋤入姫   (とよすきいりひめ)トヨ 崇神・垂仁
3代目 倭姫     (やまとひめ)   垂仁・景行
五百野   (いおの) 景行
伊和志真  (いわしま) 仲哀
稚足姫   (わかたらしひめ)雄略
荳角     (ささげ) 継体
磐隈     (いわくま)欽明
莵道     (うじ) 敏達
邪馬台(ヤマト)国の時代から1800年以上万世一系。
天皇斎王の共立復立を繰り返してきた歴史。
女系天皇ではなく卑弥呼モモソ姫と同じ斎王になりなさい

361 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:26:41.45 ID:31gbBs5q0.net
>>15
壊疽は気やメリや

362 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:29:47.91 ID:IPwJyf0b0.net
当時中国と交流があった国が奈良県にあるはずないのに
こんなもん信じる奴がいるんだなw

363 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:30:42.08 ID:JLdhdueA0.net
魏志倭人伝では「邪馬壹國」と記されてるのを「邪馬臺國(邪馬台国すなわちヤマト)」説を採用
もう初っ端の出だしからしておかしい

邪馬臺國 これなら偶然に日本にヤマトの音の地があったので此処じゃろとなった
ではないかと?

364 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:32:29.63 ID:l5O/gyYW0.net
宮内庁が古墳調査の許可を出せば解明される

365 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:32:30.30 ID:I/6qKFtj0.net
>>363
隋書編纂者はおかしいと言いたいのかな?

366 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:35:30.22 ID:PAVnUUwk0.net
「孁」という難しい漢字について、岩波文庫本の校注に、「『孁』は、巫女(みこ)の意で用いた文字であろう。靈(れい)の巫を
女に改め、孁とすることによって女巫であることを、書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと思われる」とある。 そうであれば、
@「孁」という語は『書紀』の造語で、A「(日)孁」の意味するところは「(ヒ)ミコ」である、ということになる。 さて、大日
孁貴をどう読むか。実は、それは『書紀』自身がその割注で「於保比屢灯\武智(おほひるめのむち)」と訓じている。その場合、
「日」は、「比」あるいは夜の反対語としての「比屢(ひる)」のどちらにも読みうるが、「孁」は「屢(るめ)」とも「(め)」
とも読めないので、『書紀』がなぜ「日孁」と書いて「比屢刀vと訓じたのかという謎が浮上する。 すなわち「日孁」の中に
「(め)」と読める部分がどこにもなく、「孁」という文字を上下に分離して始めてその脚「女」が「(め)」と読めるのである。 
 これは、「孁」という字を冠と脚に分解せよという『書紀』からの暗号と思われる。それを証するかのように、『書紀』は念に
は念を入れて、「孁」の音(読み)は「力」と「丁」の反(かえし)、すなわち「Lei」(=れい)であるとわざわざ注している。
(注 反とは反切(はんせつ)の法則(難しい漢字の音を他の簡単な漢字二字を借りて示す標音法)で、具体的に「孁」に適用すると、それは「力=Liki」の頭子音(L)と「丁=
Tei」の頭子音以外の部分(ei)を合体した、「Lei」、すなわち「れい」となる) これは、この造語「孁」の元字が「靈」(霊はこの字の新字体)であることを意味する。
先の校注はそれを気付いた上での校注か否かは知るよしもないが、「靈の巫を女に改め、孁とす
ることによって女巫であることを示した」とする見解はまさに正鵠を射たものと言ってよかろう。
 すると『書紀』は、大日孁貴四文字を表向きは「於保比屢灯\武智」と訓じてはいるが、「孁
の読みに注(力丁の反)を入れることによって、この四文字がヒミコであること、そしてその別名をア
マテラスとすることによって、ここに、ヒミコをアマテラスに仮託したことを見事に宣言しているのである。

367 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:38:52.85 ID:JLdhdueA0.net
魏志倭人伝の「邪馬壹國」は臺を壹と写し間違えたという説
後の記録が逆に写し間違えた可能性も無きにしも非ず

368 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:39:43.79 ID:f0H1K6ol0.net
纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。

纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。

魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。

一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。

卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。

369 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:42:04.75 ID:f0H1K6ol0.net
《宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ》

370 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:42:32.22 ID:I/6qKFtj0.net
>>358
調停者というものが存在した場合は別だな。魏書の記述では卑弥呼は連合内の調停者の可能性がある。
調停者は王ではないが、違う政治文化を持つ部外者からは王に見えることがあるのは事例が存在している。

ポウハタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3
ポウハタン酋長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%85%8B%E9%95%B7
ポカホンタス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%AB%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B9

371 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:45:18.12 ID:6wncV1XF0.net
>>362
その奈良から三国時代の年号が書かれた銅鏡が多数出土してるから
奈良大和地方と中国の外交関係が邪馬台国時代既にあったとする説があるわけ

372 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:49:35.97 ID:f0H1K6ol0.net
巫女など女性の祭祀者は、
祭祀で民を纏め、教化し、忠実な兵とするのが、本来の役割なんじゃないかな。

卑弥呼もぴたりと当てはまる。
魏志倭人伝に、【鬼道にて衆を惑わす】とあるしね。
纒向の集落としての特徴とも合致する。

纒向は鋤の出土が多く、水路などインフラの整備、墳墓作りなどの土木作業が行われていたと考えられる。
兵となる民の労働として、行われていたんだろうね。

373 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:52:51.56 ID:IPwJyf0b0.net
>>371
そんなん飛鳥時代の国変遷で運び込まれたに決まってんじゃん

374 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:55:36.41 ID:JLdhdueA0.net
卑弥呼=日巫女・火巫女 称号というか職名だよな?
卑弥呼の名前がわかればなあ 簡単に解決すると思うんだが

375 :名無しさん@1周年:2017/12/10(日) 14:56:38.23 ID:I/6qKFtj0.net
そもそも、卑弥呼は倭の女王と書かれているのに邪馬台国の女王だと勘違いしているのが多いな。
倭の諸国にはそれぞれ「官」がいると記述されている。
各国の「官」の呼称から後の古墳時代の「キミ」に相当する首長であることがわかる。
そして、邪馬台国にも「官」が存在している。女王はあくまでも「女王之所都」とだけある。

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