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【鹿児島】鹿屋特攻隊員が、最後に機内で食べた菓子 海軍御用達の老舗が再現「彼らが最後に口にした菓子を遺族も味わって」 ★3

1 :紅あずま ★:2017/06/08(木) 21:38:11.95 ID:CAP_USER9.net
特攻隊員、最後に機内で食べた菓子…老舗が再現
読売新聞:2017年06月07日 07時49分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170607-OYT1T50021.html

http://www.yomiuri.co.jp/photo/20170607/20170607-OYT1I50005-N.jpg
再現された菓子

 太平洋戦争中、海軍鹿屋航空基地が置かれた鹿児島県鹿屋市にある菓子店「富久屋(ふくや)」が、特攻隊員向けに作っていた「タルト」と呼ばれる菓子を再現した。

 貴重だった砂糖を使い、出撃前の隊員に渡されていたという。
毎年、追悼行事を営む女将(おかみ)の北村馨さん(77)は、「国や家族を思って亡くなった若者たちを思い出し、平和の尊さを考えるきっかけになれば」と話している。

 富久屋は1860年頃に創業した老舗。
海軍から支給された砂糖などを原料に菓子を作って基地に納めており、「海軍御用達 若松菓子店」の看板を掲げていた。

 店に遊びに来る隊員も多く、幼かった北村さんを妹のようにかわいがってくれた。
親しい隊員の出撃日には、屋根の上から空を見上げた。
別れを告げるように低空飛行で旋回し、白いマフラーをなびかせる姿を今も覚えているという。

 昨秋に親族が集まった際、隊員が機内で食べるための菓子を店で作っていたことを初めて聞いた。
基地で働いていた11歳年上の姉も、出撃前の隊員たちが菓子をポケットに入れていた様子を思い出した。
こうした話を聞き、「彼らが最後に口にした菓子を遺族にも味わってほしい」と考えた。

 レシピや資料が残っていなかったため、姉や店で働いていた人から味や形などを聞いた。
当時、店で用意できた材料からレシピを推測。
今年2月頃から、職人らと試作を重ね、小麦粉と卵、砂糖などを混ぜて焼き上げたスポンジ生地に、小豆あんを挟んだ菓子を完成させた。
空の上でも片手で食べられるようにと、細長く切り、1本ずつパラフィン紙で包んでいた点も再現した。

 4月上旬、北村さんら有志が16年前から鹿屋市主催の慰霊祭に合わせて営んでいる追悼行事で、参加した遺族に配ったところ、「最後の瞬間にひもじい思いをしていなかったようで安心した」との声を聞いた。

 売り物にする予定はなかったが、戦争について多くの人に考えてもらうきっかけになればと、5月から1本180円で販売を始めた。
売り上げの一部は、追悼行事の資金にするという。

 北村さんは、店で菓子を作る時、特攻隊員がどんな思いで食べたのかを想像すると涙があふれるという。
「今の人には物足りない味かもしれないが、彼らにとっては、一瞬でもつらい気持ちが和らいだはず。多くの若者が最後の時間を過ごした鹿屋だからこそ、戦争の記憶をつなぐ責任があると思っています」と話した。

 ◆海軍鹿屋航空基地=1936年に設置された。
同基地での特攻作戦は45年3〜6月に行われ、908人の特攻隊員が零式艦上戦闘機(零戦)などで出撃し亡くなった。
隊員の年齢は16〜35歳だった。
敷地は現在、海上自衛隊鹿屋航空基地となっている。

http://www.yomiuri.co.jp/photo/20170607/20170607-OYT1I50004-N.jpg
「海軍御用達」の看板を掲げていた頃の店の写真(富久屋提供)
 


▼前スレ(★1、2017/06/07(水) 08:27:20.30)
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1496833380/

996 :名無しさん@1周年:2017/06/10(土) 11:12:38.21 ID:dl1cbdFu0.net
>>995
戦後に日独の軍人が話して、日本軍人がドイツ軍人に本土防空戦よく頑張りましたねと言ったら
ドイツにはB29が来なかったからですよと即座に返事が返ってきたそうな

997 :名無しさん@1周年:2017/06/10(土) 11:13:22.06 ID:4guBUD/20.net
戦後逃げた卑怯者のより特攻したり自決した士官将官が多かった

■陸軍特攻の責任者⇒阿南陸軍大臣⇒終戦前自決
■陸軍特攻開始時の責任者⇒杉山元陸軍大臣・参謀総長⇒終戦後自決
■神風特攻の発案者⇒大西中将⇒終戦直後自決
■特攻開始時の軍令部次長⇒伊藤中将⇒大和特攻で戦死
■沖縄海軍特攻の主力部隊の司令官⇒宇垣中将⇒特攻で死亡(終戦後の為戦死ではない)
■人間魚雷回天の発案者⇒黒木大尉・仁科中尉⇒黒木大尉は回天訓練中事故死、仁科中尉は回天特攻で戦死
■桜花部隊・神雷部隊司令官⇒岡村大佐⇒終戦後特攻隊員の慰霊巡りをしたのち自決
■白菊特攻隊司令官⇒加藤大佐⇒終戦時に入水自決
■航空特攻の提唱者⇒城大佐⇒空母千代田で米軍巡洋艦隊と撃ち合って戦死
■航空特攻開始を主張⇒有馬少将⇒自ら陸攻で特攻出撃し戦死

998 :名無しさん@1周年:2017/06/10(土) 11:14:09.51 ID:4guBUD/20.net
ウィリアム・ハルゼー中将(第三艦隊司令)
「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」
「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」
「情報部から我々に対して、カミカゼが編成されたという警告が送られてきたが、
我々の内大半の者はそれをこけおどしや張子の虎であると受け取っていた」
「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、
自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」

ジェームズ・フォレスタル(海軍省長官)
「海軍による沖縄上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」

オリバー・P・スミス大将(海兵隊副参謀長)
「バックナー(沖縄攻略部隊司令)には、沖縄近海に展開している海軍が、特攻による甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという
大きなプレッシャーが加えられていた。」→その後バックナーは戦死

ダニエル・バーベイ少将(アメリカ海軍第7水陸両用部隊司令)
「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾(フィリピン戦)での特攻による戦果が
日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」
「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、
アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない。」

モートン・デヨ少将(第54任務部隊司令)
「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」

リッチモンド・K・ターナー中将(アメリカ海軍水陸両用部隊司令)
「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」

サミュエル・モリソン少将(アメリカ海軍公式戦史著者)
「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」
「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」

999 :名無しさん@1周年:2017/06/10(土) 11:14:29.45 ID:D675rI6p0.net
>>996
リップサービスじゃねw
日本みたいな距離でなきゃあの当時ならB29使わんほうがいいとおもうけど

1000 :名無しさん@1周年:2017/06/10(土) 11:14:56.10 ID:M1wl25rW0.net
特攻戦果おさらい

アメリカ海軍の特攻による人的損失
戦死12000人
負傷33000人→多くが再起不能の重症
精神障害50000人
合計10万人

4000名の特攻隊員でこの戦果だからキルレシオ20倍以上

→これだからね
人命重視のアメリカはたまらんよ  jtmj

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